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2006年12月22日の日記

第2陣訴訟口頭弁論06.12.22(その3)

続いて、坂口禎彦弁護士からは、除斥期間に関する被告国の主張の誤りについての弁論が行われました。

また、米倉洋子弁護士は、原告1052名の生年月日、帰国年月日、判明・未判明の別、生活受給状況等の基礎的データを分析した結果に基づき、グラフ等をパワーポイントで示しながら、原告らの帰国の状況、判明・未判明の状況は、原告ら個人の事情によるものではなく、国の政策によりその運命が翻弄されてきたものであること、その誤った政策の結果である帰国の遅延が、原告らの今日の窮状に直接の因果関係を有する原因となっているということについて明らかにしました。
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/217.pdf

その後、原告側から証拠として提出された『祖国よ!償いを〜高齢化する中国残留孤児』(SBC信越放送2005年5月19日放映)のビデオが上映されました。

裁判終了後、原告、支援者、弁護士は東京地裁宛公正判決要請署名59,636筆(累計189,636筆)を裁判所に提出しました。

第2陣訴訟口頭弁論06.12.22(その2)

さらに、原告団代表の宇都宮孝良さんが意見陳述を行いました。その内容は以下のとおりです。

1 私は原告番号1番の宇都宮孝良です。12月1日、残留孤児神戸訴訟について、神戸地裁は、国の責任を認める原告勝訴の判決を言い渡しました。原告が勝ったとのテレビの速報が流れたとき、胸が熱くなり、涙がこぼれました。私たちの長かった苦しみにようやく光が差し込んだと感じました。

2 神戸地裁判決は、「戦闘員でない一般の在満邦人を無防備な状態に置いた戦前の政府の政策は,自国民の生命・身体を著しく軽視する無慈悲な政策であった」と認定した上で、戦後の政府には,可能な限り,その無慈悲な政策によって発生した残留孤児を救済すべき責任があると認定しています。
 私の場合も、父を根こそぎ動員で奪われ、ソ連軍が侵攻してきたとき、母は、当時4歳だった私と姉を連れ、千振から佳木斯まで命がけで避難しました。しかし佳木斯の難民収容所にたどり着いたところで母は体調を崩してしまい、まともな治療も受けられず、母は、そのまま収容所で亡くなり、私は、中国人の養父に引き取られたのです。
 もし、国が、開拓団民の安全を第1に考え早期に避難させていたら、また、父が動員されていなかったら、私たち家族は、日本に引き揚げてくることができたかもしれません。私が中国人の養子となり,中国に留まることになったのは,まさに,「自国民の生命・身体を軽視する無慈悲な政策」の結果に他なりません。

3 また、神戸地裁判決は、自分の本当の親兄弟に会いたい、あるいは、祖国の地に帰還したいという残留孤児の願望は、人間としての最も基本的かつ自然な欲求の発露にほかならない、と述べていますが、私も、養父に引き取られたときから、日本に帰りたい、父や親族に会いたいという思いをずっと抱いてきました。しかし、何の情報もなく、どうすることもできませんでした。 
 1972(昭和47)年、日中国交が正常化し、同時に文革も下火になり、日本人探しを始めました。人づてに佳木斯にも日本人がいることが分かり、残留婦人の一人に手紙を書いて貰い、日本の厚生省に出して貰いました。日本名や家族の名前、出身地などは覚えていなかったので、収容所の名前・場所、母・姉とはぐれた場所、養父母の名前・住所などを書きました。その後も厚生省には何度も手紙を書きましたが、返事は来ませんでした。
 日本大使館にも4、5通手紙を出しましたが、大使館から、整理番号が第5959番であるとの知らせがきただけで、同封されていた調査用紙に必要事項を記入して送りかえしても、それに対する返事はありませんでした。
 その後1978(昭和53)年頃、同じ佳木斯に住んでいる女性の残留孤児の身元が分かったのです。その人も私と同じように父親を捜すために、残留婦人に頼んで手紙を書いて貰って厚生省に出したところ、運良く身元が分かり、父親が見つかったのです。この残留孤児が、同じ原告の一人である森実一喜さんです。
 森実一喜さんは、私より1歳年下ですが、終戦時、母親と一緒に佳木斯の収容所にいたことがあり、またいろいろ話を聞いてみると、私と同じ開拓団にいた可能性があることが分かりました。
 そこで、森実さんの父親だったら私のことについて何か知っているかもしれないと思い、わらにもすがる思いで、残留婦人に頼んで、森実さんの父親に手紙を書いて貰ったのです。そのとき私が11歳くらいの時に撮った写真を入れておきました。
 この写真が決め手となりました。森実さんの父親は、その写真を見て私が宇都宮孝良であると思ったそうです。
 その後、森実さんの父親から手紙が届き、私の名前や家族のこと母の実家の住所などを教えてもらいました。
 こうして、私の身元が分かり、1981(昭和56)年の第1回訪日調査に参加し、翌1982(昭和57)年3月17日、家族と一緒に帰国することができました。
 国は、当初、身元の分からない孤児の帰国を認めない方針をとっていました。そのため、帰国するには、自分の身元を証明しなければなりませんでしたが、国は、私の身元調査のために殆ど何もしてくれませんでした。私は、森実さんのおかげで運良く身元が判明しましたが、それでも10年近くの歳月がかかりました。もし、国が、孤児の身元調査を積極的に行い、身元の判明・未判明にかかわらず、帰国を希望する孤児を何の制限も設けずに帰国させるという方針をとっていれば、私は、どんなに遅くとも日中国交回復直後に帰国することができたはずです。神戸地裁判決は「日中国交正常化時に若くはなかった残留孤児の帰国をいたずらに遅らせ、残留孤児の高齢化を招き、残留孤児が日本社会に適応することを妨げたのであり、残留孤児に対する政治的に無責任な政府の姿勢は強く非難されて然るべきである」と述べていますが、正に私はその実例に他なりません。

4 また、帰国してからも国は、私たちに対し、殆ど何の援助もしてくれませんでした。当時は定着促進センターなどなく、私たちは、愛媛県西宇和郡三瓶町の町営住宅に住むことになり、私は、近くの浜田電機工場に勤め、船舶の修理の仕事に従事しました。しかし、給料も安く、他に仕事は見つからず、なんといっても日本語を習うところがなかったのが困まりました。
 そこで、1983(昭和58)年2月頃、友人の太田昇さん(佳木斯に住んでいた残留孤児)を頼って、東京に出ることにし、江戸川区平井の民間アパートに移り住みました。職安の紹介で、理研金属工業鰍ノ勤め、新小岩の電車修理工場で働き、夜は、小松川中学校で開いている日本語夜間学校に通いました。2年間ここで日本語を習いましたが、簡単な日常会話はできるようになっただけで、複雑な会話は今もできません。日本語ができないために職場内でもいろいろな差別を受けてきました。
 神戸地裁判決は、「拉致被害者が自立支援を要する状態となったことにつき,政府の落ち度は乏しい。」「これに対し、残留孤児が自立支援を要する状態となったのは政府の措置の積み重ねの結果であるから」、残留孤児に対する自立支援策が、拉致被害者に対する支援策よりも貧弱でよいわけがない、と判断しました。
 しかし、国は、私に対して、日本語学習支援、就労支援を全く行わず、その後の孤児に対する支援策も拉致被害者に対する支援策に比べて極めて不十分なものでした。

5 神戸地裁判決は、私たちの訴えに耳を傾け、国の責任を明らかにしました。現在、全国に約2200名の原告がいますが、みな神戸地裁判決に確信を持ち、全国の代表数百名が東京に結集して、12月1日から、連日、国会議員を訪ね、この意見書の末尾に添付したパンフレットを渡して、中国残留孤児問題の全面解決を訴えてきました。同時に、厚労省前に座り込み、この判決を踏まえ、首相や厚労省に対し、私たち孤児が老後を安心して暮らせるよう政策を作って欲しい、そのために私たちとの話し合いに応じて欲しいと、連日訴えてきました。しかし、厚労省は、私たちとの話し合いに応じようともせず、12月11日、不当にも控訴をしてしまいました。
 私たちは、終戦時に国から見捨てられ、その後も長い間放置され続けてきましたが、今回の控訴で、国から再び切り捨てられたという思がします。どこまで私たちを苦しめれば、国は満足するのでしょうか。
 原告団は,みな高齢になっています。今は生活保護に頼らず頑張っている孤児も、働けなくなれば、生活保護に頼らざるを得なくなってしまいます。現在、孤児が置かれている現状では、社会的地位も、人権も、自由もありません。
 私たちに残された人生は長くはありません。裁判官の皆さん、苦労に苦労を重ねてきた「孤児」たちが、せめて祖国での老後を安心して暮らせるようにして下さい。そのために、ぜひとも、神戸地裁判決を超えるすばらしい判決を出していだき、1日も早く中国残留孤児問題を全面的に解決できるようにしてください。
 このことを、強くお願いして、私の意見陳述を終わります。

第2陣訴訟口頭弁論06.12.22(その1)

 12月22日、東京地裁で第2次訴訟以降(原告1052名)の訴訟の口頭弁論が開かれました。

 原告側より、まず、斉藤豊弁護士が、12月1日神戸地裁が下した原告勝訴判決の法律上の意義と本件訴訟との関係について意見陳述を行いました。
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/214.pdf

 続いて、小野寺利孝弁護士が以下のとおり、意見陳述を行いました。

1.神戸地裁12.1判決の受けとめ
 裁判官の皆様は、神戸地裁12.1判決をどのように受けとめられたでしょうか。
 私は、先ず、この間の諸々の活動をとおして知った「孤児たち」の、そして「世論」と「政治」が「神戸地裁判決」をどのように受けとめたかについてご紹介したいと思います。
⑴ 孤児たちの受けとめ
@ 大阪地裁大鷹判決の克服という全国の孤児の期待を一身に背負って判決に臨んだ神戸訴訟原告団長初田三雄さん(12月4日PM4:10〜厚労省記者クラブでの発言、甲総158の7でその生活ぶりが詳しく紹介されている。)
「その判決を聞いた後に暖かい血液が全身を流れたという思いでした。そのとき初めて、国民や政府が、私たち孤児を日本人としてやっと受け入れてくれたと思いました。」
A 昨年7月不当な大鷹判決以来、勝訴判決めざし必死になって闘い続けてきた大阪訴訟原告団長松田利雄さん(12月7日大阪高裁更新弁論での意見陳述)
「神戸地裁で、私たち孤児は、初めて光を見ました。この判決は、孤児たちを初めて「日本人」として認めてくれたのです。」
B 全国で最初に裁判闘争に立ち上がった東京訴訟原告団代表であり、全国原告団連絡会議の代表でもある池田澄江さん(12.1司法記者クラブ、12.4厚労省記者クラブでの発言)
「とてもうれしい判決。日本人に生まれて良かった。祖国に帰ってきて良かったと言える。」
「この判決は、61年も凍った心を溶かしてくれたようです。未来を生きていく光も見せてくれました。この判決は、私たち孤児の大きな精神的支えです。」
 以上紹介した3人は、いずれも全国訴訟原告団の中心的な存在です。その受けとめ方は、全国の孤児原告の共通のおもいを表しています。
私たちは、「初めて日本人として認められた」「日本人としてやっと受け入れてくれた」「凍った心を溶かしてくれた」という喜びに共感しつつも、帰国した孤児たちが、今日の今日まで、「普通の日本人として生きることが出来ない」という極限状態に追い込まれ、苦悩してきた厳しい現実を改めて痛感させられた次第です。
⑵ 世論の受けとめ
 神戸地裁12.1判決は、1地裁の判決としては極めて異例とも言えるほど大きく報道されました。
中央各紙の夕刊トップ記事をはじめ全国各地方紙も、「中国残留孤児、国に責任−帰国遅らせ、支援怠る」と大きく報道しました。これらの報道は、判決骨子・要旨を掲載し、国が主張する戦争損害論を否定したことも含めてその内容を判りやすく解説しています。NHKはじめ民放各局も全国的にこの判決をトップニュースとして報道をしています。
 その後も、朝日・毎日や東京はじめ全国各地方紙など17紙が、社説を掲げました(甲総157の1〜17)。これらの社説は、判決が国の無慈悲な政策で「孤児」に過酷な犠牲を強いたことについての法的責任を厳しく認定したことを評価し、さらには、あえて「生活保護とは別の給付金の制度が必要」と指摘した点をも積極的に受けとめ、その多くが、国に対し人間の尊厳を回復するにふさわしい新たな支援策の確立を求めています。
(注)なお、この判決報道は、中国・台湾・マレーシアのアジア各紙が報じただけでなく、ロイター・AP・BBCなど海外のメディアが判決を取り上げています。この判決が認定した北東アジアに対する植民地支配という負の遺産について、自国民に対する戦後責任さえ克服できていない今日の日本という国の在り様に改めて厳しい視線が注がれたのです。
 これら一連の報道の力もあいまって、神戸地裁判決を機に「国の無慈悲な政策」が中国残留孤児たちの人らしく生きる権利を今日なお奪い続けているという国民的な認識が一気に拡大しました。私たちは、この間の活動をとおして、かかる悲劇の一日も早い克服を求める世論が大きく形成されてきたのを肌で感じています。
⑶ 政治の受けとめ
 神戸地裁判決は、政治との関係でも私たちの想定していた以上の威力を発揮しました。
@ 12月1日夜、安倍首相は、記者から判決をどう受けとめたか問われて、「残留孤児の皆さんは、高齢化が進み、長い大変な苦労があった。国としても、きめ細かな支援を行わないといけない。」と述べ、支援策の検討を表明しました。
(注)首相は、12月4日参議院決算委員会で山本孝史議員の質問を受け、同趣旨の答弁をしています。
1地裁の1事件の判決直後に、首相が判決をどう受けとめたかについて発言すること自体、他に例をみない極めて異例な出来事です。
 しかし、厚労省は、この首相談話の直後から、従来の政策の枠組みの中での「きめ細かな支援」を模索し、政治的に決着つけることを探りはじめました。柳沢厚労大臣は、当初は、「総理発言の線に従って具体的な対応策を考えていかねばならない。」とあたかも首相談話に呼応した新しい施策をとるかのような姿勢を示した(12月5日参議院厚生労働委員会福島みずほ議員の質問に答えて)が、その後に、「従来よりもさらに実情に配慮した支援策を実現していきたいということで、現在財務当局と折衝している。」(12月12日参議院厚生労働委員会辻泰弘議員の質問に答えて)と首相発言を従来の施策を単に拡充するという方向に歪曲しました。
最終的には、神戸地裁判決を不服として12月11日大阪高裁へ控訴するとともに、厚労省は、「孤児たちが求めている新たな給付金の創設については考えていない。」(12月12日厚労大臣記者会見)と孤児や世論の要求を拒絶する姿勢を鮮明にしたのです。
A 他方で、このような厚労省・政府の姿勢を批判する国会議員たちの神戸地裁判決後の動向は、極めて注目に値します。
 全国の孤児原告団と弁護団は、神戸地裁判決を契機として孤児への新たな支援政策を政治の責任で確立するよう要請してきました。神戸地裁判決が国会議員たちに対して放った威力もまた実に大きく、野党各党だけでなく、与党の中からも厚労省の過去の政策に固執してその誤りを認めないことへの批判の声が上がり、孤児たちの「全面解決要求」への理解と支持が急速に拡がっていきました。
その中でも、注目されるのは、去年7月大阪地裁大鷹判決を契機に結成された自民党と公明党による中国残留孤児プロジェクトチーム(PT)の活動です。
(注)与党PT座長野田毅(自民、元自治相・建設相等)、副座長漆原良夫(公明、国対委員長)
この与党PTは、神戸地裁判決を正面から受けとめたうえで、12月13日官邸に対し次の2点の実行を申し入れています。
1.自立支援法を改正し、生活保護制度によらない、孤児を対象とした新たな給付金制度を創設すること
2.残留孤児問題の全面解決要求をするために、政府は、原告と継続的に協議する場を設定すること
与党PTは、この2点についての首相の決断を促すために必要な努力をこれからも尽くすことを孤児たちに約束しています。
(注)野党は、社民党(12月12日)、共産党(12月18日)が孤児原告団と弁護団からヒアリングを行い、民主党は来年1月中旬ヒアリングを予定しています。各党とも私たちが政府に提出している「中国残留孤児問題の全面解決」要求を支持し、その実現のために活動することを表明しています。
B かくして、神戸地裁判決は、政治の世界でも中国残留孤児問題を重要な政治課題に一気に浮上させただけでなく、厚労省の無慈悲な姿勢を批判する世論と相まって今日なお官邸と厚労省の間で、さらに政府と国会議員・政党との間で、「どのように政治的解決をするか」をめぐって検討することを今日もなお迫り続けているのです。

2.神戸地裁判決を受けとめた「孤児」たちの活動
 中国残留孤児訴訟は、現在、14地裁と大阪高裁2件、合計2201名の孤児原告によって闘われています。この原告たちは、全国原告団連絡会を結成し、「全面解決要求」(別紙のとおり)を全国統一要求として掲げ、その実現をめざして共同行動を続けています。従って、裁判を闘う孤児たちにとっては、裁判での賠償請求の獲得自体が自己目的ではありません。大半の孤児を生活保護に追い込む国の貧困な孤児政策が違法であるという司法判断を獲得することによって、国に「謝罪」させるとともに、何よりも「孤児を対象とした新たな給付金制度の創設」を軸とする新たな支援政策の確立を実現することが目標なのです。
 それだけに、神戸地裁判決は、全国の孤児たちに今日も続く誤った貧困な政策を抜本的に変える威力をもつ強力な武器を与えたことになります。
 事実、神戸訴訟原告団を先頭に全国から結集した「孤児」たちは、「神戸地裁判決」を高く掲げ、12月1日から12月14日まで東京都下を中心に「全面解決要求」の実現を求め、連日実に活発な活動を繰り広げました。
冬に入って一段と冷え込む中、連日早朝から霞ヶ関に結集し、厚労大臣との話し合い解決を求めて厚労省前の歩道に座り込み、あるいは首相官邸前で首相との面談を求める横断幕を手にして立ち続けるアピール行動を行いました。更には、国会議員を訪問しての要請行動・院内集会、そして12月7日孤児600名が参加した力強い国会請願デモ等、国会議員へ働きかけて政治解決めざす活動を次々と行いました。また霞ヶ関はじめマリオン前や浅草・蒲田・池袋、さらには神奈川・千葉・埼玉で街頭に立って市民へのビラによる連日の宣伝活動を繰り広げ、世論をより拡げる活動も続けました。
 この間、全国からこれらの活動に参加した孤児の数は、延べ3038名にのぼりました。7日間に及んだこの街頭宣伝で市民に配布したビラは、日々内容を更新し、実に2万枚にもなりました。これらの「孤児」たちの活動は、私たち弁護団の当初の予想をはるかに大きく超える実に活発なものでした。
 これ以外に、神戸をはじめ全国各地で記者会見・集会・街頭宣伝・地元出身国会議員への要請行動等、東京での統一行動に呼応した多彩な活動が各地裁の孤児原告を中心に「全面解決要求」の実現めざして取り組まれました。
 前述した政治の動向は、神戸地裁判決の威力がもたらしたものであるとともに、実は、このような全国の孤児たちの統一した力強い持続的な活動が突き動かしたものです。
 私たちは、この神戸地裁判決を手にして生き生きと活動する孤児たちを日々間近に見て、「正義を貫いた判決が、いわれなき差別と不合理な縛りに拘束され喘吟してきた人々をその差別と縛りから大きく解き放つ」という人間解放の素晴しい力を発揮するのを再認識させられました。私も、この間の活動をとおして、深い感動を幾度も味わうという得がたい体験を共有してきました。私は、もしも許されるものなら、神戸地裁の裁判官たちに、「この判決の放った社会的・政治的威力の大きさ」とともに、「孤児たち一人ひとりの人間の尊厳を回復させ、社会的差別・縛りから孤児たち全員を一気に解き放つ力」を示したことについて、私は、同じ法曹としての私自身が味わった熱い感動も含めて伝えたいというおもいに駆られた次第です。

3.おわりに−期待される司法の役割
 最後に、神戸地裁12.1判決が切り開いた中国残留孤児問題の全面解決要求実現の可能性とその到達点を踏まえつつ、私たちが、神戸地裁判決後の司法に何が期待されるかについて述べることにします。
 1つは、今後判決する全ての裁判所は、神戸地裁判決の主要な積極面はしっかり継承しより精緻に発展させるとともに、その否定的・消極的面をぜひとも克服するという課題にも挑んでいただきたいことです。
 もう1つは、全国の孤児の統一した活動によって新たに生まれた政治解決の可能性とその到達点を踏まえ、最も適切な時期に、全国の裁判所が統一して、全ての「孤児」原告たちについて公正平等な権利救済を実現するという司法解決をめざす努力を尽くしていただきたいことです。
 この2つの課題は、中国残留孤児訴訟が係属する全ての裁判所に対し期待されるのは言うまでもありません。しかし、本件2次から5次訴訟の原告1052名を担当する当裁判所は、既に結審した1次訴訟原告40名と合わせ全国の過半数の孤児原告の訴訟を担っているのですから、他の裁判所と比べてより重い責任を負っていることは明白です。
 それだけに、仮に来年1月30日までに神戸地裁判決を活かした政治解決が実現しない場合には、本件1次訴訟で正義を貫く判決が出されることによって、孤児たちの人間の尊厳を回復する新たな政策が確立することを私たちが期待するのは言うまでもありません。同時に、本件2次から5次訴訟が、1次訴訟判決を指針として早期に司法判断されることを心から期待します。1052名の「孤児」原告にとって、残された人生は、そう長くはありません。この原告たちの生命あるうちに、心から「日本に帰ってきてよかった」と言える状況を創り出せるのは、今日においては、司法の正義以外ないというのが私たちの確信であるからです。