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日記

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その2-2)

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 安達さんは、肉親と離別して1981年に帰国されるまで人生の大半を中国で過ごされました。その間、深夜には家の裏の林畑に行き幼いころ覚えた日本の歌を歌い日本語を忘れないよう努めたといいます。
 ほとんどの帰国者が日本語を話せない中で安達さんは希有な存在です。そのため、安達さんは他の帰国者原告が弁護士と打ち合わせする際には通訳を勤めるなど、原告と弁護士、支援者との橋渡し役としても活躍されています。

 また、厚生労働省の見解によれば、「中国残留孤児」とは終戦時に13歳未満であった者をいうとされるため(その見解の是非は措くとして)、終戦時に12歳であった安達さんは、「孤児」の中でも最年長者です。肉親と離別した状況についての記憶さえない「孤児」が多い中、安達さんは、植民地支配下での軍国主義教育などについてもご自身の記憶に基づいて語ることができる貴重な存在といえます。

 安達さんのお話しは、老若・国籍の別を問わず、多くの乗船客の心をとらえ、安達さんは多くの人々との交流を深めました。

※アメリカ人、中国人、日本人と語る安達さん。
 英語、中国語、日本語が飛び交った。