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日記

中国「残留日本人孤児」の人間回復の闘いに支えを

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国を訴えた中国「残留日本人孤児」たち

中国で苦難の人生を過ごし、やっとの思いで帰国した中国「残留孤児」は約2400名、その7割を超える人たちが国を被告として裁判を闘っています。何故「孤児」たちは裁判に立ち上がったのでしょうか?


1 中国「残留日本人孤児」は何故生まれたか?(第1の棄民)
 
1932年「満州国」が「建国」されると、国は植民地支配や対ソ連防衛等のため移民事業を国策と位置づけ、1945年までに32万人余りの国民を開拓民として「満州」(中国東北部)に送り出しました。
ところが、1945年8月ソ連軍が満州に侵攻すると、開拓民等を保護すべき日本軍(関東軍)は軍人とその家族等の避難を優先し開拓民等を保護せず撤退しました。また、国は終戦後も在満邦人の現地土着方針をとり、引揚げは大幅に遅れました。
そのため、「根こそぎ動員」により、老人・女性・子どもしか残されていなかった開拓民の避難は悲惨を極め、ソ連軍や日本に土地を奪われた中国人等の襲撃、集団自決、栄養失調、伝染病等により多くの命が失われました。
「残留孤児」はこうして親を失い、離別し、中国人に引き取られた人たちです。「孤児」たちは自分の意志で中国に「残留」したのではなく、国に置き去り(棄民)にされたのです。


2 国に置き去りにされ40年−遅すぎた帰国措置(第2の棄民)

 戦後、国交断絶等により中国からの引揚げが途絶えると、国は1959年に「孤児」を死者として扱うことができる法律を制定し、多くの「孤児」を戸籍から抹消して帰国援助等の政策を放棄しました。
1972年に日中の国交は回復しましたが、国は積極的に「孤児」の肉親捜し等に取り組まず、「孤児」を日本に招いての肉親捜しの訪日調査が始まったのは国交が回復して9年後の1981年でした。しかも、国は「孤児」の帰国に際し身元保証人を要求するなどの制約を課したため「孤児」たちの永住帰国はさらに遅れ、永住帰国が本格化したのは1986年になってからでした。「孤児」たちは、終戦後40年以上も帰国を待たされたのです。
この間、「孤児」たちは中国人の養父母に育てられながら中国の言語、生活習慣等を身につけていきましたが、日本の侵略戦争の責任を一身に背負わされて迫害されるなど少なからぬ「孤児」が中国において苦難の人生を過ごしました。


3 冷たい祖国−不十分な自立支援策(第3の棄民)

 祖国日本を慕ってやっと帰国した「孤児」たちに対する国の対応は冷たいものでした。
国は「孤児」に対し、十分な自立支援策を施すことのないまま、生活保護からの「自立」するよう促しました。そのため、「孤児」たちは日本語も不十分なまま低賃金・重労働な仕事への就労を余儀なくされました。
その結果、「孤児」たちの約9割が今でも十分に日本語を話せません。また、「孤児」の約7割が生活保護を受けざるをえず、悲惨な生活を強いられています。北朝鮮による拉致被害者に対する処遇とは大きな違いです。
「孤児」たちは人並みの老後の保障を求めて国会請願を繰り返しましたが、いずれも不採択に終わりました。そこで、「孤児」たちは、人間としての尊厳を回復するため裁判を決意するに至ったのです。

※年表はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/nenpyou.html

※全国の提訴状況(最新)はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/36.htm