2005年9月

大阪高裁の靖国参拝違憲判決  

昨日は東京高裁の判決。今日は大阪高裁の判決。昨日は曇り、今日は快晴。素晴らしい判決となった。冬景色にはまだ早いが、明らかに西高東低。小泉靖国参拝に関して、これが2件目の違憲判断。

首相の靖国神社参拝が違憲か合憲か。そんなこと、今さら論じるまでもない。市立体育館の起工式に神主を呼ぶことだの、知事が玉串料を奉納するだの、忠魂碑の移設費用を負担するだのというレベルとは、二桁も三桁も重大性が違う。日本国憲法下の国家が、軍国主義・排外主義に国民精神を総動員する舞台装置だった靖国神社と、いささかの関わりも持ってはならない。そのための、憲法20条であり、政教分離原則ではないか。

首相の参拝を合憲とする判決など、ありうべからざるものである。問題は、違憲違法と宣言する判決が出せるかどうか。その宣告には、裁判官の勇気が必要だ。決断するか、逃げるか。逃げるのは容易だ。決断には苦汁が付きまとう。

東京高裁・浜野裁判長は逃げた。大阪高裁・大谷正治裁判長は逃げずに決断した。知らなかったが、両者とも私と同じ23期の修習を経ている。あの紀尾井町のオンボロ研修所で同じ時代の空気を吸った500人の仲間のうち。あの時代の垢をすっかり落としてしまったか、浜野さん。まだよく残していたか、大谷さん。

論点は三つ。まず、小泉純一郎は内閣総理大臣としての公的資格において職務行為として参拝したか。次いで、公的資格における参拝であるとすれば、その行為が憲法原則である政教分離に反して違憲違法とならないか。そして、違憲違法であれば、当該違法行為によって原告らに損害を与えていないか。

大谷判決は前2者を肯定し、最後のハードルで請求を棄却した。原告らの提訴の目的は十分に達せられた。高裁レベルで、これだけ明白な違憲判断がなされたのは、1991年1月10日の仙台高裁・岩手靖国訴訟判決以来のこと。判決が具体的に小泉参拝の態様に言及して違憲と言っているだけに、影響は大きい。

報じられているところでは、判決は、「(1)参拝は、首相就任前の公約の実行としてなされた(2)首相は参拝を私的なものと明言せず、公的立場での参拝を否定していない(3)首相の発言などから参拝の動機、目的は政治的なものである――などと指摘し、「総理大臣の職務としてなされたものと認めるのが相当」と判断した(毎日)、と言う。記帳・公用車・秘書官の同道だけでも、公務性の認定は十分であろう。

あとは、目的効果基準の使い方次第である。この基準、実は政教分離原則を限りなく緩やかに解釈するために発明された。ところが、同じ物差しも使い方次第で厳格解釈だってできるのだ。判決文中には、「国内外の強い批判にもかかわらず参拝を継続しており参拝実施の意図は強固だった」という一文があるそうだ。「国は靖国神社と意識的に特別のかかわり合いを持った」と指摘。「国が靖国神社を特別に支援し、他の宗教団体と異なるとの印象を与え、特定の宗教に対する助長、促進になると認められる」との結論となった。憲法20条3項の違反である。

公式参拝は違憲だが、原告らの損害賠償請求は棄却された。「首相の参拝が原告らに対して靖国神社への信仰を奨励したり、その祭祀に賛同するよう求めたりしたとは認められない」から、原告らの損害はない、との判旨だという(朝日)。反対解釈として、「首相の参拝が原告らに対して靖国神社への信仰を奨励したり、その祭祀に賛同するよう求めたり」という契機を有していれば、慰謝料請求も可能と示唆している。

各紙が、お定まりの右翼コメンテーターを登場させている。口を揃えて「傍論での違憲判断は不当」と言っている。が、そんなことはない。原告が指摘した行為の法的性質を十分に解明するのは、裁判所本来の役目。原告の主張の、どこが理由あり、どこが理由ないのか、丁寧に明らかにすることはむしろ裁判官の職責である。

ぶっきらぼうな結論だけの判決は説明責任の放棄であり、そのような態度からは司法への国民の信頼は生まれない。できるだけ丁寧に、結論に至った理由を説示することが大切ではないか。裁判所がその良心に従った判断を国民に示すことこそあるべき本来の裁判官の姿。

小泉さん、この判決をとくとお読みいただきたい。おごらず、謙虚な姿勢で。

「公的参拝であれば違憲」ー靖国高裁判決 

本日、東京高裁で「小泉靖国参拝違憲・千葉訴訟」に判決。控訴棄却であったが、浜野惺裁判長は、判決理由で「参拝が首相の職務行為として行われたとすれば、政教分離を定めた憲法で禁止されている『宗教的活動』に当たる可能性がある」と言った。しかし、1審千葉地裁判決では認めた職務行為制を否定して、原告側の請求を斥けた。

1審判決は、小泉参拝の職務行為性を認めたが、憲法違反とは言わなかった。2審判決は、「職務行為性が認められれば憲法違反」との一般論を展開しながら、職務行為性を否定した。両方とも、違憲論にかすっている。2審の一般論と1審の職務行為性肯定論を合体すれば、違憲判断となる。惜しい、ところ。

あらためて、職務行為性認定の要件をどう建てるかが、問題となりそうだ。判例上の基準ではないが、かつて三木内閣のときに公式参拝4要件論があった。@閣議決定の存在、A肩書き記帳、B公用車の使用、C玉串料の公費負担、である。少なくとも当初は、このうちひとつでも該当あれば公的参拝だとされたもの。

千葉地裁一審判決は、A肩書き記帳とB公用車の使用の2点から、公務性を肯定した。同じ事実認定で、東京高裁はこれだけでは公的参拝と言うには足りない、とした。政教分離原則にたちかえっての公的参拝要件論を構築せねばならない。

興味深いのは、職務行為性否定の論拠として、「職務行為と受け取られることを避けるため、8月15日の参拝を断念し13日にした」と指摘していること。裁判所からのメッセージとして、こんな手があったか。

一連の小泉参拝訴訟のうち、これが高裁判決の2件目。30日に大阪高裁、来月5日には高松高裁でも控訴審判決が言い渡される。それぞれが少しずつ異なる論点を提示するものとして、注目される。

野中広務氏の憲法感覚  

日弁連の人権大会・憲法問題シンポジウムの実行委員会に出席して、昨日撮影された野中広務氏のインタビュー・フィルムを視る。未編集のもので、15分を少しオーバーする。これを、5分余に編集して、「各界からの意見・ビデオレター」として、シンポジウム会場で、放映することになる。

旧田中派の番頭役、与党幹事長あるいは官房長官として、長く政権の中枢にあった人。極めつけは99年国会での国旗国歌法成立の立役者である。私が、よい印象を持てたはずはない。ところがどうだ。議員引退後の、現政権の危うさを指摘する発言には刮目せざるを得ない。時代の座標が大きく推移したということなのだろうか。以下発言の要約。

「アメリカとの友好関係の大切さは当然として、日本は地政学的に一衣帯水の北朝鮮・韓国・中国との良好な関係を保つことが極めて重要だ。そのためには、日本が過去に背負った責任と向かい合わなければならない。私は、子どものころに、朝鮮からの労働者をムチで叩いて働かせている現場を見ている。また、南京事件の現場に、かつての日本兵と同道してもいる。その立場からは、A級戦犯を合祀したままの靖国神社参拝には問題がある。A級戦犯の合祀は昭和53年。すぐには公表せず、54年に公表した。当時の松平宮司のしたこと。以来、天皇の靖国神社参拝はない。日本は講和条約で、東京裁判を認める立場を明らかにしているのだから、戦犯を神として祀る神社に参拝はできない。講和条約をもっとも尊重しているのは天皇家ではないか」

「私も自民党員だが、今、結党50年ということで憲法改正などと大騒ぎする時期ではなかろう。憲法9条あればこその戦後の平和であり繁栄だと思う。私は、専守防衛の自衛隊を認知した上で、海外での武力行使には歯止めをかけるべきとの意見を持っている。勇ましく、これを軍隊とせよとか、国防省を設置せよということには賛成しがたい」

「私ももうすぐ80歳になる。その目から見て、今の政治状況は、大政翼賛会の時代を超えている。与党勢力で3分の2以上というのは、民主主義の危機と言わざるを得ない。もっとバランス感覚が必要だ。煽ったマスコミも悪いが、結局は国民の責任。歴史教育で、縄文や古代を教えても現代史を教えないことが問題。少なくとも、昭和史をしっかりとつかむことが大切だ。過ちを繰り返さないために」

衒いもなく、淀みのない発言ぶり。言っていることに全面賛成とは言えないが、うなずけることがことが多い。この人のバランス感覚が、かつての保守政権のスタンダードであった。このような見解と、共闘できなくては、と思う。

「日の丸・君が代」強制がねらうもの  

明日、「許すな!憲法改悪・市民連絡会」が主催する、市民憲法講座の講師を務める。タイトルは、「日の丸・君が代強制がねらうもの」。今日は、たまたま何の予定も入っていない秋分の日。何をお話ししたらよいのか考える。

改憲のねらいは、単に9条だけにあるのではない。国家を丸ごと造りかえ、国家存立の原理を根底から変更することにあるのではないだろうか。戦争を起こすことが、支配層の自己目的であろうはずはない。戦争も「国益」追求の一手段にすぎない。選択肢として、戦争という手段もとりうる国家にしておきたいということなのだ。また、戦争という大事業を遂行するためには、9条改正という法文をいじるだけで足りるはずもない。9条を変えるねらいの先に、国家大改造の目的がなければならない。

では、いったいどのように国家を造りかえようとしているのだろうか。基本は支配層の利益の最大限化を実現する国家である。換言すれば、支配層の利益追求に国民を奉仕させる国家といってよいのではないか。この国の主人である、内外の大資本が、思うがままに利潤追求のできる国家。その利益を擁護し、その妨害を厳格に排除する国家。
場合によれば、武力の行使も、戦争も辞さない強力な国家。

いま、日本社会の諸矛盾の激化があり、経済成長への自信喪失の時代である。グローバリゼーションの世に、メガコンペティションを乗り切るための、なりふり構わぬ新自由主義・新保守主義の路線を突っ走らなければならない。
そのための、「構造改革」であり、軍事大国化なのだろう。日本国憲法はその路線を走るための障害となってきたのだ。

そのような国家改造のためには、国家に従順な国民を作らねばならない。そのためには、短期的にはメディアの統制が必要であり、長期的には教育が最大のターゲットとなる。さらに、国民の運動を押さえ込まなければならないのだから、治安対策が必要だ。

国策に従順な国民をつくるための何よりの道具が、「愛国心」である。国民より国家が優先することをたたき込め、そのために憲法前文に「愛国心」を書き込もう。「日本の歴史・伝統・文化」「美しい国土」も必要だ。憲法だけではなく、教育基本法・学習指導要領でも、愛国心教育を明記しよう。

こうして、教育の目的を根本から転換する。つまりは、「人格の完成」から「国家・社会に有為の人材育成」作りにすり変えられる。一握りの創造的エリートと、従順な大多数をつくる教育が、ともに人材育成の観点から実行される。

9条改正は、違憲の既成事実が積み重ねられた末に行われようとしている。教育の現場にも、既に改憲先取りの現実がある。それが、「日の丸・君が代」の強制。国家改造プログラムに、ここまでは許せる、ここを超えたら立ちあがろうという「許容線」はない。常に抵抗が必要である。

「日の丸・君が代」強制は、国家を国民に優先するものとして位置づける教育の象徴であり、権威主義・管理主義の象徴でもある。学校の主人公は子ども・生徒ではなく、国家なのだ。また、「日の丸・君が代」強制は抵抗者をあぶり出し弾圧する踏絵でもある。

彼らは、考えている。ここさえ、突破できればあとは思うがままに何でもできる、と。だから、「日の丸・君が代」強制に抵抗することは、国家主義への抵抗であり、人間の尊厳を回復する運動であり、子ども・生徒を主人公とした教育を実現する運動でもある。教育ファシズムとの対峙と言ってもよい。

日弁連憲法問題シンポジウム準備状況報告  

本日は日弁連消費者委員会の全体会議。時間を割いてもらって、人権大会第一分科会シンポジウムの準備状況について報告をする。

消費者委員会を選任母体として、第1分科会シンポの実行委員になっておりますので、ご報告申し上げます。

ご存じのとおり、シンポジウムのテーマは、「誰のために、何のために憲法はあるのかー憲法改正論議を検証する」というものです。いま、改憲論議が盛んです。しかし、本当にその改憲論は検証に堪えるものなのか。近代立憲主義の大原則、そして日本国憲法が拠って立つ理念を踏まえて本質的な議論をしてみよう、という趣旨のものです。

実行委員会は、シンポの企画の立案、基調報告書の作成、そして大会宣言案の起草を行ってまいりました。シンポの企画と、基調報告書については、取り立てて報告をするほどのことはございません。当日にご参加いただき、あるいはお読みいただければありがたいと思います。

ご報告しなければならないのは、シンポの翌日の人権大会において採択が予定されている宣言案です。
タイトルは「立憲主義の堅持と日本国憲法の基本原理の尊重を求める宣言(案)」。日弁連の決議ですから、改憲反対という結論にはなっていませんが、立憲主義と現行憲法の理念を最大限尊重すべきことを強調する内容となっています。

問題は、宣言案主文の次のくだりです。
「日本国憲法第9条の戦争を放棄し、戦力を保持しないというより徹底した恒久平和主義は、平和への指針として世界に誇りうる先駆的意義を有するものである」

実行委員会が起案し、シンポの運営委員会も通ったが、正副会長会議で疑問が出ました。「会員の中には反対の意見もある。これで、大会が乗り切れるだろうか」「『戦力を保持しない』を削除した『恒久平和主義』、で十分に趣旨は通じるのではないか」。このことは、皆さんお聞き及びのことと思います。

これに対する実行委員会側の回答は、「いまや、『戦力を保持しない』を削除した裸の『恒久平和主義』とすることが、むしろ政治的な情勢」「却って、これをはずしたら、大会は混乱して乗り切れないことになる」というものです。

今具体的な改憲論の焦点は、96条と9条2項に収斂しつつあります。つまり、「硬い改憲手続き条項を柔らかくして今後の憲法改正を容易にすること」、そして平和主義の内容を大きく変更して「海外で戦争のできる普通の国にすること」の2点です。

改憲を主張する人たちも、恒久平和主義の尊重を強調し、9条1項の堅持も口にするのです。問われているのは9条2項、まさしく「戦争を放棄し、戦力を保持しないという恒久平和主義」なのです。これをはずしてしまったら、改憲論の何も検証の対象とはならなくなる。大会宣言に何のインパクトもなくなってしまう。そのような、差し迫った憲法状況だということなのです。

幸い、基本的に正副会長会もこの点を了解し、最終的にはこれで理事会も通ることになろうと思われます。しかし、大会の場でどのような議論が出てくるか、予断を許さないものがあります。

日弁連は、これまで人権擁護のために奮闘してきました。憲法理念の実現についても実践を積みかさねてきました。戦争こそ最大の人権侵害、戦争こそ最大の環境破壊、戦争こそ日本国憲法の拠って立つ理念の対立物。総選挙に大勝した政権党が憲法改正草案を発表するその時期に、法律専門家の集団である日弁連が憲法問題でどう発言するか、大きな注目を集めることと思います。

是非、皆さんシンポにご参加ください。そして、大会宣言案の討議に参加していただき、圧倒的多数で宣言を採択させてください。

インチキ国民投票法案の提出を許すな  

特別国会の初日である。日経の夕刊を見て驚いた。
一面トップに、「郵政早期成立めざす」という見出しと並んで、「国民投票法案提出へ」とある。おいおい、調子づくのもいい加減にしろ。

記事の内容は、次のようなもの。
「自民、公明両党は21日朝の幹事長・国会対策委員長会談で、憲法改正手続きを定める国民投票法案を特別国会に提出する方針を決めた。民主党に共同提案も視野に協議を呼び掛けたうえで、成立を目指す。当初は来年の通常国会への提出を予定していたが、同法案の制定に前向きな前原誠司氏が民主党代表に就いたことを踏まえ、提出を前倒しする」

何ということだ。300議席を得た今の内に、一気呵成に外堀を埋めておこうということなのだ。あの、欠陥だらけの、悪評高い「議連案」→「与党案(04年12月3日策定)」をそのまま、特別国会に持ち出そうという破廉恥さ。

民主党は、今年4月25日に「論点とりまとめ案」を発表している。与党案と較べれば、月とスッポン、提灯に釣り鐘。比較にならない民主的な中身になっている。

実のところ、「国会提出法案が民主党案の線で出てきたら手強い」「この案だと反対しにくいのではないか」という内輪の議論があった。そんな「心配」は吹き飛んだ。あの無茶苦茶なままの法案が出てくるのだ。

メディアをがんじがらめに罰則で規制し、外国人を国民投票運動から排除し、教育者・公務員の運動を事実上禁止し、運動期間を制限する。しかも、個別の改正条項ごとに国民に賛否を問うのではなく、国会の発議案全体を一括して賛否を問おうというインチキ。これらの内容について、日経が何の問題意識も持ちあわせていないことが、また恐い。

こんなインチキ法案しか出せないのは、与党が、国民の憲法意識をおそれているからだ。堂々と、民意反映の国民投票法では、9条改憲困難と考えているからなのだ。小選挙区制と「郵政」で議席を掠めとったがごとく、インチキ国民投票案で改憲を掠めとろうという魂胆。そいつはあんまりだ。

最高裁裁判官の国民審査  

司法の独立と民主主義を守る国民連絡会議。かつては、総評と社共両党が中心に据わった堂々たる運動体だった。公明党も参加していた。今総評はなくなり、政党の参加も途絶えた。法律家団体のほかには、婦人有権者同盟などの市民団体、そして国民救援会などが、細々と会合を続けている。

司法反動阻止のための運動体組織だった。司法がまともになったわけではない。なのに、なぜ司法の独立と民主主義を守る国民運動が先細りになってしまったのか。

それでも、最高裁裁判官の国民審査においては、この組織が存在意義を発揮する。今回の総選挙でも、直ちにビラを作り配布した。インターネットにもアップし、街頭のビラ撒きもした。私も、有楽町マリオン前で、宣伝カーに乗って、マイクを握った。

本日、その総括会議。撒いたビラは47000枚。6人の裁判官に、7.63〜8.02%の×が付けられた。法務省刑事局で盗聴法の立法に携わった古田佑紀裁判官と、司法官僚の中心人物である堀籠幸男裁判官の×票が、有意に高い。

「罷免を可とする投票者数」には地域差が大きい。常に沖縄がトップ。15%に及ぶ。ついで北海道、京都、大阪、東京の順となる。最低は福井。5%に達しない。この地域差はどこから来るのだろう。

「期日前投票に行ったら、国民審査はまだ出来ないと言われた」「棄権のしかたが明示されていない」「投票所で選管の職員が、よく分からなければ何も書かずに投票してください、と指導していた」などの報告があった。
唯一、裁判所に国民の声を届ける憲法上の制度。もっと実効性のある制度運用をしてもらわなくてはならない。

良心の自由

昨日、「日の丸・君が代」強制予防訴訟弁護団の尾山宏団長から、メールをいただいた。「良心の自由」についての所感である。土曜日の各地弁護団交流会で話題となったテーマについて考えをまとめて、日曜日に送信されたのだ。

本日は敬老の日だが、尾山団長率先しての弁護団会議。「先生、今日くらいはお休みになったら」と言う敬老精神を持ち合わせた団員は皆無。会議終了後に、「良心の自由」について、短時間ながら意見交換。

石原慎太郎や横山洋吉、米長邦雄、櫻井よしこなどの発言を追っていると、「良心の自由」尊重という憲法原則を考えたこともないことがよく分かる。なぜ、日本国憲法は19条という特別な条文を置いたかについて、強者の側、多数派の側には理解が困難なのだと思う。

論理を突き詰めていくと、論証不可能な論理の出発点に行き着く。それが公理。人権の尊重は公理である。生命・身体と並んで精神の自由という基本権は公理なのだ。精神的自由の根底をなす「思想・良心の自由」は紛れもない公理。粗暴な言葉で、これを否定されると、そもそも議論が成り立たなくなる。都教委との論争には、この類のもどかしさを感じざるを得ない。

「どうして、人を殺してはいけないの」と、真顔で聞かれたらどう答えるのか。あまりに当然なるがゆえに、あまりに論証困難なのだ。

「古今東西を通じての人倫の基本」と言っても論証にはならない。「神の教え」を持ち出すのはルール違反。「人には生来お互いの生を尊重し合う精神の基礎がある」と言っても、否定されればそれまで。「生物としての人類が繁栄するために、個体間の殺戮は非合理だから」というのは、簡単に論駁されてしまう。

個人の生命を尊重しなければならない理由を「論証」しようとすれば、それ以上の価値を想定して、それに奉仕することを論じなければならない。しかし、個人の生命以上の価値はないのだ。

だから、生命の尊重については、「どれほど尊重されなければならないものであるか」「どのように尊重すべきか」という問はあっても、「なぜ尊重しなければならないのか」という根拠についての問はない。
要するに、ここが論理の出発点である。ここから、すべてが演繹される。そういうお約束なのだ、と言うしかない。

精神の自由についても、まったく同様。人は、生命と身体あるだけでは人ではない。その人の個性としての精神の活動があって初めて人たるに値する。精神の活動の自由は、人が人たるに値する根源的価値である。その精神活動の尊厳において、いかなる人も平等である。これも公理。これもお約束。そして、精神的自由の根幹をなすものが、思想良心の自由である。

ところが、「どうして精神の自由なんて必要なの?」「どうして、自分の国の国歌を歌えないの?」「ピアノ伴奏で心が痛むなんて、それはわがままというものでしょう」「良心なんてきれいなことを言ってないで、面従腹背していれば済むことじゃないの」「あなたの気持ちは、心の奥にしまっておいて、体だけ教育公務員としての努めを果たせばいいんじゃないの?」と真顔で言っているのが、いまの石原教育行政なのだ。

われわれも、本当に良心の自由というものが分かっているのか、自信はない。その内包をどう理解し、その外延をどう画するか。必ずしも、弁護団内の意思統一が出来ているわけではない。ただひとつ、絶対に自信をもって言えることがある。

個人の思想良心の自由は、すべての価値の根源である。これに比して、国家に固有の価値はない。国家の存立はそれ自体に価値があるのではなく、個人の人権や福利の伸長に奉仕する限りで、価値が認められる。国家のため、社会のために、人材を育成するのが本来の教育ではない。国民のために、使い勝手の良い国家や社会をどう作るか、そう考えるべきが当然なのだ。

真に思想・良心尊重原則の貴重さを理解するためには、弱者の立場にあって、社会の少数派としての良心の持ち主であることが必要なのかも知れない。少なくとも、そのような立場への共感の能力が必要であろう。炭坑のカナリアを殺してはいけない。

裁判官にそのような共感能力を期待しうるだろうか。医師に求められる本来の資質が患者への奉仕であるごとく、裁判官たる者、弱者・少数者の苦悩に共感出来なければならない。ブレインではなく、ハートが必要なのだ。脆くて壊れやすく、修復のきかない繊細な構造物、思想・良心を取り扱うには繊細なハートが必要なのだ。

尾山弁護士の所感の一節。
「自分が十何年か何十年かの人生体験及び学習によって創りあげられた自己の心の最も奥底から出てくる声、こうしなければならないとか、こうしてはならないとかいった声に、利害損得を離れて忠実に従うこと、それを国家権力や行政機関によって否定されれば自分の全人格が破壊され、自分の存在が無化されてしまうと言えるようなもの、そのようなものが良心なのであり、良心的拒否なのだと考えています。従って良心というと普遍的なもので誰にでも一様なものと考えられがちですが、極めてindividualなものであり、良心にも多様性があることを考えるべきだと思います。だから良心の自由を保障する必要があるのです。
良心の自由の憲法的保障は、社会の少数者のためにこそあると言えます。なぜなら、多数者は、特別に保障してもらわなくとも、多数意見として押し通すことが出来るからです」

郵政で掠めとった議席で改憲発議をしてはならない

総選挙の開票この方、元気が出ない。しばらくは、日記を書く気にもなれなかった。

石原大勝・ブッシュ再選に続いて、またまた民主主義の陥穽が露わになった。口をつくのは愚痴ばかり。
日本の国民は、そんなに自分の首を絞めることがお好きなのか。レミング・シンドロームだ。なるほど、ファシズムは大衆が作り上げるもの。自民党への投票者は民主主義破壊の共犯者だ。

長期的には、自民党政権の終わりの始まりだとは思う。郵政民営化の手品のタネは早晩露見する。結局、増税・高負担しか道はない。しかも、自民党は、今回特定郵便局長会(「全特」・「大樹」)を切った。保守の支援組織である医師会、歯科医師会、看護師協会、不動産政治連盟、農協・漁協、商店会等々が、いずれ切られることになるだろう。

これまで、自民党(保守政治家)が代弁していた、地方・中小業者・農漁民の利益は切り捨てられる。残るのは、財界と大企業労働者のみ。いまは、デマゴギーで票をかすめ取っているが、路線を変更した自民党には明日はない。

さはさりながら、いや、だからこそ、この選挙結果は保守陣営に千載一遇のチャンスなのだ。もしかしたら、最後のチャンス。郵政民営化一本の訴えでかすめ取った議席で、メッキのはげないうちにやれるだけのことをやっておこう、いまのうちに改憲断行だ、となりかねない。先の先のことではなく、目先の4年間が恐ろしい。

既に、国民投票法案審議の場を、常任委員会とするか特別委員会とするかの議論が進行している。東京新聞の16日付朝刊では、自民党は「改憲草案の発表を前倒しして10月中に行う」と言っているそうだ。勢いづいていることが見て取れる。さらに、民主党が火に油を注いでいる。

昨日、民主党の新代表に選出された前原誠司は、その日の記者会見で、憲法改正への取り組みに触れて「9条2項は削除し自衛権を明記することだ。党調査会の論議をスピードアップさせたい」と明言している。今日のNHKのインタビューでは、「たとえば、サマワで自衛隊を守ってくれている他国の軍が攻撃を受けたとき、自衛隊が何も出来ないではおかしい」とまで言っている。自民党の集団的自衛権賛同論議とまったく同じ言い回し。

圧勝した与党だけでなく、野党第一党がこのていたらく。大変な事態ではないか。

とは言え、社・共両党の獲得票900万に依拠し、さらに平和を求め改憲に反対する世論に依拠するしかない。院外の運動を作り上げよう。

まずは、日本のあちこちで、「郵政民営化で掠めとった議席で、改憲発議をするな」と叫ぼう。

「日の丸・君が代」関連事件弁護団連絡会

本日、第7回「日の丸・君が代」関連事件弁護団連絡会議。午前10時30分から午後4時30分までだったが、時間が足りない。

午前中は、北九州市のココロ裁判一審判決についての検討。市川須美子・独協大学教授の報告を受けての意見交換。この判決、読めば読むほど評価がむずかしい。とりわけ、「教員の市民的自由」と「教員としての良心」の関係についての議論が白熱。また、「内部意思」と「外部行為」切断論批判のあり方についても議論が続出。突き詰めての議論になると、それぞれの考え方が微妙に異なる。時間切れで、あらためて論点再整理をすることになった。

午後は、人事委員会審理・抗告訴訟・予防訴訟・執行停止申立・国家賠償訴訟・民事訴訟等々の類型別に、問題点の報告と意見交換。充実した内容だった。

案内を出した事件弁護団は、事件発生の順に以下のとおり。

☆北九州ココロ裁判
 国歌斉唱時の不起立(職務命令違反)に対する厳重注意〜減給3か月
 96年11月 福岡地裁提訴 05・4・26 一審判決 一部勝訴
現在福岡高裁に控訴審係属 控訴理由書が提出された段階
☆ピアノ伴奏拒否訴訟(東京・日野市立南平小学校)
 99年4月6日入学式における国歌斉唱時のピアノ伴奏職務命令違反
 戒告 人事委員会審査→棄却裁決→東京地裁提訴→03・12・3棄却判決
    →東京高裁7月7日控訴棄却判決→最高裁上告中☆東京・国立二小戒告事件
 00年3月24日卒業式におけるリボン着用+校長に対する「抗議」
 戒告(信用失墜行為・職務専念義務違反)
 手続の進行 審査請求→棄却裁決→東京地方裁判所へ提訴 一審継続中 立証計画段階
☆国立二小・強制移動事件
 校長への意見を言ったことを理由とする不当移動
 手続の進行 審査請求→棄却裁決→東京地裁提訴 04・12・28 却下・棄却判決→05・9・8東京高裁控訴棄却
☆ピースリボン訴訟(東京・国立二小)
 00年3月24日卒業式におけるリボン着用を理由とする文書訓告(職務専念義務違反) 並びに、ピアノ伴奏の強制を理由とする国家賠償訴訟事件       
 04年2月提訴(国賠訴訟)地裁 東京地裁民事35部裁判長交代
☆北教組・倶知安中学事件
 01年3月卒業式における「国歌」演奏中断行為に対する戒告
 現在・道人事委員会で審査請求継続中 公開審理の証人調べ終了 裁決待ち
☆大阪・東豊中高校事件(中野五海さん)02年2月 卒業式における「内心の自由」発言に対する戒告処分 大阪府人事委員会係属中
☆大阪・豊中養護学校(田中直子さん)事件 02年4月入学式における「内心の自由」発言に対する戒告処分 大阪府人事委員会係属中
☆ハートブラウス事件(東京・大泉養護学校)
 02年4月 入学式における「ハートブラウス」着用を理由とする戒告(上着着用の職務命令違反)人事委棄却裁決→東京地裁提訴
☆東京・「日の丸・君が代」強制予防訴訟
 国歌斉唱義務・ピアノ伴奏義務不存在確認、処分の予防的不作為請求
 04年1月30日第1次提訴228名 現在原告401名。
 東京地方裁判所民事36部に係属。立証進行中。
☆東京・処分取消(人事委員会審査請)事件
 国歌斉唱時不起立・ピアノ伴奏拒否による戒告・減給・停職
 03年度周年行事・卒業式、04年度入学式 13グループに分割審理
 04年度卒業式・05年度入学式についても申立済み。
☆東京・「日の丸・君が代」解雇訴訟
 国歌斉唱時不起立を理由とする嘱託採用取消・嘱託雇い止め(原告数 10名) 
 手続き進行 04年6月17日 提訴 民事19部係属
今秋から立証段階に 横山洋吉教育長証人採用決定
☆東京・再発防止研修受講義務不存在確認請求訴訟 本案と執行停止申立
   04年民事19部須藤決定
   05年  19部中西決定 36部難波決定 11部三代川決定
   05年  専門研修者に対する執行停止申立(05・8・29)
☆神奈川・「日の丸・君が代」強制予防訴訟
 国歌斉唱義務不存在確認請求
 05年7月27日横浜地裁提訴 原告107名、弁護団86名
 11月29日第1回口頭弁論 
☆嘱託不採用損害賠償事件 05年8月2日提訴(原告数 5名)
 国歌斉唱時不起立を理由とする嘱託不採用に対する損害賠償請求取消
★刑事弾圧 04年3月11日都立板橋高校卒業式 元教員の式前の発言を威力業務妨害 として、04年12月3日起訴 東京地裁刑事9部係属

なお、このほかに、広島に複数の人事委員会審査申し立て事件や訴訟がある。

次は、来年1月14日。そして、この集会とはべつに、いくつかのテーマを挙げて、弁護団と研究者の意見交換会を開催することとした。予定は、11月中に。

本日は、七生養護学校事件(東京都・教育委員会・産経・3都議を被告とする損害賠償請求)弁護団も参加。共同して理論的な検討を深めようということになった。どの事件についてもそうだが、彼我の理論水準も熱意も、雲泥の差だ。当方が圧倒していて、なお、判決では容易に勝てない。それでも、出来るたけのことを、とことんやるしかない。

専門研修命令執行停止申立に却下決定

東京都を相手にした服務事故再発防止専門研修の執行停止申立に却下決定。人数で14名、申立件数で4件。東京地方裁判所の11部(2件)、19部、36部の3か部にまたがるもの。全部負けた。なんたることか。

司法はこれでよいのか。司法の腰が座っていれば、さすがの都教委もこんなバカなことはできないはず。裁判所は、悪政の消極的共犯者ではないか。

午後7時から司法記者クラブで記者会見。どうしても言葉が乱暴になる。

「日の丸君が代処分とは、行政が教員の思想信条を処罰しているということだ。教員は式を妨害してもいない。誰にも迷惑をかけていない。必死で自分の良心を守っただけ。その良心がイカンと言って懲罰されている。

服務事故再発防止研修とは、これに対する追い打ちである。その良心故に懲戒されている教員に、「反省せよ」と言う。転向を迫り、改宗を強要しているのだ。

今の世に、こんなことがあってよいのか。どうして裁判所がこんな無法を止めないのだ」

それでも、裁判官の良心の痛みのようなものは垣間見える。
「本件専門研修が‥その目的を逸脱し,その方法,内容,態様等において,当該教職員の思想・信条に反する見解を表明するよう強要し,あるいは,思想・信条の転向を強いるなど,その内心の自由に踏み込み,当該教職員に著しい精神的苦痛を与えるようなものであるときには,そのような研修を命じる職務命令は,受講者に対し重大な損害を生じさせるもので,‥効力等が停止されるべき「処分」に当たると判断される」
「本件専門研修は、昨年度も基本研修や専門研修を受け、さらには本件基本研修を受けた者に対して行われるものであるから、その内容が従前行われたものを繰り返すものであるとすれば、研修対象教職員に対して精神的苦痛を与えるおそれは残るところである」
「本件専門研修が内心の自由に踏み込み、著しい精神的苦痛を与えるようなものである場合には、処分性が肯定される」などなど。

「現時点において専門研修を実施すること自体についての必要性・相当性には議論の余地があるとしても、‥」という担当裁判官の都教委への不快感表白と読めるところさえある。

「度を過ごしたら、目をつぶってはいられなくなる」というのが、裁判所のサイン。だんだんと、目をつぶってはおられなくなる基準が示されてきた。

方法と内容が、長時間・繰りかえし・同じこと・執拗・見解の表明を迫る・内心に踏み込む、などなど。これが歯止めだ。負けても申立を繰り返す実益はある。彼らが、本当にやりたいことはできない。

だから、負け惜しみではなく、申立の効果はあったと思う。都教委を牽制し、教員を励ますこと。教委に負けないしつこい弁護団ここにあり、なのだ。

法の下克上

夜、「(「日の丸・君が代」強制不服従)被処分者の会」の集会。東京都人事委員会での審査請求事件の進行や、服務事故再発防止研修執行停止についての打ち合わせ。

「日の丸・君が代」強制を拒否して、卒業式などで国歌斉唱時に不起立を貫いた東京の教員306名が懲戒処分(戒告・減給・停職)となっている。強制を拒否した教員は、穏やかに40秒間着席していただけ。自らの思想や教員としての良心に従った行動をしたことを理由とする懲戒である。思想・良心が、罰せられたのだ。

その処分理由は「職務命令違反」、職務命令の根拠は「学習指導要領」とされている。しかし、憲法には思想良心の自由(19条)・表現の自由(20条)が明記されている。学習指導要領を根拠とした処分有効の主張と、憲法を根拠とした処分無効の主張とが対立している。

都教委の言い分は、「職務命令違反だから処分は当然」、「学習指導要領に基づく職務命令だから適法」。小泉流のワンフレーズ。このほかにはなんの理屈もない。へりくつすらないのだ。

都の教育委員諸氏の頭の中には、憲法も教育基本法もない。あるのは、ただただ学習指導要領と職務命令のみ。そして、「日本の学校では、誰もが日の丸・君が代に敬意を表すべきは当然」という右翼的信仰。それ以外は、みごとなまでに空っぽ。

人間に上下の別はないが、法には厳然たるヒエラルヒーがある。上位の法形式が下位の法に法としての効力を授ける。下位法は、上位法に拠って存在し、その内容において上位法に反することはできない。これで、法の秩序が保たれる。

もちろん、最上位の法形式が「憲法」。次いで、準憲法と認められている「教育基本法」。その下に「学校教育法」(法律)があり、さらにその下に「学校教育法施行規則」(文部省令)があって、その省令に基づく「文部省告示」が「学習指導要領」なのである。

都教委の考えは、明らかに法の下克上なのだ。おそるべき過激思想。秩序破壊。革命的な無法。不逞な謀反と言うほかはない。

憲法上の自由の侵害というだけではない。多くの教員が、教育という営為の本質から、生徒・子どもに一方的な意見の押しつけをすべきではないと考えている。とりわけ、一方的な国家主義のイデオロギーを学校現場に持ち込んではならない。生徒に対する一方的な国家意思の強制に対しては、教員は抗命の義務すらある。

「日の丸・君が代」の強制と、不服従者に対する処分は、思想良心そのもの弾圧であり違憲違法である。学習指導要領ごときによって、正当化されることはない。

集会の終わりに、会場からの声。
「お知らせします。いま、江戸東京博物館で江戸時代の踏絵の本物を5点展示しています。貴重な機会ですから、是非ご覧ください」

「日の丸・君が代」の強制は、現代の踏絵だ。思想をあぶり出して弾圧する。それが400年の昔のことではない。21世紀の教育の場で行われているのだ。時代の危うさを感じざるを得ない。

私のプロフィル

何ごとにも作法というものがある。
ブログには、プロフィルを書き込むことが基本の作法とのこと。このブログを書いているのが、いったい何者なのかを読者に明らかにしなければならない。

で、私はどんなプロフィルを書けばよいのだろう。
誰に限らず、人は無限の多面体である。そのどこを明らかにすればよいのか。
国籍・性別・身長・体重・生年月日・運動能力・泳力・生地・学歴・職歴・嗜好・関心・趣味・交友・読書歴‥。どれも、さしたる重大事ではない。考えあぐねて、次の文章とした。

「物心ついたとき、空気とともに日本国憲法があった。
水と空気と日本国憲法とで生きてきた。今や私の体の組成は、タンパク質と日本国憲法である。
日本国憲法の下で仕事ができることを、このうえない人生の幸運と考えている弁護士」

うーん、われながらよいできだ。自己紹介文は、これで必要にして十分。

長く日本人の教養のベースは、四書五経であり漢詩漢文であった。これに、万葉・古今が加わる程度。近代に至って、ヨーロッパの哲学や思想がこれに取って代わる。独・仏・英である。アメリカは教養にはなじまない。
私には、東洋・西洋を問わず、そのような教養の基礎がない。敢えて探せば、日本国憲法である。

人間の尊厳がすべての価値の根元であることを信じて疑わない。尊厳において、すべての人はみな平等である。天皇の尊貴も、いかなる人の卑賤も、ともに絶対に認めない。

人間の尊厳は、当然に自由を要求する。精神の自由、表現の自由。自由を抑制するものとしての、国家権力や社会的強者である企業を規制しなければならない。

個人の人権を擁護するために、すべての社会の仕組みが成り立っている。議会も司法も地方自治も。平和も、民主主義も、学問の自由も、それ自体価値でもあるが、本来個人の人権擁護に奉仕するものである。

人間が作った国家は、個人の自由を抑圧するためにあるのではない。所得を再配分し、弱者に手を差し伸べ、個人の尊厳を全うできない人の後見をすべく役割を果たさなければならない。

ものごころついてから、このことを当然と考えてきた。これが、私の精神の核である。

たのしくわかる日本国憲法〈2〉国民主権と民主主義

日記再開

夏の終わりは、そこはかとなくもの哀しい。
夏の色は朱なのだそうだ。朱夏から白秋への移ろいなのだが、青春が過ぎゆくという感覚。もう青春は遠い日のこととなったが、8月の末に今年もまた馬齢を一つ重ねた。

7月16日に日民協の事務局長職を降り、「事務局長日記」を擱筆した。その後は、戦後60年の記念の夏であり、降って湧いたような総選挙の夏となった。日記に書き留めておくべきことも多々あった。が、日記を書かなくてもよいという解放感に浸り続けた。

世は騒然としているが、わが家の夏は穏やかだった。狭い庭にもプラムが実を付けた。木槿の花の下にはキジバトが巣をかけ、2羽の雛が巣立った。偶然、「チャングムの誓い」という韓国ドラマにはまり、BSの「寅さん」シリーズを観た。

その夏も終わった。そろそろ「日記」を再開しようと思うが、エネルギーを要することとて自信がない。改めて「事務局長日記」の過去ログを読むと、よくもまあこれだけ書き続けたものと呆れる思いがする。こんなことを繰り返すことは到底できそうもない。

そこで、無理をしないこととしたい。毎日は無理、長いものは無理。調べなければ書けないものは無理。無理のないところで、切れ切れにでも細く長く続けてみたい。

関心の赴くところ、なんでも書いてみたいが、何よりも憲法問題について書きつづりたい。先行き不透明な時代に自分がどう対峙したか、その証しを書き残したい。まだ、遺書を書く気分ではないが、人生には終わりがあることを実感するには十分な齢。この日記を書くことによって、真っ当に生きていることを確かめておきたい。

再開初日。これ以上は無理をすまい。この辺で筆を置くことにしよう。今日は憲法について触れなかったが、自分に恕すとしよう。明日からでよい。明後日からでもよい。