2005年09月19日

良心の自由

昨日、「日の丸・君が代」強制予防訴訟弁護団の尾山宏団長から、メールをいただいた。「良心の自由」についての所感である。土曜日の各地弁護団交流会で話題となったテーマについて考えをまとめて、日曜日に送信されたのだ。

本日は敬老の日だが、尾山団長率先しての弁護団会議。「先生、今日くらいはお休みになったら」と言う敬老精神を持ち合わせた団員は皆無。会議終了後に、「良心の自由」について、短時間ながら意見交換。

石原慎太郎や横山洋吉、米長邦雄、櫻井よしこなどの発言を追っていると、「良心の自由」尊重という憲法原則を考えたこともないことがよく分かる。なぜ、日本国憲法は19条という特別な条文を置いたかについて、強者の側、多数派の側には理解が困難なのだと思う。

論理を突き詰めていくと、論証不可能な論理の出発点に行き着く。それが公理。人権の尊重は公理である。生命・身体と並んで精神の自由という基本権は公理なのだ。精神的自由の根底をなす「思想・良心の自由」は紛れもない公理。粗暴な言葉で、これを否定されると、そもそも議論が成り立たなくなる。都教委との論争には、この類のもどかしさを感じざるを得ない。

「どうして、人を殺してはいけないの」と、真顔で聞かれたらどう答えるのか。あまりに当然なるがゆえに、あまりに論証困難なのだ。

「古今東西を通じての人倫の基本」と言っても論証にはならない。「神の教え」を持ち出すのはルール違反。「人には生来お互いの生を尊重し合う精神の基礎がある」と言っても、否定されればそれまで。「生物としての人類が繁栄するために、個体間の殺戮は非合理だから」というのは、簡単に論駁されてしまう。

個人の生命を尊重しなければならない理由を「論証」しようとすれば、それ以上の価値を想定して、それに奉仕することを論じなければならない。しかし、個人の生命以上の価値はないのだ。

だから、生命の尊重については、「どれほど尊重されなければならないものであるか」「どのように尊重すべきか」という問はあっても、「なぜ尊重しなければならないのか」という根拠についての問はない。
要するに、ここが論理の出発点である。ここから、すべてが演繹される。そういうお約束なのだ、と言うしかない。

精神の自由についても、まったく同様。人は、生命と身体あるだけでは人ではない。その人の個性としての精神の活動があって初めて人たるに値する。精神の活動の自由は、人が人たるに値する根源的価値である。その精神活動の尊厳において、いかなる人も平等である。これも公理。これもお約束。そして、精神的自由の根幹をなすものが、思想良心の自由である。

ところが、「どうして精神の自由なんて必要なの?」「どうして、自分の国の国歌を歌えないの?」「ピアノ伴奏で心が痛むなんて、それはわがままというものでしょう」「良心なんてきれいなことを言ってないで、面従腹背していれば済むことじゃないの」「あなたの気持ちは、心の奥にしまっておいて、体だけ教育公務員としての努めを果たせばいいんじゃないの?」と真顔で言っているのが、いまの石原教育行政なのだ。

われわれも、本当に良心の自由というものが分かっているのか、自信はない。その内包をどう理解し、その外延をどう画するか。必ずしも、弁護団内の意思統一が出来ているわけではない。ただひとつ、絶対に自信をもって言えることがある。

個人の思想良心の自由は、すべての価値の根源である。これに比して、国家に固有の価値はない。国家の存立はそれ自体に価値があるのではなく、個人の人権や福利の伸長に奉仕する限りで、価値が認められる。国家のため、社会のために、人材を育成するのが本来の教育ではない。国民のために、使い勝手の良い国家や社会をどう作るか、そう考えるべきが当然なのだ。

真に思想・良心尊重原則の貴重さを理解するためには、弱者の立場にあって、社会の少数派としての良心の持ち主であることが必要なのかも知れない。少なくとも、そのような立場への共感の能力が必要であろう。炭坑のカナリアを殺してはいけない。

裁判官にそのような共感能力を期待しうるだろうか。医師に求められる本来の資質が患者への奉仕であるごとく、裁判官たる者、弱者・少数者の苦悩に共感出来なければならない。ブレインではなく、ハートが必要なのだ。脆くて壊れやすく、修復のきかない繊細な構造物、思想・良心を取り扱うには繊細なハートが必要なのだ。

尾山弁護士の所感の一節。
「自分が十何年か何十年かの人生体験及び学習によって創りあげられた自己の心の最も奥底から出てくる声、こうしなければならないとか、こうしてはならないとかいった声に、利害損得を離れて忠実に従うこと、それを国家権力や行政機関によって否定されれば自分の全人格が破壊され、自分の存在が無化されてしまうと言えるようなもの、そのようなものが良心なのであり、良心的拒否なのだと考えています。従って良心というと普遍的なもので誰にでも一様なものと考えられがちですが、極めてindividualなものであり、良心にも多様性があることを考えるべきだと思います。だから良心の自由を保障する必要があるのです。
良心の自由の憲法的保障は、社会の少数者のためにこそあると言えます。なぜなら、多数者は、特別に保障してもらわなくとも、多数意見として押し通すことが出来るからです」