2005年09月30日

大阪高裁の靖国参拝違憲判決  

昨日は東京高裁の判決。今日は大阪高裁の判決。昨日は曇り、今日は快晴。素晴らしい判決となった。冬景色にはまだ早いが、明らかに西高東低。小泉靖国参拝に関して、これが2件目の違憲判断。

首相の靖国神社参拝が違憲か合憲か。そんなこと、今さら論じるまでもない。市立体育館の起工式に神主を呼ぶことだの、知事が玉串料を奉納するだの、忠魂碑の移設費用を負担するだのというレベルとは、二桁も三桁も重大性が違う。日本国憲法下の国家が、軍国主義・排外主義に国民精神を総動員する舞台装置だった靖国神社と、いささかの関わりも持ってはならない。そのための、憲法20条であり、政教分離原則ではないか。

首相の参拝を合憲とする判決など、ありうべからざるものである。問題は、違憲違法と宣言する判決が出せるかどうか。その宣告には、裁判官の勇気が必要だ。決断するか、逃げるか。逃げるのは容易だ。決断には苦汁が付きまとう。

東京高裁・浜野裁判長は逃げた。大阪高裁・大谷正治裁判長は逃げずに決断した。知らなかったが、両者とも私と同じ23期の修習を経ている。あの紀尾井町のオンボロ研修所で同じ時代の空気を吸った500人の仲間のうち。あの時代の垢をすっかり落としてしまったか、浜野さん。まだよく残していたか、大谷さん。

論点は三つ。まず、小泉純一郎は内閣総理大臣としての公的資格において職務行為として参拝したか。次いで、公的資格における参拝であるとすれば、その行為が憲法原則である政教分離に反して違憲違法とならないか。そして、違憲違法であれば、当該違法行為によって原告らに損害を与えていないか。

大谷判決は前2者を肯定し、最後のハードルで請求を棄却した。原告らの提訴の目的は十分に達せられた。高裁レベルで、これだけ明白な違憲判断がなされたのは、1991年1月10日の仙台高裁・岩手靖国訴訟判決以来のこと。判決が具体的に小泉参拝の態様に言及して違憲と言っているだけに、影響は大きい。

報じられているところでは、判決は、「(1)参拝は、首相就任前の公約の実行としてなされた(2)首相は参拝を私的なものと明言せず、公的立場での参拝を否定していない(3)首相の発言などから参拝の動機、目的は政治的なものである――などと指摘し、「総理大臣の職務としてなされたものと認めるのが相当」と判断した(毎日)、と言う。記帳・公用車・秘書官の同道だけでも、公務性の認定は十分であろう。

あとは、目的効果基準の使い方次第である。この基準、実は政教分離原則を限りなく緩やかに解釈するために発明された。ところが、同じ物差しも使い方次第で厳格解釈だってできるのだ。判決文中には、「国内外の強い批判にもかかわらず参拝を継続しており参拝実施の意図は強固だった」という一文があるそうだ。「国は靖国神社と意識的に特別のかかわり合いを持った」と指摘。「国が靖国神社を特別に支援し、他の宗教団体と異なるとの印象を与え、特定の宗教に対する助長、促進になると認められる」との結論となった。憲法20条3項の違反である。

公式参拝は違憲だが、原告らの損害賠償請求は棄却された。「首相の参拝が原告らに対して靖国神社への信仰を奨励したり、その祭祀に賛同するよう求めたりしたとは認められない」から、原告らの損害はない、との判旨だという(朝日)。反対解釈として、「首相の参拝が原告らに対して靖国神社への信仰を奨励したり、その祭祀に賛同するよう求めたり」という契機を有していれば、慰謝料請求も可能と示唆している。

各紙が、お定まりの右翼コメンテーターを登場させている。口を揃えて「傍論での違憲判断は不当」と言っている。が、そんなことはない。原告が指摘した行為の法的性質を十分に解明するのは、裁判所本来の役目。原告の主張の、どこが理由あり、どこが理由ないのか、丁寧に明らかにすることはむしろ裁判官の職責である。

ぶっきらぼうな結論だけの判決は説明責任の放棄であり、そのような態度からは司法への国民の信頼は生まれない。できるだけ丁寧に、結論に至った理由を説示することが大切ではないか。裁判所がその良心に従った判断を国民に示すことこそあるべき本来の裁判官の姿。

小泉さん、この判決をとくとお読みいただきたい。おごらず、謙虚な姿勢で。