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資料

100万署名推進ニュース(NO.5)

中国「残留孤児」国家賠償訴訟勝利
100万署名推進ニュース(関東版)
NO5 2005年1月


 2005年、勝利へ展望開く年に!
3月末目標に、100万人署名達成を

新しい年を迎えました。2005年は、裁判勝利と政府の孤児政策転換を迫る運動が「正念場」を迎える年です。市民連絡会と原告団は、新年出足早く活動を開始しました。

☆署名、53万人を突破!(2004年末)
 100万人署名は、2004年12月現在532,379筆に達しました。最も奮闘したのは原告団です。毎月の街頭・駅頭署名を中心に175,366筆を集めています。(東京70,619・神奈川48,774・千葉25,800・さいたま30,173)1月も神奈川・千葉の毎週日曜日の行動をはじめ東京・さいたまでも街頭に立っての行動が展開されています。支援要請訪問した団体・労働組合は500を超えていますが、途切れることなく送付されています。全農林などの国家公務員の労組、私鉄総連、東京都職員組合関係、民主団体(日中友好協会62000余他)、虹の会関係等(18000余)や関東以外の訴訟関係など多数の団体、個人からのものが35万を大きく超えました。ご尽力に深く感謝いたします。
☆3月末達成めざし、引き続きご支援を!
 原告団・弁護団・市民連絡会は、東京地裁訴訟が大詰めを迎える3月を「次の大きな山場」と位置付け、「3月末までに100万筆を達成する」ことを確認し、改めて各方面に支援強化を呼びかけています。こうしたなかで新たな協力も広がっています。自治労東京は傘下の組織に「署名に取り組むよう」通達を発し、年末からそれを携えて東京多摩地区の自治体関係労組訪問を開始しました。市民連絡会世話人会では「立証佼成会に知人がいる。要請してみる」などの新たな分野への運動の広がりをめざす発言もありました。これまでにご協力いただいた団体・個人の方々も引き続きご支援強化を御願い致します。100万署名を達成するためには、後半の活動が決めてです。皆さまの、あとひとふん張り、ふたふん張りのご尽力に期待致します。



 衝撃呼んだ「原告の証言」!

東京地裁の審理では、10月以降「原告尋問」に入り、10月27日・12月22日の法廷では、原告本人の「体験」を中心にした尋問が行われました。22日の証言では、帰国までの国の不誠実な対応と帰国後の冷たい仕打ちが切々と語られました。吉成財幸さんは、帰国者センター退出後の居住地を一方的に決められたことに異議を言ったところ、プレハブ小屋に入れられそうになったことを話ました。藤本淑子さんは、1990年代に厚生省宛に肉親を探して欲しいと手紙を何通も出したが、何の返事ももらえなかったことや、生活保護を受けていることから養母の病気見舞いに中国に行く際に役所から入院証明書を要求された屈辱的な経験を話しました。田中文治さんは、5歳の時目の前で実父が撲殺されたが、それは戦前の日本の侵略政策の「替罪羊(スケープゴート)」と語りました。また、長男、長女家族の帰国旅費が出なかったため家族が分断されたが、自ら仕事を見つけ身元保証人になって呼び寄せたことを話しました。じっと聞いていた裁判官も、時折大きくうなずいていました。被告(国側)の弁護人も原告に質問しましたが、ほとんど枝葉末節に終始しました。
次回は3月23日(水)に開催! 次回は3月23日(水)pm1、00から東京地裁103号で。

 原告団1894人、帰国者の7割以上に!

 10月4日、東京地裁に162人、12月8日に福岡地裁の中国残留日本人孤児32人が新たに提訴を行いました。これで原告団総数は1,894人になり、孤児総数の7割に達しました。内訳は、札幌85・東京1076・長野67・名古屋172・京都106・大阪140・神戸63・岡山22・広島59・高知45・徳島21・福岡32・鹿児島21です。

原告団「新年会」にご参加を!
 原告団の「中国帰国者東京連絡会」(池田澄江会長)は、1月23日に「新年交流会」を開き、運動の盛りあげと裁判勝利の決意を固めます。支援いただいている皆さんのご参加を呼びかけます。
 ◇日時 1月23日(日)pm1、00ー5、00 ◇場所 東京土建練馬支部会館(西武池袋線・都営地下鉄大江戸線・練馬駅下車)※詳細と参加申込は、市民連絡会事務局まで。

 「日中友好楼」支援を呼びかけ〜日中友好協会
 12月5日に放映されたNHKスペシャルは、中国長春市にある「日中友好楼」で、残留孤児を育てた養父母の窮状を伝えました。日本の篤志家によって建てられた「日中友好楼」も老朽化し、養父母も6人しか残っていません。日本に呼び寄せるはずの養父母を、生活保護を受ける環境のため実現しなかった窮状が紹介され、その養父母が電気代にも事欠く苦しい生活を送っています。日中友好協会は、支援募金を呼びかけています。募金は、吉林省人民対外友好協会を通じて渡されます。問い合わせは、日中友好協会へ。03-3234-4700 FAX03-3234-4703

リーフレットを作成
署名推進のために「リーフレット」作成中です。リーフレットは、カラー刷り・「孤児」問題発生の「三回の棄民政策」をはじめ写真も豊富に使用して分かりやすいものにしています。無料です。ご希望があれば、早めに申し込んでください。
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/1.jpg
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/2.jpg
 (お願い)「孤児問題学習会」を各地で開いて下さい。弁護団、市民連絡会から講師を派遣します。原告も同行します。経費を無料です。

100万署名推進ニュース(NO.4)

21.pdf(129,829 byte)

中国「残留孤児」国家賠償訴訟勝利
100万署名推進ニュース(関東版)
NO4 2004年10月


10月4日、訴訟勝利・国の政策転換求め
1000人(東京)以上、終日行動を展開

10月4日、中国「残留孤児」原告団・弁護団・市民連絡会は、裁判勝利と日本政府の「孤児政策」の転換を求めて、全国各地で終日「抗議・要請」行動を展開。東京(関東地区)の行動には、激しい雨の中1000人を超す人々が参加し、熱気溢れるものとなりました。

☆帰国孤児の75%(1862人)が「原告」に参加!
午前11時、東京地裁に関東地区第4次追加提訴(126人)が行なわれ、同地裁の原告は1076人に達しました。これによって全国の原告数は1862人となり帰国孤児の75%が提訴しました。 

☆雨中、900人がデモ行進!
正午から、厚生労働省前で集会を開催。午後3時から都内をデモ行進し「国は謝罪しろ」「独自
の老後保障制度をつくれ」「裁判に勝利するぞ」などをシュプレヒコール、都民の支持を訴えました。この行進には、原告と家族・弁護団・支援組織から900人が参加しました。

☆厚生労働委員に要請!
その後、原告・弁護団・支援組織は、衆参両院70人の厚生労働委員に「支援協力」を要請しました。各委員・秘書らが応対し「頑張ってください」「国会でも努力します」と答える委員も沢山いました。

☆小泉首相に、第一次署名48万筆を提出!
これに先立ち、内閣府で「48万人」(第1次分)の署名が提出されました。署名は5000人分を束にして96束、段ボール箱14ケースにのぼる膨大なものでした。この行動には、原告団(池田澄江・宇都宮孝良・清水宏夫の各氏)、弁護団(小野寺利孝・清水洋・鳥海準弁護士)、佃俊彦市民連絡会事務局長、渕上隆同次長、日本中国友好協会、日中友好雄鷹会、虹の会などの代表15人が参加しました。応対した平井信義氏(内閣官房内閣総務官室)は、代表の要請や発言を真剣に聞き「署名は、必ず総理に渡します」と回答し、署名受領のサインをしました。
小野寺弁護団副団長は「国民世論の大きさに謙虚に耳を傾け、要求実現に全力をあげるよう総理に伝えて下さい。100万達成の際には、総理にお会いしたい」と要望しました。


勝利へ意気高く、中央集会

午後6時30分から日比谷公会堂で開かれた「中央集会」には、原告団関係者800人、支援組織・弁護団・一般市民200人、計1000人が参加。「闘いの勝利へ」熱気に溢れた、意気高い集いとなりました。
◇懐かしい「中国」の歌と演奏に、心和む◇
この日、友情出演した東京中国歌舞団が懐かしい中国の歌と演奏を披露、原告の人々は心和むひと時を過しました。
◇裁判勝利へ、確信もって前進しよう◇
安原幸彦弁護団幹事長が「裁判の現状と展望」を報告。「国民の支持は確実に広がっている。確信を持ってさらに前進しよう」と述べると会場を揺るがす拍手が巻き起こりました。続いて、民主党(中津川博郷議員)、日本共産党(緒方靖夫議員)、社会民主党(福島みずほ議員)が激励と連帯の挨拶を行ないました。
◇「団結し必ず勝利を」の決意固める◇
原告を代表して池田澄江さんが「今日は、全国各地でも一斉に統一行動が行なわれています。なかでも東京と大阪の訴訟は、来春結審、判決めざし大きく盛り上がっています。団結して頑張り必ず勝利を勝ち取りましょう」と決意を表明。大きな拍手で締めくくりました。
集会はフィナーレを迎え、日本語と中国語で、“ふるさと”を合唱、熱気のなか閉会しました。

※この日は東京の他、札幌・名古屋・京都・大阪・神戸・岡山・広島・高知などで集会・デモ・街頭署名・団体訪問・自治体首長要請行動などが展開されました。


100万署名達成へさらに大きなご支援を!! 

支援組織で作っている市民連絡会の佃俊彦事務局長(弁護士)は「原告の皆さんの頑張りと、支援団体や個人の熱心なご努力、署名要請に応えていただいた団体の方々のご協力でほぼ半数の署名を集めることが出来ました。有難うございました」と心からの感謝を表明しました。
☆年末を次の山場にして、100万署名達成に引き続くご協力を!
さらに「これからの50万余がもっと大変だと思います。50万達成にご協力いただいた団体・個人の方々が、是非知り合いの組織や知人にも声を掛けていただき、引き続くご協力を心からお願い致します」と訴えています。100万人署名は、来春に掛けて達成するまで続けられます。

◇署名簿の必要な際はお知らせください。
◇原告を呼んで体験を聞く会を開いてください。原告・講師をご紹介します。
◇訴訟資料の必要な際はご要望ください。

100万署名推進ニュース(NO.3)

中国「残留孤児」国家賠償訴訟勝利
100万署名推進ニュース(関東版)
NO3 2004年9月


訴訟勝利・国の政策転換求め
10月4日に全国統一行動

 中国「残留孤児」原告団・弁護団・市民連絡会は、裁判勝利と日本政府の「孤児政策」転換を求めて、10月4日(月)に「全国一斉行動」を設定、終日多面的な諸行動を展開します。

 ☆裁判勝利へ第一の山場
 この日の「全国統一行動」を決めたのは、東京地裁(関東地区)の裁判が、9月22日の法廷で国の責任立証を終了し、10月27日からの法廷で原告の損害立証が開始されることから、この時期の運動の第一の山場として世論に大きくアピールするためです。これを関東だけの行動に留めず、訴訟を起こしている全国全ての地域を含む行動として位置付けています。

 ☆政府への要請行動を軸に多面的な行動を設定
 この日は、東京地裁に関東の原告120人が第4次追加提訴(関東の原告数は約1000人に)を行うのを皮切りに、厚生労働省交渉、国会要請デモ、内閣総理大臣面会要求、各政党と70人にのぼる厚労委員への要請、報告決起集会などを終日にわたって展開します。

 ☆100万人署名・第一次分を提出!
 さらにこの日の大きな行動の一つとして、「100万人署名」第一次分を日本政府に提出します。
署名は8月現在、約38万筆寄せられています。市民連絡会は、全国各地の署名を含め、50万筆を提出したいと9月を「署名推進強化の月」として総力をあげることにしています。

 ◇お願いした「署名簿」を埋め尽くして50万達成にご協力下さい。
 ◇提出準備作業上、署名簿は出来る限り9月25日必着でご送付ください。



10月4日の「報告勝利集会」に支援組織あげてのご参加を!!
 
 全国統一行動を締めくくる「報告勝利集会」が10月4日(月)夜開催されます。会場の日比谷公会堂は1500人収容です。原告団、支援団体、弁護団など関係者は総力をあげて参加者を確保し、裁判所と国の政策転換を求める闘いの活路を大きく開きましょう。

 東京中国歌舞団が友情出演!
「報告決起集会」には「東京中国歌舞団」が友情出演し、原告を激励し集会を盛り上げてくれます。東京中国歌舞団は、20年のキャリアを持つプロの歌舞団。中国音楽界の第一線で活躍していた演奏家・歌手・舞踏家などで構成。日本各地で公演する傍ら「中国養父母に感謝する」運動を提唱。下町人間の会などと協力して、「養父母を訪ねる中国ツアーを度々行っています。
 劉錦程団長は「残留孤児の方々のご苦労は良く理解しています。長い間中国で暮らし、日本人ですが中国への郷愁もあると思います。当日は懐かしい中国の唄や最近の中国のヒット曲などを紹介し原告の方々を励ましたいと思います。最後にみんなで“ふるさと”を合唱するのもいいです」と出演料を度外視して協力を約束してくれました。歌手の陽二連(ヤンアーレン)さんは、アニメーション・「ライアンツリーの唄」で見事な歌唱力を見せてくれました。

  中国残留孤児訴訟「報告決起集会」

   ◇ 日 時 10月4日(月)
     PM6,00会場 PM6,30開会

   ◇ 場 所 日比谷公会堂
    ○ 参加費 1000円(原告無料)
    ○ 原告の訴え・激励連帯挨拶
      裁判の現状と展望

     友情出演 東京中国歌舞団

   主催 中国残留孤児訴訟
      原告団 弁護団 市民連絡会

 署名ホットニュース
 ☆原告団街頭署名で奮闘!
 東京・神奈川・埼玉・千葉の原告は、日本中国友好協会、日中友好雄鷹会などの支援を得て、毎週街頭駅頭で署名を展開、これまでに総計10万筆を集めました。9月も「署名の稼ぎ時」と意気込んでいます。
 ☆日本母親大会で4000筆
 8月22日有明コロシアムで開かれた第50回日本母親大会で署名行動、原告と支援団体・弁護団など72人が参加、約一時間で4000余の署名を集めました。参加者12000人の3分の1の協力を得ました。
 ☆虹の会が13000余
 支援組織の日中友好虹の会(香山磐根代表)は、大連会など中国引き揚げの会や、税理士関係、ライオンズクラブなど幅広い分野の協力を得て、13000余の署名を集約、さらに広げています。
 ☆500団体に要請訪問
 日本中国友好協会本部と東京都連と日中友好雄鷹会は千代田・新宿・練馬・杉並・板橋・江戸川・足立・北・墨田・葛飾区などの500の民主団体・労働組合を訪問。署名協力を要請しました。各団体から連日のように署名簿が返送されています。

 ※お願い 「署名ニュース3号」をプリントして多くの方にお渡しください。

100万署名推進ニュース(NO.2)

20.pdf(288,132 byte)

中国「残留孤児」国家賠償訴訟勝利
100万署名推進ニュース(関東版)
NO 2 2004年6月


中国「残留孤児」国家賠償訴訟100万人署名
33万人超す、さらに拍車をかけて!

中国「残留孤児」訴訟勝利への国民世論を高め、日本政府の孤児政策転換を求めて展開されている「100万人署名」は、5月末で33万3139筆(内関東地区30万4287筆)に達しました。そのうち「市民連絡会」に寄せられたものが19万6036筆、原告が集めたものが10万8251筆(東京4万5973・神奈川3万1054・さいたま1万5318・千葉1万5906)、全国各地の訴訟関係で集めたもの2万8852筆(札幌1万6200・京都7600・岡山5052)となり第一段階の山である30万筆をクリアしました。「市民連絡会」は、さらに拍車をかけた取り組みを強化し、裁判が大きな山場を迎える10月までに60万に到達させ、年内の100万人突破をめざしています。 

 駅頭・街頭で頑張る原告団!
関東地域(東京・神奈川・千葉・さいたま等)の原告団は、“02年12月の提訴以来平均月2回のペースで主要駅頭や街頭、繁華街で署名活動を続けています。その総計は上記のように10万人を超えました。この行動には、支援組織の日本中国友好協会・日中友好雄鷹会、国民学校1年生の会等からも、毎回多数駆けつけています。メデーでは、東京・千葉・山梨などの会場で200人を超す原告と支援者が署名を展開し1万2500人を集めました。街頭署名は、平均2時間で1000人近い署名が集り、関心の高さが示されています。原告団と支援組織は、今後も粘り強くこの活動を続けます。

◇市民連絡会250超す団体に要請訪問
市民連絡会に参加している、日中友好協会・日中友好雄鷹会・国民学校1年生の会などの支援組織は、原告、弁護団とともに中央・都段階の労働組合、民主団体や千代田区・豊島区・足立区・江東区・杉並区・板橋区・小金井市などの区市段階の労組・民主団体を要請訪問を続けてます。その数は5月末段階で250以上にのぼりました。これに応えて全農林労働組合の4万人をはじめ多くの団体が協力、また大連会など「旧満州」引き揚げ者の会や税理士会、ライオンズクラブなど多方面の協力が広がっています。また日中友好協会など全国に組織を持つ団体の取り組みも次第にテンポをあげ、これらの総計が約20万人に達しています。6月からは、日中友好協会都連が新宿・足立・北・江戸川・中野などの都内各市区を、日中友好雄鷹会が足立・葛飾・江東の各区の諸団体を訪問し、さらに協力の輪を広げます。街頭署名とともに、団体の協力による署名の推進こそ「100万人署名」達成のカギを握っています。
◇「平和・人権・環境フォーラム」なども訪問
また佃俊彦弁護士(市民連絡会事務局長)や永村誠朗氏(元東京地評)らは、「平和・人権・環境フォーラム」本部や傘下の自治労・日教組・水道労組などを訪問し「協力しましょう」との快諾を得ています。連絡会事務所には、各地の自治労などの署名が次々と届き始めています。
◇訴訟参加の原告1700人を超える◇
関東を皮切りに始まった「訴訟」は、次々と各地に広がりその数は1707人(5月末現在)にのぼりました。原告は、関東950、北海道85、長野67、愛知173、京都90、大阪140、兵庫57、岡山16、広島59、徳島4、高知45、鹿児島21の11ケ所に広がり総数は1707人です。今後東北、福岡、香川、沖縄などでも準備されています。「残留孤児」は、約2400人といわれており、訴訟に参加した原告は70%以上になりました。

◆署名をお願いした団体の皆さんへ!◆
◎100万人達成へ、用紙を増刷いただき、引き続き署名にご協力ください。また、募金にもご協力をお願いします。
◎署名、第2次集約は9月末にしています。ご送付は、市民連絡会事務局へ。(第1次集約署名は参議院選挙後に提出の予定です)

裁判の現状と展望
裁判、大きな山場を迎える!!
3月10日と4月28日には、@孤児の帰国を遅らせたこととA帰国後自立支援を怠ったという、国の責任に関する原告側立証として菅原幸助氏と庵谷磐氏の証人尋問を行ないました。お二人とも元孤児全協の理事長を務めた方です。
菅原氏は、戦前憲兵として関東軍関係者を先に引き揚げさせたという自らの経験も踏まえて、戦時死亡宣告制度を立法して帰国を遅らせたこと、帰国後も日本語だけでなく、仕事や住居などあらゆる面で支援策がなかったことを迫力をもって証言しました。庵谷氏はインドシナ難民との比較で残留孤児に対する政策がおざなりであったことを証言しました。
7月7日と9月22日は国側の反証として元孤児対策室長ら2人の尋問になります。裁判は責任立証の大きなヤマ場になります。(佃)  

(お知らせとお願い)
「ニュース2号」を発行しました。お手数ながら、増刷して多くの方にお渡しください。ご意見やご質問は「市民連絡会」事務局まで。(お)

『わたしたちなにじんですか』(脚本)

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『わたしたちなにじんですか−国に翻弄される人生』

★登場人物★
 孫 ・・・・・・ 本多陽子さん
 祖母(祖)・・・ 山川敬子さん
原告・・・・・(桂)桂康恵さん   中国語
        (斉)斉藤弘子さん 日本語
        (田)田中文治さん 中国語
        (照)吉田照也さん 日本語
        (幸)吉成財幸さん 中国語


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
開幕ベル
【照明A】

「陽子ちゃん,大学入学,おめでとう。
 これ,おばあちゃんからのお祝い。」


「おばあちゃん,ありがとう。
 4月から,やっと,
 念願の1人暮らしを始めるわ。」


「そう。よかったわね。
 でもね,おばあちゃんも,お母さんも,
 心配してるから,
 学校がお休みの時ぐらい,帰ってきてね。」


「うん,わかってるって。
 おばあちゃんは,ホント心配性なんだから。」


「そうかもしれないわね。
 おばあちゃんはね,家族が本当に大事なの。
 小さい時,
 お父さんともお母さんとも
 生き別れていたからね。
 家族が別れて暮らすのは,
 なんだか心配なのよ。」


「そうだったね。
 おばあちゃんの気持ちも考えないで,
 心配性だなんて言ってごめんなさい。
 ねえ,今日は久しぶりに
 おばあちゃんのお話を聞かせてよ。」 


「そうね,
 今からもう60年前のことなのよ。
 1945年,日本が戦争に負けた時,
 おばあちゃんは,満州にいたのよ。」


「マンジュウ?何それ?」


「陽子ちゃん,学校で習ったでしょ?
 満州よ。
 満州っていうのはね,
 もう地図には載っていない国なのよ。
 昔,日本が,今の中国に作った国なの。
 そのころ,日本政府は,満州には広い土地があって,
 好きなだけ畑を作ることができて,
 みんなが幸せに暮らせるって宣伝をしていたの。
 それで,おばあちゃん達の家族が住んでいた村では,
 みんなで家族を連れて,
 満州に行こうってことになったの。」


「そういう人達のこと『満州開拓団』
 っていうんでしょ。
 日本から27万人以上の人が行ったって,
 中学校の歴史の時間に習ったわ。
 満州での生活はどうだったの?」


「満州では,
 土地は広いけれどかちかちな土地だったの。
 日本とは全く違う気候だったの。
 そんなところで,畑を作るのは大変だったわ。
 苦労もしたわ。
 でもね,
 家族みんなが一緒に暮らしていた頃は,
 苦労はしても,まだ幸せだったわ。
 でもね,
 中国の農民の人たちは,
 日本人から無理矢理に土地を取り上げられて,
 日本人のことを,とっても怒っていたわ。
 1945年8月15日,日本が戦争に負けると,
 ソ連軍が日本人を襲ってきたの。
 また,地方の暴徒も,鍬や鎌をもって
 『打倒小鬼子』
 といいながら,
 日本人を襲ったの。」


「誰も,おばあちゃん達を守ってくれなかったの?」


「おばあちゃん達は,
 いざという時は日本の軍隊が守ってくれる 
 って聞いていたけれど,
 軍隊は,真っ先に逃げてしまったの。
 だから,開拓団の家族も,
 必死になって逃げたのよ。
 そんななかで,おばあちゃんも,
 家族と生き別れてしまったの。
 8歳の時のことだったわ。
 こんなふうに両親とはぐれた子供が, 
 少なくとも3万人以上はいたといわれているの。
 この子ども達は,中国『残留孤児』
 と言われているの。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・
(効果音 吹雪の音)
【照明B】

「そう」


「そう,私達は捨てられた日本国民です。
 人は私たちのことを,
 残留日本人孤児という。」
 
(一拍おいて)


「私が孤児になったのは,8歳の時。
 父が兵隊にとられ,
 母はその10日後に病気で死んだ。
 だから,
 私には両親はなく,弟と妹を連れて,
 村の人と一緒に,ソ連軍から逃げた。
 途中,中国の匪賊に襲われた。
 銃弾がとぶ中を,妹を背負って,
 必死になって逃げた。
 逃げきれたと思ってほっとした時,
 一緒に逃げていた人から
 『照也,あんたの妹,血が流れているよ。
  もう死んでるよ。』
 と言われてはじめて,
 妹が後ろから銃で撃たれて死んでいたのを知った。
 妹の遺体は,その場に埋めた。」


「それは,
 ソ連軍が開拓団を包囲した時のことでした。
 父は私を背負って,
 九死に一生の思いで逃げました。
 どれぐらい逃げてきたのかもわからず,
 ようやく古城鎮の駅にたどりつきました。
 汽車に乗れば,日本に帰れると思いました。
 しかし,
 汽車に乗ろうとした時,
 『ここに日本人がいる!』
 と誰かが叫びました。
 すると,
 周りから20−30人の中国人がやってきました。
 鎌や鍬,棒を手にした農民達が,
 『日本人を殺せ!』
 と叫んでいました。
 父はその場で縛られ,殴られ,
 とうとう動かなくなりました。
 当時,5歳の私には『死ぬ』
 ということがわかりませんでした。
 大好きだった父が動かなくなり,
 父のもとから離されることが,
 ただ悲しかったです。」
 

「中国での旧正月の頃,
 中国の軍隊が来て,
 私が住んでいた村の日本人の男性,みんな, 
 外に連れ出して,
 バババッと撃ち殺しました。
 バババッと人が倒れ,
 近くの湖の氷を割って,
 死体を落としていました。
 この事件は中国の地名をとって,
 いわゆる通化事件と言います。
 生き残った村の人は,赤い煉瓦の家に集まって,
 オレンジ色の甘い匂いのする飲み物
 が入った湯飲みを
 回して飲んで,倒れました。
 その飲み物は,とってもおいしそうな匂いがしたの。
 だから,
 子供だった私は,はやく飲みたかった。
 でも,
 通りがかった中国の人が,腕をつかんで, 
 その家から連れ出したの。
 後からわかったけれど,
 その飲み物は青酸カリでした。」


「私は5歳。
 私達家族は,他の大勢の日本人と一緒に逃げ,
 牡丹江近くの山の上まで避難しました。
 その夜は,家族みんなで寝ました。
 それなのに,翌朝,目覚めると,
 父も母もいませんでした。
 私は,その場に,たった1人残されたのです。
 私は,必死で,山の上や下を両親を呼んで,
 探しました。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【照明A】

「おばあちゃんは,
 それからたった1人で中国で生きてきたの?」


「中国人に拾われて,その家で,育てられたのよ。
 中国のお父さんお母さんのことを
 『養父母』ってよぶの。
 でもね,
 残留孤児の中には,
 何人もの中国人の家を転々とした人もいたのよ。
 売られたり,食料と交換されたりしたのよ。
 ただね,
 日本政府が中国の人達の土地を取り上げたり,
 戦争中,日本兵が中国の人達に対して
 ひどい行為をしていたから,
 残留孤児は日本人だとわかると,
 『小日本鬼子』,
 つまり小さい日本の鬼の子とよばれて,
 いじめられたの。
 また,文化大革命の時には,
 日本人だというだけで,
 日本のスパイだと言われて,
 迫害されてたの。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【照明B】

「養父母の家は貧しい家でした。
 私は,その家の子供というより,
 単なる労働力でした。
 養父母の子供は靴を履いていましたが,
 私には靴は与えられず,
 いつも裸足でした。
 そして,
 裸足のまま,家畜の世話をさせられていました。
 家に帰ると,
 いつも家族は既に夕食を食べていました。
 食べ残しが私の夕食でした。
 食べ残しがない時,私は何も食べずに,
 お腹をすかせたまま寝るしかありませんでした。」


「私は,2歳の時,
 難民所で病気にかかって
 治療を受けることができなくて,
 小児麻痺にかかってしまいました。
 いくつかの家族に引き取られました。
 私をゴミ箱に捨てたいといった家族もありました。
 最後の家族の養母は妓楼出身の人で, 
 養母は当時若かったので,
 4,5歳だった私を1人家に残して,
 よく遊びに出かけていました。
 養母は私の病気をとてもいやがっていました。
 あのころ,私は,まだ歩くことができませんでした。
 お腹をよく壊していたし,
 家をあちこち汚していました。
 養母はそんな私をいやがり,
 お腹いっぱい食べさせてくれませんでした。
 時々,夜,私を外の鶏の籠の中に入れました。
 私を殴り,
 声を出して泣くことも許してもらえませんでした。
 ある時,
 とうとう私は,首に値札を付けられて,
 市場に売られそうになりました。
 そのときはとても怖かったです。
 そばにいた隣の人が,
 『早く土下座をして,お母さんにお願いしなさい。
  大きくなったらなんでもするから,
  私を売らないでといいなさい。』
 と言いました。
 私は,売られたくなかったから,
 養母の前に土下座をして,
 養母の脚にすがり,
 泣きながら必死になって頼みました。
 『おかあさん,私を売らないでください。
  もうウンコをしないから・・・』。
 その言葉が養母の心を動かしたようで,
 彼女も目頭を熱くして,私を家に連れ帰り
 『仕方ないね。
  私はもともとおまえの面倒をみなければならない
  運命なんだろうね。』
 と言いました。」


「中国の文化大革命の時は,
 私は日本人だということは知られていたので,
 いつ捕まるかとびくびくしていました。
 自宅に鉄砲の弾の入った封筒がきて,
 殺されると怯えたこともありました。
 自分の名前が,斉藤弘子だということは
 覚えていました。
 けれど,
 日本の名前は捨てないと中国では生きていけない
 と思っていました。
 中国では,日本人だったから,
 小学校の先生として人の倍は働きました。」


「近所の子供には,『日本鬼子』
 とよばれ,いじめられた。
 でも,
 私の養父は優しかった。
 中国人だったけれど,子供の私には罪はないと,
 日本人の私をかばってくれた。
 優しく大事に育ててくれた。
 養父がきちんと教育をうけさせてくれたので, 
 私は,体育学校の校長先生になることができました。
 中国では幸せに暮らしていました。
 1985年,
 残留孤児の小説を書くために中国に取材に来た
 山崎豊子さんに会いました。
 『あなたは日本人だから,
  日本に帰りたいと思いませんか』
 と聞かれました。
 そして,
 私は,生まれて初めて,声に出して,
 『日本に帰りたい』
 と言いました。」


「養父母にも友達にも,
 『小日本鬼子』といっていじめられました。
 私が安心して眠ることができたのは,
 収穫したトウモロコシを保存する倉庫や
 薪置き場か墓地でした。
 誰も助けてくれない日々の中,
 『日本に帰ることさえできれば,
  いじめられない生活がまっている。』と,
 あの時はいつも思っていました。
 それだけが,私の心の支えでした。」

【歌】  北国の春
    白樺 青空 南風
    こぶし咲くあの丘 北国の
    ああ北国の春
    季節が都会ではわからないだろうと 
    届いたおふくろの 小さな包み
    あのふるさとへ かえろかな かえろうかな


「私達,ふるさとに帰りたかった!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

【照明A】

「おばあちゃん,
 本当に日本に帰ってこれてよかったね。」


「そうだね。
 日本にずーっと帰りたかったからね。」 


「中国残留孤児の人達は,
 いつ頃から,日本に帰ってきたの?」


「政府が訪日調査を始めたのは,1981年,
 日本と中国が国交を回復してから9年後だったの。
 つまり,
 戦争が終わってから,
 36年も経ってからだったの。
 終戦時8歳の子供だった私も,
 帰ってきた時はもう50歳になっていたの。
 日本に帰ってきた時は,本当に嬉しかったわ。」
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【照明B】

「日本に帰ることには不安もあったけれど,
 中国人の夫が
 『帰りたいなら,一緒に帰ろう』
 と言ってくれたんです。
 だから,一緒に帰ってこられました。
 帰国した時,ふるさとに戻ってきたと,
 とてもうれしかった。
 初めて,お姉さんに会いました。
 会う前に,はじめて,
 『おねえさん』と『おにいさん』
 という日本語を覚えたんです。」


「北海道から兄さんらしい人が来てくれました。
 でも,
 そのお嫁さんの反対で
 一緒に住めませんでした。
 悲しかったけれど,
 私は,日本語ができないから,
 一緒に生活したら
 お兄さんに迷惑をかけるかもしれない
 と思いました。
 だから, 
 仕方がないと思いました。」
 

「訪日調査で日本を訪れて,
 祖国の美しさ,繁栄と発展を見て,
 誇りに思いました。
 中国では,家もあり,
 それなりの地位も名誉も手に入れていましたが,
 私は日本人だから,自分の祖国に帰って暮らしたい
 と思って,帰国しました。」


「中国の家族は日本に帰国することに反対しました。
 でも,日本の説明会で
 慣れるまでの生活は日本政府が面倒をみてくれる
 と言ったので, 
 家族を説得して,帰ってきたのです。」   

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【照明A】

「そういえば,NHKで『大地の子』がやってたよね。
 あれは,おばあちゃんたちの話だったんだね。
 幸せなラストで,私,泣いちゃったわ。」


「でもね,
 中国残留孤児は,今,そんなに幸せではないんだよ。
 残留孤児は, 
 50歳ぐらいになって日本に帰って来た人が多くて,
 日本語が十分に話せない人が多いの。
 それでも,
 みんな一生懸命だったのよ。
 だけど,
 言葉の壁があって,きつい仕事で,
 給料の安い仕事しかなかったの。
 そして,
 60歳になると,
 日本で働いた期間が短いからといって,
 少ない年金しかもらえないの。
 いくら,中国では,一生懸命働いたと言っても,
 だめなのよ。
 だから,
 今,残留孤児は約2400人いるけれど,
 その70%が生活保護をうけて,生活するしかなくて,
 とっても,苦労しているのよ。」

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【照明B】

「日本に帰国した時,私は44歳。
 日本語がわからなくて不安だった。
 言葉がわからなかったから,
 病気で仕事を休みたい
 という電話をすることもできなかった。
 そしたら,
 無断欠勤扱いにされてしまった。
 職場では,道具の名前がわからないから
 役立たずのように扱われる。
 吉田という名前を呼んでくれない。
 『おいおい中国』という。
 悔しい。」


「帰国後,まもなく,
 中国に残した子ども達を日本に呼び寄せました。
 しかし,
 言葉が通じなくて働けないから,お金もなくて,
 団地の小さな一室に
 家族9人,3世代で住んでいました。
 孫は,押入で寝ていました。
 窮屈だし,
 ずっとこのまま生活していくのかと不安でした。
 働かなければ生活できないと思って,
 酒屋でお酒を運ぶ仕事を始めました。
 今,定年になって退職しました。
 年金は5万9千円。
 これでは生活ができません。
 老後の生活の保障がなくて,
 日本の国は,
 私達を日本人だと思っていないのではないか
 と思います。」


「日本に来て2年目のある日, 
 市役所の人がやってきました。
 1時間ぐらいバスに乗り,
 採石場に連れていかれました。
 作業服を渡されて,
 『明日からここで働きなさい』
 と言われました。
 しかし,
 私は断りました。
 働けば自立できると思いましたが,
 どんな仕事がしたいのか
 聞いてもらえなかったからです。
 まるで,私を『やっかいもののお荷物』
 と見ているようでした。
 その後,いくつか仕事を転々をしましたが,
 いずれも体力を使う仕事でした。
 日本語がわからなくて,
 よく現場の人と喧嘩をしていました。
 日本に来てからたくさん喧嘩をしました。
 私は喧嘩は嫌い,戦争は嫌いです。
 もし,50年前のあの戦争がなければ,
 私たちは親と離ればなれになることはなく,
 今の苦しさもなかったのです。」


「近所の人たちは,私には,とても優しかったです。
 時々,『あなたは,何人ですか』と聞かれます。
 私は,本当はもっと近所の人たちと
 いろんな話がしたいのです。
 戦争の時,中国に捨てられたこと,
 中国での暮らしについて話してみたいのです。 
 近所の人ともっと友達になりたいのです。
 でも,
 うまく話ができません。
 病院に行く時も,
 自分の症状をうまく伝えられません。
 本当につらいです。
 口があっても言うことができません。
 目があっても,読むことができません。
 耳があっても聞くことができません。
 私はまるっきりの障害者です。
 今の障害者年金は月6万5千円。
 私のような体では仕事もできないし,
 老後の生活についてとても不安です。」


「私の年金は月額2万4千円。
 夫は,1万5千円。
 2人合わせて3万9千円。
 これでは,生活ができません。
 だから,
 すごく不安です。
 私達日本人なのに,
 どうして
 他の日本人と同じような生活ができないんですか。
 それは,私達のせいですか。」


「私達,中国では,日本人と言われ,
 いじめられた。苦労もした。」


「でも, 
 ふるさとに帰ってきても,
 日本人にはなれない。
 日本政府は,冷たい。」


「私たち,なにじんですか。」


「私たち,なにじんですか。」 

(一拍)

田 
「そして,私達は,
 あと数年の老後を穏やかに暮らせるように,
 日本に帰ってよかったと思えるように,
 老後の生活保障を求める署名を集め始めました。
 でも,日本語がうまくできないから, 
 署名してもらうのは大変。」 

桂 
「日本では私たち残留孤児のことを
 何も知らない人がまだたくさんいます。
 『残留孤児ってなんですか』
 と言われてがっかりすることもあります。
 ある時,
 私が街頭で署名運動に参加した時のことですが,
 戦争を体験しているはずの70歳ぐらいの方に
 署名をお願いしたところ, 
 その方はしばらく署名用紙をみて
 『お金がほしいのですか』
 と言い,
 そのあと何もいわずにいってしまい,
 署名もしてくれませんでした。
 私はとても理解できませんでした。
 もっと多くの人達に,
 私たち残留孤児のことを知って欲しいです。
 私たちは戦争の時,親と離ればなれになり,
 やっとの思いで生き残り,中国で育ちました。
 みなさんは,そんなことを想像できますか。」


「そして,私達は,裁判を始めました。」


「裁判の場で,
 多くの人に私達の苦難を話せてよかった。
 話せて気分が楽になった。
 裁判に勝利するまで頑張りたい。」


「国を訴えることは自分の両親を訴えるようで,
 とてもつらい。
 でも,
 私達残留孤児は,老後の生活を穏やかに送りたい。
 そのために,やむをえない
 という思いで裁判を続けています。」


「私たち,
 ふるさとに帰ってきてよかったと思いたい。」

                            
【歌】    ふるさと
     兎追いし   かの山
     小鮒釣りし  かの川
     夢は今も   めぐりて
     忘れがたき  ふるさと

【照明アウト】

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