日記

伊勢神宮参拝に異議あり

「日本の国、まさに天皇を中心とする神の国であるぞということを、国民の皆さんにしっかり承知していただく」と公言した森前首相を、マスコミは袋だたきにした。首相の靖国神社参拝にも、マスコミはそれなりの反応を示している。
ところが、そのマスコミが首相の伊勢神宮正月参拝に鈍感なことには合点がいかない。

政教分離という憲法理念は、形式上は「国家と宗教一般」との癒着を禁ずるものである。しかし、そのココロは、国家権力と神道との接近を戒めるところにある。言うまでもなく、「天皇の神格化」を警戒する条項なのだ。

かつて、神道は天皇の神格化の道具となった。天皇を神聖化し、崇拝の対象とすることは、為政者にとってこれ以上ない国民操作の魔法の杖であった。国民を主権者ではなく、臣民にとどめおくための不可欠の装置。それが天皇制と神道との結合によって誕生した国家神道である。

従って、日本国憲法では廃棄されなかった天皇制を、純粋に象徴天皇として、人畜無害の存在とするためには、国家神道の復活に過敏でなくてはならない。いささかも天皇を神格化する企てを許してはならない。国家と神社との癒着を厳格に断ちきらなければならない。

伊勢神宮こそは、国家神道の大本締めである。かつて、社格をつけられた11万神社の本宗である。1869(明治2)年8月、靖国神社の前身である東京招魂社が、新政府から社領1万石を下賜されたとき、これに匹敵する処遇を受けていたのは伊勢神宮のみであった(村上重良「慰霊と招魂」56ページ)。

靖国神社にはA級戦犯が祀られており、それゆえに首相らの参拝には近隣諸国からの批判の声が高い。しかし、憲法上の政教分離の理念からは、伊勢神宮参拝も重大な違憲行為であることに疑問の余地がない。A級戦犯分祀完了後の靖国神社参拝と同じレベルの憲法問題である。

小泉首相は本日、三重県伊勢市を訪れ、伊勢神宮を参拝する。7閣僚が同行する。さらに、民主党の前原誠司代表までも、違憲行為を競い合うという。

伊勢神宮参拝への許容度は、憲法の理解度に反比例している。与党も野党も、かつて天皇制から弾圧された宗教政党も、何という鈍感さであろうか。

継続は力。されど継続は難し‥。

年賀状やメールで、何人かに言われる。
「憲法日記を楽しみにしています」「憲法日記はどうなっていますか?」「最近、サイトを開いても何も書いてないじゃないですか」「どうしたんですか。日記は?」

やんわり型から、詰問調まで‥。ウーン。どう弁解しょうか。弁解やめとこか。

事務局長日記は、われながらよく書き続けたものだと思う。盆も正月も、日曜も祝日もなし。もちろん、夏休みも冬休みもなく書き続けた。日民協事務局長としての義務感あったればこそ。いま、その任務から解放されて、あれだけのものを、もう一度という気力はない。

「小人閑居して不善をなす」という格言を噛みしめている。不善をなすほどの元気もないが、任務の重圧なければ、易きに流れることになる。

今年は、「憲法」にとらわれずに、気楽に何でも書きつづっていくスタンスとしよう。打率は、イチロー並を目ざさず、清原程度で良しとしよう。

年賀状に見る、護憲の息吹。

たくさんの賀状をいただいた。年賀郵便、年賀メールも‥。ありがとうございます。

私の方はといえば、年賀状・暑中見舞いの類を出していない。だから、毎年いただく賀状は少なくなる。当然のこと。

私が最後に賀状を出したのは、最後に健康診断を受けたころだろうか。前の天皇が死んだころ‥。あれからずいぶんと久しい。

私が年賀状を出していたころには、昨年の反省や今年の抱負を書いた。自分の現状を報告し、新年の決意を述べた。個人的な努力で事態が切り開ける。そんな楽観があったように思う。いただく賀状も同様だった。

今年いただく賀状は、一様に暗い。憲法状況についての危機感が漂う。多くの人が、改憲の動きに神経を尖らせ、何とかしなくてはとの思いを募らせていることが感じられる。「危機」ではあるが、これだけ多くの人々が危機感を募らせ、何とかしなければならないと考えているのだ。護憲の決意が押し寄せ、励まされる。

「もはや新しい戦前」「1930年代に酷似」とも言われるが、戦後民主主義は、まだまだ大きな力量を秘めている。私も、その陣営の一人として、微力を尽くそう。

予防訴訟提訴間もなく2年

赤旗を購読して久しくなるが、連載小説にはなかなか目が行かない。ずいぶん昔、早乙女勝元の「わが街角」が唯一の例外であったか。
今、森与志男という作家が「普通の人」を連載している。
テーマは、学校現場の日の丸・君が代強制。生々しい同時代史である。主人公の教員は、必ずしも活動家ではない。運動の中心にもいない「普通の人」。
本日付赤旗6面で、いよいよ予防訴訟が提起される。主人公は、活動家から電話でそのことを知らされる。が、元気のよい報告を聞かされても彼にはその訴訟の有効性に確信が持てない。混迷は深くなるばかり‥。

作者は現場の教員ではない。日本民主主義文学会の会長を務めている人とか‥。さすがに、教師群像を、それぞれの手触りの感触までよく描いている。私にも、才能あれば別の角度からそれなりのものをかける素材はあるのだが‥。

数日前に、教員間の会話の形で、予防訴訟が紹介されている。教員のひとりが、「訴訟の名称はなんというんだい?」。メモを見ながら答がある。「国歌斉唱義務不存在確認等請求事件‥」「ずいぶん長い名前だな‥」

訴訟に名称がついているとは、門外漢には思い至らないだろう。ましてや「予防訴訟」という通称とは別に、本名があろうとは。実は、この小説の通りの正式名称なのだ。請求の趣旨第一項「原告らがいずれも、卒業式入学式等の学校行事において、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務のないことを確認する」から、とったもの。その命名者は私である。

弁護団には、弁護団なりの苦労がある。思い入れも、怒りも、苦悩も、迷いも‥。教員には教員の、切実な苦悩や迷いがある。多くの運動参加者から、聞いてはいるつもりだが、小説という形式での関係者の心の動きには、また新鮮なものを感じさせられる。

「10・23通達」から既に2年余。今月末には、予防訴訟提訴2周年となって、本年3月の結審を目ざす段階に至っている。この訴訟と、それを取りまく運動で多くのことを学んだ。

改憲反対という運動は、このような具体的な憲法理念実現の運動によって内実を与えられる。憲法を獲得する諸運動の集積として、改憲阻止運動がある。今年も、微力を尽くそうと思う。

感動的な法廷

本日は、東京地方裁判所101号大法廷で、10時から16時30分までの予防訴訟証拠調べ。感動的な法廷だった。裁判官も、血の通った人間。心動かされるところがあったに違いない。そうでなくては、法廷を開く意味がないではないか。そう思えるほどの充実した法廷であった。

午前中に都立高の元校長が証言した。「10・23通達」を受け、心ならずも「職務命令」を発令し、都教委の意向に従った卒業式を挙行した校長。その経過を淡々と詳細に証言された。この方、退職者ではない。卒業式のあと、自ら意思で降任して、現在は平の教諭だが、まだ現役。原告・弁護団の求めに応じて、よくぞ証言台に立っていただいた。世に「心ある人」は健在なのだ。

証言内容には、米長邦雄が教育施策連絡会の席上「都は教育基本法を事実上改正した。ものすごい決意で教育改革に取り組んでいる」との発言あったことも含まれていた。この人に、いささかなりとも都教委の嫌がらせなどがあれば、総力をあげて反撃しなければならない。

次いで、第4次提訴者の中から、2名が意見陳述。国際高校と七生養護学校の先生。二人とも、理不尽な都の教育行政を、ご自分の言葉で、見事に批判された。現場にあればこその、現場で真面目に教育に携わっておればこその迫力と説得力。

そして午後は、401名の原告の中から、7名の方が原告本人尋問に立った。それぞれ、どうして「日の丸・君が代」を受け容れがたいのか。どうして強制には応じがたいのか。さりながら、自分の信念を貫くことがいかに困難な状況になっているのか。40秒間の国歌斉唱時に、不起立を貫くことの迷いと負担、そして心ならずも起立してしまうことによる喪失感、屈辱感‥。ピアノ伴奏を強制される音楽科教員の深刻な悩み‥。

「今まで書物でしか理解していなかったが、これが現実のファシズムというものかと実感した」という証言があった。「たいへんな時代になった」「憲法も、教育基本法もなくなったのか」とも語られた。あらためて思う。今、大きな時代の岐路に立っているのだと。そして、この事件のずっしりした重みを。

真面目な教師であればこその悩み、教員としての良心を有するがゆえの葛藤。ここには、良質な教師、真っ当な人間の声がある。石原や米長の輩よ、法廷の片隅で、この魂の声を聞け。

予防訴訟の次回法廷は2月6日(月)、堀尾輝久教授の証言で、証拠調べは終了。あとは、手続き手の整理と、3月20日(月)に最終準備書面を陳述して結審となる。歴史的な判決は来夏となろう。

不起立1回に3度めの弾圧

「憲法日記」の掲載が途切れている。思えば、「事務局長日記」時代の約3年間、よくぞ一日の途切れもなく連続更新できたものだと感心する。自分のしたことだが、真似ができない。到底二度とやれない。

多忙を理由にすると、できることはなくなる。今、多忙だから書くべきことがある。現役を退けば時間はできるだろうが、ビビドに現場から発すべきネタはなくなる。無理をおしても、なにか書き続けなければならない。

今日。都教委から教員に対して11件の新たな処分が明らかとなった。7月21日再発防止研修での「ゼッケン・Tシャツ・ハチマキ」着用を理由とするものが10件。9月専門研修未受講者に対する処分が1件。

「ゼッケン」着用は、研修命令を不当とする抗議の意思表示である。当日これをはずせという指示はなかった。従って職務命令違反とはなしえない。「職務専念義務違反」が根拠とされた。

グリコは、「一粒で二度おいしい」と言った。「日の丸・君が代」強制は、不起立で弾圧1度目。再発防止研修の嫌がらせが2度目。そして、抗議行動への懲戒が3度目。1不起立に3度の弾圧である。

本日、藤田弾圧刑事事件で、弁護側の立証が始まった。2名の板橋高校の元教員が落ち着いた立派な証言をした。その中で「この事件が起訴と聞いて、これはたいへんな世の中になったというのが偽らざる感想」との言葉。

まったく同感。このまま、流されてはならない。時代の流れを食い止める努力をしなければならない。強く、そう思う。

本日の集会を多数派形成の第一歩に 

本日は、「自民党の新憲法草案を考える弁護士の集い」に多数ご参加いただき、まことにありがとうございました。呼びかけ人16名を代表して、御礼を申し上げるとともに、今後のご協力をお願いいたします。

個人的な思いを申し上げれば、私の身体の成分は、タンパク質と炭水化物と、そして日本国憲法だと考えています。その憲法をないがしろにし、あまつさえ変えてしまおうなどとはとんでもないこと。到底許せません。憲法が大切だと思うのは、実はその理念としての人権や平和・民主主義を大切と思っているわけで、この思いは弁護士を志した人には、共通の思いではないでしょうか。多くの弁護士が、改憲には反対と考えているに違いありません。

改憲を阻止する力は国民世論にあります。国民の過半数を改憲反対の側に獲得する運動を成功させなければなりません。そのような運動において、弁護士は大きな力になりうると思います。法律専門家集団として、また多くの国民に直接触れあう宣伝力をもった集団として、その動向は国民運動の重要な部分を担わねばならないと思います。

弁護士が改憲阻止運動に力を発揮するのは、依頼者層に、市民運動に、弁護士個人として関わる場面もありますが、弁護士会内の世論形成によって弁護士会の組織的運動を通じて世論にアピールする手段の追求も重要です。

私たちは、まず弁護士会内の過半数をもって改憲反対の意思表示ができるような運動を目ざそうと思います。そこから、弁護士会をより明確な改憲反対の意思表示ができるようにしたい、より深く市民に改憲反対を訴える運動のできる会としたい。また、弁護士の過半数を結集することによって、改憲阻止こそが法律に携わる者の常識であることを国民世論に示したい、と思います。

そのためには、憲法解釈の違いを乗り越えて、改憲阻止の一点で結集することが必要です。本日の、山内敏弘先生の講演で明確にされたとおり、改憲の目的は、自衛隊の存在を認知させるためのものではない。そんなことなら、現状で十分。改憲の必要はない。集団的自衛権の行使ができるように、制約なく海外での軍事行動を可能とするための改憲なのですから、当然に専守防衛論者も連帯して行動ができることになります。

今日のディスカッションでは、いろんな意見が出されました。多くの弁護士が、弁護士会活動で、法律家任意団体で、市民団体で活躍しておられることに意を強くしました。各地の改憲阻止運動にも、積極的に関わっておられる。そして、その運動の中から、示唆に富む提言をいただきました。もっと魅力ある運動を工夫せよ、市民の目線で行動せよ、改憲反対を唱えるだけでなく憲法を市民の暮らしに血肉化する運動を、多くの弁護士が呼びかけの対象とされず運動参加のきっかけないまま埋もれている‥、等々。

これらのご意見を集約して、これから会内の運動をみんなで作っていこうと考えています。まだ、どのような運動を作るか、グランドデザインはありません。本日も、決議もアピールも用意していません。行動のための意見の集約はまだ先のこと。本日の学習集会が、憲法擁護について弁護士の大同団結を目ざす、大きく力強い運動の第一歩となるように、ご協力をお願いいたします。

まずは、12月6日12時〜14時 二弁1002号にお集まりください。運動をどう組むか、ご相談いたしましょう。

最後に、基調講演をいただいた山内敏弘先生に御礼を申し上げて本日の集会を閉会いたします。

「国旗に注目」違反を理由とする注意処分の撤回を求めます 

2005年11月13日

東大和市教育委員会御中

 弁護士 澤藤統一郎
 
文京区で弁護士を業としている者です。
職業柄、人権や民主主義の問題に関心を有しております。とりわけ、作今の石原都政下の戦前回帰指向と言うべき復古にして強権型の教育行政に、違和感のみならず危険なものを感じ、深く憂慮しております。
その立場から本通知を差し上げますが、事実経過の確認は不十分ですし、前提事実に間違いがあるやもしれず、そのゆえに礼を失している点があればご容赦願う次第です。

貴委員会が、東大和市立小学校の教員に対し、「学校運動会の国旗掲揚・降納の際に、国旗に注目という職務命令に従わなかったとの理由で、口頭注意の措置に及んだ」との報せに接しました。

間違いであればその旨ご指摘いただきたいと存じますが、事実とすればはなはだ重大な問題の措置であり、厳重に抗議するとともに、すみやかに撤回されるよう申し入れます。

言うまでもなく、公教育は憲法・教育基本法に則って行われなければなりません。国旗に対する国民の尊重義務は、憲法・教育基本法からはもちろん、国旗国歌法からも出てくる余地はありません。むしろ、教員を含む国民には思想良心の自由(憲法19条)があり、国旗・日の丸に対する特定の評価や尊重の強制は、思想良心の自由を侵害するものとして厳に慎まなければなりません。それが、公務員に要求される憲法遵守義務(憲法99条)の遵守であり、教育基本法10条が教育に対する行政の不当な支配排除を命じたことの帰結でもあります。

私が申し上げたいことは、学校での日の丸強制が、形式的に憲法や法律に違反していると言うものではありません。憲法・教育基本法は、戦前の国家主義を徹底して反省することを出発点としたものです。天皇への絶対的な帰依を臣民に要求し、個人の上に国家を置く思想をたたき込んだのが戦前の教育でした。ここから、排外主義、軍国主義、非合理な権威主義が育ちました。戦後の教育は、戦前の過ちを再び繰り返してはならないとして再出発したものです。その根底には、個人の思想良心を大切にし、これを国家の意思で蹂躙してはならない、という大原則の確認があります。

運動会の国旗掲揚と国旗への敬意の強制は、国家が際限なく教育の場に進入していく第一歩という恐ろしさを感じさせます。貴委員会が心を用いるべきは、運動会に国旗掲揚を強行し、職務命令まで発したという校長に対して、憲法や教育基本法の精神を尊重するよう指導することであって、職務命令に従うよう教員を指導することではありません。今回の教員に対する口頭注意が事実とすれば、貴委員会が教育基本法に理解なく、憲法遵守義務に違背したものと指弾せざるを得ません。

東京都の石原教育行政は大きな問題を露呈して世論の批判を受けるだけでなく、膨大な訴訟を抱えるに至っています。やがて、司法の断罪を受けなければなりません。貴委員会が、このような都の教育行政に盲従することなく、独立した自治体の教育委員会として、憲法や教育基本法の精神を体現した地域の教育条件整備に心を砕かれますよう、心から要望いたします。

くれぐれも、教育という営為は子どもの利益のためにあるもので、国家のためにあるものではないことをお忘れにならないように。ましてや、教育に携わる者の保身のために、いささかも教育が枉げられてはならないことを銘記いただきたいと存じます。

日弁連が憲法擁護宣言を採択

日弁連大会の本会議。3時間の議論を経て、憲法問題についての宣言を採択した。日弁連が改憲問題に踏み込んだのは、初めてのこと。

宣言の標題は「立憲主義の堅持と日本国憲法の基本原理の尊重を求める宣言」というもの。このサイトの「ひろば」に全文をアップするので、是非引用し活用していただきたい。これが、全弁護士が加盟する日弁連の見解である。宣言は、「改憲反対」とは言っていない。「憲法9条2項堅持」との言葉もない。しかし、その慎重な姿勢にかかわらず、宣言の内容が、明らかに日本国憲法の理念を擁護に値するものと高く評価していることが明らかである。宣言の理由までお読みいただけば、さらに明瞭に、立憲主義、国民主権、恒久平和、人権尊重を擁護する立場から、改憲論を批判していることを読み取っていただける。対立の焦点である集団的自衛権についても、これを明白に否定する立場が展開されている。自民党の50周年記念大会を目前のこの時期に、この日弁連宣言が採択された意義は小さくない。

日弁連は全弁護士が加盟を強制されている団体で、共通の思想信条を有する者の集合体ではない。弁護士会内部の政治的見解の分布は、社会全体の縮図と考えてさほどの違いはなかろう。それでも、この宣言が法律を学び、法律を職業とする専門家集団の常識的見解なのである。

3時間の議論の大半は、この決議案でよいのか、もっと曖昧さを残さない明確な改憲反対を言うべきではないのか、という角度からの原案に対する批判をめぐる議論だった。私も個人的には必ずしも満足し得ないところは残るものの、その性質上どうしても全メンバーの意見分布に十分に配慮せざるを得ない。成員全体の認識から乖離した決議は、いかに内容が立派でも力にならない。この原案をまとめるために半年近くもかけて手続きを踏んできている。圧倒的多数の賛成でこの宣言を通すのが、今もっとも大切だというのが私の立場。

幸い、宣言は賛成多数で採択された。
ハイライトは、以下の部分である。
「日本国憲法の理念および基本原理に関して確認されたのは、以下の3点である。
1 憲法は、すべての人々が個人として尊重されるために、最高法規として国家権力を制限し、人権保障をはかるという立憲主義の理念を基盤として成立すべきこと。
2 憲法は、主権が国民に存することを宣言し、人権が保障されることを中心的な原理とすべきこと。
3 憲法は、戦争が最大の人権侵害であることに照らし、恒久平和主義に立脚すべきこと」
「日本国憲法第9条の戦争を放棄し、戦力を保持しないというより徹底した恒久平和主義は、平和への指針として世界に誇りうる先駆的意義を有するものである」
「当連合会は、憲法改正をめぐる議論において、立憲主義の理念が堅持され、国民主権・基本的人権の尊重・恒久平和主義など日本国憲法の基本原理が尊重されることを求める」

この宣言は、日本国憲法擁護の内容であって、しかも全弁護士が加盟する集団の宣言としての重みをもったものである。討論の中で強調されたのは、「これが第一歩」だということ。弁護士会の決議としても、国民運動へのメッセージとしてもこれは第一歩。情勢の進展如何によっては、第二歩、三歩の宣言・決議が必要になってこよう。そのときには、もっと具体的に、切り結んでいる具体的課題に肉薄して日弁連がはっきりとものが言えるようになっていくだろう。

日弁連人権擁護大会シンポジウム

初めて鳥取に来た。早朝の全日空便で、晴れわたった紅葉美しい町に到着した。空がゆったりと広い。懐かしい情感をくすぐるような街並みと近くに迫っている小高い山の姿‥。

日弁連最大の年中行事、人権擁護大会がこの地で開かれる。地元の鳥取弁護士会の準備の苦労にはたいへんなものがある。その会長松本光寿君は修習を同じくした同期の友人。彼は検察官への任官を志望して拒否された経歴で知られる。修習間際に青年法律家協会に加盟し、そのことを隠さなかった。そして、被疑者・被告人を呼び捨てにすることなく、「さん付け」で呼ぶ検察官になりたいと言っていた。彼なりに、検察庁の度量の広さに信頼していた節がある。しかし、現実は厳しかった。おかげで、彼は鳥取を背負う弁護士となって現在に至っている。

本日は、3つのシンポジウムが行われた。その一つが、「憲法は、なんのために、誰のためにあるのかー憲法改正論議を検証する」というもの。
この問いかけの「解答」を一口で言ってしまえば、「憲法は、国民が国家権力を縛るためにある」「従って、憲法は一人ひとりの国民のためにあるのであって、国家のためにあるのではない」「そのことを忘れたかに見える改憲勢力の考え方に猛省を促したい」
もう少し理屈っぽく私流に言えば、「何よりも立憲主義の原則を再確認しなければならない。立憲主義は、個人の尊厳の尊重と法の支配というより根源的な原理からの帰結であるから」「立憲主義とは、主権者である国民が国家に対して命ずる、権力行使のルールである」「従って、当然に憲法の宛名は国家となる。それを逆転して国家が国民に愛国心を説いたり、種々の責務を課するごとき憲法は、その本質を見誤るものである」「日本国憲法は、近代憲法の諸原理をよく体現するものとなっている。大切なのは、憲法の理念を従前に具体化して、何のため、誰のためにあるかを現実化することであって、改正することではない」

私も、実行委員の末席に加わっている。このシンポの準備はたいへんだったが、実にみごとな出来栄えだった。シンポ参加者は、最初1900人と発表され、2000人余と訂正された盛況。基調報告書はA4判で430ページの大著となった。現在の改憲可否論議の論点を網羅している。その解説も、樋口陽一教授の基調講演も、憲法について語る各界著名人のビデオレターも、3名のスピーチも‥。

東京から、都立校での日の丸・君が代強制に反対する運動の渦中にある丸浜さんにも登壇願って、スライドを見ながら訴える力の強いスピーチをしていただいた。

最後が論者4名のパネルディスカッション。論点のよく整理された聞き応えのあるものとなった。シンポの出来栄えとしては、満点に近いものと言えるだろう。そして、1時間半の映画「ベアテの贈り物」。プログラムの開始は、12時30分で、最後は20時15分だった。

満腹感を通り越し、頭がクラクラするほどの情報量だったが、もっとも心に残ったのは、ビデオレターの中の中村哲さんの言葉。「安全のためにもっとも必要なものは信頼。武器がなければ安全が保てないという妄想を捨てよう。豊かでなくては幸せになれないという妄想を捨てよう」
たいへんな場所で、素晴らしい実践を積みかさねている人の言葉だからこその説得力である。