2006年06月18日

「取材源の秘匿」とジャーナリズム

 米国の民事訴訟の嘱託尋問で、記者が取材源に関する証言を拒否したことをめぐって、東京高裁・赤塚信雄裁判長が14日出した証言拒否容認の決定は、「ようやくこの問題に理解が届いたかな」と思わせるものだった。
 今年3月、読売新聞の記者の取材源証言拒否を「公務員と思われる取材源について証言拒絶を認めれば、国家公務員法違反を認めることになる」と否定した判断は、「政府や自治体に関しては公式発表以外、取材、報道は一切認められない」というに等しいものだっただけに、正直言って、その憲法感覚にあきれた。
 しかし、今回の赤塚決定は、「公平な裁判の実現は極めて重要な社会的価値で、憲法上も裁判を受ける基本的権利を定めているが、報道・取材の自由も憲法的な保護を受ける権利として認められ、前者が絶対的な価値を持つものではない。民訴法が職業の秘密について証言拒絶権を認めていること自体が示すように、証言を求める側の裁判を受ける権利が制限されているというべきである」「取材源秘匿で守られるのは公衆への自由な情報流通を確保するという公共的利益。取材源が刑罰法令に触れることがあったとしても、秘匿はその者のためではないから、秘匿が許されないというべきではない」と、従来の「比較考量」論よりも進んだ判断で、ようやく日本でも「表現の自由の優越的地位」が認められる方向になってきたか、と思わせたからだ。

 「記者は証言を求められる。当然これを拒否する。すると、裁判長は法廷侮辱罪で拘束する。記者は堂々と入獄し、刑務所から帰ってくるときは、まるで日本の暴力団の組長の出所のように、記者仲間たちが所属の社を越えて拍手で迎える」という米国の話を聞いたことがある。「ジャーナリスト、記者というのは、権力との関係ではそういうものなのだ」という趣旨の話をしたのは筑紫哲也さんだった。(岩波ブックレットNo.549「メディアの内と外―ジャーナリストと市民の壁を超えて」参照)
 しかし、問題は、ジャーナリズムに求められているその気概と社会的役割が、どうにも理解されづらくなっていることである。そしてそのことが、結局、ジャーナリズムの衰退を招いているようにも思えてならない。

 日本国憲法21条は「一切の表現の自由」を認め、「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」とした明治憲法と明確に一線を画している。しかし、それが実際に認められているのかどうか。プライバシーや名誉棄損の問題を含めて、次第にメディアが「法の枠内」に閉じこめられていくようになってしまえば、それは「ジャーナリズムの死」を意味しかねない。
 しかしそれも、「法の支配」を前提にする社会で、その「法」をあえて否定することがあるジャーナリズムとは一体何か、といわれると、説明はなかなか容易ではない。突き詰めると、これは恐らく世界観にまで行き着く問題のようにも思うが、それを捨てるわけには絶対にいかない。それが、また「ジャーナリスト精神」である。
 この関係をどう整理し、読み解くか。これは極めて現代的で重要な問題だと思う。
 
 「法と民主主義」とは、青い表紙の時代からのお付き合い。ジャーナリズムでの生活と「法」を考えざるを得ない研究者としての立場を併せ、「メディアと法のあいだ」を考えてみようと思う。よろしくお願いします。