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日記

東京訴訟・結審!−原告紹介及び意見陳述

☆「本件請求を基礎づける事実」に関連して

●H.Hさん(原告番号34)
 2004年11月25日、原告として法廷でも陳述しましたが、Hさんは、敗戦のわずか3ヶ月前の1945年5月に、家族とともに開拓団として満州に渡りました。当時、8歳でした。3ヶ月後、Hさんは、逃避行の末、ソ連軍との激しい交戦として有名な佐渡開拓団事件に巻き込まれ、父母、2人の姉を無くし、孤児となりました。1944年10月頃からソ連参戦の予兆はあったにもかかわらず、被告国が開拓団を送り続けたため、まさにHさんは孤児になったのです。
●U.Tさん(原告番号8)
 Uさんも2004年11月25日に、原告として法廷で陳述しました。当時5歳のUさんは、母と4人の兄弟とともに逃避行し、その途中、日本人の集団自決に巻き込まれました。麻山事件です。この時、Uさんは、誰かに銃剣で頭を刺されて失神しました。気付いた時、Uさんは既に息絶えた母の死体の下になっていました。「私と姉の2人は、草の根をかじり、畑の野菜を盗んで食べ、夜は母親の遺体に抱きついて泣きながら寝るという日が何日も続きました。遺体が腐っていく臭いと「ぶーん」という蚊の飛ぶ音は決して忘れることはできません。」とUさんは陳述しています。
●Y.Tさん(原告番号24)
 Y.Tさんは、病気のため、残念ながら本日出頭することができません。当時8歳のYさんは、敗戦後、父母がいない中、兄として、5歳の弟の手を引き、3歳の妹を背負って、匪賊や暴民から逃げ逃避行をしました。襲撃を受けたある日、一緒に逃げていたおばさんから「おい照也、あんたの妹血が流れてる、死んでるよ。」と言われ、自分の背中で妹が死んでいるのを知りました。
●T.Tさん(原告番号13)
 T.Tさんも、病気のため、残念ながら本日出頭することができません。裁判官宛てに伝言がありますので、代読します。
 「私は、原告番号13番のT.Tです。体調が悪く、残念ですが、結審の法廷に参加できません。お許しください。私は、6歳のころ、中国の内モンゴルで敗戦を迎えました。逃避行の途中、ソ連軍と日本軍の戦闘に巻き込まれ、日本兵に母と妹弟の3人が目の前で射殺、私も打たれが弾がそれたらしい。中国人養父母に助けられ小学校の先生をしていたが、6年前に永住帰国しました。二度とこんな悲しい戦争孤児が発生しないように、正義の判決をお願いします。」
●清水宏夫さん(原告番号2)
 清水さんは,養父から,もっぱら労働力として扱われました。朝3時に起きて家族のご飯の支度をし,一人で家畜の世話をしなくてはなりませんでした。養父母の実子は学校に行くことができましたが,清水さんは通わせてもらえませんでした。養父母の吸うアヘンを調達させられたことまでありました。
※2005.6.1口頭弁論期日における意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/39.htm
●Y.Zさん(原告番号35)
 Yさんは,2004年12月22日,原告として法廷で陳述しました。Yさんは12歳の時,公安局に呼び出され,残留日本人の最後の引揚であると言われました。連れて行ってもらえるように泣いて頼みましたが,保護者のいないこどもはだめだと言われて,帰国していく日本人を泣きながら見送ったという経験を述べています。
●紅谷寅夫さん(原告番号33)
 紅谷さんが15歳のとき,勃利県の職員が養父母の元を訪れました。紅谷さんの帰国についての相談だったようです。しかし,職員とBさんは直接会うことができず,帰国の夢は叶いませんでした。この時,孤児の実情に応じた引揚政策があれば紅谷さんは15歳のときに帰国することができたはずです。
※2005.6.1口頭弁論期日における意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/38.htm
●T.Rさん(原告番号16)
 Tさんは1955年,18歳のときに日本の親族に宛てて手紙を書いています。国はこの時から登坂さんの生存・その所在まで分かっていました。しかし,Tさんは,国から帰国するかどうかの意思確認を受けたこともなく,また帰国する方法も教えてもらえませんでした。
何の情報も与えられず,帰国する術も見つけられないまま25年の月日が過ぎ,結局Tさんが永住帰国したのは1980年のことでした。Tさんは43歳になっていました。
○S.Tさん(原告番号21)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/161.pdf
○S.Kさん(原告番号28)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/162.pdf


☆「早期帰国実現義務違反」に関連して

●T.Sさん(原告番号22)
 Tさんが中国に残されていたとき、近くに住んでいた残留婦人が1953年に後期集団引揚げで日本に帰国し、また親しくしていた残留孤児が国交回復前の1960年台の半ばに個別引き揚げで日本に帰国しました。Tさんも、早くから自分も日本に帰国したいと思い続け、国交回復直後から、日本大使館に手紙を書き始めました。平成16年11月25日の本人尋問で、Tさんは、繰り返し手紙を書き続けたこと、思い余って日本大使館に4日間にわたり直訴の行動をとったりしたことなどの苦労を語っています。しかし、国が身元未判明孤児の帰国政策をつくることが決定的に遅れたために、永住帰国できたのは1985年、42才のときでした。
●K.Nさん(原告番号15)
 Kさんは、母親の異なる兄と一緒に中国に残されました。兄は、1953年の後期集団引揚げで帰国し、日本政府に、Kさんの生活している場所を届け出ていました。しかし、国は、中国での居場所のわかっている菊地さんに対し、直接、帰国を呼びかけることすら一切しませんでした。Kさんは1975年に一時帰国をしましたが、このときに国は、残留孤児が安心して帰国し、生活をすることを可能とする政策を全くもっておらず、菊地さんに、永住帰国の意思確認すらしませんでした。国から家族責任を押しつけられた兄も悩み続け、そのため、さんの永住帰国できたのは1991年、52才のときまで遅れました。
●I.Tさん(原告番号7)
 Iさんは、後期集団引き揚げの際や、1981年頃に日本大使館に書き送った手紙に対して大使館から経歴の調査票がきたとき、あるいは1986年の訪日調査の成果で身元判明したときに、日本に帰国するチャンスがありました。ところが、国が、その時々において、残留孤児の帰国する権利を実現するために、残留孤児の特殊性をふまえた適切な政策をつくっていなかったために、結局Iさんはチャンスをいかすことができず、永住帰国できたのは1994年、56才のときまで遅れました。Iさんは、平成17年8月30日の本人尋問で、残留孤児が日本にいくことを決断することにさまざまな困難があったことを語っています。
●Y.Tさん(原告番号10) 
 Yさんは、実の母がまだ健在です。戦時死亡宣告制度ができるや、行政は、Yさんの母に対し、帳面の整理のために、死んだと言えと執拗に迫りました。このことは平成17年11月8日に行われた本人尋問の際にビデオを通して、母ご自身の語りとして聞きました。母に対する人権侵害と評価してもよい言動に、その後も行政は一片の謝罪もなく、本来協同し合ってYさんの所在を調査する関係にある留守家族と行政との間に、埋めがたい不信の溝ができました。Yさんが1977年に一時帰国をしたときに、国は、永住帰国に関する説明を行っていません。それは無策であったからであり、無策であることを基本方針としたからでした。Yさんは、中国の養母の問題、妻と未成年の5人の子どもたちの問題を個人で解決することを余儀なくされ、結局永住帰国は養母が亡くなった後の1989年、46才のときになってしまいました。
●T.Yさん(原告番号19)
 文化大革命下で強い差別を受けたTさんは帰国への想いをより一層強くしましたが、日中国交回復後もその具体的方途を知らされず、長期間帰国を果たすことができませんでした。国ではなく、知人から訪日調査のことを知ったのは国交回復から21年後の1993年です。それから4年後の1996年、ようやく訪日調査に参加できましたが、時既に遅く、身元は判明しませんでした。それでも帰国への想いは強く、身元引受人制度を利用して帰国を果たそうとしましたが、ここでも身元引受人の斡旋を2年間も待たされたことなどにより、念願の帰国が果たせたのは戦後から実に43年、国交回復からも26年経過した1998年6月のことです。このとき既にTさんは53歳になっていました。
●N.Hさん(原告番号18)
 日本に帰国して、敗戦時に別れた際、泣きながら頬にキスをしてくれた実母と再び会いたい。そんな希望を胸に、Nさんは中国での辛い生活に耐え続けていました。1976年に日中国交回復を知り、直ちに日本大使館へ手紙を3通も出しましたが、長期間返信がありませんでした。しかし、3年後に日本人ボランティアと偶然知り合うことができ、その協力を得ながら帰国手続きを進めましたが、当時はNさんのような身元未判明孤児の帰国を可能とする制度がなかったため、帰国を希望しても帰国できない状況でした。それでもNさんは待ちきれず、1986年6月、48歳の時、民間ボランティアに身元保証人となってもらい自費帰国しましたが、旅費が足りなかったため家族全員が船便で帰国しています。
●T.Tさん(原告番号27)
 Tさんは、日中国交回復前から、日本への帰国を希望し続けていました。しかし、帰国の具体的方法を知ったのは、1977年、帰国意思の調査に訪れた公安局員から聞いたことがきっかけです。これを機に、1983年に訪日調査に参加した結果、叔父と再会することができ、身元が判明しました。Tさんは直ちに帰国を希望しましたが、叔父からは身元引受人となることを拒否され、帰国できませんでした。それでもTさんの帰国意思は固く、身元引受人制度を利用するため厚生省に対し、自分の身元判明認定書を取り消して欲しいという手紙を送った程です。民間ボランティアの必至の説得もあり、最終的には叔父も身元保証人となることに同意しましたが、帰国が実現したのは1989年、身元判明から6年後のことでした。
●S.Eさん(原告番号4)
 Sさんも、国交回復前から帰国意思を持ち続けていたにもかかわらず、国交回復後も被告から具体的な帰国方法を知らされず、国交回復から14年の時を経て、民間ボランティアの一人だった菅原幸助氏の力を借りてようやく帰国を果たした身元未判明孤児の一人です。本日、この法廷で意見を述べる予定でしたが、先日怪我をしてしまい、この場に立つことができませんでした。変わりに菅原延吉さんご本人からメッセージを預かっていますので、以下、代読します。
「私は原告番号4番のS.Eです。足首を捻挫し、残念ですが結審の法廷を欠席させていただきます。中国の文化大革命の時、私は28歳の青年でしたが、胸に日本軍国主義の子孫と書いた布をぶら下げ、頭に三角帽子を被されて、町中を引き回されました。この裁判でデモ行進をやると、あの時のことを思い出します。裁判長殿、私のあの悔しさを忘れさせるような立派な判決を書いて下さい。」
○N.Rさん(原告番号14)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/163.pdf
○M.Sさん(原告番号40)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/164.pdf


☆「自立支援義務違反」に関連して

●T.Bさん(原告番号9)
 2004年12月22日、原告本人尋問を行いましたので、簡単に紹介します。Tさんは、1988年10月、47歳で帰国しましたが、被告が用意したたった1年間の日本語教育では、ほとんど日本語能力は身に付きませんでした。現在も、簡単な日常会話が理解できる程度で、新聞も読めません。そして、被告からの就労支援の全くない中で、仕事を探したものの日本語ができないことを理由に断られ続け、やっとボランティアの紹介で酒屋に就職できました。Tさんは、中国では、教師をし、校長にまでなりましたが、そのキャリアを生かすことはできませんでした。その後、定年退職するまで酒屋で働き続けましたが、退職後の年金は月6万円以下であり、生活保護を受給しなければ生きてはいけない状況に追い込まれています。
●A.Kさん(原告番号20)
 Aさんは、身元は判明しておらず、敗戦時推定3歳でした。小学校に2年間通っただけで、物心付いたときから農業に従事してきました。1989年3月、46歳で帰国しましたが、やはり被告が用意したたった1年間の日本語教育では、あいさつ程度の日本語ができるだけで、食事の注文も満足にできない状態でした。現在も、新聞などは全く読むことができません。そして、被告からの就労支援のない中で、知人の伝手で工場労働者となりましたが、日本語ができないことから、重労働・低賃金を強いられ、会社の業績が悪化すると真っ先にリストラされました。退職後の年金は月5万円以下であり、Aさんも、生活保護を受給しなければ生きてはいけない状況に追い込まれています。第2言語(この場合、日本語)の習得の前提として、第1言語(この場合、中国語)の習得は不可欠です。原告ら中国残留日本人孤児の場合、Aさんのように、中国語の教育すら満足に受けられなかった者が大勢います。そのような孤児に対しては、特に綿密な日本語学習カリキュラムが必要だったにも関わらず、被告は漫然と短期間での学習支援しかせず、原告らの自立を支援する義務を怠りました。
●K.Mさん(原告番号25)
 2005年12月22日、原告本人尋問を行いましたので、簡単に紹介します。Kさんは、1985年6月、49歳で帰国しました。敗戦時10歳でしたが、日本語はすっかり忘れていました。帰国前に、独学で日本語を学んではいたものの、到底社会生活を営めるような程度ではありませんでした。しかし、所沢定着促進センターでの4ヶ月間の日本語教育しか受けることはできませんでした。その後、被告からの就労支援のない中で、病院の清掃の仕事に就きましたが、日本語ができないため苦労をし、退職後は、生活保護を受給しなければ生きてはいけない状況に追い込まれています。
●K.Eさん(原告番号26)
 2005年8月30日、原告本人尋問を行いましたので、簡単に紹介します。Kさんは、1991年7月、49歳で帰国しましたが、やはり被告が用意したたった1年間の日本語教育では、ほとんど日本語を習得できず、しかも就労後に日本語を使う機会がなかったため、現在では日本語は全くと言っていいほど話せません。買い物もままならず、生活すること自体が困難な状況です。Kさんも、被告からの就労支援のない中で、自力で探した清掃会社で働いていましたが、退職後は、生活保護を受給しなければ生きてはいけない状況に追い込まれています。
●F.Yさん(原告番号29)
 2004年12月22日、本人尋問を行っています。Fさんは、1997年、53歳で帰国しました。Fさんが初めて厚生省に手紙を出してから8年以上経っていました。子どものころは成績もよく、中国で働いていたころは記憶力がよいと言われていたFさんですが、日本語を話すことがどうしてもできません。帰国が遅れ、年をとってから日本語を勉強しなければならないからです。Fさんと夫は、職業訓練校に通って技術を身につけようとしたのですが、生活指導員から「合格するはずがない」と強く言われて、諦めざるを得ませんでした。結局、Fさんと夫は、帰国後一度も就職できず、ずっと生活保護を受給しています。
●S.Tさん(原告番号30)
 2004年11月25日に本人尋問を行っています。Sさんは、47歳で帰国しました。Sさんは、初め、日本語ができなくとも働けるリサイクル会社に就職しましたが、日本語で話ができるようになりたくて、3ヶ月で仕事を辞め、6ヶ月間、拓殖大学の日本語学校へ通って勉強しました。しかし、日本語の勉強を始めるのが遅いし、合計約1年の日本語教育では、挨拶ができる程度にしかなりませんでした。資格を取って働きたかった齋間さんは、職業訓練校にも通いました。しかし、教科書も授業も日本語で、通訳もいなかったため、ほとんど何にも身につきませんでした。Sさんは、帰国する前は、中学校の校長をしていましたが、帰国後は、単純な清掃の仕事しかできませんでした。今は、生活保護を受給しています。
●Y.Rさん(原告番号32)
 2005年11月8日、本人尋問を行っています。Yさんは、1985年に44歳で帰国しました。Yさんは、日本で簿記の資格を取り、経理事務として就職しました。しかし、電話に出ることができないし、最初の頃は、同僚や上司の話している内容がわからず、どの勘定科目に入れるのかもわからず、たいへん苦労したそうです。また、定年退職後の再雇用で、差別を受けました。Yさんの年金額は月4万2000円で、現在、生活保護を受給しています。
●S.Kさん(原告番号38)
 Sさんは、33歳ごろ、日本へ帰りたいと中国の日本大使館を訪れています。しかし、Sさんが実際に日本に帰ることができたのは、13年後の46歳でした。消息の把握が困難だったから早期に帰国させることは難しかったという国の主張は成り立ちません。Sさんは、定着促進センターでの4ヶ月の日本語教育しか受けておらず、日本語を話せるようにはなりませんでした。中国で軍医として活躍していたSさんですが、46歳から日本の医学部で資格を取り直すのは、ほとんど不可能です。Sさんは、せめて鍼灸師として働きたいと思い、孤児のための援護基金からお金を借りて、専門学校に通い始めました。ところが、生活保護の担当者に、専門学校に通うのであれば生活保護をうち切るといわれ、専門学校への通学を断念させられました。Sさんは、結局働き先が見つからず、ずっと生活保護を受給しています。
○S.Hさん(原告番号5)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/167.pdf
○I.Yさん(原告番号37)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/168.pdf


☆「被害の本質の原告らの損害」に関連して

●K.K(原告番号3)
 Kさんは、中国で青年期を迎えたときに、日本人であることを理由に大学受験で不合格になり、また交際相手の両親から結婚を反対されました。平成16年10月27日の原告本人尋問で、Kさんはそうしたつらい体験をしたときの心情を「人並みの権利をもっていない、奴隷のような気持ち」と述べています。中国における残留孤児の立場を象徴的に表した言葉でした。
●N.Sさん(原告番号31)
 Nさんは、戦時死亡宣告により戸籍が抹消され、その回復の際に妹と取り違えられたため、22年間、死亡していた妹の名前を名乗って暮らしました。平成16年11月25日の原告本人尋問で、Nさんはその時の複雑な心情を「長い間亡くなった人の名前を使ってきて、気持ちがよくなかった」と表現しています。戦時死亡宣告はこんな悲劇も生んでいたのです。
●池田澄江さん(原告番号1)
池田さんが、昨年である平成17年12月22日の原告本人尋問で述べた内容は、まだ記憶に新しいことと思います。池田さんは、中国においては日本人として差別を受け、日本においては中国人として強制退去の危機に瀕しました。中国でも日本でも心の安まるときのない人生だったと言わざるを得ません。
●N.Yさん(原告番号36)
 Nさんは、帰国後夫が病気になり、病院にかかろうとしましたが、言葉が通じず、5箇所も病院をたらい回しにされました。やむなくNさんは、夫に治療を受けさせるため、約70日間、中国に戻りました。この間、生活保護の支給が止められてしまいました。しかも、Nさんが生活保護の再開を申し出たとき、5400円しか入っていない財布の中身を調べられました。その後も毎日のように福祉事務所から所在確認の電話が入るようになりました。これが、自らの政策で60年も辛苦の人生を送らせた人に対する国の処遇なのです。
(本人からのメッセージ)
現在、私は生活保護を受けていますが、毎日監視されているようで屈辱的な思いをしています。自由に中国に行けないことも辛いです。
生活保護は私たち中国残留孤児にはそぐわない制度です。このような場当たり的な対応ではなく、老後を安心して生活できるようにして下さい。
●W.Tさん(原告番号11)
 Wさんは、6歳の時に母親と別れ、養父母に育てられることになりましたが、養父母からも虐待を受け、首吊り自殺を図るほど苦しみました。国交正常化から16年も経過した昭和62年に訪日調査のことを知らされ、急いで調査に参加しましたが、とうとう肉親を見つけることは出来ませんでした。平成元年に日本に永住帰国した時には、すでに、48歳となっており、日本語が修得出来ず、職場でも陰湿ないじめを受けました。いまだに「いらっしゃい。」「ありがとう。」等の簡単な挨拶程度の日本語しか話せません。これらは、まさに、帰国が遅れた上、不十分な自立支援しか受けなかった為に、生じた被害と言わざるを得ないのです。
●H.Kさん(原告番号12)
 Hさんは、生後8ヶ月で養父母に預けられ、日本人であることをひた隠しにして、育てられました。手を失うという障害を抱え、しかも、生活の苦しかった養父らに育てられたため、Hさんは、小学校すら通わせてもらっていません。平成8年に訪日調査の存在を知らされ、平成10年に永住帰国していますが、このときすでに54歳になっていました。中国語も学べなかった原告が、この年齢になってから日本語を習得することがいかに難しいかということは、容易に想像出来ると思います。このため、Hさんは、就職もことごとく断られ、日本に帰国して以来、ずっと、生活保護で生活せざるをえなかったのです。そのため、Hさんは、現在、木の葉を干してお茶代わりにするなど、切りつめた生活を余儀なくされています。この結果は、まさに、被告の帰国政策・自立支援策の誤りが露呈したものです。この悲惨な現状を原田さん個人に押しつけ放置するわけにはいきません。
●T.Hさん(原告番号17)
 Tさんは、歴史的にもまれに見る悲惨な事件として有名な、麻山事件の奇跡的な生き残りです。昭和55年、44歳の時に永住帰国しましたが、この時点では、国は、日本語教育の施設を設けておらず、Tさんは、帰国後、国から日本語教育を一切受けられなかったのです。現在、Tさんは、これまでの苦労が体にでてしまい、糖尿病、高血圧、気管支炎などの様々な病気を抱えており、医師からは、すぐに手術が必要であるとまで言われていますが、それも費用が捻出出来ずに控えている状態です。現在の生活は、年金で何とかまかなっていますが明らかに困窮しており、見るに見かねた近所の人が米や野菜を持ってきてくれるので、それで食事をまかなっている様なありさまなのです。このように、国が早期帰国を実現し、しかも、その後の日本語教育を中心とする自立支援策を充実させていれば、現状は今とは全く違ったものになっていたでしょう。
●K.Y(原告番号23)
 Kさんは、2歳で養父母に引き取られ、その後養父母が3人変わっています。日本には、肉親を探したい一心で、平成2年に永住帰国していますが、このときすでに、47歳となっていました。兄らしき人と血液鑑定を行ったものの、国から親族ではないという書面が来ただけで、その根拠となる鑑定結果等は最近に至るまで開示されませんでした。未だに肉親は判明していません。Kさんは、右半身が不随ですが、センターを出た後、国からの援助はまったくなく、自力で民間のアパートを探し入居しました。しかし、1年半ほど経過した後、国から県営住宅の4階をあてがわれました。これも、孤児の個別の実情を全く無視した政策であると言わざるを得ません。また、現在、生活保護を受給していることについて、Kさんは、自分自身も40年以上生活してきた中国に行って、養父母の墓参りをしたい、中国の親戚とも会いたい、しかしながら、生活保護ではそれがかなわない、と悲痛な訴えを陳述録取書にて述べています。生活保護がいかに中国残留孤児である桂さんの様な人にそぐわない制度であるかは、一目瞭然です。
○Y.Hさん(原告番号6)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/170.pdf
○H.Tさん(原告番号39)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/171.pdf