意 見 陳 述 書
 
紅  谷   寅  夫
 
1 家族との別れ 〜佐渡開拓団事件〜
 
 私は,原告番号33番,紅谷寅夫といいます。1938年(昭和13年),長野県で,生まれ,1944年(昭和19年),私が6歳の時,長野県埴科開拓団として,満州に,父母,2人の兄,1人の姉,私の6人で渡りました。私には,姉がもう1人いましたが,東京に養子に出ていたため,一緒に満州には渡りませんでした。父は大工をしていました。
 私は終戦の混乱の中で発生した佐渡開拓団事件の数少ない生き残りです。
 1945(昭和20)年8月,私たち開拓団は,終戦の知らせもうけないまま,難民収容所へむかいました。雨が降り続き,何日も足下の悪い山道を歩き,ようやく佐渡部落に到着しました。同年8月27日,部落はソ連兵らによって完全に包囲され,ソ連軍による襲撃をうけました。次々打ち込まれる大砲や,雨のように振ってくる鉄砲の弾の音が今でも忘れられません。
 私は,小学校の中に避難しましたが,そこにも大砲が撃ち込まれ,ものすごい音と共に,一瞬で窓ガラスが全部ふっとび,学校は崩壊しました。
 私は,必死で小学校の外に逃げだしました。小学校の外は,機関銃の弾が雨あられのようにタタタタタタ・・と飛んでいました。私は,右足を撃たれましたが,逃げることに必死でその時は痛みなど感じませんでした。途中,たくさんの死体が私の上に倒れ被さってきました。ソ連兵が近づいてきたので,私は,死体の山の中で死んだふりをしてじっとしていました。ソ連兵は,銃剣で私の体を引き裂こうとしました。殺される!私は意識を失いました。
 目覚めると,奇跡的にも,私の洋服だけが引き裂かれ,私の身体は無傷でした。全くの偶然で私は生き残ることができました。一人残された私は,家族を必死で捜しましたが,皆死んでいました。私は,この佐渡開拓団事件で家族5人をすべて失い,一晩のうちにひとりぼっちになってしまいました。
 
 
2 日本への思い
 
 私は,佐渡開拓団事件の直後,部落を見に来た中国人に連れられ,養父母のもとにたどり着きました。私を育ててくれた養父母は,私を実の子として可愛がってくれ,獣医の専門学校まで出してくれました。おかげで私は,中国では獣医をしていました。
 私は,養父母にも仕事にも他の残留孤児より比較的恵まれていたかもしれませんが,一度も日本人の心を忘れたことはありませんでした。私は,「紅谷」という私の名字を必死で忘れぬよう毎日繰り返し唱えていました。私は日本人である,祖国日本へ帰りたい・・常にそう思っていました。
 しかし,どうやったら日本へ帰れるのか全くわかりませんでしたし,誰も教えてくれませんでした。1960年代前半に厚生省宛に中国語で「私は『紅谷』です。日本人です。姉は東京にいます。姉を捜してください。」という内容の手紙を5回ほど送りました。厚生省の住所がわからなかったので,宛先に『日本国東京厚生省』とだけ書いて出しました。結局,その手紙は私の所に戻ってきてしまい私の思いは叶いませんでした。
 
 
3 1人での帰国 〜家族の分断〜
 
 1972(昭和47)年,日中国交が正常化しました。私は,すぐに同じ部落だった残留婦人の方の力を借りて,長野県へ「紅谷寅夫は生きている,帰国したい」と手紙を書きました。その手紙がきっかけとなり,東京にいた姉と連絡がとれ,日本へ帰国出来ることになり,姉を通じ,厚生省から帰国旅費が送られてきました。
 しかし,厚生省は私の家族の帰国旅費は出してくれませんでした。私も姉も厚生省に再三再四,家族全員での帰国を要望しましたが,頑なに拒否されました。
 私は,胸の裂けるような思いでしたが,家族に必ず迎えに来るからと約束し,1975(昭和50)年,38才の時に1人で日本へ帰国しました。
 私は,帰国後,姉の所に世話になり,帰国後3日目から,姉の紹介してくれた職場で働きはじめました。
 国は,住居も,仕事も,日本語教育も何ら援助をしてくれはしませんでした。
 姉に感謝すると共に,国の冷たい対応に,「このような日本政府の対応では身内がいない残留孤児は日本で生活することも,帰国することも無理なのではないか」と感じ,悲しい気持ちになりました。
 私は,家族を日本に呼び寄せるため,昼間は姉が紹介してくれた製作所で,夕方から深夜までは中華料理屋で無我夢中で働き続けました。途中,日本語が理解できないため,同僚からハンマーを投げつけられ,入院したこともありましたが,家族の帰国旅費を貯めるためには,そのようなひどい会社も辞めることは出来ませんでした。すべては家族がひとつになるため・・私は,必死で働き続けました。帰国から約3年後,私は,自分で貯めたお金で家族7人(妻と三男,三女)を日本へ呼び寄せました。やっと家族全員で暮らせることになり,大変嬉しかったですが,日本政府が帰国旅費を援助してくれさえすれば,家族が約3年間も離ればなれになるような事はなかったはずでした。
 また,私は,中国で獣医をやっていましたから,日本でも勉強をして獣医の免許を取り,獣医をやりたいと思っていました。しかし,現実は,獣医の勉強をする暇などありませんでした。必死で働くしかありませんでした。国の援助が何もなかったために,せっかく中国で得た獣医の資格を全く活かすことが出来ず,大変悔しいです。
 
 
4 ふたつの戸籍
 
 また,非常に納得のいかない問題として,私には,ふたつの戸籍があります。私が誕生した時に作られた戸籍は長野県にあり,帰国時,その戸籍は抹消されず残っていました。しかし,帰国後,入国管理局に日本国籍回復のための手続きをとっている中で,なぜか新しい戸籍謄本が作成され,そこには私が無国籍であり,日本に帰化したとの記載がありました。どうして元の戸籍が残っているのに,日本人である私が帰化しなければならないのか,納得出来ず,すぐに入国管理局に抗議しましたが,帰化の戸籍は変更されず,納得のいく説明もしてもらえませんでした。この戸籍のおかげで外国人扱いされることもあり大変困っています。
 
 
5 老後の不安
 
 私は,現在67歳です。60歳で勤めていた会社を定年退職し,現在はパチンコ両替所でパートをして,妻と二人で暮らしています。妻は4歳年下で,働いていましたが,2005(平成17)年5月末日,突然解雇されてしまいました。会社は理由について何も教えてくれません。私は,妻が中国人だと言うことで差別されているのだと思います。
 私の年を考えると,今の仕事をいつまでも続けられるか分かりません。現在月に10万円程度の年金を受け取っていますが,これだけで,老後の生活をおくらなくてはならないと思うと不安でたまりません。私は何も贅沢をしたいのではなく,日本で普通の日本人として生活がしたいのです。
 私は40人の原告の中で一番早く帰国しました。しかし,働くことに追われ,日本語の勉強も出来なかったため,今でも十分に日本語が話せません。そして,日本で30年間必死で働いてきたのに老後の生活がこんなにも不安です。
 国は,私たちが日本人として生活していけるだけの援助をする義務があるはずです。どうか私たちの日本人としての尊厳を認め,普通の日本人としての生活をさせてください。
 私たち孤児は九死に一生を得て生き延びましたが、その後は苦しみに満ちた人生を送ってきました。
 裁判官殿、どうか私たちの生き様をしっかりと見つめ、公平な判決を御願いいたします。
 
以  上