ひろば 2018年6月

 「いま」を学ぶ、子ども・若者


●いなおり
 そんなに言うなら「客観的な証拠、根拠を示せ」。何だか、最近どこかでよく聞いたような居丈高な物言いである。
 国連子どもの権利委員会(CRC)への「児童の権利に関する条約 第4・5回日本政府報告」(2017・6)の中で、言い放った言葉である。国連CRCは、第3回日本政府報告書への「勧告」(2010)で、日本社会の高度に競争的な環境が子どもの世界におけるいじめ、不登校、子どもの自殺等々の背景となってはいないか、子どもの成長や権利保障のあり方への懸念を示した。それを受けてのくだんの発言である。これまでの政府報告とは若干異なり、種々の政策等をあげて勧告への個別的応答をしつつも、一方で日本社会のあり方への言及に対して、頑なで居直るような応答である。
●「対話」の放棄
 本来、個別の立法や政策の実施状況の紹介を通じて、子どもが置かれている環境について政府の基本的な理解を示しつつ、政府報告審査の場での意見交換・質疑応答によって互いの理解を深めることが、報告審査制度の本旨である。国際人権条約のモニタリング(条約実施の検証)の意義は、基本的に建設的「対話」の姿勢を通じて人権保障の浸透をはかっていくことにある。自らに都合の悪きこと、批判的見解に対しては、説明することなく思考停止の姿勢をとる。どこか、既視感があろう。「共謀罪」法案の審議の過程にあっても、プライバシーに関する国連特別報告者カナタチ氏の懸念と意見に、報告官への尊重姿勢を示すことなく、個人の意見として無視をしたことも記憶に新しい。
 数を力とし、威嚇したり、しらを切る現状(いま)を、子どもたちや若者は学んでいる。子どもや若者の現状を真摯に見つめ、子どもの目線からいま何が必要なのかを探る多様なチャンネルを創出することが必要だろう。
●競争主義的社会
 家族や地域が自分の拠り所になるという実感が薄れ、社会でまじめに働くならひとりでまた家族として安定が得られるという展望や手応えも揺らぐ社会に我々は生きている。現在、家計や生活に不安を抱える人々は7割に及び、稼ぐことが最優先とされるなかで、生き方の拠り所や指針を見出しにくくなってきている。モノや情報、サービスを消費することで豊かさを確かめてきた時代にあって、いま、人々はその消費生活にさえ窮しはじめている。消費社会は、肥大化しながら一方で不安を抱え込み、閉塞感の中で弱い立場にある人々の「疎外」感を増幅させてもいる。
 そしてまた、学校をはじめとした教育、福祉などいわゆる公的空間・機関についても信頼が揺らいでいる。
 一方、いま政府・与党は、家族のあり方への国の積極的介入(「家庭教育支援法案」2017)、地域形成の担い手としての警察等の積極的関与(地域の安心安全条例等)、学校教育への懲罰的対応導入(ゼロトレランス政策)や道徳の教科化による評価導入、福祉の縮小恩恵化の促進など、いわば国家主義的再編を進めている。
●権利の希薄化に抗す
 こうした抑圧的社会の中で求められるのは、子どもの社会的成長、発達を支える環境形成、弱い立場にある人々の人権保障のあり方から検証することであろう。さらには学ぶこと、働くこと、生き方などのあらたな価値観を見いだす政策、法制度が求められる。
 非行などの問題を抱えた子どもの多くは、自分の存在を確認する家族(私的空間)、地域や学校等の公共の空間(場)においても疎外されがちで、いわゆる自分を肯定的に受容する「居場所」を持ちにくかった。子どもの成長発達過程の様々なステージで、子ども期の貧困化、子どもの権利の希薄化にいっそう拍車がかかる。このことに先の「政府報告書」は何も触れてない。
 子どもをはじめ多様な人々が社会的な活動に参加する時間的余裕、学びや立ち直り等々を支えあう関係作り、そうした「共生する空間・場」と価値観を創っていける契機やつながりが不可欠である。

(神戸学院大学 佐々木光明)


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