ひろば 2017年5月

 なぜ権力は共謀罪にこだわるのか


1 共謀罪立法に対しては、本誌を含め様々な批判・反対意見が表明されており、それらにより立法の問題性はほぼ明らかになっている。日本の刑法体系に整合しない、監視社会を形成・推進する、軍事国家に対する批判・反対を封殺する、などと。日本に限らず欧米でも、テロ対策・組織的犯罪対策の強化は、法治国家原理(Rechtsstaatsprinzip)を掘り崩し保安国家(Sicherstaat)を強化することになるとして、懸念を表する声は少なくない。
 また、今回の立法過程には、異様な点が多い。国連組織犯罪対策条約の批准に必要だとする一方、2020年五輪に向けたテロ対策だとして「テロ等準備罪」の名称が冠され、二重・三重の虚構が積み重ねられている点である。廃案になった法案が、ゾンビのように4度目の息を吹き返すことも、異例中の異例である。
 共謀罪が重なるべき基本的犯罪(別表)も、支離滅裂で目的がはっきりしない。テロ対策としての類型、強いて言えば了解可能な類型はまだしも、テロとは無関係な類型がきわめて多い。客観的存在たる法文から立法目的が見えないのも、やはり異常である。
換言すれば、権力側には共謀罪にこだわる理由があり、それが上記の異常な状況を生み出していると評価できよう。理由の一端を、共謀罪の法的性格から考えてみたい。

2 共謀罪は、英米法、特にアメリカのコンスピラシーをモデルにしたといわれる。アメリカで、コンスピラシーを語る際に必ずといってよいほど引用されるのが、「訴追側の秘蔵っ子」という、ある判例の一説である。この言葉が象徴するように、コンスピラシーの訴追は、訴追側の優位・被告人側への負担過重を宿命的性格として有している。
 その理由はいくつかあるが、共謀者に関する伝聞例外の許容(共犯者の自白の許容)、弱い情況証拠による有罪認定といった点は、日本法とも関連する。そして最も根源的な理由は、コンスピラシーの持つ曖昧さ(vagueness)にある。
 コンスピラシーは「カメレオンのような犯罪」という判例の一節も、有名である。固有の色がなく、「どの犯罪の上に乗るか」で色が変幻自在に変わるということである。曖昧さゆえに、訴追側は「犯罪の共謀」をさまざまな形で検挙できる。英米ともども古今を問わずコンスピラシーが濫用されたのも、この曖昧さに由来する(その一端は本号戒能論文参照)。

3 共謀罪の成立を限定するはずの「準備行為」も、実はきわめて曖昧である。殺人予備など現行法に存在する類型でも同様だが、前提となる基本的犯罪が重大で、その枠がある程度固まっているため、問題が顕在化しないにとどまる。しかし、共謀罪は多数の類型に乗るのであり、基本的犯罪が飛躍的に増える以上、枠そのものが弛緩する。
基本的犯罪の枠といっても、その周辺部分はどうしても曖昧化し、適用いかんによっては、暴走を招く。共謀罪でないが、基本的犯罪の枠がある扇動罪も曖昧な規定である(本誌前号の浦野論文参照)。
 このような曖昧さという性格を本質的に有するがゆえ、権力側には共謀罪を持つ旨味があり、そのために虚偽を重ねてでも立法に固執するのであろう。

4 最後に一言すると、取調べ可視化・盗聴拡大をワンセットにして共謀罪を認めようとの動きもある(5月3日現在)。しかしこれは、きわめて危険な議論であり、到底同意できるものでない。
 訴追・処罰に至らなくとも、また、たとえ取調べをせずとも、共謀罪を根拠に盗聴・逮捕・捜索ができれば情報収集目的を達成でき、それが本命である場合も少なくない。多くの弾圧・国策捜査といわれる事件で情報収集目的の捜索が行われていることや、無関係傍受が極めて多いことはよく知られている。
 曖昧な処罰規定を置き、権力サイドが捜索・通信に割り込める口実を拡大すること自体が、根本的に問題なのである。

(福岡大学 ・新屋達之)


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