ひろば 2016年7月

 「法民賞」選考委員を務めて


 第12回「相磯まつ江記念・法と民主主義賞」選考委員の受任依頼に対し、さしたる業績もない身ゆえ大いに逡巡しつつも、しかし林さんと委員長の広渡先生のお顔を思い浮かべて受任の蛮勇を奮った。筆者が博士後期課程に進んだ30年ほど前、ナチスの民族裁判所に関する文献の翻訳を通じて広渡先生の薫陶に与ったこともあり、何としてもいまひとたびお目にかかって教えを得たいという思いも強かった。

 選考委員会の議論は終始理性的かつ真摯に進められ、各委員のロゴスとパトスの横溢を示しながらも、神の手による予定調和のごとく法民賞と特別賞の全員一致での選出に至った。当今の反知性主義的な決断主義に対する拒絶の実践として、このプロセス自体が心地よいものだった。

 今回の選考対象は(敗)戦後70年、法民500号記念号を含む10冊に掲載された諸論攷だった。70年前の日本国憲法の公布を目前にしていた頃に時計の針を戻そう。当時、司法の民主化と自由主義化の実現には、「検察官司法」のエートスを基調とする官僚司法との訣別が不可欠だという思いを抱く在野法曹も多かったようだ。治安刑法の猖獗の記憶も生々しいその頃、
 「司法制度は国民大衆を抑圧し欺瞞しそのすべての自由を奪つて、暴虐な帝国主義戦争にかり立てるための国家機構の一部として打ち立てられたものである。この様な国家機構の中にあつてとくに治安の維持、すなわち戦争に反対する者に強圧を加へるための機能を果たしてきたものが現在の司法制度である」(岡林辰雄「司法制度の民主化─とくにその政治的意義について」法律時報1946年6月号)
という苦くて重い歴史認識に向合わざるを得なかったからである。
 数多の冤罪誤判をはじめ司法による人権蹂躙の歴史を省察すれば、官僚司法の極致をなした戦時思想司法のエートスを徹底的に排除せねばならなかった。
 だが、旧来の司法官僚や判検事の一斉罷免、刑事裁判改革のための起訴陪審を含む陪審制の採用、公判廷以外の自白の証拠能力排除等々の当時の提案は実現しなかった。
 最高裁創設時の裁判官の人選でも、偽電報といった謀略まで用いた旧司法省内の派閥の暗躍に加え、草創期に最高裁入りした弁護士らの反対もあって、司法権独立派は誰一人選任されず、追放を免れた思想司法官僚たちが戦後司法の主な担い手となった。
 代表的思想検事で公職追放後に最高裁判事に就任した者、満州国司法部で辣腕をふるった司法官僚で後に検事総長や最高裁判事、あるいはまた公安調査庁長官になった者もいる。
 歴史の省察を欠いたまま、司法省支配を最高裁事務総局支配に替えて、司法的官僚制度と検察官司法のエートスはなお温存・強化されている。

 「法と民主主義」の意義はこうした歴史的課題を発掘し、その位相を次世代に伝えることなのだろう。法民賞をはじめとする法民の諸論攷が、瑞々しい理性と感性をもってその使命に応えていることに改めて感銘を受けた。

(関東学院大学教員 宮本弘典)


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