日民協事務局通信KAZE 2013年11月

 深まる「先の見えない苦しみ」と住宅街のイノシシ


 一一月三日、公害弁連などが取り組んだ「フクシマ現地調査」に参加させてもらった。マイクロバスでいわき市から国道6号線を北上するにつれて、町や村の様相が大きく変化するのが印象的であった。
 まず、四倉・道の駅から久ノ浜。津波の大きな被害を受け多く人々が犠牲となった地域。国道6号線で津波が止められたとのことで、道路の右と左で景色の様相が全く異なる。津波被害の跡はすさまじいが、被害建物は大部分が撤去されて整地が進んできている。
 いわき市から広野町に入る。原発から二〇?三〇キロ圏内で全町民が避難した町。一昨年九月に「避難解除地域」になった。役場も避難先のいわき市から戻り、小中学校も再開したが、未だ事故時の人口五四〇〇人のうち、約二割しか戻っていないという。
 楢葉町に入って北上するにつれて人々の生活のにおいが薄くなっていく。楢葉町は「警戒区域」が解除されて「避難指示解除準備地域」となった地域。泊まれないが日中の出入りは可能となった、除染作業の地域である。集落と広々としたかつての田・畑が拡がる。除染作業の進んでいる場所は、それなりに元畑らしい地形が見て取れるが、北上するにつれて、一面のセイタカアワダチソウとススキの群生地で、畦などの跡形も見えない。
 楢葉町では六〇〇年以上続く古刹、宝鏡寺に寄せて頂く。第三〇代住職の早川篤雄さんは、四〇年来原発反対運動に取り組んでこられたが、事故後、いわき市に避難しておられる。宝鏡寺も除染したが、直後は線量が下がったもののすぐ元に戻ってしまったという。
 宝鏡寺でもう一人、同じ楢葉町の金井直子さんのお話を伺った。昨年四月の「『原発と人権』全国研究・交流集会in福島」の全体会の、被害市民報告者のお一人である。あの時から一年半を経過して未だに何時帰ることが出来るか見通しも立たず、「先の見えない苦しみ」が更に更に重くのしかかっていることが伝わってきて、改めて住民被害者の置かれている状況の厳しさが感じられた。事故から二年半以上を経過して、多くの家がネズミなどのすみかになっていて、戻っても到底住めそうにない状態になっているという。
 北上して富岡町に入る。この三月に、「警戒区域」から、一部が「避難準備区域」や「居住制限区域」となった。途中マイクロバスを降りて富岡駅までかつての駅前商店街を歩く。家の中に乗用車がひっくり返ったまま収まっている。津波で流されて中に入ってそのままになっているのだ。三階建の建物の左半分だけが潰れたままになっている。富岡駅の駅舎は流され、ホームと線路が草に埋もれていた。ここは、地震と津波で破壊された後全く人の手を入れられないまま、二年半を越える月日だけが空しく過ぎているのだ。
 更に「帰還困難地区」方向へ向かう。バスが住宅街を通過中、「あっ!イノシシだ!」の声に前方を見ると、イノシシが道路を横切って、左側の家の庭に入っていくところであった。一瞬のことだったが、逆光の中でイノシシのシルエットが思った以上に黒く大きく見えた。「イノシシが出る。イノシシと豚が交配してイノブタが生まれ、野生化している」との説明が事前にあったが、まさに話の通り、住宅地の中をイノシシが闊歩しているのだ。
 原発被害の現在の深刻さをリアルに垣間見ることの出来た調査だった。
 現在、来年の四月五日・六日に「第二回『原発と人権』全国研究・交流集会in福島」を福島大学をお借りして開催しようと、新しい体制で準備が始まったところである。事故から三年を経過した状況の下で、「被害の完全回復」と「原発のない社会」めざして、運動の前進に役割りを果たしたいと願っている。全国からのご協力とご参加を心から期待している。

(副理事長 海部幸造)


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