日民協事務局通信KAZE 2011年4月

 「震災は天罰」といった政治家の愚昧


 二〇一一年三月一一日は永く記憶に残る日となった。同日一四時四六分、未曾有の大震災が東日本を襲った。マグニチュード9・0は、そのエネルギー規模において関東大震災の7・9をはるかに凌ぐ(マグニチュード1の差は約三二倍)。その揺れだけで被害は甚大である。これに悪夢の大津波が続いた。青森、岩手、福島の太平洋岸の惨状には形容すべき言葉を知らない。無残にも、かけがえのない命が奪われた。その数二万余。生存者の多くも、家族や知人そして住居と職を失った。地域復興への道は長く険しい。
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 さらに、福島第一原発の事故が追い打ちをかけた。漏洩した放射能の恐怖が蔓延し、さながら日本は不安列島と化している。福島県浜通りを中心に、多くの人々が長期の避難を余儀なくされ解決のメドが立たない。農地や漁場の汚染、風評被害の問題も手つかずのままだ。
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 この災害を「天罰」と言い、選挙への影響を考えて翌日に撤回した愚かな政治家がいる。この天罰発言は、被災者の心情に思いをいたす姿勢が決定的に欠けていることで非難されたが、災害を科学的に把握する姿勢に欠けていることでも政治家失格である。
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 寺田寅彦が、ローマ時代の哲学者ルクレチウスの科学論を次のように紹介している。
 「ルクレチウスが雷電や地震噴火を詳説した目的は、畢竟これら現象の物質的解説によって、これらが神の所業でないことを明らかにし、同時にこれらに対する恐怖を除去するにあるらしい。不幸にして二〇世紀の民衆の大多数は紀元前一世紀の大多数と比較してこの点いくらも進歩していない。たとえば、今のわが国の地震学者が口を酸くして説くことに人は耳をかそうとはしない。そうして大正一二年の関東地震はあれだけの災害を及ぼすに至った。あの地震は実はたいした災害を生ずべきはずのものではなかった。災害の生じた主な原因は、東京市民の地震に対する非科学的恐怖であった」(寺田寅彦随筆集「ルクレチウスと科学」)
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 ここでは、災害を神の所業・天罰とする非科学的な妄言が斥けられ、科学的に対処しようとするローマ時代の知性が評価されている。これとの対比で、二〇世紀初頭の民衆だけでなく、二一世紀の政治家の愚かさが嘆かわしい。
 その愚昧な政治家が、首都の知事に四選された。このような人物に、防災対策ができるだろうか。「実はたいした災害を生ずべきはずのものではなかった」関東震災が、あれだけの大災害をもたらしたのは、人災の側面が大きかったからである。災害を「天罰」としてとらえるところからは、被害を救済し復興し再発を予防する措置は生まれない。あらゆる智恵を結集した合理的な対処が必要なことが明らかである。求められている智恵の中には、法律的な知識も、人権論の視点も含まれている。法律家も出番であろう。
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 また、寺田の次の指摘が興味深い。
 「文明が進むに従って人間は自然を征服しようとする野心を生じた。そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように、自然があばれ出して人命を危うくし財産を滅ぼす。その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工である……。いやが上にも災害を大きくするように努力しているのはたれあろう文明人そのものなのである。」(寺田寅彦随筆集「天災と国防」)
 今日の原子力発電のありようを予言しているごとくである。寺田の指摘のとおり傲りがあってはならない。正確な知識と情報のもと、国民自身が原子力政策を抜本的に見直して行かねばならない。安全は、政府の政策の反射的利益にとどまらず、生存権の一側面である。ここにも、法律家の出番があろう。

(弁護士 澤藤統一郎)


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