日記

怒らずにおられるか

君が代・解雇訴訟の法廷。まずは、志村高校の教員・片山むぎほさんが証言をした。
「高校生は、青年特有の潔癖さで大人の欺瞞を見破る。そして、欺瞞を許さない。教師は生徒に対して、自分の良心に恥じるな、状況に引きずられて良心をなげうつことの言い訳をするな、と教える。その教師が、良心を捨てたら教育という営みは成立しない。だから、日の丸・君が代問題では引くことができない」と証言した。現場にあって悩み決意した人の重い言葉として胸を突くものがあった。

次の証人が、志村高校の堀部元校長。同じ学校で、同じ時期に定年となった原告が事実上の解雇となっているのに、自分はのうのうと嘱託になっている人。それでも、事前の教員の評価は、「ほんとはよい人」「心ならずも、都教委の圧力に屈した人」というようだった。

ところがどうだ。片山証人とは雲泥の差。およそ教育を語る人ではない。完全に都教委の伝声管になりさがった哀れな姿。表では、「都教委の圧力から教員を守りたい」と言いながら、教委への報告書には「厳重な処分・措置を希望する」と書き、代理人から「これは都教委からの指示でこう書かざるを得なかったのだろう」との反対尋問にも、頑として「いえ、自分の判断でそう書きました」

尋問が終わったら、都教委側の指定代理人らに擦りよらんばかりに、「私の今の証言に、ご迷惑をかけるようなことはありませんでしたか」と言っていた。たいした「教育者」だ。彼の頭の中に、教育はない。あるのは「保身」の2文字のみ。

続いて立った小岩高校の藤松校長も同様。どうしてそんなに易々と良心を売り渡せるのか。そんなにも、あなたの良心は、安いのか。片山さんの証言のとおり、高校生はこんな校長の欺瞞を許さないだろう。

この二校長、おそらくは美濃部都政下なら、それなりにボロを出さずに順応した人物だろう。疾風の中での勁草たり得ない。どうして、かくも容易に石原ごときの操り人形と化してしまうのか。

こんな気分で、恒例の「9の日・護憲アピール」の地裁前宣伝行動に参加した。ところが、司法修習生がビラを受け取らない。無表情、押し黙っての明確な受け取り拒絶。来る者、来る者、みんな同じ。なんだおまえたちは。憲法問題に関心がないのか。なんの理想を持って法曹を志望したのか。おまえたちも、保身の殻に閉じこもっているのか。青年特有の正義感や、社会的関心はどこにやった。

あー、今日は怒り疲れた。

緊急シンポジウム「なぜ受信料を支払うのか」 

「報道・表現の自由の危機を考える弁護士の会」から参加した澤藤です。 

今、アメリカで、イラクへの軍事行動に反対する運動の先頭に立っているシーハンさんが、納税を拒否して話題となっています。イラク戦争に反対する以上は、その戦費調達の手段としての税金の支払を拒否することが、論理一貫した行動であり、運動としても有効なのだとの判断なのでしょう。
同様の思想や運動は、憲法9条を持つ日本において、以前からあります。防衛予算額相当分の納税を拒否する方、自ら「防衛費相当分控除」を設定して、申告する方はあとを絶ちません。この方たちを良心的納税拒否者と呼んできました。良心的納税拒否訴訟は、かつて華々しく法廷で争われました。
考え方の基本は、立憲主義に基づくもので、国家が国民に義務を課するには、憲法に則ったものでなくてはならない。違憲の行為のための徴税はできない、違憲支出の納税義務はない。というものでした。

さらにこの考え方は進展して、「国民は納税者として違憲の支出をさせない具体的な請求権を有する」という主張となります。
1991年、海部内閣が湾岸戦争に90億ドル(1兆2000億円)の支出を決めたとき、「ピースナウ・戦争に税金を払わない 市民平和訴訟」が提起されました。「主権者は、納税者として戦費支出差し止め請求権を有する」という基本思想でした。
残念ながら、判決では個人の請求権としては採用されませんでした。「良心的軍事費負担拒否」「納税者基本権」とも、実定的権利としては、認められていません。しかし、思想的に、また運動上、極めて説得力のある論理として、多くの人に浸透しました。

NHK受信料についても、同様に考えたいと思います。「良心的受信料負担拒否」であり、「視聴者基本権」の思想です。契約法理に基づくものとして、こちらの方が裁判所にとおりがよい。

NHK受信領支払拒否については、
@ 思想ないしは理念の問題として
A 運動上の有効性の問題として 
B 法的問題として
それぞれのレベルに分けて考えるべきかと思います。

放送法は、NHKに対する国民の信頼を基礎とする公共放送の制度を作りました。強制ではなく信頼によって経営が成り立つ制度。この信頼の根幹に政治権力からの独立があることは明らかですから、法は、今日の事態あり得ることを想定していたといってよいでしょう。NHK側に国民の信頼を揺るがす行為あれば、受信料拒否というサンクションが発動されることこそ、放送法が予定した事態であると考えます。考え方や理念のレベルでは、番組改変問題と、その後の対応に表れたNHKの姿勢に対して、大量の受信料拒否が生じていることは当然で、むしろ健全な現象だと歓迎いたします。


では、運動論のレベルでどうするか。何を獲得目標として、どこまでのことをするのか。については、NHKの番組作成の姿勢を全体としてどう評価するかにかかわってくるかと思います。少なくも、NHKに反省を求めて、支払い停止をすることは、有効で道理のある運動だと考えます。

受信料支払いは、税金のような公法上の義務ではなく、飽くまでも私的な受信契約締結の効果としての義務ですから、NHKが原告となる訴訟において問題となるのは、NHKが契約の本旨に基づく契約の履行をしているか否かです。ここで、契約の本旨たる放送とは何かについての徹底的な検証が必要となります。放送法の理念とは何か、NHKの使命とは何か、権力的介入とは何か、番組改変とは何であって、どんなに大切なことであるのか、十分な主張立証を尽くすべき大問題だと思います。

放送法は、目的に「放送による表現の自由確保」「健全な民主主義の発達に資する‥こと」(1条2・3号)を掲げ、「放送番組は、‥何人からも干渉され、又は規律されることがない」(3条)と定めています。安倍晋三や中川昭一など右翼政治家のご機嫌を取りながらその威に屈して番組を改変し、しかもこれを反省しないというのですから、NHKの側に債務不履行があると思います。視聴者が、このような事態でも、唯々諾々と受信料を支払わなければならないという理屈はありません。

いざというときには、堂々と受けて立ちましょう。

ついに出た「側室制度の復活」論 

話題の韓国ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」にはまった。聡明でけなげな女性が、数々の困難を乗り越えて宮廷の料理人として、また医官として成功を勝ち取る物語り。主人公の高潔さと、ひたむきさが爽やかで心地よい。ついつい、引き込まれた。毎週木曜日の夜が楽しみだったが54話で完結した。

よくできたドラマで楽しかったが、ストーリーのところどころに違和感を禁じ得ない。一方に貧しく無知な庶民‥。対して、聡明で優雅な王‥。庶民に対する親愛を忘れぬチャングムだが、けっして王政自体への批判や矛盾を語ろうとはしない。諸悪は君側の奸にあり、王自身は好人物に描かれる。人物のセリフや行動が現代的なだけに、なんだこれは‥。

とりわけ、王の側室の描き方に最大の難点。チャングムの親友は王に見そめられて、「幸せな側室」となる。チャングム自身も、医官でありながら危うく側室に‥という場面がある。宮中の女官すべてが側室候補。到底嫌とは言えない。そのために、結婚だけでなく恋愛もご法度なのだ。現代にこのシチュエーションでドラマを作ることが土台無理と言わざるを得ない。

側室とは権力の世襲制に伴うシステム。とりわけ、「万世一系・男系男子」などという神話に固執するにおいては不可欠な制度。現に日本では、天皇の側室なるものがなくなってわずか3代で、男系男子の世襲は危殆に瀕している。

で、いずれは出てくるだろうと思っていた、「天皇に側室を」の論議。遂に出た。皇族からだ。4日付の毎日によれば、三笠宮の長男・寛仁(トモヒトと読む、59歳)さんが、ある福祉団体の会報(9月30日発行)にエッセーを寄稿している。その中で、「女性・女系天皇の容認」に疑問を投げかけて「男系男子」継承を訴えているという。

「万世一系、125代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代・神武天皇から連綿として一度の例外もなく『男系』で今上陛下まで続いてきているという厳然たる事実です」と言っているとか。フーン、そんな「厳然たる事実」は初耳だが、そんなふうに教えられているんだ。

で彼は、男系男子世襲維持のための4例の具体策のひとつとして、堂々と「側室制度の復活」を挙げているという。皇太子とその夫人に、寛仁・側室復活論に対する意見を聞いてみたい。いや、聞くまでもない。側室復活論の出現は、天皇制が、あるいは世襲制の維持が、いかに現代に無理な制度であるかの象徴ではないか。

憲法公布記念日に

59年前の今日、日本国憲法が公布された。当時私は3歳。物心ついたときには、空気のごとくに当然の存在として日本国憲法があった。私は、時代の子として憲法の精神を受容した。

今考える。私が常識として受け容れた日本国憲法のエートスとは何であろうか。改憲勢力は何を攻撃しているのだろうか。

日本国憲法を貫いているものは、何よりも平和への意思である。アジア太平洋戦争の惨禍を経て再生した国の憲法である以上、当然のことであろう。平和こそ国民の願い、人類普遍の理想。平和こそ人権の基礎。平和・平和・平和‥。徹底して平和を希求する姿勢こそが日本国憲法の真骨頂である。

再び戦争の惨禍を繰り返さないための保障をいかに築くか。それは戦争をもたらした原因を徹底して検証し、反省するところから生まれる。日本国憲法は、戦前の体制における民主主義の過少を、その主たる原因とした。端的に言えば、天皇制こそが、戦争をもたらしたのである。

戦争ともなれば、あるいは戦地に送られ、あるいは銃後で被害を被るのは庶民である。庶民の真意が正確に政策化されれば戦争という愚かな行為はなかったはず。しかし、庶民の意思は踏みにじられ、あるいは天皇制政府の言論統制下にあるマスメデイアに操作され、あるいは臣民としての教育において、軍国主義に加担せしめられた。

天皇制を廃止して民主主義を徹底すること。そうすれば、軍国主義の復活はなく、平和を維持することができる。これが、日本国憲法のエートスではないか。

天皇の権能剥奪も、政教分離も、参政権も、表現の自由も、国際協調主義も、軍国主義復活阻止を意識したものである。天皇の権威による教育、天皇のご意思を魔法の呪文とする権威主義こそが、軍国主義・排外主義の温床であり、天皇の名による聖戦を可能とした。徹底して、天皇を無力化し、人畜無害とすること、これが日本国憲法の立場である。

さらに、日本国憲法は、戦争を廃絶するために、世界に先駆けて戦力の不保持を宣言した。ここに、日本国憲法の人類史的な意義がある。日本は、あらゆる政策遂行に、戦争を選択肢としないと自らの手を縛ったのだ。

憲法制定時と国際環境は変わった。当然のことである。だから、憲法は時代への適合性を失ったであろうか。とんでもない。「今こそ世界に9条の精神を」である。

憲法は、けっして現実に合わせて設計するものではない。国の理想を明示し、国に対してその理想に従った行動をするよう命じる規範である。戦争の惨禍から生まれた日本国憲法の、不戦の理想が輝きを失うことはあり得ない。

改憲を叫ぶ勢力は、「戦力保持は独立国の常識。丸腰では平和を守れない」という。企業活動の世界的規模での展開に伴い、在外邦人や資産を守る軍事行動を求める立場を採る。憲法9条を桎梏と感じ、これの改正を求めることなっている。
「平和は人類共通の理念、そのとおりだ。しかし、平和は相手国との関係ではないか。こちらがどんなに平和を望んだとしても、相手がならず者では素手での平和はあり得ない。軍事力を持ってこその平和ではないか」

この論理は、自国は常に善、相手国は常に悪役で警戒を要する、との前提である。こちらがそのような姿勢であれば、相手だって同じこと。これでは、相互の不信と憎悪の悪循環に陥ってしまう。行き着くところは、核とミサイルとの恐怖の均衡に支えられた危うい平和でしかない。

憲法9条、とりわけその2項の「戦力不保持」「交戦権の否定」が、今改憲勢力からの攻撃の焦点となっている。これを守り抜くことこそ日本国民がなし得る、人類史への最大の貢献である。

この日、平和のありがたさを再認識しよう。平和を築く方策についてよくよく考えよう。そして、平和を守り築く努力をいとわない決意を固めよう。

メディアも政治家もおかしいぞ 

正午から参議院議員会館で記者会見。朝日新聞に対する「ETV番組改変問題の報道総括に関する質問」についての申し入れの件。朝日には、14の市民団体が名を連ねての質問書の提出となった。私は、「報道・表現の危機を考える弁護士の会」からの参加。

もともとは、NHK問題であった。戦時性暴力を扱ったETVの番組については、まず右翼が蠢動した。慰安婦問題は皇軍の恥部である。大東亜戦争肯定論の立場からは、触れてはならないタブーである。しかも、「ヒロヒト有罪」の判決が民族派右翼にとって許し難いと映ったのだ。その動きを承けて、自民党筋の右派連中が、なかんずく安倍・中川らが同じレベルで騒ぎ出す。彼らも教科書から慰安婦問題を駆逐する歴史修正主義に血道をあげていたのだ。その結果の番組改変である。

NHKが自民党筋の圧力に弱いことが明らかとなった。制度も問題、ジャーナリズムの反骨を持ち合わせていないNHK幹部の性根も問題。これは何とかしなければ、NHKは再び大本営発表の伝声管になりさがる。私たちはそう危機感を募らせた。

朝日は、権力に対する監視機能をよく果たした。この段階では一も二もなく朝日に声援を送らねばならなかった。ところが、すこし風向きがおかしい。9月30日の朝日トップの記者会見と10月1日付の記事は、「取材の甘さを反省」という見出しで、朝日の側からこの問題に手打ちをしているように見える。

ことは重大。国民の知る権利にかかわる大問題であって、朝日一社の問題ではない。日本のジャーナリズムの今後を占う事態でもある。市民の立場において、こんな幕引きは許せない。

そう考えた市民団体が、5項目の質問書提出という形で、朝日に問題を提起した。
10月1日の朝日「反省総括」のあと、安倍・中川らは居丈高に、朝日に謝罪を求めている。いったいこれに屈するのか、毅然とした姿勢を貫くのか。
朝日自身の詳細な報道においても、安倍・中川の両名がNHKに圧力をかけたこと、NHKが権力に屈したことは明瞭ではないか…。

権力に切り込む朝日を応援し、うやむやに妥協しようという朝日を批判する趣旨である。回答は、11月18日期限で約束されている。

記者会見の席上、私の隣に座っていた醍醐聡さんが鋭く発言した。
「問題は朝日だけではない。他のメディアはどうしたのか。まるで対岸の火事を見るごとく傍観していることが解せない。朝日の取材が不十分だなどと批判するなら、どうして自らの取材でこの問題に切り込まないのか。この問題には、どのような取材競争がはばかられる事情があるのか。中には、明らかに朝日の足をひっぱつているメディアもある。ファシズム期のメディアを見ているようだ」

NHK問題から、朝日問題へ、そしてメディア全体の姿勢が問われる問題となりつつある。
そして本日、安倍晋三は内閣改造で官房長官に。こんな人物が政府の要職に? そして、次期総理だと? 常に国民はそのレベル相応の政治しか持てないのだと? 冗談ではない。徹底して、安倍・中川の責任追及をしなければならない。

自民党憲法改正草案ーその2

世界の憲法は歴史的に変遷してきた。概ね進歩の方向にである。
憲法の「進歩」とは、歴史の進歩と同様に、
個人の尊厳の軽視→重視
全体→個人の利益重視
圧迫→自由
専制→民主
戦争→平和
形式的自由→実質的自由
形式的平等→弱者への権利付与と保護
国家の強権→国家への規制→国家による福祉
国家だけではなく社会的強者への規制
というもの。要は、人民すべての尊厳を確保し、福利の享受を実質的に保障する方向が進歩である。自民党憲法改正草案は、この歴史の進歩に逆行するものと言わざるを得ない。

近代立憲主義として定立された憲法の本旨は、必要悪としての危険な国家権力を統制するところにある。せめて、そのくらいのレベルには、あって欲しいものと思う。しかし、草案は日本国民に「帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって、自ら支え守る責務を共有し」(前文)と、お説教を垂れる。余計なお世話である。国や社会への愛情を押しつける憲法は、近代立憲主義のレベルにも到達していない。

国際社会は、戦争の惨禍を繰り返しつつも、戦争を違法化する努力を積みかさねてきた。その歴史的な大きな成果の一つが、大戦間の不戦条約である。憲法9条1項は、このレベルであると理解されている。その後、第2次世界大戦の終了の間際、未曾有の戦禍の上に、戦争の違法化を徹底させた国際連合憲章が成立する。さらに、広島・長崎の核兵器の悲惨な被害を受けた日本が、究極の平和主義に則した憲法を制定した。これが9条2項である。

改正草案は、戦争の放棄を放棄した。戦争を政策遂行の選択肢とする国への大転換の宣言である。平和への叡智を積み上げてきた人類史への挑戦にほかならない。

個人の権利は、内容が豊富にならねばならない。制約が軽減されなければならない。ところが、自民党は個人の権利伸長を望まない。公共の福祉による人権の制限という評判の悪い規定を、改正するのではなく、「公益・公の秩序」に置き換えた。「権利自由の嫌いな人に、自由糖をば飲ませたい」と、自由民権運動で揶揄されたレベルを出ていない。

憲法における最高の価値は、どの個人にも備わっている基本的人権である。至高の価値である人権を、いかなる他の価値をもってしても制約することはできない。但し、人権と人権が相容れずに衝突する局面では、その調整原理が必要となる。これが、「公共の福祉」の実態。憲法学の通説はそのように説いている。
通説の理解に沿って人権尊重の趣旨で条文するのではなくまったく逆行して、「公益や秩序」によって人権を制約できるという発想が不気味で、恐ろしい。

草案は憲法20条に手を付けた。政教分離を緩和して、国の宗教的活動禁止は、「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えるもの」であって、特定宗教への助長や干渉となるものに限定した。靖国公式参拝を合憲とするねらいをもつものである。ここには、戦争への反省の欠如と、内心の自由や信仰への無理解、そして偏狭なナショナリズムが透けて見える。

草案のアメの役割をになう目玉が環境権である。しかし、このアメ甘くはない。
生存権と比較するとよく分かる。25条1項は、国民の権利として規定し、2項でこれに対応する国の福祉向上の義務を定める。ところが、25条の2として新設の条項は、「環境権」と標題されず、「国の環境保全の責務」とする。25条1項に相当する権利の規定はない。

国民の権利として明定されている生存権においてなお、プログラム規定とされて具体的権利性を否定されているのが現状。環境権においては、権利条項すらないのだから、すべては国の思し召し次第とならざるを得ない。到底、裁判で使えるような実定的権利性はない。

しゃぶったら甘くないアメで、改憲草案をまぶそうなど、自民党もお人が悪い。悪徳商法ばりではないか。むしろ、国の政治的方針として環境擁護をなすべき責務があるのだから、国民もこれに協力しなければならない、という文脈で使われることになりかねない。

アメ変じてムチである。国民を無知と嘗めてのことか。

自民党「新憲法草案」について

本日(10月28日)、自民党は憲法改正草案を発表した。これが、11月22日の結党50周年の党大会で正式に採択の予定だ。

日民協は、本日付で声明を発した。「日本国憲法の平和・人権福祉の原理を根底から覆そうとする時代錯誤の自民党『新憲法草案』に大きな反撃の声を上げよう」と標題するもので、この草案を「葬り去る」決意を述べるものである。このコラムは、飽くまで個人的な感想である。

「憲法改正案」ではなく、「新憲法草案」というネーミングが、自民党の真意をよく語っている。現行憲法の改正手続きに則った改正ではなく、「自主憲法制定」がこの党の結党以来の悲願であった。日本の政権与党は、自国の憲法に非親和性を持ち続けてきた、その意味では「反体制」政党であり続けた。「新憲法」制定は、内容においても手続きにおいても、必ずしも現行憲法との連続性を要求されない。現行憲法の理念から飛躍した本音を有していればこその、「新憲法」である。

しかし、「やりたいこと」と「やれること」とは異なる。彼らなりに、「現実」の壁の高さを認識しての妥協の成案とはなっている。とはいえ、彼らのやりたいことの10分の1でも現実になったら、日本国憲法はとてつもなく大きな変容を遂げる。この「草案」も、そのような危険なトゲをもっている。

自民党が作成する憲法改正案は、本音を丸出しに改正幅を大きくすればするほど成立は困難になる。本音を殺して改正幅を小さくマイルドにすれば、改正手続き成功の現実味が増してくる。今回の改正案は、改正実現への現実性を獲得しつつ、彼らの本音の相当な部分を織り込んだと言えるだろう。

大きく論点は3点だと思う。9条改憲と、96条改憲、そして人権規定の改正である。9条改憲案は相当に踏み込んだものとなった。96条の改憲手続きは、国会発議の要件を大きく緩和して、硬性憲法を軟化するもの。長期的になし崩し改憲をするねらいである。そして、人権規定は、憲法改正に世論を誘導するためのアメの側面と、国民に責務を負わせるムチの側面とが混在している。

さて、注目されたのは前文である。「新憲法一次案」(8月1日)にも「二次案」(10月12日)にも、前文はなかった。10月8日の読売にリークされた案文は、復古調の国家主義・民族主義丸出し。いかにも自民党の本音をさらけ出した体のものだった。ところが、本日発表された草案の前文はまったく違うものとなっていた。なんとも形容しがたい代物‥。

これは、前文の成案として発表したものなのか、それとも前文案レジメなのか。内容は以下のとおり。
@ 自主憲法制定の宣言
A 象徴天皇制の維持
B 国民主権と民主主義、自由主義と基本的人権の尊重及び平和主義と国際協調主義という基本原則は継承する
C 日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有する。
D 自由かつ公正で活力ある社会の発展と国民福祉の充実を図り、教育の振興と文化の創造及び地方自治の発展を重視する。
E 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に願い、他国とともにその実現のため、協力し合う。国際社会において、価値観の多様性を認めつつ、圧制や人権侵害を根絶させるため、不断の努力を行う。
F 日本国民は、自然との共生を信条に、自国のみならずかけがえのない地球の環境を守るため、力を尽くす。

あらためて思う。日本国憲法前文の格調の高さを。ご都合主義の取って付けた作文からは、格調は生まれない。おそらく、その文章を必然とした時代が格調を生み出すのだろう。自民党憲法草案には望むべくもない。

「新憲法草案」は、日本国憲法への部分改正の体裁を取っている。天皇の元首化は見送られた。それへの見返りとして、前文にことごとしく天皇讃歌を書き込むとの推測もあったが外れた。これは、彼らなりの現実の見極めである。

草案は、第2章の標題を「戦争の放棄」から「安全保障」に変えている。現行憲法9条1項をそのまま残し、9条2項を全部削除する。そして、新たに以下の9条の2を設ける。

「わが国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮者とする自衛軍を保持する」(1項)
「自衛軍は、第1項の規定による任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる」(3項)

この条文だと、日本の軍は、専守防衛を遙かに超えて、海外での武力の行使を可能とする。およそ、その歯止めはなく、どのような場合でも軍の派遣と武力の行使が選択肢に加わることになる。「自衛のため」との名目の戦争から、「国際社会の平和と安全を確保するために」「緊急事態における公の秩序を維持するため」「国民の生命若しくは自由を守るために」戦争ができる。

国連決議のない多国籍軍への参加も可能であり、武力の行使も可能となる。周辺事態において、アメリカと連携した戦闘行動ももちろん可能。集団的自衛権の行使である。危険きわまりない。

草案のポイントは、9条改正と並んで96条改憲である。
改正手続き、とりわけ国会の発議の要件を「3分の2」から「過半数」にしようとしている。これが実現すれば、政府与党は好きな時期に好きなテーマで改正発議ができることになる。

9条と96条の改正、これは財界の提言ではないか。財界は、目先ではなく長いスパンで自分の思うような憲法を手に入れようとしている。すぐにすべてのテーマに決着をつけずとも、まずは硬い憲法を軟らかくしておけば、自分の意に沿った内容に改変できる、そう思っているのだ。

財界が望む方向、それは新自由主義的な小さな政府を実現する憲法。経済活動を最大限自由とし、貧富の格差を容認する社会。そして、彼らの富や在外資産を防衛する「軍事大国化」に適合する憲法である。

この草案はやはり危険きわまりない。「葬り去って」しまいたいと痛切に思う。

「武富士の闇」訴訟・控訴審完勝  

「武富士の闇を暴く」事件弁護団を代表して、記者の皆様にご報告いたします。

本日午後1時10分、東京高裁民事22部は、「武富士の闇を暴く」訴訟の控訴審判決を言い渡しました。主文は控訴棄却。一審に引き続いて、われわれの全面勝訴です。

判決内容は、意外に木で鼻を括ったものではなく、控訴審裁判所(石川善則裁判長)の事実認定や法的評価が示された中身のある判断です。一審の「藤山判決」以上と評価できそうです。

武富士から、「闇を暴く」の執筆者らに対する損害賠償請求は、「記事のほとんどが真実」「それ以外もすべてが、真実と信じるについて相当性あり」として、名誉毀損も信用毀損も成立しないとして請求は認められない。この点原判決と変わりませんが、第三者請求の悪質性や厳しいノル
マ、社内での罵声怒声の酷さなどを詳細に認定しています。

本案の訴訟提起自体が不法行為を構成するとして反訴の請求を認容したことも原判決と変わりません。しかし、ここもかなり突っ込んで、批判の言論封じの提訴と推認せざるを得ないとしています。

武井保雄の個人責任は、原審では武井が尋問の呼出を受けながら正当な理由なく出廷を拒否したため、民事訴訟法208条を適用して、原告の主張を真実と認めるとしたものでした。今日の判決は、この点について詳細に刑事記録などを引用し、民訴208条の適用なくても責任を認めることができる、としています。

この事件は、ダーテイーな大企業が批判者の言論を封殺する目的でした、出版妨害であり、弁護士業務妨害の訴訟です。5500万円という高額請求で、出版社や消費者弁護士の萎縮効果を狙った訴訟提起なのです。だから、請求棄却で勝訴するだけでは足りない。反訴を提起して、かような提訴をすれば、痛い目に遭うという反撃が必要だったのです。

記事が真実か否かは、書かれた武富士が一番よく分かるだろう。それなのに、ろくな調査も検討もせずに、いいかげんな提訴をしたことについて、裁判所の苦々しさが伝わってくるような判決文です。また、名前を挙げて、代理人の責任にも言及しています。この弁護士は、ほかでも同じことをやっている常習者。この訴訟では、われわれの完勝と言ってよいのと思います。

社会的な強者は、金に飽かして批判を封じる力をもっている。知識や技術を高く売りつけようという連中がいるからだ。しかし、金では動かない人たちもいる。当事者席のアチラとコチラは、同じバッジを付けていても、人種が違う。金で動くか、心意気で動くか。心意気派がいつも勝つとは限らない。しかし、今日は、大いに胸を張ることができた記者会見だった。

元気を出したまえ 

おや、ひさしぶり。サワフジ君。少し時間があるか。コーヒーでも飲みながら話をしよう。

元気がないのか。展望が出て来ない? これまで、こんなことはいくらもあったさ。ごまかしの選挙結果がそんなに長続きするわけはない。

小泉が靖国参拝をしたって? 予想されていたこと。政権が矛盾を深めるだけのことではないか。アジアの中で、徹底して孤立するところからでなくては、日本の反省が始まらない。早晩、また劇的な変化が起こることは目に見えておる。

オレの確信の支えになっていることが二つある。ひとつは、99年ハーグの世界市民平和会議でのツツ大主教の言葉だ。何も難しいことを言ったわけではない。「20世紀は残酷な戦争の世紀であったが、同時に人類の平和に向けての偉大な叡智を見せた世紀でもあった」から始まる。そして、「戦争が人間の手で起こされるものである以上、人間の手でなくすことができないはずはない」と言うんだ。「人類は、何千年も続いた奴隷制度に終止符を打った。アパルトヘイトも止めさせた。そして、平和のための仕組みとして国際連合を設立した。その人類が、戦争をなくする展望を持てないはずはない」。あの人がそう言うからでもあるが、大喝采だった。

それから、この間のコラップ4(第4回アジア太平洋法律家会議)でのアジア諸国の法律家の発言だ。みんな、素晴らしい。自分たちの力で民主主義を勝ち取ったという確信に満ちている。そして、バランス感覚がよい。異なる意見に謙虚に耳を傾ける姿勢がある。韓国やベトナムに特に感じるが、アジアは実に進んでいる。このままでは日本はますますアジアから遅れ、孤立する。アジアから孤立して日本の未来はない。

一見、小泉は選挙に勝った勢いで何でもできるようでもあるが、実は日本の民衆からも、アジアの民衆からも孤立しつつある。その民衆が戦争を止めさせる力をもっている。アジアの民衆は、その力を自覚しつつある。日本の民衆もいずれそうなる。

コーヒーだけじゃもの足りないな。スパゲティを一緒に喰おう。元気を出せよ。

横山洋吉尋問

この男が横山洋吉(前・都教育長)か。「10・23通達」を発し、都下の全校長に「日の丸・君が代」強制の職務命令を出させた男。300人余の教員を懲戒処分し、本件原告10名の首を切った男。石原慎太郎(知事)の意を受けて、公教育に国家主義的イデオロギーと管理主義教育体制を持ち込んだ男。

君が代解雇訴訟で、この男が地裁103号法廷の証言席に座った。庁内最大の法廷も、今日は傍聴席の抽選倍率が3倍となった。原告側の反対尋問時間の持ち時間は2時間。私も30分余担当した。

主尋問への証言は無内容、粗雑なものであった。こんな粗雑なだけの証言をする人間に、教育行政を預け、教員の首を預けていることへの恐ろしさを禁じ得なかった。とんでもない人物に権力を握らせる恐怖である。

しかし、反対尋問では、意外に証人は挑戦的ではなかった。そして、証言の切れ味もなかった。ただただ粗雑に、首切り役人の役割を買って出たその姿を露わにした。憲法の理念に理解なく、なすべき検討を怠り、慎重さを欠いて、ひたすら蛮勇をふるった姿。

彼が語ることは、極めて単純。
『学習指導要領が法的拘束力を持っている。それに従って適正に国旗国歌の指導が必要だ。ところが、都立校では適正な指導がなされておらず、積年の課題として正常化が必要だつた。だから、「10・23通達」が必要だった。「10・23通達」に基づいて、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」との職務命令を発したのは校長の裁量だが、職務命令が出た以上は、その違反を理由とする懲戒処分は当然』これだけである。

この道筋以外のことは彼の頭に入らない。検討もしていない。この彼の「論理」の道筋を辿った反対尋問がなされた。学習指導要領の性格について、旭川学テ訴訟最高裁大法廷判決の理解について。「大綱的基準」の意味について。創意工夫の余地が残っているかについて。学習指導要領と「10・23通達」の乖離について。教員への強制の根拠について。児童生徒の内心への介入について。強制と指導の差異について。内心の自由説明を禁止した根拠について。処分の量定の根拠について。比例原則違反について‥。

およそ、憲法上の検討などはしていないことが明らかとなった。彼は、「憲法19条の思想良心の自由は、純粋に内心の思想だけを保護するもの」という。では、「内心の思想良心が外部に表出されれば、21条の問題となる。21条についてはどのような検討をしたのか」と聞いたところ、「21条とは何でしょうか。私は法律家ではないから分からない」と言った。これには、本当に驚いた。21条は、9条と並ぶ憲法の看板ではないか。憲法のエッセンスである。本件でも、不起立を、象徴的表現行為との主張もしている。

突然に尋問が空しくなった。もっともまじめな教育者たちが、その真摯さゆえに、こんな程度の人物にクビを切られたのだ。およそ何の配慮も検討もなく。