日民協事務局通信KAZE 2014年6月

 裁判官の役割と「良心」


 下級裁判所の裁判官を定年で退官して早くも一〇年目。代理人や弁護人として、一審、二審に三審も経験したが、最高裁の法廷に出頭したことは一度もない。上告理由書・上告受理申立理由書を三回書く機会があったが、いずれも三行半の決定で終わり。正直のところ、最高裁には失望を禁じ得ない。
 裁判官の時にはそれ程感じなかったが、当事者にとって裁判官は非常に気になる存在であり、重視されているということである。事件によっては、頼みは裁判官だけという場合もある。
 特に、刑事再審事件は、頼みは裁判官である。静岡地裁二〇一四年三月二七日の袴田事件再審開始決定は、裁判官の職権を適正に行使し、頼みになることを国民に示した。死刑及び拘置の執行を停止する理由として、「死刑の執行を停止すべきであることは当然であるが、本件では、さらに、拘置(刑法一一条二項)の執行も併せて停止するのが相当と判断した」とし、捜査機関によりねつ造された疑いのある重要な証拠によって有罪とされ、極めて長期間死刑の恐怖の下で身柄を拘束されてきたことなどを考えると、「拘置をこれ以上継続することは、耐え難いほど正義に反する状況にあると言わざるを得ない。一刻も早く袴田の身柄を開放すべきである」と結んだ。この文章は、裁判官の良心から出たものと思われる。弁護団や支援者等の辛抱強い活動がようやく裁判官の良心を突き動かしたとも見られるが、やはり良心的な裁判官の存在が重要である。
 民事事件でも国民の人権に関わる訴訟や行政事件は、裁判官の判断が頼りである。立法と行政は多数決原理が支配するが、司法はそれから外れた少数派の権利ないし利益を保護する役割を担っているからである。
 去る五月二一日、福井地裁で関西電力大飯原発3、4号機の運転を差し止める判決が言い渡され、横浜地裁では厚木基地での午後一〇時から午前六時までのやむを得ない場合を除く自衛隊機の飛行差し止めを国に命じるとともに、騒音による健康被害への不安や精神的苦痛が生じているとして過去の慰謝料分として一人当たり月額四千円ないし二万円(総額約七〇億円)の支払いを国に命じた。差し止めは、人格権に基づく妨害排除ないし妨害予防として認めたものであり、周辺住民の生命、心身の健康、生活に関する利益を原発稼働の経済的利益や自衛隊機の運行の利益に優先させる判断をした。国民主権の民主主義国家における裁判官の価値判断として当然ともいえるが、やはり画期的であり、日本国憲法下での裁判官の良心の現れと高く評価できる。
 大飯原発訴訟判決(要旨)の「多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等を並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的に許されないと考える。」、「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻せなくなることが国富の喪失だと当裁判所は考える」、「福島原発事故は我が国始まって以来最大の公害、環境汚染であることに照らすと、環境問題を原発の運転継続の根拠とするのは甚だしい筋違いだ」との判示には、胸がすく思いがする。これは国民の良識に叶う道理であり、上級審で破ることは困難のように思う。
 民主党政権の自己崩壊後、安倍政権の独断的・復古的政策の強行によって日本国憲法の国家体制は崩壊の危機に向かっている。この危機に司法はどんな役割を果たせるのか。裁判官を含む法律家の良心も試されている。

(弁護士 北澤貞男)


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