2006年1月

米兵の強盗殺人に怒る。

私はナショナリストではない。ナショナリズムそのものの価値を認めない。ナショナルなシンボルの呪縛を排斥しなければならないと考えている。
サッカーの試合では絶対に日本を応援しない。オリンピックでは、小国、新興国、第三世界の選手の活躍に拍手を送る。日本人だから声援を送ることはあり得ない。
その私も、米兵の日本人に対する犯罪には、心底腹が立つ。切歯扼腕である。

暮れの八王子での米兵轢き逃げは、「公務中」の犯罪だったという。地位協定17条3項a(A) では、「公務執行中」の犯罪については米軍が第1次的に刑事裁判権を持つ。米軍が裁判権を放棄しない限り、日本の司法当局はどうにも手出しができない。なんたること。幕末の不平等条約さながらではないか。

1月3日早朝には、横須賀の女性がキティホークの水兵に殺害された。敢えて断定は避けるが、状況からは強盗殺人であるらしい。極めて凶悪な犯行である。今度は、公務執行中ではない。従って、第一次の裁判権は日本側にある。ところが、地位協定の同条5項cでは、「犯罪者の身柄が米軍の手にあるときは、起訴まで米軍が拘禁する」となっている。
身柄を日本の警察・検察に引き渡さないというのだ。これで、日本の警察・検察が十分な捜査ができるか。何よりも、日本で犯した日本人に対する犯罪ではないか。他の日本人犯罪者と同等に取り扱え。

たまたま、今回は監視カメラに、犯人が写っていたようだ。それなければ、身柄を押さえずしては、起訴までの証拠固めもできはしないだろう。

地位協定なんぞ廃棄せよ。そもそも、安保条約そのものが不要だ。轢き逃げや、殺人、強姦を繰り返している米軍の駐留など、まっぴらごめんだ。

大国の横暴に対する抗議に有効である限りにおいて、ナショナリズムもまた良し。都知事・石原慎太郎よ、横須賀市民・小泉純一郎よ、米軍に抗議せよ。

伊勢神宮参拝に異議あり

「日本の国、まさに天皇を中心とする神の国であるぞということを、国民の皆さんにしっかり承知していただく」と公言した森前首相を、マスコミは袋だたきにした。首相の靖国神社参拝にも、マスコミはそれなりの反応を示している。
ところが、そのマスコミが首相の伊勢神宮正月参拝に鈍感なことには合点がいかない。

政教分離という憲法理念は、形式上は「国家と宗教一般」との癒着を禁ずるものである。しかし、そのココロは、国家権力と神道との接近を戒めるところにある。言うまでもなく、「天皇の神格化」を警戒する条項なのだ。

かつて、神道は天皇の神格化の道具となった。天皇を神聖化し、崇拝の対象とすることは、為政者にとってこれ以上ない国民操作の魔法の杖であった。国民を主権者ではなく、臣民にとどめおくための不可欠の装置。それが天皇制と神道との結合によって誕生した国家神道である。

従って、日本国憲法では廃棄されなかった天皇制を、純粋に象徴天皇として、人畜無害の存在とするためには、国家神道の復活に過敏でなくてはならない。いささかも天皇を神格化する企てを許してはならない。国家と神社との癒着を厳格に断ちきらなければならない。

伊勢神宮こそは、国家神道の大本締めである。かつて、社格をつけられた11万神社の本宗である。1869(明治2)年8月、靖国神社の前身である東京招魂社が、新政府から社領1万石を下賜されたとき、これに匹敵する処遇を受けていたのは伊勢神宮のみであった(村上重良「慰霊と招魂」56ページ)。

靖国神社にはA級戦犯が祀られており、それゆえに首相らの参拝には近隣諸国からの批判の声が高い。しかし、憲法上の政教分離の理念からは、伊勢神宮参拝も重大な違憲行為であることに疑問の余地がない。A級戦犯分祀完了後の靖国神社参拝と同じレベルの憲法問題である。

小泉首相は本日、三重県伊勢市を訪れ、伊勢神宮を参拝する。7閣僚が同行する。さらに、民主党の前原誠司代表までも、違憲行為を競い合うという。

伊勢神宮参拝への許容度は、憲法の理解度に反比例している。与党も野党も、かつて天皇制から弾圧された宗教政党も、何という鈍感さであろうか。

継続は力。されど継続は難し‥。

年賀状やメールで、何人かに言われる。
「憲法日記を楽しみにしています」「憲法日記はどうなっていますか?」「最近、サイトを開いても何も書いてないじゃないですか」「どうしたんですか。日記は?」

やんわり型から、詰問調まで‥。ウーン。どう弁解しょうか。弁解やめとこか。

事務局長日記は、われながらよく書き続けたものだと思う。盆も正月も、日曜も祝日もなし。もちろん、夏休みも冬休みもなく書き続けた。日民協事務局長としての義務感あったればこそ。いま、その任務から解放されて、あれだけのものを、もう一度という気力はない。

「小人閑居して不善をなす」という格言を噛みしめている。不善をなすほどの元気もないが、任務の重圧なければ、易きに流れることになる。

今年は、「憲法」にとらわれずに、気楽に何でも書きつづっていくスタンスとしよう。打率は、イチロー並を目ざさず、清原程度で良しとしよう。

年賀状に見る、護憲の息吹。

たくさんの賀状をいただいた。年賀郵便、年賀メールも‥。ありがとうございます。

私の方はといえば、年賀状・暑中見舞いの類を出していない。だから、毎年いただく賀状は少なくなる。当然のこと。

私が最後に賀状を出したのは、最後に健康診断を受けたころだろうか。前の天皇が死んだころ‥。あれからずいぶんと久しい。

私が年賀状を出していたころには、昨年の反省や今年の抱負を書いた。自分の現状を報告し、新年の決意を述べた。個人的な努力で事態が切り開ける。そんな楽観があったように思う。いただく賀状も同様だった。

今年いただく賀状は、一様に暗い。憲法状況についての危機感が漂う。多くの人が、改憲の動きに神経を尖らせ、何とかしなくてはとの思いを募らせていることが感じられる。「危機」ではあるが、これだけ多くの人々が危機感を募らせ、何とかしなければならないと考えているのだ。護憲の決意が押し寄せ、励まされる。

「もはや新しい戦前」「1930年代に酷似」とも言われるが、戦後民主主義は、まだまだ大きな力量を秘めている。私も、その陣営の一人として、微力を尽くそう。

予防訴訟提訴間もなく2年

赤旗を購読して久しくなるが、連載小説にはなかなか目が行かない。ずいぶん昔、早乙女勝元の「わが街角」が唯一の例外であったか。
今、森与志男という作家が「普通の人」を連載している。
テーマは、学校現場の日の丸・君が代強制。生々しい同時代史である。主人公の教員は、必ずしも活動家ではない。運動の中心にもいない「普通の人」。
本日付赤旗6面で、いよいよ予防訴訟が提起される。主人公は、活動家から電話でそのことを知らされる。が、元気のよい報告を聞かされても彼にはその訴訟の有効性に確信が持てない。混迷は深くなるばかり‥。

作者は現場の教員ではない。日本民主主義文学会の会長を務めている人とか‥。さすがに、教師群像を、それぞれの手触りの感触までよく描いている。私にも、才能あれば別の角度からそれなりのものをかける素材はあるのだが‥。

数日前に、教員間の会話の形で、予防訴訟が紹介されている。教員のひとりが、「訴訟の名称はなんというんだい?」。メモを見ながら答がある。「国歌斉唱義務不存在確認等請求事件‥」「ずいぶん長い名前だな‥」

訴訟に名称がついているとは、門外漢には思い至らないだろう。ましてや「予防訴訟」という通称とは別に、本名があろうとは。実は、この小説の通りの正式名称なのだ。請求の趣旨第一項「原告らがいずれも、卒業式入学式等の学校行事において、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務のないことを確認する」から、とったもの。その命名者は私である。

弁護団には、弁護団なりの苦労がある。思い入れも、怒りも、苦悩も、迷いも‥。教員には教員の、切実な苦悩や迷いがある。多くの運動参加者から、聞いてはいるつもりだが、小説という形式での関係者の心の動きには、また新鮮なものを感じさせられる。

「10・23通達」から既に2年余。今月末には、予防訴訟提訴2周年となって、本年3月の結審を目ざす段階に至っている。この訴訟と、それを取りまく運動で多くのことを学んだ。

改憲反対という運動は、このような具体的な憲法理念実現の運動によって内実を与えられる。憲法を獲得する諸運動の集積として、改憲阻止運動がある。今年も、微力を尽くそうと思う。