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■特集にあたって
アメリカ下院に、マイクホンダ氏など一〇〇を超える議員が呼びかけ人となって、日本政府が「慰安婦」に対し明確な謝罪を行うことを求める決議の提案がなされた。これに対し、「慰安婦」の存在を否定する国会議員グループが米国紙に意見広告を出すと、アメリカやアジア各国のマスコミが猛反発をし、却って多くの議員がマイクホンダ氏の提案を支持する結果となった。今年八月初め頃には、アメリカ下院の本会議で決議案が採択される見通しである。
国際社会と日本政府側の歴史認識のギャップがいかに深いか痛感させられる。日本政府は今も本会議での決議を阻止するために必死にロビー活動を展開している。
歴史認識問題の中心は日本の侵略戦争を肯定する意識を有しているかに係わる。
私たちは、国際社会から日本の侵略戦争の事実を発信し、これを基礎とした東アジアの和解の契機になることを願って、シンポジウム「過去の遺産に向き合い、東アジアにおける正義と和解の促進」を企画した。「憲法改正」を梃子に戦争をする国を目指す動きに対し、東アジアの和解による安全保障・平和の在り方を提示し、憲法の国家観である「戦争をしない国」づくりを示そうとするものである。
アメリカ、カナダ、イタリア、ドイツ、マレーシア(シンガポールも参加)、韓国、中国で国際シンポジウムを開き、一二月一五・一六日に東京で、それまでの国際シンポジウムの成果を踏まえて総括的な国際シンポジウムを開くことにしている。最初の企画として行われたアメリカでのシンポジウムの内容をご紹介したい。
日本の二院制の特殊性
日本国憲法が定める衆参両院の制度は、世界にまれに見る「等質的」二院制である。イギリスはいまだに貴族院制をとり、アメリカの上院やドイツの連邦参議院は連邦を構成する「各州の代表」であり、フランスの上院も間接選挙制をとり「地方公共団体の代表」でもあるなかで、日本の参議院は、衆議院と同じく、「全国民を代表する選挙された議員」(四三条)で組織することとされ、権限における衆議院の優越、参議院は解散制度なしの半数改選という仕組みをとる以外は、比較的対等な二院制である。そして、いわゆる「政治改革」の結果、衆参両院は、選挙区選挙と比例代表選挙の組み合わせという点まで似ることになった。
現代議会制における政権交代と政策選択
比較的対等な二院制で選挙制度も類似とあれば、言い古されてきた「衆院のカーボンコピーはいらない」との参院不要論が力を得る条件がそろっているようにも見えるが、私は、日本の二院制の仕組みは、それがうまく働けば、現代の議会制の問題状況とその改革の方向性を示唆する可能性を秘めたものと見ている。その意味において、参議院の権限縮小をもくろむ改憲論には、警戒の念をもっている。
一九八〇年代以降の先進資本主義国において、それまでの福祉国家的な「合意の政治」を突き崩して新自由主義的政策を断行しようという支配層にとって、保守二大政党制を維持ないし実現できる二者択一「政権選択」型の選挙制度、すなわち政権の帰趨を左右する下院での小選挙区制や公選大統領の選挙に国民の関心と選択を閉じこめることが共通政策であるかのように、事態は推移した。
かくして、先進各国では、新自由主義という大枠を踏み越えない限りでの政権交代と政策選択が繰り返されてきた。
参議院選挙での政策選択の意義
こうして新自由主義全盛の時代における政治は、国民に幅の狭い政治選択を強制し、その政治的構想力を抑圧し奪ってきた。アメリカのイラク侵攻とそれに追随する日本政府の失敗、貧困の増大と格差の拡大という事態によって現在の政治の破綻があらわになるなか、今こそ国民の政治的想像力、すなわち政治の基本方向の根本的転換を追求する力の復活が急務となっている。
そうしたなか、選挙において私たちが選択するものはほかならぬ政策という形で示される政治の基本方向であることを正面から問うことのできる参議院選挙の意義は、格別に大きい。かつての中選挙区制の時代には、衆院選挙でも活発に政策論争がなされ、それが各党の獲得議席にも相応に反映していたと思う。政策論争と政策選択の復権。それを、小選挙区制によって極度に歪められた衆院の選挙に先んじて参院選挙で着手することに、この国の政治の転換を期したい。
最重要の政策選択としての憲法問題
今回の参議院選挙は、いつになく政策論争を顕在化させた形で始まった。かつてなら真っ先に「争点隠し」されてしまう憲法問題も、ほかならぬ改憲派の方から正面切って論じられている。改憲派は九条の明文改憲を打ち出しながら、集団的自衛権をめぐる政府解釈の変更をせまる解釈改憲を策すという動きに出ている。こうした選挙で改憲派のもくろみを挫く結果を残せるかは、九条改憲を阻止する取り組みにとっても重大な意味をもつ。
作家伊佐千尋は一九二九年生まれ、今年七八才。ダブルセブン喜寿を超えた。嘘でしょう。いつもどこか洒脱で自由な雰囲気。「ハーイ伊佐。元気」なんて言いたくなる率直さを漂わせながら、少し無頼なにおいもする。フランクな社会派でちょっとただ者でない。初めてお見かけした二七年前から全然変わっていない。「飲もう、飲もう」というのも同じだ。
インタビューにうかがうためにアポを取るときは「おいしいワインをごちそうしますから」。飲んだらインタビューにならないのに。
伊佐さんが弱冠二四才、独身時代に買ったというご自宅は、横浜の仲尾台にある。山手駅から歩いてすぐの高台。公園脇の急な石段をのぼって行くとうっそうと茂った木々が門に覆い被さり、右の桜の木は門柱を押しのけている。伊佐さんみたいにすてきなおうちである。伊佐さんはオキナワにも家を持っていた。昔は海を見ながら朝コーヒーを二杯飲み、新聞に目を通してから仕事に出かけた。子供たちをクライスト・ザ・キングスクールに送るのは奥さんの日課。
先生は短パン姿で玄関から出てくる。玄関の網戸をあけて入ると右手が書斎。左の居間から外の緑と山手の家並みが見える。電車はトンネルに入るらしく音もしないし姿もない。「昔はベランダから海が見えたんだ」と伊佐さん。中国家具がなかなかいい感じ。「この応接セットは香港で買ってそのまま飛行機に積んで持ってきたの」。えっ? 「そのころはいつもファーストクラスだったからオーバーウェイトは融通がきいた」。窓辺にはずらりとCDが並んでいる。ダイニングテーブルにはアルバムが積まれている。奥様の邦子さんがロールケーキと紅茶を持て来てくださる。すらりとしたモダンな奥様邦子さん。ははーん先生はすらりとした女性が好きなんだ。デブの私はちょっと反省。
伊佐さんの人生は波瀾万丈。とにかくすごいのである。人生の前半は小説みたいだ。ある日邦子さんが伊佐さんの目の前に一枚の支払い済み小切手を差し出した。実はかけゴルフ一ラウンドの支払い。当時家が三軒買えるくらいの額だった。邦子さんは一桁間違えていたぐらいの額。「あなたが米軍と折り合わずに会社を閉めた気持ちはわかります。あなたらしいと、むしろ誇りにさえ思っています。いままでよく働いたんですから、それもしばらくの間はいいでしょう。でももう何年になると思いますか……仕事をしないで、ゴルフを毎日、ポーカーを毎晩なさっても今のところ私は文句など言いません。ギャンブルもほどほどになさるなら、……ともかく、いつかは好むと好まざるとにかかわらず、あなたは小説でも書かなければならない破目になりますわよ」。
一九七八年「逆転」で大宅壮一賞を受賞し、伊佐さんは「文筆の世界に」。四九才での遅いスタートだった。
伊佐さんは三九才ではやばやと実業をリタイアした。「苦難の時代を乗り切り、父から託された弟妹たちが大学を卒業し、社会人として巣立つと、急に肩の荷をおろした気になった。そのころには、自分にも二人の子供がいたのだが、いつまでも実業の世界に身をおいておくつもりはなく、一九六八年、会社を売却した」。「しばらくは、自分の好きなことをして暮らそうと、かなり長い間、毎日ゴルフばかりして遊んでいた」。「ある日、木の上に止まったボールを打とうとして落下、肋骨を二本折って医者から安静を命じられた。その間、退屈まぎれに、自分の陪審員体験をもとに初めて小説を書いた」と簡単に言う。がこれがなかなか難航した。まずは訴訟資料が無く暗礁に。奇跡的に見つかったがこれが録音盤。関係者の聞き取り。難しい専門用語の理解。伊佐さんの英語を持ってしても格闘の日々が続いた。思い立ってから書き上げるまで数年の歳月が費やされた。
二〇〇六年一一月出した近著「オキナワと少年」は自伝。わくわくする。胸がきゅんとしたり、はらはらしたりしながら、一九二九年から二〇年、千尋少年とともに波乱の時代を生き抜いて行くような気がする。戦争の現実もオキナワのその時も描かれている。すべて映像を見るように目に浮かんでくる。さすが伊佐さん。緻密な筆致は「逆転―アメリカ支配下・沖縄の陪審裁判」から変わらない。
伊佐さんは作家になるべくしてなったのだと思う。「逆転」のおもしろさとすばらしさはそこで偶然陪審員として関わることになった伊佐さんが、一九六四年のその時すでに作家の眼を持っていたことによって成立している。「よくぞそここにいてくれた」と私は思う。
実は伊佐さんは東京池袋生まれ。父親が沖縄の出身である。母親正子は甲府が実家。病理学者だった父親の転勤で富山に四年、その後東京に戻る。一九三九年父親は満州鉄道病院に転任、伊佐君は東京に一人で残ったが一九四〇年の秋伊佐一家は戦争の迫った沖縄に行くこととなる。父親が普天間で病院を開くためである。一九四二年伊佐君は県立二中に進学。小学校五年で旧制中学への進学を勧められる秀才だったが、伊佐君は沖縄の小学校生活をのびのび楽しんでいた。中学に入学すると陸軍幼年学校の受験を勧められ、超難関の東京幼年学校に合格する。が、母親の必死の反対で父親は「承諾の返電」を打たなかった。
一九四四年七月米軍の沖縄上陸が必至になっていた。父は東京に家族を疎開させることを決意、すぐに荷物をまとめて翌々日那覇港を発った。「大丈夫だ。すぐに後から行く」父の叫ぶ声が聞こえた。これが父との最後の別れとなる。魚雷の攻撃を受けながら何とか鹿児島に到着。九月には母の実家甲府に疎開。伊佐君は旧制甲府中学三年に編入。すぐに大船の海軍燃料廠へ勤労動員となる。四五年本土空襲は激しさを増す。一家はかろうじて生きの残った。一九四六年一家は「父の消息を求めて沖縄に渡航し、そのまま本島に閉じ込められてしまった」苦難の時代が始まる。一九四九年「ようやく東京に帰ることが許された」。一家六人を抱えた伊佐さんはまだ二〇才。「小さな貿易会社を起こし」米軍相手に取引を拡大しながら戦後の混乱期を生き抜いていく。
父から託された弟妹を育て、子供たち三人も自立した。一九八九年伊佐さん一家は長男敦さん三〇才を悪性リンパ腫で
失う。「おとうさんは、僕たちに変わった教育をしてくれたけど、僕は僕が育てられたように自分の子供を育てたいな」「二人の子供を、僕が育てられたように育ててほしいと、おとうさんに言ってね」深酒をしてその夜病院に行けなかった伊佐さんに残された遺言である。
伊佐さん書き続けてね。伊佐さんの生きてきた時を全部書いてもらいたい。飲んでる場合じゃない。
・伊佐千尋(いさ ちひろ)
1929年東京生れ。琉球列島軍司令部などで通訳・翻訳にたずさわる、横浜で貿易会社をおこす。
1978年「逆転」で第9回大宅壮一ノンフィクション賞授賞。
1982年青地晨、後藤昌次郎、倉田哲治らと「陪審裁判を考える会」を発足。
主著「舵のない船」、「阿部定事件」、「裁判員制度は刑事裁判を変えるか」など多数。