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 法と民主主義2007年6月号【419号】(目次と記事)


法と民主主義6月号表紙
★警察の「ゼロ・トレランス」政策を問う
特集にあたって……清水雅彦
◆「ゼロ・トレランス」総論「ゼロ・トレランス」とは何か──その全体状況と問題点……清水雅彦
◆公安警察による「ゼロ・トレランス」@「極左暴力集団」の烙印を押されると憲法の保障する住居権も認められないのか神奈川県警公安部による詐欺罪デッチ上げ事件……内田雅敏

◆公安警察による「ゼロ・トレランス」A「北朝鮮」バッシングに乗じた朝鮮総聯への異常な弾圧の実態と問題点について……金東鶴
◆公安警察による「ゼロ・トレランス」B事件の張本人、それが公安警察……鈴木邦男
◆生活安全警察による「ゼロ・トレランス」大阪府安全なまちづくり条例の施行状況について──棒状器具携帯罪の検挙事例……田中史子
◆地域警察による「ゼロ・トレランス」これが職務質問です……白川勝彦
◆交通警察による「ゼロ・トレランス」@フリーウェイクラブ問題にみる「共謀罪」の事前シミュレーション……小谷洋之
◆交通警察による「ゼロ・トレランス」A交通警察の現状を批判的に検証する……高山俊吉
◆「ゼロ・トレランス」を越えて市民が求める警察とは……山下幸夫
  • シリーズ●若手研究者が読み解く○○法L「刑事訴訟法」現代治安政策と「刑事裁判への被害者参加」……豊崎七絵
  • 判決・ホットレポート●日比谷野音使用承認取消処分に対する執行停止事件……古川健三
  • 裁判・ホットレポート●老齢加算廃止は憲法違反!─老齢加算廃止の取消し求め提訴(東京生存権訴訟)……田見秀
  • とっておきの一枚●弁護士 矢田部 理先生……佐藤むつみ
  • 連載・軍隊のない国家Q●セントヴィンセント・グレナディンズ……前田 朗
  • 税理士の目J●7月22日「税民投票」に必ず行こう……奥津年弘
  • 司法書士からのメッセージP●司法書士となって…「初心忘れるべからず」……稲田和久
  • 投稿●臓器移植法「改正」案の根本的問題(上)……左近允寛久
  • 投稿●南米・べネズェラで見たこと聞いたこと……吉田博徳
  • 書評●清水雅彦著『治安政策としての「安全・安心まちづくり」』……高橋利安
  • 書評●浦野広明著『税民投票で日本が変わる』……脇田康司
  • 時評●「新たな局面」についての思い……坂本 修
  • 風●法を学ぶことは無意味なのですか?……丸山重威

 
★警察の「ゼロ・トレランス」政策を問う

特集にあたって
 最近は「治安の悪化」よりは「体感治安の悪化」が叫ばれている。依然、治安は良好とはいえないらしい。この昨今の「治安の悪化」に対して警察が展開している治安政策は「安全・安心まちづくり」であるが、これは「ハード面」といわれる「犯罪防止に配慮した環境設計活動」(道路・公園・駐車場・共同住宅等での見通しの確保や監視カメラの設置等)と「ソフト面」といわれる「地域安全活動」(警察の積極的な地域への介入や自治体・住民等との連携等)から構成されている。
 この両者とも特にアメリカの治安政策を参考にして日本でも導入したものであるが、「地域安全活動」のモデルとなっている「コミュニティ・ポリシング」と共に紹介・実践されているのが「割れ窓理論」(「犯罪は小さな芽のうちに摘む」という考え)と「ゼロ・トレランス」(日本なら軽犯罪法や条例違反のような迷惑犯罪に対しても重大犯罪と同様に徹底的に取り締まるという考え)である。ただし、「割れ窓理論」は日本でも各地の「生活安全条例」などで比較的導入されてきているが、「ゼロ・トレランス」は市民の反発を招く危険性のある治安政策のため、警察は導入には慎重な姿勢を示している。しかし、最近では「生活安全条例」の中で、路上喫煙・ゴミのポイ捨て・落書き・動物のふんの放置・棒状の器具の携帯などを罰則付きで禁止するという事例も見られる。
 この「ゼロ・トレランス」は一九九〇年代半ばに生活安全警察が日本に紹介したものであるが、特徴面から考えると他部門の警察にも同様の取組が見られる。例えば、公安警察は以前から「過激派」「右翼」「朝鮮総聯」「オウム真理教」などに「危険な団体」「犯罪者集団」等のレッテルを貼った上で「微罪逮捕」「無罪逮捕」などを行い、最近では市民団体や公務員のビラまきに対しても不当な弾圧を行っている。また、昨今では地域警察による街頭での市民への職務質問・所持品検査が厳しくなっている。交通警察も民間委託による駐車取締や「悪質自転車」運転者への取締などでエスカレートしている。そこで、本特集では昨今の警察全般の徹底的な取締・弾圧を「ゼロ・トレランス」と命名して、このような治安政策の問題点を問いたいと思う。

(明治大学 清水雅彦)


 
時評●「新たな局面」についての思い

(弁護士) 坂本 修

 風薫る五月。だがこの月は、政治的には容易ならざる嵐≠フ月であった。安倍首相を先頭に、「靖国派」が主導権を握った自民党と「政教一致」の公明党が結合した危険な政権は暴走政治を開始したのである。
 壊憲≠フための暴挙で、改憲手続法が、制定された。これにより、改憲勢力は国会(両院憲法審査会)で公然と改憲論議を始めることが可能になった。しかも、国民投票で「改憲賛成『過半数』」を手に入れるのに便利な「カラクリ」を彼らは手に入れた。これに勢を得て、自民党は参議院選挙の公約に二〇一〇年改憲発議を掲げるにいたった。重大な新たな局面になったことを私は重視している。
 だが、敗北感も挫折感もない。急がず、あわてずに、頭をあげて、新たな局面にふさわしい「新たな一歩を」というのが正直な実感である。この一年、改憲手続法反対を最大のテーマにして、各地を話し歩いてきたが、この実感は、ともにたたかった人々におそらく、共通だと思っている。
 私たちのこの実感には確かな根拠がある。
 第一に、私たちは、たたかうことによって、これからの正念場≠ノ役立つ貴重な財産を得たからである。自、公、民三党が法案を一本化して制定し、改憲発議案一本化の先行実績をつくるという政治的なたくらみを私たちは失敗させた。国会の内外で、ボロボロになるまで、法案の正体を明らかにした。それだけではない。なによりも大きな財産は、「改憲の是非を決めるのは一人一人の国民なのだ」ということをいままでの範囲を超えた国民の共通の認識にすることができたということである。
 第二に、わずかこの一年に絞っても、改憲阻止、憲法を生かす運動に、様々に新たな光≠ェ生まれ、広がっている──私たち自身が広げてきている──ことに確信がもてるからである。
 イラク戦争の広がる惨状は安倍首相が声高に叫ぶ「アメリカとともに血を流す同盟」にし、「戦後レジーム(体制)」を変更するために改憲をするという路線の誤りをのっぴきならない事実で証明した。
 私は、それとともに、この一年、新自由主義路線が急速に破綻し、国民との矛盾が広がっていることに、たたかいを発展させる新たな条件が見えてきたように思っている。「格差と新たな貧困拡大の国」「消えた年金、増える税金の国」、労働のルールを破壊し、社会保障を切りすてる「棄民の国」、そして、こうした政治や経済に国民が従順に従うように「教育改革」で「心の支配をする国」──「そんな国、そんな社会はごめんだ」「平和に人間らしく生きたい」という要求はこの一年の間にかつてない勢いで草の根から広がっている。そして、憲法九条とともに、憲法二五条を、平和とともに生活を、自由と人権と民主主義をという声が、それぞれに結びあって、憲法闘争を発展させる新たな局面が生まれている──そこに、私は、新たな光≠みるのである。
 もちろん、せめぎ合い≠ヘ複雑であり、前途には多くの困難があり、未知、未踏の課題がある。そのことは直視する。だが、「あの可能性も、この可能性もある」と座して指折り数えていようとは思わない。大事なことは、新たな局面で生まれている光=Aひろがってきている前進の条件をつかみとって、打って出ることではないだろうか。
 ひとは生まれる時代を、自分で選ぶことはできない。私の兄は戦病死し、自由法曹団の先輩たちは治安維持法で弾圧された。しかし、時代は大きく変わった。今、私たちは憲法とともに生き、改憲を阻止し、憲法を生かしきるという歴史的なせめぎ合い≠フ時代に生きている。そのことを幸せとし、かつ喜びとして今を生きたいと思う。
 歴史を動かすのは、結局は、私たち一人ひとりの力である。新たな局面で広がってきている光≠フもとで、同じ思いの圧倒的多数の国民とともに、新たな一歩をすすめたい──それが、いまの私の思いなのである。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

揺るぎない護憲の旗をかざして

弁護士:矢田部理
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

 1995.12.13 赤坂プリンス最上階。矢田部先生、カストロ議長、キューバ議連の三塚博議員。東京の町並みを見てもらう。車社会の東京に驚いたカストロ議長「やがて中国の人々が車を持つ時代になったとき、中国と世界の環境問題はどうなるのであろうか」と心配した。さすが慧眼。カストロ議長は中国・ベトナム訪問の帰路であった。

 矢田部先生は今年七五才になる。一一期、弁護士の登録は一九五九年、東京弁護士会だった。弁護士になってから四八年になる。その間七四年から九八年まで二四年間参議院議員を務め、政治との関わりは長い。修習時代に県会議員候補になっていたくらいである。このときは落選。地元茨城で選挙運動をしてその間をぬって研修所に通っていたという。勉強はほとんどせず、二回試験は受けたものの無事に通るか心配だったが合格した。修習生のままで選挙運動をして問題にならなかったのかしら。
 生まれは茨城県の北の端、久慈郡大子町旧佐原村左貫、栃木県境の山間の小さな集落である。父親は村役場に務めていた。矢田部家の本家は地元の地主で叔父は村の村長、もう一人の叔父は県会議員、農本主義者で農民運動家、政治的な風土は十分にあった。が、理君はなぜか内気でおとなしい少年だった。理君が長男で弟二人、妹一人の四人兄弟、教育には熱心な家で全員家を離れ町に出て教育を受けた。何しろ「近在には旧制中学はなく大子の駅まで三里もあり」太田までは「さらに汽車で二時間近くかかる」。「自宅からの進学は難しく太田や水戸に下宿」するしかなかった。
 理君は旧制太田中学に一二才で入学、「一九四四年太平洋戦争の真只中で戦中、戦後の激動の時代、しかも多感な少年期の大部分を太田の地で送った」。旧制中学から新制高校の六年間である。学校の一部は軍需工場になり、上級生は日立製作所に、理君達下級生は「日立と宇都宮を結ぶ軍用道路建設や援農に動員される。配属将校がいて軍事教練をうけるなど「軍事一色で学業どころではなかった」。「太田の駅がP51に攻撃され、あわてて下宿の押し入れにもぐりこみ、ふとんをかぶってたえていた」。「下宿の食事だけでは足りず自宅通学の友人の弁当を分けてもらって食べたりもした」。「小さな体で戦争と飢餓と学業の三つの重荷を背負った」「一端の軍国少年だった」。そして敗戦。理君は「衝撃で自失し学業も手がつかず彷徨」する青春の日々。「戦後の混乱のさなか平和と人権を正面にかかげた新憲法の制定は、新しい時代の思潮を示し戦後日本の進むべき道を明らかにしたもので、これを感動的に受け止めた」。その時理君は、この旗をかかげ、人生を走り続けることになるなんてことは思ってもみなかった。なにしろ「太田では寡黙で目立たない存在」だった。旧友は矢田部君のその後を知って「訝しく」思ったらしい。が「私が人権派の弁護士を経て護憲派の政治家の道へ進んだ原型は太田にあったように思う」。
 矢田部君は中央大学法学部へ進学する。授業料が安く、受験時に苦手な数学を選択しなくて良ったからだった。弁護士になろうと思って入学したのではない。ところが学部三年になるとそろそろ将来のことも気になり出す。当時は就職難。司法試験でもやろうかと思った矢田部君は中央大学真法会の答案練習会に参加し、その結果、四年の時研究室の室員に誘われる。受験生時代に各地の選挙を手伝いに行っていたりしていた。このころから政治家の才が開花しはじめたのである。無事合格して一一期となる
 さて県議選に落選した二七才の弁護士矢田部君は黒田寿男法律事務所に入所する。すぐに総評弁護団から三池に常駐弁護士として派遣されることになる。一九六〇年の四月。三池では久保清さんが右翼に襲われ殺される。その右翼を三池の労働者が取り囲む。一触即発の状況。その外側を警察が取り囲む。三池の労働者に向かって矢田部弁護士「生涯で一番の演説」をする。「右翼の蛮行を糾弾するとともに労働者には冷静な対応を訴え、警察には右翼全員の逮捕を求める」という理にかなった説得は三池の労働者の心にしみ、右翼は全員その場で警察に逮捕された。弁護士政治家矢田部理の誕生である。
 三池が一時休戦となり東京に帰った矢田部弁護士は、連日国会におしかけるなど六〇年安保の戦列に加わる。そしてその秋、炭労から頼まれ北海道の北炭争議に派遣されることになる。それから七年間、黒田事務所に所属し、戦う人権派弁護士として多くの事件に関わる。一九六六年、水戸に移り水戸を拠点に国労問題、東海村反原発訴訟、百里自衛隊違憲訴訟など幅広い社会的な事件を手がける。
 一九七四年には茨城選挙区から社会党で参議院議員に当選後四回二四年間。活動分野は平和・人権・環境や外交・防衛問題、そして政治腐敗追及などに広く及ぶ。
 「とっておきの一枚」は、一九九五年給油のため成田に立ち寄ったキューバのカストロ国家評議会議長とのショット。二人共弁護士である。議長が獄中で記した「歴史は私に無罪を宣告するであろう」と題した弁論のことで話がはずみ、「村山首相との会談をセットしたいのでもう一泊できないか」とすすめたところ、同議長は快諾した。翌日赤坂プリンスホテルで昼食を共にし屋上から東京の街並みを俯瞰(ふかん)した。その時の写真である。
 一九九六年には、小選挙区制に反対し、安保・自衛隊を認める党の変節に抗して、護憲の新社会党を結成し委員長に。九八年比例区で僅差で惜敗する。
 矢田部先生は「優しく剛毅な政治家」「独自の哲学をもった先見性と経倫。果敢な判断力と、潔癖な信条から生まれる品性。そのすべてを失って私利私欲に走る政治屋の中にあって、矢田部さんはひときわ異彩を放っている。にこやかな笑顔は、人間を尊ぶ優しさと柔軟な心を感じさせ、時に鋭く光る眼は、世の不正に対する怒りを示す」小説家夏堀正元さんの矢田部評である。ほんとにそうだと思う。一時は「政治にピリオドをうち、本業であった弁護士の仕事をひっそりとやりながら終末をと考えていた」。それから一〇年矢田部先生は水戸に弁護士事務所を、東京に政治事務所を持ち、護憲の旗を振り続けている。
 政治事務所は東京駅八重洲大通り、ブリジストン美術館の向い側にある。小さなビルの五階、秘書の吉岡さんがお留守番である。昔は村山首相の秘書として官邸にいたこともあるんですって。
 ここが、学者や市民の皆さんと党派をこえて立ちあげた「憲法生かす会」の拠点ともなっている。
 改憲の水がひたひたと迫ってくるような今「明文改憲阻止」の一点で一致して、広範な政治的な闘いをすべきだと先生は言う。「少数派でもそれを寂しがったり弱気になったりすることは禁物です」「平和を求める声、非武装の世界をと言う願いは、国の内外で着実に広がっていることを心に刻み、不戦・非武装の憲法を守り、生かすために、大きな団結と広範な共同をめざし知恵と力を出し合いたいものです」。
 先生、そのとおりです。

・矢田部理(やたべ おさむ)
1932年茨城県生れ。中央大学卒、弁護士(11期)。
1974年日本社会党から参議院議員に初当選(以後、4期連続)。社会党参議院議員会長、外交調査会長、環境部会長などを歴任。96年、社会党の安保条約容認、自衛隊合憲への転換に反対して新社会党を結成、委員長に就任。


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