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■特集にあたって
「教育基本法の改正と教育改革」「集団的自衛権の発動承認」「五年以内の改憲」などを自民党総裁選の公約にして、総裁に当選した安倍晋三氏は、九月二六日、衆参両院の首相指名投票で首相に選ばれ、自民、公明両党による連立内閣を発足させた。同日、小泉内閣を引き継いで第九〇代内閣総理大臣に就任した。
「美しい国へ」と題する本で、自らの国家主義的信条を語った安倍首相は、党人事や組閣に当たって自らのカラーを強く打ち出した。しかし、日本の侵略を認めこれを反省した「村山談話」や、自らが「見直し」を主張していた慰安婦問題についての「河野談話」について、国会で追及されると、「政府としては、その立場を継承する」とし、「歴史の判断は政治家がすべきではない」と強調し、固執していた歴史問題や靖国問題でも「靖国神社には行くとも行かないとも言わない」と自らの立場を覆い隠して中国、韓国訪問をとにかく実現させた。
だが、「ツメを隠したタカ」は、次第にそのクチバシとツメを見せ始めた。北朝鮮(朝鮮民主主義員民共和国)の核実験を題材に世論を煽り、党三役や閣僚に「核保有論」や「非核三原則の見直し」を自由に語らせ、自らは海外のメディアを使って、「任期内改憲」をフィナンシャルタイムズやCNNに、「米国向けミサイル撃墜」をワシントンポストに語って、世論誘導を狙っている。
「ツメ」は、国会にもメディアにも見せている。「教育基本法改正」は、委員会、本会議で強行、「防衛省」法案も、民主党との連携の中で参院に送った。盛り上がっている反対運動をしり目に、公明党が多用していると言われる「事前投票方式」で沖縄知事選に勝つと、民主党路線に乗って国民投票法案の「協議」も進める。「NHK国営化」の方針を出したわけでもないらしいのに、放送法の条文を見つけて、「放送命令」などという政策が飛び出している。
日本国憲法との緊張関係は、すべての法案、施策に現れているといっても過言ではない。今まさに問われているのは、「憲法に基づいた政治」である。にもかかわらず、進んでいるのは、健保、年金など社会保障政策の締め付け、税制の改変、リストラの推進、国家主義的教育の押しつけ…。小泉政権以来の政策に現れているのは、市場主義万能の競争社会を進め、格差を拡大する新自由主義と、「平和憲法」の精神を捨てた「戦争をする国」への急ピッチな転換である。
「ワンフレーズ・ポリティクス」と言われたように、テレビに露出し短い言葉で乱暴な発言をして、政治を引っ張っていった小泉政権に続いて、安倍首相の政権運営は、それをさらに体系化した官邸主導の「コミュニケーション戦略」で国家主義と新自由主義の政治を進めようとしている。
首相が一挙に五人の内閣補佐官を任命したことはその表れで、特に、広報担当の補佐官に任命された世耕弘成氏は、米国ボストン大学コミュニケーション学部大学院で、企業の危機管理について研究、企業広報論で修士号をとった、という広報のプロ。穏健派を装わせたり、外国メディアを使ったりする手法はまさに「セオリー通り」である。
このような状況を踏まえて、今回の特集では、第一部で、朝日新聞の伊藤千尋記者、大脇雅子(弁護士・前参院議員)、佐藤むつみ編集長の鼎談で「美しい国」の行く末を含め、総合的な問題を提起していただくほか、焦点の「ナショナリズム」「格差社会」「防衛問題」について、それぞれ分析、報告していただくことにした。
既に一九四一年(昭和一六年)一二月八日の真珠湾攻撃から六五年を経て、二〇〇七年四月には、サンフランシスコ条約発効五五年、五月には憲法施行六〇年を迎える。
二〇〇七年は統一地方選と参院選の年でもある。この特集を、日本の行く末を考え、安倍内閣を見つめ、法律に関わるものとして行動していくための手がかりにしたい。
二〇〇六年も間もなく終わる。振り返ってみるゆとりはまだ無いが、今年も、祝福できる話題よりも暗いニュースに包まれた一年だったように感じる。
イラク戦争は終わらないし、アフガンもイラクもパレスチナも、中近東の民衆の被害は拡大し続けた。僅かな明るさといえば、開戦時のウソがかなり広く知られるようになったことと、アメリカの中間選挙でブッシュの共和党が批判を受けて敗北したことだ。
景気回復が言われ、経済統計と金融業界や大企業の高利潤はその現れなのだろうが、派遣雇用と長時間残業の実態を見ると、回復の実感が湧かない。イジメと自殺、自己破産などの減少が伴えば、実感できるのだろうが。
司法分野では、司法改革の容器が見えてきた。本来は歓迎すべきなのだが、アラが目について、単純には喜べない。
法科大学院の構想自体には賛成(私自身は、いっそアメリカのように法学部を廃止し、経済学、社会学、等他学部の履修者を法科大学に迎える構想が望ましいと思っている)。
だが、各大学の生き残り競争と文部科学省の無方針のために、六〇〇〇人を越える定員が採用された。いずれ淘汰されて幾つもが潰れるだろうが、それまでの学生の悲惨さを考えると胸が痛み、教育制度をどう考えているのか、腹立たしい。
裁判員制度はまだ始まっていない。批判より充実を考える時期ではある。しかし、司法への国民参加は、本来権利であって義務ではないのに、広報は不出頭には刑罰の脅しから出発しており、先が思いやられる点が多い。
ところで、「格差」社会の傾向が顕著になり、これを指摘し批判する論説が増加した。マイナス面を自覚するところから改善が始まるのだから、これは歓迎できるものだ。
しかし、格差を礼賛する風潮は強い。曰く「競争がなくては進歩はない」「対外的な競争に勝たなくては、企業は、そして日本は、滅びる」、「格差が競争を育てる」と。競争は常に正しく、そのためには格差が必要という論理だ。無限定の競争礼賛論でもある。
碓かに「労働者問の競争は労働者の能力と意欲を高め、企業間の競争は企業の生産性を高め、一国の経済効率も、こうした競争があって高められる」面、有用面があることは事実だ。けれども、あらゆる競争が有用なのではない。有用に働くためには、大切な前提がある。
長時間労働を競う競争、現在は自発的残業を強いられてもいるが、この競争は「能力と意欲を高め」るものではない。上司にへつらう競争、学生のカンニング競争も、当人に一時的な利益はあっても有用な競争ではない。企業間の低賃金競争も、受注のためのワイロ競争も「生産性を高める」ものでない。
生産性を高める有用な競争と見えるものに、実態はよく知らないが、トヨタ方式と言われた労働者或いは労働者チームの提案を大事にする競争がある。
その前提には、労働者或いは労働者チームと企業との問の或る種の一体感というか連帯感があると思われる。更に生産物に対する企業従事者の誇りも。
説明不足で強引だが、私には競争が有用になる大切な前提に、仕事への連帯感とか、今風に言えば愛とか、があると思われてならない。
戦後期、「乏しきを憂えず均しからざるを憂う」「能力に応じて働き、必要に応じて配分するのが理想」と言われた。現在この理想を声高にいう論説は薄れたが、私は今でもそれが理想と思う。変化は、理想とは努力の方向であり、直ぐ実現する型ではないと知ったことだ。
二〇〇六年九月二六日、東京で第九のコンサートが開かれた。当日は土砂降りの雨、奇しくも憲法改正を政治目標にかかげた安倍内閣発足の日になった。その日のために急遽作られた「第九」合唱団は当日のゲネプロで初めて外山先生に出会うことになった。「9条がんばれ!弁護士と市民がつどう『第九』コンサート」という長ったらしい名前を冠したこのコンサート、第九と九条と九月をかけて企画された。ほんとうは九日にしたかったのだそうだ。無手勝流の企画だったのに九条を守ろうという多くの音楽家に支えられ、満員の聴衆と演奏者が一つになる気持ちの良いコンサートになった。
実は弁護士が合唱団の一員として歌うことが目玉のこの企画にミーハーでお調子者の私は「外山雄三指揮で日本フィル」「一二月になると素人がやってる第九だし」となめて参加してしまったのである。やってみたら冗談じゃない。譜面を渡されて愕然とした。譜面が読めない、歌詞がわからない、声も出ないの三重苦である。何とか練習して暗譜したつもりになり、後は勢いで当日を迎えた。寄り合い所帯の合唱団に向かって、ゲネプロの外山先生は不気味な優しさだった。「皆さんの第九に対する思いを込めて歌ってください」あっけないお言葉。「きっと諦めたのよね。今さら何言っても仕方ないし」後からそう思った。が、当日は外山先生に乗せられ気持ちよく歌ってしまったのである。「合唱良かったよ」と知人にほめられ打ち上げでは外山先生に「皆さんは頭でよく考えて歌っていた。これが大事です」って。「そうよね」と私。ところが自分がとんでもない大馬鹿者であることを知ることになる。
「いよいよ明日から『第九』になる。怖い、というのが正直な感想である。この作品を指揮する時には、いつでも、お前は何をしてきたか、するべきことで出来なかったことは何かとベートーヴェンに鋭く問い詰められているような気持ちになる」指揮棒を振って五〇年になる外山先生が。先生は大阪、神戸、三多摩、東京など各地でアマチュア合唱団の第九を一二月の恒例として振ってきた。長いところは四〇年を超えるつきあいである。第九という「作品の豊かさ、奥深さが限りないもの」「せめて一年に一度慎重に時間をかけ、手間をかけ、心を込めて準備してこの作品を演奏することが、私には、実に幸福な義務であるように思える」
マエストロ外山は作曲はもちろん、N響を始め多くのオーケストラで様々な作品を指揮し続けてきた。なのになぜか先生は第九を「特に大切に思っている」それも草の根合唱団が一人一人の意志でみんなで協力し合いながら歌うのがこの作品にもっともふさわしいというのである。「ベートーヴェンが、人間の音楽の歴史のなかでとび抜けてそびえ立つこの大作のしめくくりに、実に簡潔な詩で、決して長くないむしろ短いともいえる合唱部分を書いたのは、特別の技能者ではない、いわば不特定多数の人びとの積極的な参加を予感し、期待していたからだと考えてはいけないだろうか。もちろん『第九』は、歌ってみればやさしくないどころか、大変むずかしい合唱曲にちがいない」
「すべての人びとは兄弟になる」「自由、平等連帯があってこそ初めて本当の平和が訪れる」というシラーの思想、人類の気高い理想を歌ったこの作品を外山先生は「人類はどうしたら生き延びられるか」を問われているこの時代にとりわけ九条が危ないこの時にこそ繰り返し演奏しないでどうするのだと思っている。
外山先生は一九三一年「満州事変」が始まった年、東京市牛込区に生まれた。父親外山國彦は東京音楽学校を卒業した「貧乏音楽家」。自宅で外山音楽教室を開いていた。弟の外山浩爾も音楽家である。雄三君は当時「児童早教育」「音感教育」の実験台になって「三歳か四歳くらいからピアノの学習をはじめさせられた世代」だった。「いつからピアノが弾けたのかわからない。物心がついた時にはピアノが弾けていた」もちろん「絶対音感」もしっかり身に付いていた。山本直純らも同じような教育を受けたという。一五歳まで「一五年戦争」の時代であった。音楽はもちろん父親の本棚の芥川、有島、漱石、トルストイ、シェイクスピア全集を読みふける少年だった。小中は高等師範学校付属、「自由主義的」な学校であった。さすがに中学生になると「教練」が始まりアメリカ軍の本土上陸に備え、一人一個の小さな手榴弾を持って戦車の進路上に這い寄ってうまく下敷きになるという訓練をやらされた。「私たちはみんな真剣だった」「ほとんど毎晩のように空襲警報が鳴って東京中のどこもかしこも焼け野原、というようになってみると、どうせこのまま死ぬなら、その前にせめてアメリカ兵を一人やっけて死にたい、などと考えるようになった」「幼い頃からずっとピアノをひいていたこととまったく矛盾しないつもりで両親に内緒で陸軍幼年学校に願書を出したら、まもなく敗戦であった」「その暑い八月中旬の何日間かは、どうして自分はお国のためにみごとに美しく死んで行くことができなかったのか、と考え続けた」
敗戦後は「空腹感、飢餓感」の日々。学制改革で中学は四年で打ち切られることになり旧制度の学校に受験できる最後のチャンス。急に決心して音楽学校を受けた。雄三君の音楽の師有馬大五郎先生が「君のピアノでは世界で一流になることはできないから作曲科にしたほうがよい」と言われ、とにかく受験をした。作曲の試験の時、雄三君は課題をすぐに書き上げ退室した。雄三君は出された課題の意味が理解できなかったのである。「全員合格、戦後のどさくさに紛れて合格したんです」一九四八年入学。
卒業してすぐ先生はN響に「打楽器練習員」として入団する。「指揮者になるつもりなどまったくなくて、一生オーケストラでタイコをたたきながら作曲しようと、真剣に考えていた」。カラヤンが来日。外山先生はすこし英語ができたのと練習員で雑用を引き受けていたため彼を羽田に送っていくことになる。見送りの人から離れてカラヤンは、の若い指揮者研修に参加していた外山先生に「指揮者はいつでも振れる自分のオーケストラを持たなくてはいけない」と言い残す。一九五六年外山先生はN響で指揮者としてデビューすることになる。
外山先生はここぞというときに足を一歩強く踏み出し、両腕を構えて前に突き出す。ぐっとにらみつけるようなまなざしとともにオーケストラに迫る。今年七五歳。先生の「絶対音感」は音楽で人に何を伝えるのかを先生に迫りつづける。さあ、君は何をしてきたか。
・外山 雄三(とやま ゆうぞう)
1931年東京市牛込区生れ。父は声楽家の外山國彦。弟は合唱指揮者の外山浩爾。東京芸術大学音楽学部作曲科卒。ウィーンやザルツブルクでの留学。大阪フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団、名古屋・神奈川フィルハーモニー交響楽団、仙台フィルハーモニー管弦楽団を経て、現在NHK交響楽団正指揮者、愛知県立芸術大学客員教授をつとめている。