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■特集にあたって
一 中国残留孤児の現状
日本の国策によって旧満州(中国東北部)に送り込まれ、日中戦争終了後、中国の社会で辛うじて生き延び、やっとの思いで日本に帰国できた中国残留孤児たち、戦後六〇年を経過した現在、ほとんどが生活保護を受けて、老後を送るしかない状態に追い込まれている。しかも大多数は、日本の社会では人間として疎外された生活を強いられている。日本語がほとんどできず、さらに日本の親族がいない、というより日本人でありながらその出自が不明のものが多く、血縁者からの援助も、そもそも期待できないのである。それにしても、何故に、生活困窮のままで、日本社会の一員になれないような状況が放置されてきたのか。
二 残留孤児の発生と国の責任
「王道楽土」と称する日本の傀儡国家・満州国に、開拓団は国策によって送り込まれた。生活苦から逃れるために「分村」の形で、村ぐるみ満州に渡った人たちもいる。さらには、開拓団のなかには、敗戦の直前に、潜水艦の攻撃に怯えながら、釜山海峡を渡り、やっと北辺の土地に入り、日本からの荷物が着いたと思ったら、なんだかまったく分からないうちに、ソ連軍と遭遇することになった人たちすらいる。開拓団の安否は軍の思考過程からはまったく脱落していた。ソ連との戦争を早くから想定しながら、開拓団に属する日本国民の安全は微塵も顧慮していなかった。日本の参謀本部は、とっくに満州の北部四分の三は放棄することを決め、既に軍隊、すなわち関東軍は、厳重な秘密保持のなかで、南方向へ移動済みであった。そのうえ日本軍は、根こそぎ動員で開拓団の男子を軍に徴兵した。そのため、年寄りと女性と子どもの集団が放置された。その動員も、すなわちリーダーとなるべき人が欠けたことも、多くの開拓団が、纏まって行動できなくなった原因のひとつである。ところで、軍は一方で、関東軍の高級将校の家族については、特別の手段を講じて、いち早く帰国させているのである。
三 残留孤児の惨状
ソ連の参戦などまったく寝耳に水であった開拓団は、その軍隊に蹂躙され、次いで土地を奪われるなど恨みをかっていた現地の中国人に襲撃された。逃げるにも、日本軍によって鉄道は破壊され、橋も落とされ、開拓団は軍の作戦から当然に予測されたとおり、文字通り現地に遺棄されたのである。
その後の開拓団の南への移動は、いわゆる「死の逃避行」となり、それに続く収容所での生活も含めて、人間社会の想像を超えた凄惨な状況が現出した。幼児も含めた集団自決、襲撃されての多数の死亡、食糧不足からの大勢の餓死、発疹チブスの大流行等々。死体は厳寒の満州に放置された。そうした中で、何とか生きながらえてほしいとの母親の最後の望みをかけて、中国人に預けられたのが残留孤児訴訟の原告となっている孤児たちである。孤児たちは中国人の日本軍の満州における侵略行為の責めを一身に受け、「小日本鬼子」といじめられ、あるいは僻地農村に下放され、文化大革命ではスパイ扱いされ、苦難の道を歩んできた。
四 国の対応の無責任
中国残留孤児に関しては、現在の状況に追い込まれたことについて、いささかも孤児たち自身に責められるべき点はない。しかも、国は、孤児の発生についてその責めを負うべきは当然であるが、その帰国についても、怠慢としか言いようのない策を繰り返してきた。そればかりか、簡単に孤児の死亡宣告をして戸籍を抹消したり、勝手に帰国の意思なしと認定をして、未帰還者からはずしたり、親族が身元保証(帰国してからの生活も含めて)をしないと帰国できないなど、厚労省には、孤児たちの帰国を積極的に妨害をしてきたとしか思えない立法や政策がある。そして、やっと帰国できても、日本での生活経験の全くない孤児に対し、その「自立支援」について、国のしてきたことは、日本語教育といい、職の斡旋といい、無策であったといって過言ではない。中国では医師の資格をもっている者も、病院に関係する職を斡旋するなどまったくなく、掃除婦としてやっと職を得たという例も、一つならず存在している。国の自立支援策の失敗は、孤児の現状が何より雄弁に物語っている。
五 日本は「美しい国」か
海外に残った国民に対する件としては、最近では、イラクで誘拐された日本人の救出、北朝鮮の拉致被害者に対する国の対応等はめざましい。後者のためには安倍内閣は閣僚に準ずるような専属のポストまで用意したのである。いずれも国に責任はないのに。しかし、海外にあって帰国を願う日本国民に対する処遇として、それは首肯されこそすれ、我々弁護団も非難する気はない。それと比較して、僅かの予算で、厚生省の一部局の引揚援護局、さらには孤児対策室に、膨大な数の中国残留邦人の帰国、自立支援を担当させて来たのとは、あまりにも違いがありすぎる。その点を強く指摘したい。しかも、厚労省は、これまでの孤児対策について、不手際を認めるどころか、最近では「生活保護を与えているから、自立支援義務は果たしている」とまで言い切っているのである。
戦後六〇年も経過して、海外に放置した自国民に対して、このような対応しかできない文明国はないであろう。「美しい国」という言葉が最近使われる。これほどの恥部を抱えた国を表現するには、「あまりにもふさわしくない」としか言いようがない。
我々弁護団としては、この損害賠償の訴訟に勝訴することで、老境に向かう孤児たちが、日本に帰ってきて良かったと心から納得できるような、国による施策の実現を求めてきたのである。また、この訴訟の原告全員が、あのような過ちは二度とくりかえさないという誓いを含めた、国の残留邦人(孤児と婦人を含めた)に対する心からの謝罪を求めているのである。
六 終わりに
この特集は、残留孤児問題とどのように取り組んできたか、原告団、支援の方々、弁護団ら、関係者の裁判への各取り組み、一〇〇万筆を超えて集めた支援の署名、その他の運動面の現状、あるいは到達した法的な見解等の集大成とするつもりである。特に孤立し、疎外されていた原告たちは、自分の力で次第に団結を強め、連帯の輪を広げ、それを全国にまで拡大してきた。皆様のさらなるご支援をお願いしたい。(すずき つねお)
一〇月九日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)政府が、突然「地下核実験を成功裏に行った」「自衛の国防力強化のためである」と発表しました。核保有国がまた一つふえたわけです。七月のミサイル発射の直後ですから近隣諸国は勿論、世界中からきびしく非難されました。日本では早速主要閣僚が「核兵器開発を検討すべきだ」と発言し、韓国でも「太陽政策の結果だ。韓国でも核をもつべきだ」の世論が起り、主要閣僚が三人も辞任しました。北東アジアは突出した核兵器の巣になろうとしています。
一四日国連安全保障理事会は世界的世論に基いて、北朝鮮に対する国連憲章第七章四一条による非軍事的制裁を、全員一致で決議しました。いま、朝鮮半島をめぐって軍事的緊張がかつてなく強まっているといえるでしょう。
■問題は何か?
一 「速かに世界中から核兵器を廃絶せよ」、「北朝鮮は核兵器の開発を止めよ」という、世界的世論に逆って核兵器の保有に走ることは、北東アジアの平和と安定ばかりでなく、世界平和にとってもきわめて重大な挑戦です。七月以降の東アジアの動向がその事実を証明しています。
二 「核兵器で国を守る」という発想がもともと根本的に間違っています。核兵器とは広島・長崎の実相を見るまでもなく、その後開発された水素爆弾は更に巨大な破壊力をもっており、その殆どは罪のない一般市民を殺傷する兵器です。他国民であろうと自国民であろうと、市民を殺傷することは国際法の趣旨に反しています。自国民を壊滅させるような兵器の保有が、自国の防衛のためだとはとうてい言えません。
三 北朝鮮は一九九一年一月、「朝鮮半島の非核化に関する南北共同宣言」に調印していますし、「核兵器保有の意思はない」としばしば言明してきました。また昨年九月の六カ国協議の「共同声明」や、〇二年の「日朝平壌宣言」でも、「国際法や国際的合意を遵守し、互いの安全を脅かす行動をとらない」などと約束しているのですから、明らかにその約束に反する行為です。このような行為は北朝鮮をますます国際的に孤立させるだけであり、北朝鮮の安全にとってもよくないことです。
四 日本のマス・コミは北朝鮮非難に集中し、その影で憲法改悪、教育基本法改悪、防衛省への格上げなど、戦争準備の法体系を精力的に進めていることに注目する必要があります。また、アメリカが核戦力を強化しながら、「ならず者国家への核先制使用」を広言するなどで、北朝鮮に脅威を与えている事実も見逃してはなりません。
■いかに対処すべきか
過去の歴史をふりかえるまでもなく、朝鮮半島はたえず北東アジアの火薬庫であり、戦争の震源地でした。朝鮮半島情勢がどう動くかは日本の平和と安全にとって重要な問題ですから、国民的な関心と対応が必要です。
北朝鮮は自国の防衛のためには、武力に頼るのではなく、幾多の無法行為をやめ、国際法と国際的合意を誠実に守り、周辺諸国との信頼と友好関係を築くことが最も効果的です。そのためには六カ国協議に誠実に臨み成功させることです。幸に六カ国協議が再開されることになりましたが、前途は容易ではありません。日本もまた過去の植民地支配等の精算を誠実に行い、国交正常化に努力しなければなりません。
また、現在の核保有国を含め世界の核兵器を廃絶するための運動を、一層強めることが緊急な課題となっています。
さらにいま世界中で生々と発展している地域共同体運動、もう戦争はしないで経済・文化の共同を進めようという運動を、北東アジアでも促進する必要があります。すべての団体や個人で世論を作るよう努力しましょう。
浜林正夫先生は一九四八年に東京商科大学(現一橋大学)を卒業し、その年に出身地小樽の小樽経済専門学校(現小樽商科大学)の教員となった。六七年に東京教育大学に移り、七八年には母校一橋大学に移り八九年そこで定年を迎える。その後八千代国際大学へ移って一〇年、九八年に退職。五〇年間を戦後日本の大学の歴史とともに生きてきた。
専攻はイギリス近代史。「イギリス市民革命史」「イギリス民主主義思想史」など専門著書も多いが、啓蒙書も多く、広範で深い教養に裏付けられた明解で平易な語り口はその人柄と研究者の歴史を彷彿とさせる。大学人として文部省と戦い、学内の民主化のために組合の委員長としてみんなをまとめ、学外の講演や市民運動にも参加し社会的役割を果たし続けてきた。ただ者じゃないんです。困ったときの浜林頼り。今でも扇の要である。
浜林先生は小樽の出身、父・生之助は小樽高等商業学校の英語の教師であった。同郷の小林多喜二は同校出身で父親の教え子でもある。五人兄弟姉妹の末っ子。家には英文学書や英語の辞典なども多かったが正夫君は実はあまり関心がなかった。父の蔵書は後日北大に法文学部ができたとき文献が不足している図書館に請われて売却してしまった。リベラルな父親だった。長男は旧制静岡高校から東大に進学したが勉強をしすぎて結核に。父は正夫君に「無理をしないように」と東京商科大学の予科を進めたという。正夫君は一九四三年旧制小樽中学から東京商科大学予科に入学。北寮の住人となる。当時は勉強どころではなく勤労動員の日々。援農に出かけ、横須賀の軍港で砲弾のつみおろしをしたりでも楽しい寮生活を送っていた。
敗戦の年一九四五年三月正夫君にも徴兵検査がくる。甲種合格。その五月、東京の大学生は北海道に援農動員となった。正夫君は北見へ。北海道出身の正夫君にとってはなんの苦痛もない。時は春。食糧に困ることもない。七月一日旭川に入隊。大学生はすべて幹部候補生にするという方針のもと仙台の陸軍予備士官学校に送られた。八月一〇日に入校するが防空壕堀が仕事だった。そして八月一五日終戦。「戦争があるのが普通の世の中で、勝つ見込みがないのはわかっていたが負けるとどうなるというイメージもわかなかった」その時は正夫君は二〇歳、みんなと泣いたという。復学となるが大学はまだ夏休み中、正夫君は実家小樽で残りの奇妙な「夏休み」を過ごすこととなる。
大学では正夫君はボート部に入部、長身を生かしてのことかと思ったら「運動神経が悪くて、マネージャー」。隅田川にカッターボートを浮かべ東商戦などやっていたという。当時向島にあった部のボートハウスに住み込んでそこの主になった。買い出しを指揮しみんなにご飯を食べさせ、後輩には勉強を教えていたという。なるほどこのときから先生は面倒見がよかったんだ。正夫君は向島ボートハウスから国立まで通学、朝ハウスを出ると学校に着くのは昼だった。
一九四七年一一月父・生之助が結核で亡くなる。家族は大学の官舎に住んでいた。父が亡くなればそこを出なければならない。「君が後を継げばそのまま住んでいけるようにする」大学側の配慮で正夫青年は家族のためにも就職を決める。一ヶ月で「アメリカ経済史」の卒論を書き、三月卒業、四月から小樽経済専門学校に赴任することになる。学部卒でろくに勉強もしていない正夫青年は赴任しても何を教えていいか苦慮したという。校長に「卒論で書いたことを教えればいい」といわれたという。
半年間母校一橋大学に国内留学をさせてもらい、このときから先生の研究者としてのほんとうの一歩が始まることになる。専攻もまだ歴史が浅い「アメリカ経済史」から「イギリス経済史」に変え先生は猛烈に勉強を始めた。まだ二三歳、頭も柔軟、馬力も十分である。
そして二〇年後、四二歳。先生は新しい研究の場を求めて東京教育大学に移る。小樽商科大学では教職員組合の委員長も勤め、「研究と活動どちらもやる」をモットーとしていた。一二歳だった息子は友達と別れるのがいやで東京行きは反対、妻・レイは「私はいいわ」と賛成。一九六七年一家は小樽を後にする。
きてみると教育大は移転問題で大揺れだった。先生は大学民主化闘争の渦の中に。黙っていられない。多くの研究者は大学を去った。先生は「筑波大学に行って闘い続ける」と豪語していた。「浜林だけは絶対にダメだ」筑波大学はこう言っていたという。「裁判闘争も辞さず」の要求に文部省は頭をかかえる。家永訴訟も抱え、浜林訴訟も抱えてはたまらない。
文部省は浜林先生の母校一橋にわざわざポストを準備した。一九七八年先生は一橋に移る。先生は五三歳になっていた。
研究も活動もどこにいてもやれる。幸いなことに一橋では大学の管理職もやらずにすみ、先生は好きな研究に打ち込みながら、居住していた所沢の地域で様々な運動のとりまとめ役を果たしていく。イギリスの労働組合は各地域にあるパブと深く関係してきたという。地元で飲みながら談論風発、浜林風パブが生まれていた。
定年後も大学で教えることは続け、大学再編問題、歴史教育問題、教育基本法改悪、改憲問題、など今すすむ方向違いの政策につねに鋭い問題提起をし続ける。昨年の春発刊したのは「人権の歴史と日本国憲法」。抽象的な概念をわかりやすく書くのはとても難しい。その人の理解の程度が赤裸々に現れ、知識の深さがとわれる。加えて表現力、簡潔で具体的わかりやすい文章を書くのは至難の業である。おもしろく読めなければならないし、品格もいる。ご一読いただきたい。この本の〈はじめに〉「戦を捨てた日本は日本晴れ」神奈川県社会教育課がはりだしたポスターの標語から始まる。
地元所沢の林敦子さんは浜林先生の大ファンである。同じく地元の弁護士大久保賢一さんからは「僕の尊敬する浜林先生なんだから、すばらしい内容にするように」と直々のお達しである。言われなくてもわかっています。
新所沢の駅からから一〇分、先生の家は静かな住宅地にある。越してきて二〇年余。息子さんは独立して奥様と二人である。具合の悪い奥様が先生を心配して部屋をのぞきに来る。「ご一緒にどうぞ」と林さんが声をかける。先生はすぐに足下の小さなヒーターのボタンを押し奥様の足下に向ける。「妻には長い間苦労をかけましたので」。
八一歳の先生のこれからの仕事は「イギリスの労働運動史」をまとめて書くことである。もちろん「活動」も。
・浜林 正夫(はまばやし まさお)
1925年北海道小樽市生れ。1948年東京商科大学(現、一橋大学)卒業。イギリス史専攻。以後、小樽商科大学、東京教育大学、一橋大学、八千代国際大学で教職につき、1998年退職。現在、一橋大学名誉教授。著書、『イギリス市民革命史』『イギリス名誉革命史』(未来社)、『イギリス民主主義思想史』(新日本出版社)、『人権の思想史』(吉川弘文館)、『資本論を読む』(学習の友社)、『民主主義の世界史』(地歴社)など多数。