法と民主主義2006年8・9月号【411号】(目次と記事)


法と民主主義8・9月号表紙
★特集 教育基本法「改正」案の本質
特集にあたって……編集委員会
◆今、教育基本法「改正」を考える……堀尾輝久
◆「愛国心」と「公共精神」……成嶋隆
◆教育の権力統制正当化法……市川須美子
◆教基法改正と教育の競争主義的再編──新自由主義教育改革の内実と論理……世取山洋介
◆「教育基本法案」をめぐる経緯と情勢に関する素描……村山裕
■東京「日の丸・君が代」訴訟の事態の推移……伊藤清江
■板橋高校威力妨害事件について──教育現場に刑事弾圧を許さない闘い……大山勇一
■世にも不思議な政治的判決──板橋高校卒業式事件……藤田勝久
■「予防訴訟」判決迫る──教育基本法「改正」を先取りする東京の教育現場……宮村博
■人事委員会審理の現況と今後について……鈴木毅
■教育的信念に、二重三重の不利益を許してはならない……太田淑子
■「服務事故再発防止研修」の経緯と裁判の現状……近藤徹

 
★特集●教育基本法「改正」案の本質

特集にあたって
 自民・公明連立内閣は、本年五月に教育基本法「改正」案を国会提出。民主党も同党案を提出した。先の通常国会では継続審議となったが、本稿を書いている時点で次期自民党総裁決定的と目される安部晋三氏は、この教育基本法の「改正」と憲法の「改正」を自らの第一の政治目標と宣言をしており、自らの「実行力」をアピールするためにも是が非でも成立させようと、臨時国会でのを強行をもくろむ可能性が高いと思われる。

 本特集は、こうした教育基本法「改正」案の背景と本質を明らかにしようとするものである。

 まず、いわば総論として、堀尾輝久氏に本年七月の日民協第四五回定時総会での記念講演をもとに、教育基本法「改正」の社会科学的・歴史的背景と問題点の俯瞰を示して頂いた。そして、「改正」案のより詳細な検討として、成嶋隆氏に、「改正案」に「愛国心」・「公共の精神」が盛り込まれている背景とその問題点を、市川須美子氏に、現行法一〇条を廃棄する「改正」案における権力の教育支配の制度内容と意味を、世取山洋介氏に、「改正」案のもたらす新自由主義的教育改革の内容と論理を、それぞれ、論じて頂いた。また、日弁連の担当者としてこの教育基本法「改正」の国会の動きをフォローしてこられた村山裕氏には、法案をめぐる経緯と情勢を素描して頂いた。

 東京都では現在石原知事の下、教育基本法「改正」を先取りするように、「日の丸・君が代」の強制をはじめ教育に対する権力的介入が強行されているが、これに対して、多数の教職員が立ち上がり、各種の訴訟を闘っている。これら訴訟について弁護団事務局の伊藤清江氏に各訴訟の紹介を、またそれぞれの闘いについて各原告本人の皆さん、および板橋高校事件弁護人の大山勇一氏からご報告を頂いた。

 本特集が、教育基本法に対する今回の攻撃の本質をより深く理解することに役立つこと、そして「改正」阻止の世論の広がりに資することを、心から願ってやまない。

 本誌が皆さんのお手元に届く前、九月二一日には、原告約四〇〇名の「予防訴訟」の第一審判決が東京地方裁判所民事三六部で言い渡される。更に大きな世論を創りだし、なんとしても、素晴らしい現在の教育基本法を守りぬきたいものである。

(「法と民主主義」編集委員会)



 
時評●「小泉改革・5年」の検証こそ

(弁護士) 中田直人

 二〇〇六年九月八日自由民主党の総裁選挙が告示された。

 候補は、安倍晋三、谷垣禎一、麻生太郎の三氏、いずれも小泉内閣の閣僚であるが、安倍内閣が生まれそうな勢いである。

 「政策抜き、それでも一人勝ち。こんな奇妙な総裁選に、なぜなったのか」。「元をただせば、いずれも首相に重用されてきた『小泉学校』の門下生たち」(九月九日付「朝日」)。その小泉首相は「私の一票は安倍さんに」と述べ、「一番身近にいて、小泉内閣の改革を推進してきた」と説明した。

 安倍氏は「総裁候補として恐らく初めて憲法改正をスケジュールに載せると言っている。何とか突破口を開きたい」とみずから語る(九月七日付「読売」)。かつて「占領下で成立した教育基本法、憲法から我々は脱しなければならない」ともいった(『日本の息吹』二〇〇五年二月号)。この七月公刊した『美しい国へ』では「憲法前文には、敗戦国としての連合国に対する詫び証文≠フような宜言が」「妙にへりくだった、いじましい文言になっている」と書く。

 そして『文藝春秋』九月特別号には、「『闘う政治家』宣言・この国のために命を捨てる」の一文を寄せている。しかしそれは、北朝鮮のミサイル発射に対する非難決議が国連安全保障理事会で全会一致採択されたことを「日本外交大勝利」と自賛し、「靖国参拝問題は、政教分離の問題」であり、戦争指導者が合祀されているからといって「当時の日本の軍国主義を肯定している人は一人もいない」とひらきなおるものにすぎない。「総理の座に最も近い人物」とされながら、どう「この国を守る」のか、ときに勇ましいことばが踊るものの、中身はまったくない。これまで「新憲法制定を最大の課題」としていたのに、九月八日の総裁選三候補共同記者会見では、突如経済政策を最優先課題に挙げた。安倍氏は「経済が苦手」という批判をかわしたかったのかもしれない。総じて安っぽさと危うさを感じさせるだけである。

 いったい小泉「構造改革」とはなんだったのか。

 一言でいえば「弱肉強食」にルールはない、という「新自由主義」路線の強行である。この五年間、正規雇用労働者三〇〇万人減の一方で、非正規労働者が三〇〇万人増え、定率減税の廃止など「サラリーマン増税」で、サラリーマン世帯の年収は平均五〇万円も減っている。生活保護世帯は四割の増である。なかでも老齢者控除の廃止などで、税金と国民健康保険料の負担が一〇倍にもなった高齢者がいる。そして社会保障費の削減と歳入面での消費税増税を柱とする「骨太の方針2006」の策定等々である。国民への痛み♂氓オつけはとどまるところを知らない。

 総裁選候補者はまたそろって、日米同盟強化のため集団的自衛権の行使を認めよと発言している。小泉首相が臨んだ先の日米首脳会談は「世界の中の日米同盟」をうたい、アメリカの戦争に自衛隊を派兵し、一緒に戦争する国に日本を変えることを躊躇しない。

 自民党政治はいまや脱けだしようのない行き詰まりに落ち込んでいる。その根底に「過去の侵略戦争を正当化する異常」「アメリカいいなり政治の異常」「極端な大企業中心主義の異常」という、自民党政治の三つの異常があることは、だれの目にも明らかになっている。

 「小泉改革・五年」を一つひとつの分野・問題で検証することが急がれる。それこそが日本社会のゆがみをただし、新しい国民的課題と運動をつくりだす近道であろう。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

「あの子は風のように」 ちひろとともに

弁護士・元衆議院議員:松本善明先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1972年11月7日。衆議院予算委員会の質問。田中角栄元首相の大蔵大臣在任中地位利用、愛人邸事件。追及する松本善明。苦虫を潰したような顔の田中角栄。後日田中真紀子さんがエレベーターの中で、お悔やみを言った善明さんに「父は先生のことは死ぬまで覚えていました。私は追及しないでください」と。写真提供:しんぶん「赤旗」写真部

 善明さんはちひろ美術館で私を待っていてくれる。前の日から時間に遅れないように場所も電車の時間も確認して来たのに。ちひろ美術館は上井草駅から徒歩七分。私は下井草で電車を降りて駅前をうろうろしてしまった。売店のおばさんに「ちひろ美術館は上井草ですよ」と言われて茫然としてホームにもどった。たった二駅先なのに、各駅停車の電車はなかなか来ない。美術館に連絡を入れてはあるがなんてことなんだろう。

 ちひろ美術館が開館したその年にたずねて以来二九年ぶりの再訪なのに。私は昔からちひろファン、密かにちひろの絵本を愛読していた。一〇分遅れで到着したちひろ美術館は全面改築され中庭とカフェテラスを持つ伸びやかで明るいモダンな美術館になっていた。夏の明るい日差しが木々のあいだから降り注いでいた。

 善明さんは白い夏用ハンチングをテーブルの上に置き、白い夏のズボンとしゃれたシャツでにこにこしている。携帯を手元に持って若々しい。一九二六年生まれなので今年八〇歳である。この人がちひろさんが愛したあの「松本善明」さんなんだ。私はちひろファンになってすっかり仕事を忘れてしまっている。

 松本善明さんは大阪生まれ、父親は一代で出版社を起こし「大同書院」という法律図書の出版業を営んでいた。善明さんは松本家の長男、弟と一人の姉、妹が三人。丁稚奉公から苦労して仕事を起こした父は善明さんを「えらい人になれ」と言って育てた。本棚には東郷平八郎など偉人伝が並んでいたという。

 大阪府立北野中学入学、器械体操部だった。もちろん成績も優秀。一九四一年中学三年の時太平洋戦争が始まる。四三年中学五年の時「一〇年後の大学者になるより、一年後の一兵卒になれ」との校長の言葉に心揺さぶられた善明さんは海軍士官学校に入学することになる。その年大学生の学徒出陣が始まり、軍国少年善明さんにとって「いかに立派に戦死するか」が、人生の命題となった。その年、毎年一、二名しか軍の学校に進学しなかった北野中学から二四名が海兵に入学したという。海兵七五期は、七三期約九〇〇名、七四期約一〇〇〇名に比べ約三四〇〇名のの大所帯であった。海兵の最上級学年で善明さんは敗戦を迎える。わずかの違いで死を免れたのである。

 実家にもどり受験勉強をして一九四六年学資を出す父の意向もあり東京大学の法学部に入学。入学後善明さんは「なぜ、戦争に負けたのか、なぜ、戦争が起こったか」「命を捨ててもよいと思っていた戦争とはなんだったか、何が正しいのか」を考え続けることになる。「あの時代に命がけで戦争に反対し、主権在民を掲げてたたかった日本共産党の活動を知り」大学三年の四八年共産党に入党。卒業後は衆議院だけで三五名もの議員を擁する日本共産党国会議員団事務局に勤務することになる。

 一九四九年八月、善明さんは東京神田の「居住支部の会議」でちひろさんと出逢う。「私の斜め向いにすわって『いわさきちひろ、絵かきです』とすこしはにかんで会釈するおかっぱの彼女をみて私はきっとどこかの画学生ぐらいだろうと思いました。彼女は白いうわっぱりのようなものを着ていましたが、女学生のようでとても私より年上だなどとは思えませんでした。実際は彼女が三〇歳、私が二三歳でした」。ちひろさんはまじめな「活動家で」「絵と結婚して」生きていくつもりだった。一九五〇年二人は結婚。

 同じ年に善明さんは弾圧と党の分裂。混乱の中で国会事務局を解任されてしまう。善明さんは党と将来の生きる道を考え「せまい部屋のなかを熊のように歩きまわって考えていた」。職と収入も得なければならない。「結局ちひろと相談して大学時代には考えもしなかった司法試験を受けることにしました」。五〇年秋にはちひろさんは猛君を妊娠。善明さんは東京大学の図書館に開館から閉館まで詰めて受験勉強。ちひろさんは一人で生活を支えながらがんばった。翌五一年四月に猛君の誕生、そして司法試験に合格。善明さんは五二年四月晴れて六期の修習生となる。

 一九五四年、弁護士になった善明さんは自由法曹団に所属、東京合同法律事務所で仕事を始める。三年半後に黒田法律事務所(現東京法律事務所)に移り、労働事件弾圧事件に忙殺されていた。六一年突然国会議員の候補者の話が来る。まずはちひろさんのところに連絡があったという。

 当時東京に共産党の議席がなかった。二人はこれを受けたのである。黒田事務所で大議論をした結果、事務所の六人の弁護士で善明さんを当選させるため「松本善明法律事務所」を作ることになった。善明さん三五歳、浜口武人、矢田部理、坂本福子、寺村恒夫、渋田幹雄。二〇代から三〇代の「個性豊かで燃えるような思いの若者の集いでした」みんなほんとに若かった。

 六二年に事務所設立、最初の選挙は六三年の一一月。法定次点で落選。六七年一月予定候補となってから五年で当選する。引退する二〇〇三年一〇月まで四一年間の政治活動、一三戦一一勝二敗三三年議員を続けてきた。二〇〇五年一〇月発刊の「平和の鉱脈と日本共産党」はいつも走り続けてきた人生を一休みして「市民の立場から政治も社会も、もう一度見直してみよう」と書かれた。分かり易く面白い。ふーんそういうことなのかと思うことも多い。国民の命を預かる国会議員という仕事を善明さんはぶれることなく誠実に懸命に「命を削る」ようにして続けてきた。みずみずしい感性あふれる描写に胸が詰まったところもある。

 善明さんは今「新しい人生の出発点にたった感じがする」「読みたいもの、学びたいもの、書きたいもの、やりたいことがたくさんあって、いくつも、いくつも人生が欲しいような欲張った希望も生まれました。現実にはよく整理してこれからの人生を生きようと思っています。そして人類の進歩と幸福に貢献したいという若々しい気持ちでいっぱいです」。

 ちひろさん、善明さんはあなたが逝ってしまってもあなたの書いた絵からあなたを感じ、それまではあまり気付かなかった風景、草木、音楽の中にもあなたの世界を感じている。善明さんはちひろさんを天才だという。ちひろさん、善明さんも猛君もあなたのご自慢の愛する家族のまま生き続けています。

 そして妻利恵子さん。ちひろさんが亡くなって七年後善明さんの人生のパートナーとなった。ちひろさんと暮らした二五年、利恵子さんと暮らした日々も今年で二五年になる。ちひろさんが言っていた「今度は世話女房型の人と結婚するように」なったのでしょうか。

・松本善明(まつもと ぜんめい)
1926年大阪府生れ。
1946年東京大学法学部入学。1950年にいわさきちひろさんと結婚。
1954年に弁護士となる。松川事件や労働争議に携わる。
1967年初当選後、衆議院議員を通算11期勤める。
著書に『平和の鉱脈と日本共産党』(新日本出版社、2005年)など。
団法人いわさきちひろ記念事業団副理事長。


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