法と民主主義2006年7月号【410号】(目次と記事)


法と民主主義7月号表紙
★特集 小泉靖国参拝を検証する──最高裁三判決の検討と、政教分離運動の展望──
特集にあたって……編集委員会
第1部 小泉靖国参拝違憲訴訟の到達点と課題
◆公式参拝違憲訴訟を総覧する……諸根貞夫
◆靖国違憲国賠訴訟における被侵害法益論─国家賠償責任の成立要件の判断方式との関連で─……松本克美
◆6・23最高裁判決を批判する ─争点および事実と証拠からの逃避─……久保木亮介
◆政教分離弁護団交流集会から……井堀 哲
◆沖縄戦とヤスクニを問う─沖縄訴訟の報告……金城 実
◆何度でも戦う、四国の伝統……草薙順一

第2部 政教分離の現状と新たな運動の展望
◆自民党新憲法草案と靖国神社問題─追悼しつつ、戦争の準備をすることを許さない……西川重則
◆政教分離を求める運動の現状……辻子 実
◆平和の灯を!ヤスクニの闇へ キャンドル行動─東アジア民衆の視点で靖国問題を問い直す……徐勝
◆身近な政教分離違反を見逃さない─国立大学の神社は違憲 東京高裁判決……藤原英夫
◆ 砂川「空知太神社」住民訴訟と政教分離違憲判決……石田明義
◆靖国神社ツアーの感想……白神優理子
  • 新連載●若手研究者が読み解く○○法 C消費者法「改正」消費者契約法の検討……近藤充代
  • とっておきの一枚●元衆議院議員 土井たか子さん……佐藤むつみ
  • 司法書士からのメッセージG●高齢者・障害者の権利擁護−当事者と一緒にいること……安藤信明
  • 税理士の目D●消費税と並行して進む大増税……奥津年弘
  • 連載・軍隊のない国H●モナコ公国……前田 朗
  • 私が見たアメリカ、私がみた世界D●アメリカで相次ぐ冤罪と刑事司法改革―日本への示唆……伊藤和子
  • 投稿●「政党への寄付の自由」はどのように保障されるべきか……大久保賢一
  • 投稿●地方自治法の一部改正と行政財産の管理等の規制緩和について……角田英昭
  • 特別連載●矢代東村 短歌で治安維持法体制に抵抗した弁護士(下)……柳沢尚武
  • 近刊紹介●
  • インフォメーション●日民協第45回定時総会 宣言
  • 時評●思考を奪った単純なことば 巧妙だったメディア操作……丸山重威
  • KAZE●「力への依存」がむしばむもの……佐々木光明

 
★特集●小泉靖国参拝を検証する

特集にあたって
 小泉政権誕生以来五年が経過した。特別な意味を持つ「五度目の八月一五日」が目前である。

 この間、内外の世論と憲法原則を押し切って五度の「小泉靖国参拝」が重ねられた。その波紋の深さと拡がりは、誰の目にも首相靖国参拝の重大性を明らかなものとした。

 首相靖国参拝は、一般には外交問題として、また「政局」を左右する政治問題として、さらには国際経済に波及する問題として意識されている。しかし、実は何よりも憲法原則に関わる問題である。精神的自由の根幹に関わる憲法問題であるとともに、日本が戦争責任にどう向かい合うかを象徴する平和主義の神髄に関わる問題でもある。国の最高権力者が、自国が構築した最高の法規範を遵守するかしないのかという問題なのである。参拝批判を「外圧」と捉えるのは不見識も甚だしい。

 靖国を語ることは歴史認識を語ることであり、戦争と平和をめぐる自らのスタンスを語ることでもある。日本国憲法が、「政府の手によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意して、確定された」ものである以上、憲法の平和と人権に関わる原則は靖国問題を避けては通れない。

 また、靖国をめぐる論争は過去の清算に関わるだけの問題ではない。明日の戦争と平和をめぐる、優れて今日的論点でもある。日本を戦争のできる普通の国にしようとしている為政者にとって、戦没者をどのように遇するかは喫緊の重大事なのである。従って、政教分離をめぐる論争は、靖国問題として表れており、当然に改憲問題の重要テーマのひとつともなっている。

 厳格な政教分離を求める運動は小泉参拝を違憲として国家賠償訴訟提起の法実践を試み、下級審のレベルではいくつかの注目すべき成果をあげている。

 ところが、熱い「靖国の夏」を目前の六月二三日と二八日、最高裁は、大阪(第一次)・千葉・松山の各小泉参拝違憲訴訟について「被侵害利益として直ちに損害賠償を求めることはできない」とする「憲法判断逃げ切り」三判決を言い渡した。そして、同月二八日、東京高裁が、「小泉・石原参拝違憲訴訟」判決において同じ論理の展開をもって続いた。

 また、東京地方裁判所は五月二五日に、第二次大戦中に旧日本軍に徴用された韓国人の元軍人軍属とその遺族四一四人が国を被告として提起した、「靖国合祀中止訴訟」において請求を棄却する判決を言い渡した。その判決も、「国は、原告に強制や具体的な不利益を与えておらず、原告らの民族的、宗教的人格権や思想良心の自由を侵害したとは言えない」と判示している。

 公式参拝をめぐる憲法訴訟の嚆矢である、岩手靖国違憲訴訟仙台高裁判決(一九九一年一月一〇日)は、「天皇、内閣総理大臣の靖國神社公式参拝は、その目的が宗教的意義をもち、その行為の態様からみて国又はその機関として特定の宗教への関心を呼び起こす行為というべきであり、しかも、公的資格においてなされる右公式参拝がもたらす直接的、顕在的な影響及び将来予想される間接的、潜在的な動向を総合考慮すれば、公式参拝における国と宗教法人靖国神社との宗教上のかかわり合いは、我が国の憲法の拠って立つ政教分離原則に照らし、相当とされる限度を超えるものと断定せざるをえない」として、「公式参拝は、憲法二〇条三項が禁止する宗教的活動に該当する違憲な行為といわなければならない」と明確に断じた。

 また、政教分離ないし靖国をめぐる法実践の金字塔である、愛媛玉串料訴訟の大法廷判決(一九九七年四月二日)も目的効果基準を厳格に適用し、「地方公共団体が特定の宗教団体に対してのみ本件のような形で特別のかかわり合いを持つことは、一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており、それらの宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすもの」として、愛媛県の靖国神社への玉串料奉納を違憲と断じた。しかも、一三対二という圧倒的多数での違憲判決である。政教分離解釈の厳格化の定着を予感させた。

 しかし、その後の趨勢は必ずしも、思わしいとは言えない。「八月一五日靖国参拝」を総裁選公約とした小泉純一郎が二〇〇一年の自民党総裁選に勝利して参拝を強行し、司法がこれを合憲と言わないまでも、しっかりした歯止めを掛けるに至っていないのである。「最高裁六月三判決」は、愛媛大法廷判決とどう関わるのだろうか。

 今号の特集は、小泉靖国参拝を時代背景の中でとらえ直し、法実践として何をなし得るかを問うものである。第一部では、最高裁三判決に焦点を当てて、小泉靖国違憲訴訟を中間的に総括する。そして、第二部では、視野を広げて、政教分離問題の現状と新たな運動の展望を瞥見する。憲法理念である政教分離の実現を目指す運動ににおいて、法律家が法実践において果たすべき役割を考えたい。

(「法と民主主義」編集委員会)



 
時評●思考を奪った単純なことば 巧妙だったメディア操作

(関東学院大学教授) 丸山重威

 通常国会が終わり、メディアでは「小泉政治五年の総括」が盛んだ。

 「新自由主義」思想を正面から打ち出し、軍事面も含めた「対米追従」の「構造改革」を進めた五年間の小泉政治。問題は多々あるが、ここでは、その手法が「劇場政治」と形容されたように、メディアを巧妙に利用し、世論を操作する中で行われたことを見逃すわけにはいかないだろう。

 ▼スポーツ紙に載る政治家

 最初に注目すべきことは、総裁選の演出だ。森喜朗首相の後継候補として四人が立候補したが、小泉氏は田中真紀子氏らの応援で話題を提供し、基本的に自民党の中の選挙を、いかにも「国民的大イベント」のように仕立てて当選、内閣支持率は実に八〇%を超した。この最大の要因は、巧妙なメディア戦略である。

 小泉首相の政務秘書官・飯島勲氏は、二〇〇一年一一月二〇日、全国の地方紙の論説委員を前にした共同通信社の講演で、「国民の七〇%は、政治面の記事をあまり読まない。そこにどう語りかけるか。小泉が自民党総裁選に初出馬した一九九五年秋から、長期的に考え、新聞以外の取材に積極的に応じてきた。マンガ本、スポーツ紙、婦人雑誌の取材に、最優先で応じてきた。茶髪の若者たちなど、政治にほど遠かった国民が、今の小泉を支えている」と語っている。

 実際に就任後、首相は、早速、週刊誌、月刊誌の編集者・記者を招いて昼食会をしたりし、スポーツ新聞三社は内閣記者会に加盟した。首相は「スポーツ紙に載る政治家」となったのである。

 ▼「ぶら下がり」とグッズ

 さらに、無愛想だった森喜朗前首相と違って、毎日二回、うち一回はテレビを含む記者団の前で話す、いわゆる「ぶら下がり取材」に積極的に応じた。

 短い言葉で感想や見解を述べる首相の「ひとこと」は、国会答弁同様、重大な問題を巧妙に避け、ものを考えさせない「ワンフレーズ・ポリティクス」の中心的な位置を占めた。記者は深く食い込む質問はできず、結局言われっぱなし。その薄っぺらな言葉だけがテレビに流れる結果になった。

 そして、いかにも時代の波に乗った宣伝が、国費によるメールマガジンの発刊と自民党の「小泉グッズ」の発売だ。

 メルマガは、官邸スタッフを動員、一億円という国費を使ったルール違反の政治キャンペーン。二〇〇一年六月一四日から配信を開始し、「小泉人気」演出に一役買った。登録者は、同日中に一〇〇万を突破、配信は二〇〇万を超した。

 自民党本部は、縦一六メートル、横一二・五メートルの「小泉ポスター」で覆われた。小泉グッズは、一個七〇〇円のストラップ、一二五〇円の湯飲み茶わんをはじめ、ポスター、顔写真入りのTシャツ、扇子、ボールペンなど。ポスターは約七〇万枚。二〇〇一年のグッズ売り上げは二億八〇〇〇万円という。

 ▼非論理で思考停止を招く

 小泉政権の五年の間、野党とメディアの問題は、常識的には見えるが、単純すぎて非論理的で、憲法原則などそっちのけの小泉発言を、ほとんど問題にできなかったことではなかっただろうか。

 従来の政府見解さえ無視し、問題を「イエスかノーか」と単純化したことば…。「常識的に言って自衛隊は戦力だ」「どこが戦闘地域でどこが非戦闘地域、そんなこと私に分かるわけがない」「社会に格差があっても必ずしも悪いわけではない」といった言葉は、政権担当者としては全く無責任で、まともな国民の思考を停止させるものだった。首相は、ただムードで政治を引っ張った。

 そしてこの五年の間に、人々の心は荒み、社会の安定が壊された。この経験を「反面教師」とし、社会と人々の連帯を取り戻し、もう少し明るい、希望がもてる日本にしていかなければならない。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

ここで逃げたら女がすたる いよっ おたかさん

元衆議院議員:土井たか子さん
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1971年。ボーリングの指導をするおたかさん。成田知巳(当時社会党委員長)石橋正嗣(当時社会党書記長)。2人とも「運動」はからきしダメ。おたかさんが手取り足取りの指導。おたかさんは中山律子風でマイシューズ、マイボール。今も変わらないおたかさん。

 土井たか子さん七七歳。ダブルセブンのおたかさんは、鮮やかなブルーの軽いブレザーに真っ白のパンツ、白のインナーで颯爽と現れた。「キャー」と心で拍手する私。胸に不思議なブローチ、鷹の横顔に大きな石がついている。それが目のようである。古代文明の匂いがする。「すてきですねそのブローチ、鷹ですか」「違います」にべもないお言葉。「石はなんでしょうか」「琥珀ですよ」「友人が持っていたものを取り上げたんです。右向きと左向き二つあるんです。ポーランドで作られたもらしい。いいでしょう」その日は「左向き」思想で選んだの。でもその琥珀は濁っている。ちょっといぶかしげな私の反応をすばやくキャッチ。「濁っている琥珀のほうが高いのよ」

 おたかさんは三六年間の超多忙な議員生活から二〇〇五年九月にやっと開放された。初当選が一九六九年一二月、長い議員生活だった。インタビュウはおたかさんが理事長を勤める「アジア人権基金」の事務所で行われた。一昔前の組合事務所のようなスペースに古い机が並べられた会議室だった。まわりは雑然とした資料の山。議員会館の部屋はこんなものじゃなかったらしい。あふれる人と資料の中で五島昌子さんが公設秘書として千手観音のように総務も雑務もすべて超人的なガンバリ担当していた。そして今もボランティアで、私設秘書を買って出て、おたかさんを支える。

 とっておきの写真をお願いしていたので五島さんがアルバムを出してくれた。いろいろな写真が出てくる。「あらこの写真」といいながら五島さんは懐かしそう。「着ているお洋服でいつ頃かわかるのよ」「あらそう」とおたかさん素っ気ない。五島さんははっきりした目の沖縄系の顔立ち、すらりと一六七センチの宝塚の男役風のおたかさんとは違って、ふっくら柔らかく丸い。奧で仕事をしながらインタビュウを聞いていて「あらそうかしら」と合いの手を入れる。おたかさんも「ね。そうよね」と確認したりする。二人は親友で戦友でもある。

 一九六九年の初め、四〇歳のおたかさんは憲法学の研究者として同志社や関学で講師をしながら神戸市の人事委員を務めていた。田畑忍門下である。知的で弁も立ち、長身ですっきりとした性格。今でも体育会系である。リベラルではっきりものをいう目立った存在ではあった。しかし議員になる気など毛頭なかった。「阪急電車で神戸の自宅に帰る途中、隣の人の読んでいる夕刊を盗み読みしていた私は飛び上がるほど驚いた。『立候補決意か?』という大見出しの脇に私の名前が出ているではないか」たか子さんは新聞社に抗議、次の日には人事委員の辞表の提出に行った。記事になった限りは虚心でいても公正さを疑われると思った。ところが当時の宮崎助役「それはあなたらしいが、だれも本当に出るなんて思っていませんよ。それに、勝てっこない。兵庫二区なんて、だれもあなたのこと、知らないんだから。そんなアホなこと、あなたがやるはずもない。辞表をしまったらどうです」

 実は出馬依頼は前の年の暮れに当時の成田知巳委員長からの電話で始まっていた。恩師田畑先生は自分の出馬を逃れるため「弟子のうちから必ず誰か出す」と社会党に約束していた。包囲網は狭まる。そして新聞。「勝ってこない」とはなんだ。ここで逃げたら女がすたる。土井たか子の決断はいつもこんな風になる。

 実はおたかさんは「出るべきか出ざるべきか悩んで、体中にじんましんが出ていたころ」親友五島さんに相談を持ちかけていた。「有楽町の喫茶店で三、四時間話したが結論が出ない。夜一一時になって喫茶店を追い出された私たちは、山手線に乗り込んでなお話続け、その電車も何周かして、大崎で終点になって降ろされた」「七〇年安保を前にして、やりがいあるじゃないですか。今度は政治の内側から闘いましょう」

 その時から三七年、波乱の日々が過ぎた。やり遂げたことも批判されたこともあったが、今も二人でここにいる。

 土井たか子さんは一九二八年生まれ。実家は神戸市長田区、父土井仁良市は内科と小児科の開業医。質実剛健派の父と陽気でさばけたやさしい母貴代、姉と妹、二人の弟の七人家族である。二女できかん気、頭を短く刈り上げ、こうもり幼稚園では男の子に間違えられていた。「昨日は落語の高座でシャンソンを歌って来た」というおたかさんだが、小さい頃自宅でのピアノの練習はさぼってばかり。妹さんは音楽大学に進んだ。音楽は好きだが「読譜力がなかったの。このちがいね」戦争のまっただ中でも、ゆたかで自由な家で「女だから」などと言われたこともなくのびのびと育った。

 とはいえ戦争の時代、父親は一九三八年四四歳のときに招集され軍医として中国に渡るが、翌年無事に帰還する。たか子さんは一九四一年に高等女学校へ、学徒動員の日々だった。一九四五年になると工場で何度も空襲を受けた。たか子さんも戦闘機に追われて九死に一生を得たこともあった。一九四五年父の気持ちを察して高槻の女子医学専門学校に願書を送るが戦時の混乱のために期間内に届かず受験が出来なかった。そんなこんなこんなで出願していた京都女子専門学校外国語科に入学することになる。

 四五年三月、B29の神戸大空襲が始まる。「空襲を受けるとどんな人でも人生が変わる」「逃げまどう地獄絵のなかで、明日の命は知れないと思った」おたかさんの「反戦」の原点はここにある。京都での生活は神戸に比較にならないくらい平和だった。たか子さんは落ち着いて勉強を開始、これが面白くて懸命に学んだという。夏休みで神戸の実家に帰省中、八月一五日を迎える。戦争は終わった、明日に希望がもてる、「言うに言えない開放感だった。

 学校にもどり、英語を懸命に勉強した。たか子さんはヘンリー・フォンダファン。彼の主演の「若き日のリンカーン」に感激。「私も弁護士になろう」同じ頃同志社大学でたまたま田畑忍先生の講演を聴くことになる。その平和思想と憲法第9条に対する思いに圧倒され、いよいよ法学部への思いが募った。京大と同志社の編入試験に合格し、自由な校風と田畑先生の講演に後押され同志社を選ぶこととなる。

 おたかさんは田畑先生の講演を聞いた日から日本国憲法と共に生きてきた。護憲の思いは脈々と流れ続けている。歯痛と骨折以外に保険証使ったことがないと嘆くおたかさん。「一寸先は闇」「晴天の霹靂」の政治の世界から抜け、おたかさん「護憲」の出番です。

「ダメなものはダメ」女組トップは勇気凛々で行きます。

・土井たか子
1928年生まれ。
同志社大学大学院卒業、同志社大学講師。
1969年議員初当選、当選回数12回、93年衆議院議長に就任。
「せいいっぱい―土井たか子半自伝」「 憲法講義―人間が人間らしく生きていくために」など。


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