法と民主主義2005年8・9月号【401号】(目次と記事)


法と民主主義8・9月号表紙
★特集★国境を越えた市民が平和を創る! ──国際社会の課題と日本国憲法の平和主義
◆特集にあたって……馬奈木厳太郎
◆国連安保理の市民化と非軍事的紛争予防へのNGO・市民社会の挑戦……吉岡達也
◆GPPAC東北アジア地域アジェンダと日本国憲法9条……笹本潤
◆隣人から見たGPPAC東北アジア提言……Johanna Stratton
◆GPPACの挑戦を日本国内でどう生かすか……鈴木敦士
◆GPPAC国際提言の意義──平和教育を中心として……松井ケティ
◆市民社会は世界を変えられるか?……渡辺里香
◆国連改革の一環としての紛争予防をめぐる議論とGPPACプロセス──日本国憲法の視点から……馬奈木厳太郎
◆【資料】

 
時評●真夏の夜の夢 ―被爆60年をむかえて―

弁護士 池田眞規

 被爆六〇年というテーマを与えられた。そこで、六〇年前に何が起こったか、それが今どうなったか、これからどうなるか、という問題として考えて見たい。
 六〇年前の一九四五年は、人類の歴史が始まって以来、初めてのマイナスとプラスの大事件が発生した年である。前者は原爆投下であり、後者は国連憲章の成立である。
 マイナス事件の原爆投下は、これによって人類は核時代に入り、兵器の質が一変したのである。それまでの戦争に使用する兵器は、その兵器がいくら発達しても、それは火薬の爆発力を利用した大砲、爆弾などによる多数の「人間の殺戮」の兵器に進歩するのが限度であった。しかし核兵器の時代となれば、単なる人間の殺戮ではなくて、核戦争による「人類の自滅」の危機が予見されるという時代に入るのである。この意味で人類にとってマイナスの大事件ということができる。厄介なことに、一九四五年以後人類が存続する限り、核兵器による戦争で人類は、自らの手で最後の審判の日を迎える可能性を持ったことになる。何故なら現在地球上に存在する国のすべてが核兵器廃絶条約を締結し、核保有国が保有する核兵器のすべてを廃棄したとしても、人類は核兵器の製造方法を知ってしまったからである。一〇〇年後の人類が核兵器を製造して核戦争を開始すれば、人類は自滅する。そうすると、今後人類が存続する限り、核兵器による自滅の呪縛から逃れることができないことになる。さらに悲劇的なことは、核兵器の最大の核保有国の大統領が極めて愚かなカウボーイであるという事実である。そのカウボーイが核兵器発射ボタンを押す権限をもっており、彼が人類の生存か滅亡の鍵を握っている、という絶望的な現実がある
 これが、六〇年前に人類に起こったマイナスの大事件である。これは六〇年後の現在、解決の見通しは全くないどころか、むしろ、最悪の方向に進み始めている。核兵器を持つ国は六〇年前一ヶ国だったのが六〇年後の現在九ヶ国に増えたのである。これからも増えるだろう。何故なら、核兵器は国家の防衛に最も効率のよい兵器だから、どの国も欲しがるからである。人類はどうなるのだろう。
 さて、次は六〇年前の一九四五年に発生した人類の歴史の最大のプラスの事件である国連憲章の問題に移ろう。国連憲章が戦争の違法化を宣言したものであることは公知の事実である。国連憲章は、第二条第四項において「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を慎まなければならない」という原則を立てたのである。人類は数千年の間、武力による紛争解決を当然の権利であると考えてきた。しかし「われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救う」ことを一つの目的として、「国連憲章に同意し、国際連合を設立した」(同前文)のである。地球上の大多数の国家が戦争の惨禍から将来の世代を救うために「すべての加盟国の主権平等の原則を基礎」に、「戦争を違法とすることの合意」に達したのは人類史上初めての画期的な大事件である。この原則の先には、「戦争をしない、又は戦争ができない国家連合」の構想が見えてくる。現に欧州経済共同体から出発して欧州連合にまで成長した例がその例である。これは欧州地域に限定した「戦争ができない仕組み」としての国家連合の原型であると見てよい。かかる国家連合的な地域限定の仕組みを世界の各地域に、創設可能な条件に従って形成してゆくのだ。数十年から百年単位での「地域の戦争ができない仕組み」の建設、つまり地域毎の「ミニ国連」の創設を続け、それを最後に国連に集約して、世界連邦へ繋ぐ、という構想である。
 国連憲章の「戦争の違法化」の国際的合意が、国家間の「戦争ができない仕組み」に発展することによって、国家の軍備は無用となる。そうなれば、核兵器の存在も「無用となる」という仕掛けである。
 というのが、被爆六〇年を迎えた私の真夏の夜の夢である。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

知の旅人よるべき場所は

弁護士:尾山 宏先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

 尾山先生は世田谷の桜丘に長く住んでいる。最寄り駅は小田急線の経堂である。住居表示を頼りに進めば約束の時間前に着くはずであった。自宅事務所の尾山先生に是非ご自宅でと言った手前遅れちゃいけない。この道は娘の小学校へ行く道で六年間何度も通った道である。東京地裁の準備手続きが終わって約束の一時間前に私は経堂に着いていた。娘が卒業して八年。まず商店街を抜けたところでのぼる道を間違える。やっと軌道修正して地番付近にたどり着いた。通りから小路を入った一角、同じ号数のところに数軒の住宅があり表札を見ているのにわからない。ついに電話して奥様に助けを求めた。一五分遅れ。尾山先生「だから詳しくお教えすると言ったでしょう」土地勘があると過信した私をぴしゃり。
 玄関を入って急な階段を上ると先生の書斎があった。入り口近くの机の上にはパソコン。先生の机の上のはもしかしたらワープロでは。まわりには本棚。籐の応接セットのテーブルにはインタビュー用の資料、本が積んであった。
 尾山先生と言えば、日教組弁護団での勤評闘争、学テ裁判など多数の事件そしてライフワークとなる家永教科書訴訟。実務家としてはもちろん論客としても著名である。きっと読書家にちがいなくそのセンに話が言ったら私はついていけない。漫画、雑誌とお手軽文庫本に浸りきっている私。とにかく具体的な質問に終始する。
 先生は一九三〇年一二月生まれ。七四歳である。東京生まれ小倉育ち。父尾山正義は教師から司法官試補試験を受け小倉で弁護士を開業。戦前戦後を通じて八一歳で亡くなるまでリベラルな一弁護士として仕事を続けた。なかなかダンディーな紳士で、竹久夢二が描くようなたおやかできれいな母とすてきな御夫婦である。短気なところは尾山先生に遺伝したらしい。
 尾山先生にはお姉さんが一人。両親の期待を背負った大事な大事な一人息子である。お父さんは息子に法律家になってもらいたかった。とにかくヒロシちゃんヒロシちゃんと大切に育てられた。
 高校は熊本五高。もちろん秀才である。期待通り東京大学に進学する。終戦の時は一四歳。旧制中学時代は学徒動員の日々であった。旧制高校から旧制大学の最後の世代である。
 司法試験に受かった息子に、父親は「しばらく裁判官でもやって小倉にもどってもらいたい」と思っていた。尾山先生にはそんな気はサラサラない。弁護士二年目から日教組顧問芦田浩志先生の命令一下、頻発する教育統制と管理強化に対する闘争に投げ込まれることとなる。たとえば愛媛県の勤評反対闘争は弁護士二年目二六歳。「終わるまで帰ってくるな」と送り出され道後温泉に宿を取り一二月末まで県内を走り回ったという。そんな調子の仕事はその後何年も続いていく。長男は派遣先の松山日赤で生まれるが、先生は仕事で現場に飛んでいた。奥様は小田急にのって替えの衣類を渡しに新宿に何度も通ったという。先生はそのまま次の出張に出かける。
 日教組法律顧問として徹底的に鍛えられた。「どんなに若くても弁護士は弁護士。何でも一人で判断し決めなければならない」あっという間に一人前になってしまう。福岡に通うこともあったのになぜか「父と一度も一緒に仕事をしなかったのです」お父様は可愛いヒロシちゃんとやりたかったのです。
1933年6月5日 法服の父尾山正義弁護士と家族。宏君2歳。 奥さんとは職場結婚。妻去qさんは早稲田大学教育学部卒早大新聞会で活躍。先輩に勧められて黒田事務所の事務員の面接を受けに来た。面接は小島成一先生。やさしい紳士小島先生は「君のような四大卒の人がやる仕事じゃないんだよ。お茶くみとか掃除とか」当時の事務員の仕事を説明している。側にいた尾山先生は「本人がやりたいって言うんだからいいんじゃない。やらせれば」と切って捨てる。その時尾山先生は靴下を脱いでいたらしい。奥さんの印象は最悪。なんて横柄で嫌なやつなんだろう。途中で麦茶を持ってきてくれた奥さんを前にそう言う尾山先生である。奥さんは完全無視。「先生はパソコンなさるんですね」私の質問に「私が勉強してきてこの人に教えるんです。ワープロも」
 奥様がパソコンをひらく。あら可愛いお子さんがなんか言いながら登場する。娘さんは画商のフランス人の夫とパリに暮らす。動く映像でメールが届く。「これが一番の楽しみなんです」気むずかしく本ばかり読んでいる夫に奥様はちょっとジャブ。昔から仕事は自宅をベースにやってきたと言う。「資料が多いですから」奥様はごはんからパソコン電話番まで専属秘書である。私にはとても勤まらない。
 用意してくれていた本の中に「ダンテの『神曲』講義」が有る。読み始めると先生は面白くて深夜まで読み耽る。知的興味は尽きることなく先生は知の旅をゆったりと楽しんでいる。
 学テ訴訟、教科書裁判が一区切りついて先生はここ一〇年中国戦後補償問題に取り組んでいる。その関係で中国中央電視台にテレビ出演し、それが機縁となって、二〇〇三年感動中国一〇人に選ばれた。インターネットの投票で決まったのだそうだ。
 そして今は「日の丸・君が代」強制反対・予防訴訟、処分解雇撤回裁判の弁護団長である。教育にかけられる攻撃に断固として立ち向かう。半世紀にならんとする先生の仕事は教育の自由と民主主義を守り続けるものだったからである。
 次の日事務所に丁寧なファックスが入った。皮相なインタビューが心配になったのだろう。「私の今の関心事は、私が日本人として、アジア人としてさらに世界市民として如何に考え、如何に行動すべきかということです…。訴訟のことは、そのような感心事のごくごく一部でしかありません。私が「ダンテ『神曲』講義」を読むのも、アリストテレスに関心を抱くのも、同時代人が書いたものを読むのも、すべてこのためです。私の今の読書量は若いころとあまり変わりないと思いますが、そのうち法律の本は精々一%ぐらいで、後の九九%は法律以外の本―哲学、文学、経済学、社会学、政治学、教育学、政治思想史などの文系の本と理論物理学、現代進化論、数学など理系の本です。……現在のように大きなかつ急激な変化が世界規模で起きている時代には総合知、統合知というべきものが必要だと考えているからです」。
 帰りがけに本棚に金子みすずの本を目にした。「仙崎に女房と一緒に行こうかと言っているんです」娘さんはフランス語で詩を書くという。先生の頭の中はいったいどうなっているんだろう。

尾山 宏
1930年12月29日生。東京で生まれた後、北九州小倉に移住
1953年東京大学法学部卒/1956年弁護士開業
1957年愛媛県の勤務評定反対闘争に派遣される。
1988年日本教職員組合常駐顧問弁護士に。
   日教組分裂で顧問辞任。


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