法と民主主義2003年2・3月号(目次と記事)


法と民主主義2・3月号表紙
★特集★そのとき、市民による法の創造は止まる
     ─弁護士費用敗訴者負担制度
■特集にあたって……高橋利明
■「小さな司法」の中でも輝いた政策形成訴訟 ―弁護士費用敗訴者負担制度はその可能性を封じる……小林武
■アメリカの公共訴訟と敗訴者負担……牛島聡美

●―もし、弁護士費用が敗訴者負担であったなら……―●
■市民の人権を根こそぎ奪っていく危険な改革……川田悦子
■もっとも必要な人から「裁判」を奪う……馬奈木昭雄
■弱者は無視され、司法は少数者の思いのまま……郷 成文
■訴訟印紙代の負担さえ重いのに……原 希世巳
■差し止めは却下でも、夜間離着陸に枠はめる……榎本信行
■原告の八割は、「やめる」か「訴額をへらす」と回答……米倉 勉
■二転・三転する労働判決の中で……丹波 孝
■メーカーの笑う顔が見える……谷合周三
■泣き寝入りしろ、というのですか!……出元明美
■「負けたら数十億円」の負担覚悟で裁判起こせますか?……大川隆司
■公益訴訟の意欲は殺がれ、社会は閉塞する……伊佐山芳郎
■市民が平和を守れない……徳岡宏一朗
■敗訴を重ねながら救済立法を訴える運動に壁……山田勝彦
■原発の安全性の検証にかかる莫大な費用と時間……海渡雄一
■憲法を守る市民の声を封殺……田部知江子

●―広がる国民の反対の輪―●
■日弁連の取り組み―司法アクセス検討会と国会を見据えて―……斎藤義房
■危機的状況を認識し 全員一丸となって打開を……辻 公雄
■正念場を迎えた弁護士報酬敗訴者負担導入阻止の運動……新里宏二
■制度導入阻止のために……澤藤統一郎

 
時評●「テロとの闘い」は、すべての議論を封ずるオールマイティの呪文か

弁護士 内田雅敏

 二〇〇二年一二月、海上自衛隊のイージス艦がインド洋に派遣された。二〇〇一年九月一一日、ニューヨーク同時テロを契機として同年秋急遽成立させられた「テロ対策特措法」に基づくという。「テロとの闘い」とはすべての議論を封ずるオールマイティの力を有するようだ。「テロリスト」に対しては刑事裁判手続も不要、戦時法規の適用も不要、しかも「テロリスト」は姿を隠していて、どこにいるかも分からない――どこにでもいる――から個別的自衛権も集団自衛権も関係ないというわけだ。
 そして「テロリスト」との闘いは相手との交渉はなく、殲滅するまで続くから、何時終わるかはわからない。「『テロとの戦争』とは実は、『敵』を明示せず市民社会を不断の臨戦体制あるいは非常事態に置くための空前の発明なのである」(「『テロとの戦争』とは何か…9・11以後の世界…」西谷修・以文社)
 9・11テロとアフガニスタン攻撃、これが国連憲章第五一条の規定する自衛権行使の要件を充たしておらず、国際法の観点からも許されないものであることは、多くの国際法学者の指摘するところだ。その違法なアフガニスタン攻撃に、戦争の放棄を宣言した憲法を有する日本が、加担することはどのような理屈を述べようと正当化されるものではない。イラク攻撃への加担もまったく同様である。
 思い起こせば朝鮮戦争を契機としてマッカーサー指令によって自衛隊の前身である警察予備隊が設立されて以来、戦争放棄、戦力の不保持、交戦権の否認を宣言した憲法第九条との整合性について歴代政府は、@ 警察予備隊であって軍隊ではない。A 近代戦争を遂行する装備を有していないから憲法が禁ずる戦力にあたらない。B 専守防衛、すなわち国内においてのみ活動し海外に派兵しないから憲法違反でない。C 国連決議の下に海外に出ていくのであるから憲法違反ではない。等々、その場限りの説明を繰り返してきた。
 しかし、そこでもどうしても越えられない壁があった。集団的自衛権の壁である。
 ところが一九九九年夏、成立した周辺事態法は、日本に対する攻撃がない場合でも「後方地域支援」の名のもとに日本が米軍の支援活動を認めることができるとし、集団的自衛権の行使を認めないとしてきた歴代の政府解釈の壁をいとも簡単に乗り越えてしまった。もはや憲法の空洞化でなく破壊である。
 深刻なことは、このような憲法の根幹を揺るがすような法案がまともな憲法議論もなされないままに「常識」(小泉首相)と、没論理で議会の多数派によって簡単に成立されていることである。そして前述した「テロ対策特措法」を経て、今、また有事法制三法案がこれまた小泉首相の「備えあれば憂いなし」という没論理で成立させられようとしている。日本に対してどこの国が侵略して来るというのか、ここでもキーワードは「テロとの闘い」という呪文だ。
 憲法八一条は裁判所に「一切の法律命令規則又は処分が憲法に適合するかしないかを判定する権限を有する」と、違憲立法審査権を認めている。多数決原理による立憲主義の破壊を許さないための制度である。
 裁判所は違憲立法審査権の行使については、「統治行為論」によって従来より謙抑的であった。その根拠として三権分立、選挙権の行使としての間接的な議会制民主主義の制度が挙げられる。しかし、立憲主義の下では議会といえども万能の力を有するものではない。多数決原理によっても越えることのできない基本法(憲法)の制約というものがある。
 この基本法の制約を、基本法自体を改変することをせずに立法という手段で乗り越えることは、法律という下位法によって基本法を変更しようとする法の下克上であって許されない。多数決原理によってこれを強行するならば、それは議会の多数派による立憲主義否定のクーデターを意味する。
 裁判所はもはや、「統治行為論」によって違憲立法審査権の行使を躊躇してはならない。危機に瀕しているのは、憲法第九条だけでなく、立憲主義そのものである。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

ご隠居の優雅な一日 自立した個人として

憲法学者:長谷川正安先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

 憲法学者長谷川正安先生は八〇才。名古屋の覚王山近くの縦長横割りマンション長屋に暮らす。ご隠居様、一見優雅な年金生活である。毎年受ける人間ドックで「悪いのは口だけだ」と言われている。
 生まれは茨城県土浦、震災直後に目蒲線武蔵小山にくる。高級住宅地目黒と洗足の中間にできた極め付きの庶民の町、そこの七軒長屋で育った。四人兄弟の末っ子、父は小学校を出て乞食以外は何でもやったと言う苦労人、母は「お多福」で働きものだった。母の口癖は「あの馬鹿が」。「お多福」「馬鹿」と言い合う夫婦は四人の男の子を懸命に育てた。小さな長屋には市バスの車掌さんまで下宿していた。父は巡査の仕事の外に家賃の取り立ての差配、母は仕立ての内職、手も早く結構な稼ぎになった。
 正安少年は末子できかん気だったがみんなに可愛がられて育った。長屋にはテキ屋のお兄さんもいて縁日の所場割りに連れて行ってもらったり、下宿していた市バスのお姉さんに連れられて市バスのストライキを見に行ったこともある。貧乏はいつものことだったが、長谷川四兄弟は誰に似たのか勉強が良くできた。正安少年は小学校を卒業するとすぐ近くの府立第八中学に進学した。「うちは貧乏で中学校に行っても遠足には行けなかった。学校に残って勉強する。だから勉強ができるようになった」だそうである。
 長男は中央大学の法学部に進学、「高文」試験を通って海軍法務官になった。その大学生の兄を雨が降ったとき傘を持って武蔵小山まで迎えに行くのが正安少年の仕事だった。大学で習ったことを兄はなぜか小さい弟によく話した。「美濃部達吉の天皇機関説はこのとき聞いていた」日々の暮らしはマルクスが描くイギリスの労働者階級そのもの。耳からは大学生の法律の知識。正安先生の原点はここにある。ところが正安青年は東京商科大学に進学することになる。父は常々「男は金と女と酒に気を付けろ」と教えていた。長谷川家の家訓に従い正安青年まずは経済を勉強しようと考えたのである。
 一九四一年進学するものの時代は戦争のまっただ中。正安青年は四三年徴兵され、四五年乗っていた輸送船が機雷でやられ舞鶴のドックにいたときなんと国内で終戦を迎える。二二才だった。
 日本軍の非人間的な管理の中で、正安青年は死の恐怖より人間の醜さとりわけインテリ青年のどうしょうもないいやらしさと弱さに打ちのめされた。あまりの過酷さに自殺するものもいた。強靱な精神と肉体を持っていた正安青年は偶然生き残った。「真実はなにも語られていない」と先生は言う。明治国家の断末魔を身をもって体験した。
 学校に戻った正安青年、人間嫌い・組織嫌いの人間になっていた。会社に就職などできるわけもなく研究者の道を進むこととなる。特別研究生になり田上穣治先生の下でフランス近代憲法の研究などを始める。もちろん思想は左、田上先生の鬼っ子だった。学会では「けんかマサ」、大学でも研究室に入るときはみんな緊張した。下町育ちその上戦争で人間の修羅場を踏んだものだから怖いもの無し。被害者も多かった。口と裏はらに情にもろいと見た。今は「仏のマサ」になったと言うがどうしてどうして。
 さて名古屋大学に法学部が設置されることになり一九四九年先生は名古屋に来る。五〇年に法学部が設立され先生は定年までその後も名誉教授として名古屋大学法学部とともに憲法学者として生きることとなる。すっかり名古屋になじみ勘定の時は財布を先に出さないのだろうか。
 名古屋での理事会の次の日、道に迷い遅れた私と事務局の林さんを先生は長屋近くのレストランで待っていてくださった。私たちは先生が一人暮らしとはつゆ知らず、お電話で先生以外の気配が感じられない様子に「何か家庭の事情でもあるのか」と心配していた。写真を準備していただいた。数枚の中に空港で奥さんと二人の写真があった。すてきな帽子のきれいな奥様静枝さんである。
 一九七四年、先生はリューマチで長く病んでいた奥様を一〇〇日のヨーロッパ旅行に連れ出す。松葉杖でやっと歩ける静枝さんを乗せて先生は一日一〇〇キロ車を運転、フランス、スペイン、ポルトガルと最後の旅行をする。先生は一九六一年から二年間フランスに留学フランス近代憲法史を存分に研究した。その時も中古の車でヨーロッパを一人駆けめぐった。その後も何度もパリを初め各地のコミューンを訪ねその研究成果を『コミューン物語』にまとめている。パリコミューンは先生の聖地である。そこも妻に見せなければならなかった。
 五〇才でリューマチで弱ってしまった妻のため先生は毎日食事を作り家事をこなした。主夫業と研究者の二足のわらじ、とんでもない愛妻家であった。社会的な活動でも先生はいろいろなところで活躍された。「戦後五〇年憲法研究をしていて、一番変わったなと思うのは家族関係です。憲法で一番実現したのは個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚する家族関係を規定した二四条だと思います」
 ご飯を炊き、行きつけの魚屋と八百屋をまわり、病人にバランスの良い食事を用意した。おかげで先生自身も元気に八〇才を迎えた。とにかく元気ですたすた歩く。ゴルフも時々。奥様を見送ってから七年、先生の生活は朝五時に始まる。小分けに買っているコーヒーを挽いて美味しい一杯。パンも焼きたてを冷凍してある。そして読書と物書き。昼になっておなかも空いた。マンション長屋を出て地下鉄で一駅ゆっくり散歩しながら池下へ。名古屋で一番安くて美味しい鮨屋「寿し長」で減らず口をたたきながら鮨をつまみ一杯。そこから池下駅ビルへ。一杯二〇〇円、とびきりのブルマンをスタンドで飲む。キーコーヒー直営のスタンドである。買うのはモカ。そのビルにはブックオフの店がある。岩波新書が一〇〇円。「渡辺洋三のを一〇〇円で買ってやる」帰って昼寝。目が覚めるとまた勉強。夕食はお手の物、ちょとテレビなど見て世の中のことを憂える。奥様は「一度も夢にでてきやしない」それなのに時々「お袋が出てきてじっと見てるんだな」。

長谷川正安
1923年生まれ。
東京商科大学(一橋大学)卒業
名古屋大学名誉教授
主な著書:「憲法とはなにか」
「フランス革命と憲法」など多数。


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