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大阪訴訟・最終弁論

       
             平成17年3月25日

 最   終   弁   論
                 
     弁護団長(原告ら代理人)
          弁 護 士  西  岡  芳  樹

大阪地方裁判所 第8民事部合議2係 御中                

1.私たちは、700ページを越える最終準備書面で、原告らの現在の被害の責任が国にあることを余すことなく論証したと考えています。本日は、私の弁論に続いて、原告Tが大阪原告団副団長として意見陳述します。その後、700ページに及ぶ準備書面について歴史的経緯と責任論を小林徹弁護士、損害論を岩田研二郎弁護士、究明カードについて吉岡良治弁護士がパワーポイントを使用して弁論します。小野寺利孝弁護士からは全国弁護団の立場から弁論があり、松田利男原告団長から意見陳述をし、弁護団事務局長の久保井聡明弁護士から若干の弁論をして原告側の弁論はすべて終わります。

2.ところで、原告本人尋問の前に私は裁判所に対し、想像力を膨らませて原告の陳述を聞いてくださいとお願いしました。それは原告らの人生が私たちの想像を絶するものであり、訴状別表の作成、本人尋問の準備などで通訳を交え5回も10回も話を聞いても、私たち弁護団自身完全に理解しえていないと思ったからです。幸いにも裁判所はそのことを覚えてくださり、努力されたということを洩らされ、私は嬉しく思いました。

3.私は原告番号31番のY・Yさんの陳述録取書の担当でした。Y・Yさんは実の兄によって後に養父母となる中国人に預けられました。実の兄Y・Kさんは日本がサンフランシスコ条約で独立復帰し、中国で留用されていた方が一斉に帰国した昭和28年に帰国しておられます。Y・Yさんの通訳をしてもらっていたのですが、Y・Kさんに直接預けた状況を詳しく聞きたいと考えて事務所に来てもらった時、私のほうからついY・Kさんに「Y・Yさんを預けた状況をお話してもらえますか。」と聞きましたところ、Y・Kさんは一瞬顔つきが変わり、悲しそうな、怖いような顔になり、先生にはお世話になっていますが、先生でも本当のことは分かってもらえないと言われました。

4.裁判所、判決の前にもう一度想像してください。感じてください。ぼろを着て零下20度、30度という寒さを自分の肌で。収容所で隣のチフスにかかった人たちがその場で血の混じった大便を垂れ流す臭気を自分の鼻で。割れガラスの窓を通してビュウビュウ吹く風の音、ゴホンゴホン咳きする音や苦痛の余りの呻き声、空腹でなるお腹の音などを自分の耳で。一日1回高粱が少し浮いているだけの食事のひもじさを自分の胃で。そして、枯れ木のような腕と足にポコンとお腹だけ出ている餓鬼のような子供たちとその横で無気力に死んでいく肉親たちを自分の目で。明日はわが身だと思いながら、死ぬことが怖くなくなる精神構造を。

5.Y・Kさんはそんな中で収容所で死なすよりはましと弟の命と弟に対する切ない思いを中国人に託したのでした。そして、その数日後自らも空腹で倒れているところを中国人に助けられ命を永らえたのです。自分が死ぬか弟が死ぬか、そんな究極場面での選択が中国人に命を託すことであった、それを簡単に「預ける」という言葉で片付けて欲しくないというのが、真意でした。

6.私たちは国の戦争責任を問うているものではありません。戦後一貫した残留孤児に対する国の無策を問うているものです。しかし、原告ら残留孤児の原点がこの地獄絵図にあることは否定しません。法廷で話せなかった原告らも含めて全員の原告らは昨日のことのように逃避行や収容所生活について語ります。いまだ、心の疵が癒えていないからです。

7.「国破れて山河あり」という言葉があります。国は破れても故郷の山や川は変わることなく、人の心を慰め、故郷の人々の暖かい受け容れは、心の傷を癒します。しかし、原告ら残留孤児はそのような経験ができませんでした。異郷であり、日本人に被害感情、敵対感情を持つ中国人の中にとどめ置かれたからです。原告ら残留孤児が速やかに帰国でき、故郷の山や川、人々にそして何よりも祖国に受容されていたなら、今とは全く違った人生になり、あの地獄絵図も悲しみはともないながらも懐かしく思い出すことができたかもしれません。

8.今原告らは帰国しましたが、数十年間のブランクは取り返しがつかず、世の中は変わり親族が判明しない者も多く、判明していても数十年ぶりに逢うため人間関係がまったく変わってしまっていました。そのため、留守家族も必ずしも温かくは迎えてくれませんでした。国も原告らを外国人扱いし身元保証人を要求したり、敗戦時既に成人していた残留邦人が帰国するのと同じようにしか扱いませんでした。原告らは帰国しても心の傷は癒えなかったのです。平成5年、国の同意なく強行帰国した残留婦人たちは、「私たちは日本人です。いつでも日本に帰れるはずです。ところがそれなのに、いくらお願いしても『親族に相談しなさい。』『特別身元引受人が見つかるまでお待ちください。』などと言って帰国させてくださいません。私たちは日中国交回復してからも、そんなことで既に21年も待たされてしまいました。」と陳情した。立場は少し違うが、この叫びは国の未帰還者に対する態度を端的に表現したものと言えます。これでは心の傷は癒えるはずはありません。

9.現在の原告らの生活は日本語が話せず、年老いて既に働く場所はなく、社会から孤立して老後を迎えています。病院にいくにも一々身内の手助けが要り、娯楽、趣味、レジャーなどとは全く無縁の生活、資産も蓄えもなく、収入は生活保護が頼りです。命の恩人である養父母に会うことも墓参りすることもできません。

10.原告らも座してこのような状態になったのではありません。中国で精一杯働き、帰国してからも中国での経験を生かせない単純労働で働くなど精一杯努力してきました。ボランテイアを含めて国会議員や厚生省に働きかけ、議員立法ですが自立支援法を制定させました。11万の署名を集めて国会請願もしました。しかし、いずれも孤児らの期待に応えてくれませんでした。言わば孤児らは行政にも国会にも見放されたのです。

11.今全国で1899名の残留孤児が原告となり、13地裁で国賠訴訟を闘っています。現在、提訴準備中の仙台などを入れると原告は2000名に達するでしょう。

12.裁判官、最後にもう一度想像してみてください。原告らの多数は裁判長と同じくらいの年齢で帰国しました。裁判長が今の年齢で、肩書きも資格も通用しない、資産も蓄えもない、日本でのキャリアは全く考慮されない、そして言葉は全く分からない国たとえばロシアやイランでゼロから生活することを。言葉の通じない国で自分で職を探し働くことがどんなに大変かを。

13.私はこの裁判の冒頭の弁論で国に対し、裁判では原告と被告となっていますが、国は残留孤児を含む国民の保護義務があるのだから、どうすれば残留孤児たちに祖国に帰ってきて良かったと思ってもらえるか一緒に考えましょうと提案しました。しかし、国は先日も進行協議の場で和解の席に着くことすらしないと断言しました。また、法廷での中国訳については、代理人がいるのだから、原告らは裁判所で何をやっているか分からなくてもいいという態度に終始しました。きわめて残念です。

14.大阪の原告団の一人S・Yさんが昨年亡くなられたように原告らの現状は待ったなしの状態で解決が急がれます。この原告たちの願いを受け止めるのは、もうこの裁判所しかないのです。他の裁判所の判決を待っていては遅すぎるのです。最後にこの法廷での菅原証人の証言を援用します。

「残留孤児を、この世界の歴史にもないこの悲劇を救うのはあなたたち裁判官しかいない。」
                        
以 上