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不当判決に対して控訴

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 2月7日、関東訴訟原告40名は、1月30日に東京地裁民事28部により言い渡された不当判決に対し、控訴しました。
 
 1月30日の東京判決は、その結論において不当なだけでなく、その内容においても最低・最悪の不当判決でした。

1)法的論理性(ロジック)の欠如

 判決は,原告が主張する先行行為に基づく作為義務が認められるためには,「法的」因果関係が必要であり,その「法的」因果関係が認められないなどとして,原告が主張した一連の歴史的事実の先行行為性を否定しています。
 しかし,判決は,例えば,@(「法的」因果関係のある)先行行為がなく,作為義務が発生しないとしたにもかかわらず,義務違反の有無を規定するための要件である予見可能性,結果回避可能性,そして義務違反の有無を「詳細」に検討しています。しかし,作為義務の発生を否定した以上,義務違反の要件の検討は論理的に不要なはずです。また,A原告主張の先行行為が先行行為足りえないと認定し,論理的に不要となるこれら先行行為と原告らが孤児となったこととの関係について論じています。そして,B先行行為性の判断に関する「法的」な因果関係の有無につき,「一定の歴史観・価値観に基づいた歴史的な評価を優先することにも問題がある」としておきながら,自ら後述のように極端な歴史観・価値観に基づく評価をしています。
 判決はさらに,国に自立支援義務はないと認定しつつも,自立支援義務違反の有無について検討しており,やはり論理的に不要な判断をしています。そして,その判示に続けて,わざわざ,国の自立支援策は「人道上必要であって実行可能なものとして行われた」,「生活保護の受給を受けられる」など原告の主張を否定するベクトルでの判示を行っています。加えて,義務も責任もないとしながら,原告の主張を歪曲した形で共通損害をまとめるという不要な作業までをも行っています。
 このように,判決には,結論を導くために不要な判示が,しかも原告の主張を否定する形で多数存在します。原告敗訴の大阪判決(2005.7.6)は,「不当判決」であるものの,それなりの論理性は認められたのに対し,加藤謙一判決は,上記のとおり「判決」に必要な論理の欠片すら見られない「意味不明」「解読困難」な,判決の体を備えていないものと断ぜざるを得ません。


2)驚くべき極端な歴史観と市民感覚からの乖離

 判決は,前記のように,価値中立的な歴史評価をすべき旨指摘しつつ,次に一例を示すように,驚くべき事実認定を行っています。
 例えば@満州国への移民について,「法的には,強制されたのではなく,自由な意志による判断に基づいて渡満したものとみざるを得ない」と当時の時代背景を無視した認定を行い,また,A「軍隊は原則として個々の民間人を直接に保護するものではなく,敵の軍隊と戦闘行為を行っていわば間接的に民間人の生命・身体その他の利益を守るものである」との独自の軍隊論を展開した上で,関東軍が国民を守る任務を遂行しなかったことについて免責し,さらに,B1972年の日中国交回復後,「帰国者及びその家族が一挙に大量に入国することになれば」「国内で混乱と厳しい批判の生じるおそれもあ」るとするなど,祖国への帰国を切望する原告に対し,祖国に帰ってくるな!と言わんばかりの市民感覚に反する認定を行っています。@〜Bはいずれも被告国すら主張していない事実を「価値中立的に評価」するとの前提で認定したものです。そして,C「原告らが生活保護の支給を受けられることを考慮すると,これらの施策の立案・実行が,著しく合理性を欠き,それによって原告らに看過できないほどの損害が生じているとまではいえない」とし,原告らの約6割以上が生活保護を受けている現状を直視しない(一般国民の受給率は約1%)特異な価値観に基づく認定もしています。
 以上のように,判決は,原告勝訴の神戸判決(2006.12.1)はもちろん,原告敗訴の大阪判決ですら触れられている,原告たちが歩んだ筆舌尽くしがたい苦難を顧みる一言もないまま,「人権の最後の砦」となるべき裁判所の存在意義を放棄しました。
 自民党の野田毅議員は「氷のように冷たい判決」,「暴論に近い内容が含まれている」と評し(2月1日衆議院予算委員会での質疑),作家の瀬戸内寂聴氏は,「こういう判決文の書ける人の想像力のなさに恐怖と絶望を覚え,身も心も震えあがった。」と述べています(2月3日付京都新聞)。

 原告団及び弁護団は,このような司法の正義を失墜させた判決の存在を全面的に是正するため,東京高等裁判所に控訴しました。
 皆様,是非あたたかいご支援をお願いいたします。