2005年11月

本日の集会を多数派形成の第一歩に 

本日は、「自民党の新憲法草案を考える弁護士の集い」に多数ご参加いただき、まことにありがとうございました。呼びかけ人16名を代表して、御礼を申し上げるとともに、今後のご協力をお願いいたします。

個人的な思いを申し上げれば、私の身体の成分は、タンパク質と炭水化物と、そして日本国憲法だと考えています。その憲法をないがしろにし、あまつさえ変えてしまおうなどとはとんでもないこと。到底許せません。憲法が大切だと思うのは、実はその理念としての人権や平和・民主主義を大切と思っているわけで、この思いは弁護士を志した人には、共通の思いではないでしょうか。多くの弁護士が、改憲には反対と考えているに違いありません。

改憲を阻止する力は国民世論にあります。国民の過半数を改憲反対の側に獲得する運動を成功させなければなりません。そのような運動において、弁護士は大きな力になりうると思います。法律専門家集団として、また多くの国民に直接触れあう宣伝力をもった集団として、その動向は国民運動の重要な部分を担わねばならないと思います。

弁護士が改憲阻止運動に力を発揮するのは、依頼者層に、市民運動に、弁護士個人として関わる場面もありますが、弁護士会内の世論形成によって弁護士会の組織的運動を通じて世論にアピールする手段の追求も重要です。

私たちは、まず弁護士会内の過半数をもって改憲反対の意思表示ができるような運動を目ざそうと思います。そこから、弁護士会をより明確な改憲反対の意思表示ができるようにしたい、より深く市民に改憲反対を訴える運動のできる会としたい。また、弁護士の過半数を結集することによって、改憲阻止こそが法律に携わる者の常識であることを国民世論に示したい、と思います。

そのためには、憲法解釈の違いを乗り越えて、改憲阻止の一点で結集することが必要です。本日の、山内敏弘先生の講演で明確にされたとおり、改憲の目的は、自衛隊の存在を認知させるためのものではない。そんなことなら、現状で十分。改憲の必要はない。集団的自衛権の行使ができるように、制約なく海外での軍事行動を可能とするための改憲なのですから、当然に専守防衛論者も連帯して行動ができることになります。

今日のディスカッションでは、いろんな意見が出されました。多くの弁護士が、弁護士会活動で、法律家任意団体で、市民団体で活躍しておられることに意を強くしました。各地の改憲阻止運動にも、積極的に関わっておられる。そして、その運動の中から、示唆に富む提言をいただきました。もっと魅力ある運動を工夫せよ、市民の目線で行動せよ、改憲反対を唱えるだけでなく憲法を市民の暮らしに血肉化する運動を、多くの弁護士が呼びかけの対象とされず運動参加のきっかけないまま埋もれている‥、等々。

これらのご意見を集約して、これから会内の運動をみんなで作っていこうと考えています。まだ、どのような運動を作るか、グランドデザインはありません。本日も、決議もアピールも用意していません。行動のための意見の集約はまだ先のこと。本日の学習集会が、憲法擁護について弁護士の大同団結を目ざす、大きく力強い運動の第一歩となるように、ご協力をお願いいたします。

まずは、12月6日12時〜14時 二弁1002号にお集まりください。運動をどう組むか、ご相談いたしましょう。

最後に、基調講演をいただいた山内敏弘先生に御礼を申し上げて本日の集会を閉会いたします。

「国旗に注目」違反を理由とする注意処分の撤回を求めます 

2005年11月13日

東大和市教育委員会御中

 弁護士 澤藤統一郎
 
文京区で弁護士を業としている者です。
職業柄、人権や民主主義の問題に関心を有しております。とりわけ、作今の石原都政下の戦前回帰指向と言うべき復古にして強権型の教育行政に、違和感のみならず危険なものを感じ、深く憂慮しております。
その立場から本通知を差し上げますが、事実経過の確認は不十分ですし、前提事実に間違いがあるやもしれず、そのゆえに礼を失している点があればご容赦願う次第です。

貴委員会が、東大和市立小学校の教員に対し、「学校運動会の国旗掲揚・降納の際に、国旗に注目という職務命令に従わなかったとの理由で、口頭注意の措置に及んだ」との報せに接しました。

間違いであればその旨ご指摘いただきたいと存じますが、事実とすればはなはだ重大な問題の措置であり、厳重に抗議するとともに、すみやかに撤回されるよう申し入れます。

言うまでもなく、公教育は憲法・教育基本法に則って行われなければなりません。国旗に対する国民の尊重義務は、憲法・教育基本法からはもちろん、国旗国歌法からも出てくる余地はありません。むしろ、教員を含む国民には思想良心の自由(憲法19条)があり、国旗・日の丸に対する特定の評価や尊重の強制は、思想良心の自由を侵害するものとして厳に慎まなければなりません。それが、公務員に要求される憲法遵守義務(憲法99条)の遵守であり、教育基本法10条が教育に対する行政の不当な支配排除を命じたことの帰結でもあります。

私が申し上げたいことは、学校での日の丸強制が、形式的に憲法や法律に違反していると言うものではありません。憲法・教育基本法は、戦前の国家主義を徹底して反省することを出発点としたものです。天皇への絶対的な帰依を臣民に要求し、個人の上に国家を置く思想をたたき込んだのが戦前の教育でした。ここから、排外主義、軍国主義、非合理な権威主義が育ちました。戦後の教育は、戦前の過ちを再び繰り返してはならないとして再出発したものです。その根底には、個人の思想良心を大切にし、これを国家の意思で蹂躙してはならない、という大原則の確認があります。

運動会の国旗掲揚と国旗への敬意の強制は、国家が際限なく教育の場に進入していく第一歩という恐ろしさを感じさせます。貴委員会が心を用いるべきは、運動会に国旗掲揚を強行し、職務命令まで発したという校長に対して、憲法や教育基本法の精神を尊重するよう指導することであって、職務命令に従うよう教員を指導することではありません。今回の教員に対する口頭注意が事実とすれば、貴委員会が教育基本法に理解なく、憲法遵守義務に違背したものと指弾せざるを得ません。

東京都の石原教育行政は大きな問題を露呈して世論の批判を受けるだけでなく、膨大な訴訟を抱えるに至っています。やがて、司法の断罪を受けなければなりません。貴委員会が、このような都の教育行政に盲従することなく、独立した自治体の教育委員会として、憲法や教育基本法の精神を体現した地域の教育条件整備に心を砕かれますよう、心から要望いたします。

くれぐれも、教育という営為は子どもの利益のためにあるもので、国家のためにあるものではないことをお忘れにならないように。ましてや、教育に携わる者の保身のために、いささかも教育が枉げられてはならないことを銘記いただきたいと存じます。

日弁連が憲法擁護宣言を採択

日弁連大会の本会議。3時間の議論を経て、憲法問題についての宣言を採択した。日弁連が改憲問題に踏み込んだのは、初めてのこと。

宣言の標題は「立憲主義の堅持と日本国憲法の基本原理の尊重を求める宣言」というもの。このサイトの「ひろば」に全文をアップするので、是非引用し活用していただきたい。これが、全弁護士が加盟する日弁連の見解である。宣言は、「改憲反対」とは言っていない。「憲法9条2項堅持」との言葉もない。しかし、その慎重な姿勢にかかわらず、宣言の内容が、明らかに日本国憲法の理念を擁護に値するものと高く評価していることが明らかである。宣言の理由までお読みいただけば、さらに明瞭に、立憲主義、国民主権、恒久平和、人権尊重を擁護する立場から、改憲論を批判していることを読み取っていただける。対立の焦点である集団的自衛権についても、これを明白に否定する立場が展開されている。自民党の50周年記念大会を目前のこの時期に、この日弁連宣言が採択された意義は小さくない。

日弁連は全弁護士が加盟を強制されている団体で、共通の思想信条を有する者の集合体ではない。弁護士会内部の政治的見解の分布は、社会全体の縮図と考えてさほどの違いはなかろう。それでも、この宣言が法律を学び、法律を職業とする専門家集団の常識的見解なのである。

3時間の議論の大半は、この決議案でよいのか、もっと曖昧さを残さない明確な改憲反対を言うべきではないのか、という角度からの原案に対する批判をめぐる議論だった。私も個人的には必ずしも満足し得ないところは残るものの、その性質上どうしても全メンバーの意見分布に十分に配慮せざるを得ない。成員全体の認識から乖離した決議は、いかに内容が立派でも力にならない。この原案をまとめるために半年近くもかけて手続きを踏んできている。圧倒的多数の賛成でこの宣言を通すのが、今もっとも大切だというのが私の立場。

幸い、宣言は賛成多数で採択された。
ハイライトは、以下の部分である。
「日本国憲法の理念および基本原理に関して確認されたのは、以下の3点である。
1 憲法は、すべての人々が個人として尊重されるために、最高法規として国家権力を制限し、人権保障をはかるという立憲主義の理念を基盤として成立すべきこと。
2 憲法は、主権が国民に存することを宣言し、人権が保障されることを中心的な原理とすべきこと。
3 憲法は、戦争が最大の人権侵害であることに照らし、恒久平和主義に立脚すべきこと」
「日本国憲法第9条の戦争を放棄し、戦力を保持しないというより徹底した恒久平和主義は、平和への指針として世界に誇りうる先駆的意義を有するものである」
「当連合会は、憲法改正をめぐる議論において、立憲主義の理念が堅持され、国民主権・基本的人権の尊重・恒久平和主義など日本国憲法の基本原理が尊重されることを求める」

この宣言は、日本国憲法擁護の内容であって、しかも全弁護士が加盟する集団の宣言としての重みをもったものである。討論の中で強調されたのは、「これが第一歩」だということ。弁護士会の決議としても、国民運動へのメッセージとしてもこれは第一歩。情勢の進展如何によっては、第二歩、三歩の宣言・決議が必要になってこよう。そのときには、もっと具体的に、切り結んでいる具体的課題に肉薄して日弁連がはっきりとものが言えるようになっていくだろう。

日弁連人権擁護大会シンポジウム

初めて鳥取に来た。早朝の全日空便で、晴れわたった紅葉美しい町に到着した。空がゆったりと広い。懐かしい情感をくすぐるような街並みと近くに迫っている小高い山の姿‥。

日弁連最大の年中行事、人権擁護大会がこの地で開かれる。地元の鳥取弁護士会の準備の苦労にはたいへんなものがある。その会長松本光寿君は修習を同じくした同期の友人。彼は検察官への任官を志望して拒否された経歴で知られる。修習間際に青年法律家協会に加盟し、そのことを隠さなかった。そして、被疑者・被告人を呼び捨てにすることなく、「さん付け」で呼ぶ検察官になりたいと言っていた。彼なりに、検察庁の度量の広さに信頼していた節がある。しかし、現実は厳しかった。おかげで、彼は鳥取を背負う弁護士となって現在に至っている。

本日は、3つのシンポジウムが行われた。その一つが、「憲法は、なんのために、誰のためにあるのかー憲法改正論議を検証する」というもの。
この問いかけの「解答」を一口で言ってしまえば、「憲法は、国民が国家権力を縛るためにある」「従って、憲法は一人ひとりの国民のためにあるのであって、国家のためにあるのではない」「そのことを忘れたかに見える改憲勢力の考え方に猛省を促したい」
もう少し理屈っぽく私流に言えば、「何よりも立憲主義の原則を再確認しなければならない。立憲主義は、個人の尊厳の尊重と法の支配というより根源的な原理からの帰結であるから」「立憲主義とは、主権者である国民が国家に対して命ずる、権力行使のルールである」「従って、当然に憲法の宛名は国家となる。それを逆転して国家が国民に愛国心を説いたり、種々の責務を課するごとき憲法は、その本質を見誤るものである」「日本国憲法は、近代憲法の諸原理をよく体現するものとなっている。大切なのは、憲法の理念を従前に具体化して、何のため、誰のためにあるかを現実化することであって、改正することではない」

私も、実行委員の末席に加わっている。このシンポの準備はたいへんだったが、実にみごとな出来栄えだった。シンポ参加者は、最初1900人と発表され、2000人余と訂正された盛況。基調報告書はA4判で430ページの大著となった。現在の改憲可否論議の論点を網羅している。その解説も、樋口陽一教授の基調講演も、憲法について語る各界著名人のビデオレターも、3名のスピーチも‥。

東京から、都立校での日の丸・君が代強制に反対する運動の渦中にある丸浜さんにも登壇願って、スライドを見ながら訴える力の強いスピーチをしていただいた。

最後が論者4名のパネルディスカッション。論点のよく整理された聞き応えのあるものとなった。シンポの出来栄えとしては、満点に近いものと言えるだろう。そして、1時間半の映画「ベアテの贈り物」。プログラムの開始は、12時30分で、最後は20時15分だった。

満腹感を通り越し、頭がクラクラするほどの情報量だったが、もっとも心に残ったのは、ビデオレターの中の中村哲さんの言葉。「安全のためにもっとも必要なものは信頼。武器がなければ安全が保てないという妄想を捨てよう。豊かでなくては幸せになれないという妄想を捨てよう」
たいへんな場所で、素晴らしい実践を積みかさねている人の言葉だからこその説得力である。

怒らずにおられるか

君が代・解雇訴訟の法廷。まずは、志村高校の教員・片山むぎほさんが証言をした。
「高校生は、青年特有の潔癖さで大人の欺瞞を見破る。そして、欺瞞を許さない。教師は生徒に対して、自分の良心に恥じるな、状況に引きずられて良心をなげうつことの言い訳をするな、と教える。その教師が、良心を捨てたら教育という営みは成立しない。だから、日の丸・君が代問題では引くことができない」と証言した。現場にあって悩み決意した人の重い言葉として胸を突くものがあった。

次の証人が、志村高校の堀部元校長。同じ学校で、同じ時期に定年となった原告が事実上の解雇となっているのに、自分はのうのうと嘱託になっている人。それでも、事前の教員の評価は、「ほんとはよい人」「心ならずも、都教委の圧力に屈した人」というようだった。

ところがどうだ。片山証人とは雲泥の差。およそ教育を語る人ではない。完全に都教委の伝声管になりさがった哀れな姿。表では、「都教委の圧力から教員を守りたい」と言いながら、教委への報告書には「厳重な処分・措置を希望する」と書き、代理人から「これは都教委からの指示でこう書かざるを得なかったのだろう」との反対尋問にも、頑として「いえ、自分の判断でそう書きました」

尋問が終わったら、都教委側の指定代理人らに擦りよらんばかりに、「私の今の証言に、ご迷惑をかけるようなことはありませんでしたか」と言っていた。たいした「教育者」だ。彼の頭の中に、教育はない。あるのは「保身」の2文字のみ。

続いて立った小岩高校の藤松校長も同様。どうしてそんなに易々と良心を売り渡せるのか。そんなにも、あなたの良心は、安いのか。片山さんの証言のとおり、高校生はこんな校長の欺瞞を許さないだろう。

この二校長、おそらくは美濃部都政下なら、それなりにボロを出さずに順応した人物だろう。疾風の中での勁草たり得ない。どうして、かくも容易に石原ごときの操り人形と化してしまうのか。

こんな気分で、恒例の「9の日・護憲アピール」の地裁前宣伝行動に参加した。ところが、司法修習生がビラを受け取らない。無表情、押し黙っての明確な受け取り拒絶。来る者、来る者、みんな同じ。なんだおまえたちは。憲法問題に関心がないのか。なんの理想を持って法曹を志望したのか。おまえたちも、保身の殻に閉じこもっているのか。青年特有の正義感や、社会的関心はどこにやった。

あー、今日は怒り疲れた。

緊急シンポジウム「なぜ受信料を支払うのか」 

「報道・表現の自由の危機を考える弁護士の会」から参加した澤藤です。 

今、アメリカで、イラクへの軍事行動に反対する運動の先頭に立っているシーハンさんが、納税を拒否して話題となっています。イラク戦争に反対する以上は、その戦費調達の手段としての税金の支払を拒否することが、論理一貫した行動であり、運動としても有効なのだとの判断なのでしょう。
同様の思想や運動は、憲法9条を持つ日本において、以前からあります。防衛予算額相当分の納税を拒否する方、自ら「防衛費相当分控除」を設定して、申告する方はあとを絶ちません。この方たちを良心的納税拒否者と呼んできました。良心的納税拒否訴訟は、かつて華々しく法廷で争われました。
考え方の基本は、立憲主義に基づくもので、国家が国民に義務を課するには、憲法に則ったものでなくてはならない。違憲の行為のための徴税はできない、違憲支出の納税義務はない。というものでした。

さらにこの考え方は進展して、「国民は納税者として違憲の支出をさせない具体的な請求権を有する」という主張となります。
1991年、海部内閣が湾岸戦争に90億ドル(1兆2000億円)の支出を決めたとき、「ピースナウ・戦争に税金を払わない 市民平和訴訟」が提起されました。「主権者は、納税者として戦費支出差し止め請求権を有する」という基本思想でした。
残念ながら、判決では個人の請求権としては採用されませんでした。「良心的軍事費負担拒否」「納税者基本権」とも、実定的権利としては、認められていません。しかし、思想的に、また運動上、極めて説得力のある論理として、多くの人に浸透しました。

NHK受信料についても、同様に考えたいと思います。「良心的受信料負担拒否」であり、「視聴者基本権」の思想です。契約法理に基づくものとして、こちらの方が裁判所にとおりがよい。

NHK受信領支払拒否については、
@ 思想ないしは理念の問題として
A 運動上の有効性の問題として 
B 法的問題として
それぞれのレベルに分けて考えるべきかと思います。

放送法は、NHKに対する国民の信頼を基礎とする公共放送の制度を作りました。強制ではなく信頼によって経営が成り立つ制度。この信頼の根幹に政治権力からの独立があることは明らかですから、法は、今日の事態あり得ることを想定していたといってよいでしょう。NHK側に国民の信頼を揺るがす行為あれば、受信料拒否というサンクションが発動されることこそ、放送法が予定した事態であると考えます。考え方や理念のレベルでは、番組改変問題と、その後の対応に表れたNHKの姿勢に対して、大量の受信料拒否が生じていることは当然で、むしろ健全な現象だと歓迎いたします。


では、運動論のレベルでどうするか。何を獲得目標として、どこまでのことをするのか。については、NHKの番組作成の姿勢を全体としてどう評価するかにかかわってくるかと思います。少なくも、NHKに反省を求めて、支払い停止をすることは、有効で道理のある運動だと考えます。

受信料支払いは、税金のような公法上の義務ではなく、飽くまでも私的な受信契約締結の効果としての義務ですから、NHKが原告となる訴訟において問題となるのは、NHKが契約の本旨に基づく契約の履行をしているか否かです。ここで、契約の本旨たる放送とは何かについての徹底的な検証が必要となります。放送法の理念とは何か、NHKの使命とは何か、権力的介入とは何か、番組改変とは何であって、どんなに大切なことであるのか、十分な主張立証を尽くすべき大問題だと思います。

放送法は、目的に「放送による表現の自由確保」「健全な民主主義の発達に資する‥こと」(1条2・3号)を掲げ、「放送番組は、‥何人からも干渉され、又は規律されることがない」(3条)と定めています。安倍晋三や中川昭一など右翼政治家のご機嫌を取りながらその威に屈して番組を改変し、しかもこれを反省しないというのですから、NHKの側に債務不履行があると思います。視聴者が、このような事態でも、唯々諾々と受信料を支払わなければならないという理屈はありません。

いざというときには、堂々と受けて立ちましょう。

ついに出た「側室制度の復活」論 

話題の韓国ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」にはまった。聡明でけなげな女性が、数々の困難を乗り越えて宮廷の料理人として、また医官として成功を勝ち取る物語り。主人公の高潔さと、ひたむきさが爽やかで心地よい。ついつい、引き込まれた。毎週木曜日の夜が楽しみだったが54話で完結した。

よくできたドラマで楽しかったが、ストーリーのところどころに違和感を禁じ得ない。一方に貧しく無知な庶民‥。対して、聡明で優雅な王‥。庶民に対する親愛を忘れぬチャングムだが、けっして王政自体への批判や矛盾を語ろうとはしない。諸悪は君側の奸にあり、王自身は好人物に描かれる。人物のセリフや行動が現代的なだけに、なんだこれは‥。

とりわけ、王の側室の描き方に最大の難点。チャングムの親友は王に見そめられて、「幸せな側室」となる。チャングム自身も、医官でありながら危うく側室に‥という場面がある。宮中の女官すべてが側室候補。到底嫌とは言えない。そのために、結婚だけでなく恋愛もご法度なのだ。現代にこのシチュエーションでドラマを作ることが土台無理と言わざるを得ない。

側室とは権力の世襲制に伴うシステム。とりわけ、「万世一系・男系男子」などという神話に固執するにおいては不可欠な制度。現に日本では、天皇の側室なるものがなくなってわずか3代で、男系男子の世襲は危殆に瀕している。

で、いずれは出てくるだろうと思っていた、「天皇に側室を」の論議。遂に出た。皇族からだ。4日付の毎日によれば、三笠宮の長男・寛仁(トモヒトと読む、59歳)さんが、ある福祉団体の会報(9月30日発行)にエッセーを寄稿している。その中で、「女性・女系天皇の容認」に疑問を投げかけて「男系男子」継承を訴えているという。

「万世一系、125代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代・神武天皇から連綿として一度の例外もなく『男系』で今上陛下まで続いてきているという厳然たる事実です」と言っているとか。フーン、そんな「厳然たる事実」は初耳だが、そんなふうに教えられているんだ。

で彼は、男系男子世襲維持のための4例の具体策のひとつとして、堂々と「側室制度の復活」を挙げているという。皇太子とその夫人に、寛仁・側室復活論に対する意見を聞いてみたい。いや、聞くまでもない。側室復活論の出現は、天皇制が、あるいは世襲制の維持が、いかに現代に無理な制度であるかの象徴ではないか。

憲法公布記念日に

59年前の今日、日本国憲法が公布された。当時私は3歳。物心ついたときには、空気のごとくに当然の存在として日本国憲法があった。私は、時代の子として憲法の精神を受容した。

今考える。私が常識として受け容れた日本国憲法のエートスとは何であろうか。改憲勢力は何を攻撃しているのだろうか。

日本国憲法を貫いているものは、何よりも平和への意思である。アジア太平洋戦争の惨禍を経て再生した国の憲法である以上、当然のことであろう。平和こそ国民の願い、人類普遍の理想。平和こそ人権の基礎。平和・平和・平和‥。徹底して平和を希求する姿勢こそが日本国憲法の真骨頂である。

再び戦争の惨禍を繰り返さないための保障をいかに築くか。それは戦争をもたらした原因を徹底して検証し、反省するところから生まれる。日本国憲法は、戦前の体制における民主主義の過少を、その主たる原因とした。端的に言えば、天皇制こそが、戦争をもたらしたのである。

戦争ともなれば、あるいは戦地に送られ、あるいは銃後で被害を被るのは庶民である。庶民の真意が正確に政策化されれば戦争という愚かな行為はなかったはず。しかし、庶民の意思は踏みにじられ、あるいは天皇制政府の言論統制下にあるマスメデイアに操作され、あるいは臣民としての教育において、軍国主義に加担せしめられた。

天皇制を廃止して民主主義を徹底すること。そうすれば、軍国主義の復活はなく、平和を維持することができる。これが、日本国憲法のエートスではないか。

天皇の権能剥奪も、政教分離も、参政権も、表現の自由も、国際協調主義も、軍国主義復活阻止を意識したものである。天皇の権威による教育、天皇のご意思を魔法の呪文とする権威主義こそが、軍国主義・排外主義の温床であり、天皇の名による聖戦を可能とした。徹底して、天皇を無力化し、人畜無害とすること、これが日本国憲法の立場である。

さらに、日本国憲法は、戦争を廃絶するために、世界に先駆けて戦力の不保持を宣言した。ここに、日本国憲法の人類史的な意義がある。日本は、あらゆる政策遂行に、戦争を選択肢としないと自らの手を縛ったのだ。

憲法制定時と国際環境は変わった。当然のことである。だから、憲法は時代への適合性を失ったであろうか。とんでもない。「今こそ世界に9条の精神を」である。

憲法は、けっして現実に合わせて設計するものではない。国の理想を明示し、国に対してその理想に従った行動をするよう命じる規範である。戦争の惨禍から生まれた日本国憲法の、不戦の理想が輝きを失うことはあり得ない。

改憲を叫ぶ勢力は、「戦力保持は独立国の常識。丸腰では平和を守れない」という。企業活動の世界的規模での展開に伴い、在外邦人や資産を守る軍事行動を求める立場を採る。憲法9条を桎梏と感じ、これの改正を求めることなっている。
「平和は人類共通の理念、そのとおりだ。しかし、平和は相手国との関係ではないか。こちらがどんなに平和を望んだとしても、相手がならず者では素手での平和はあり得ない。軍事力を持ってこその平和ではないか」

この論理は、自国は常に善、相手国は常に悪役で警戒を要する、との前提である。こちらがそのような姿勢であれば、相手だって同じこと。これでは、相互の不信と憎悪の悪循環に陥ってしまう。行き着くところは、核とミサイルとの恐怖の均衡に支えられた危うい平和でしかない。

憲法9条、とりわけその2項の「戦力不保持」「交戦権の否定」が、今改憲勢力からの攻撃の焦点となっている。これを守り抜くことこそ日本国民がなし得る、人類史への最大の貢献である。

この日、平和のありがたさを再認識しよう。平和を築く方策についてよくよく考えよう。そして、平和を守り築く努力をいとわない決意を固めよう。