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自民党憲法改正草案ーその2

世界の憲法は歴史的に変遷してきた。概ね進歩の方向にである。
憲法の「進歩」とは、歴史の進歩と同様に、
個人の尊厳の軽視→重視
全体→個人の利益重視
圧迫→自由
専制→民主
戦争→平和
形式的自由→実質的自由
形式的平等→弱者への権利付与と保護
国家の強権→国家への規制→国家による福祉
国家だけではなく社会的強者への規制
というもの。要は、人民すべての尊厳を確保し、福利の享受を実質的に保障する方向が進歩である。自民党憲法改正草案は、この歴史の進歩に逆行するものと言わざるを得ない。

近代立憲主義として定立された憲法の本旨は、必要悪としての危険な国家権力を統制するところにある。せめて、そのくらいのレベルには、あって欲しいものと思う。しかし、草案は日本国民に「帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって、自ら支え守る責務を共有し」(前文)と、お説教を垂れる。余計なお世話である。国や社会への愛情を押しつける憲法は、近代立憲主義のレベルにも到達していない。

国際社会は、戦争の惨禍を繰り返しつつも、戦争を違法化する努力を積みかさねてきた。その歴史的な大きな成果の一つが、大戦間の不戦条約である。憲法9条1項は、このレベルであると理解されている。その後、第2次世界大戦の終了の間際、未曾有の戦禍の上に、戦争の違法化を徹底させた国際連合憲章が成立する。さらに、広島・長崎の核兵器の悲惨な被害を受けた日本が、究極の平和主義に則した憲法を制定した。これが9条2項である。

改正草案は、戦争の放棄を放棄した。戦争を政策遂行の選択肢とする国への大転換の宣言である。平和への叡智を積み上げてきた人類史への挑戦にほかならない。

個人の権利は、内容が豊富にならねばならない。制約が軽減されなければならない。ところが、自民党は個人の権利伸長を望まない。公共の福祉による人権の制限という評判の悪い規定を、改正するのではなく、「公益・公の秩序」に置き換えた。「権利自由の嫌いな人に、自由糖をば飲ませたい」と、自由民権運動で揶揄されたレベルを出ていない。

憲法における最高の価値は、どの個人にも備わっている基本的人権である。至高の価値である人権を、いかなる他の価値をもってしても制約することはできない。但し、人権と人権が相容れずに衝突する局面では、その調整原理が必要となる。これが、「公共の福祉」の実態。憲法学の通説はそのように説いている。
通説の理解に沿って人権尊重の趣旨で条文するのではなくまったく逆行して、「公益や秩序」によって人権を制約できるという発想が不気味で、恐ろしい。

草案は憲法20条に手を付けた。政教分離を緩和して、国の宗教的活動禁止は、「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えるもの」であって、特定宗教への助長や干渉となるものに限定した。靖国公式参拝を合憲とするねらいをもつものである。ここには、戦争への反省の欠如と、内心の自由や信仰への無理解、そして偏狭なナショナリズムが透けて見える。

草案のアメの役割をになう目玉が環境権である。しかし、このアメ甘くはない。
生存権と比較するとよく分かる。25条1項は、国民の権利として規定し、2項でこれに対応する国の福祉向上の義務を定める。ところが、25条の2として新設の条項は、「環境権」と標題されず、「国の環境保全の責務」とする。25条1項に相当する権利の規定はない。

国民の権利として明定されている生存権においてなお、プログラム規定とされて具体的権利性を否定されているのが現状。環境権においては、権利条項すらないのだから、すべては国の思し召し次第とならざるを得ない。到底、裁判で使えるような実定的権利性はない。

しゃぶったら甘くないアメで、改憲草案をまぶそうなど、自民党もお人が悪い。悪徳商法ばりではないか。むしろ、国の政治的方針として環境擁護をなすべき責務があるのだから、国民もこれに協力しなければならない、という文脈で使われることになりかねない。

アメ変じてムチである。国民を無知と嘗めてのことか。