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最近の日記

訴訟終結

 12月13日、東京高等裁判所で、中国「残留孤児」東京訴訟(第1次提訴)の控訴審の第1回口頭弁論が開かれ、原告は、中国「残留孤児」に対する新支援策が成立したため、訴えを取り下げ、訴訟は終結しました。

 訴え取り下げに先立ち、原告及び原告代理人は以下のとおり意見陳述を行いました。

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中国「残留孤児」訴訟原告団代表
池田 澄江
 
 私は、中国「残留孤児」国家賠償訴訟原告番号1番の池田澄江です。全国2211名の原告団全国連絡会の代表でもあります。

 1945年の敗戦時、私の母は逃避行の大混乱の中で病気になり、0歳の私に母乳を与えることも出来なくなって、やむをえず、中国の養父母に引き取ってもらいました。幸運にも私の養父母はとても優しい人たちでした。でも、私は日本人です。祖国日本に帰って親を捜す、という思いはつのるばかりでした。

 1981年7月に自費で日本に帰りました。北海道に父と思われる人がいるとわかったからです。しかし、血液鑑定の結果、親子ではないと判定されました。その時の絶望感は言葉に表せません。しかも、追い打ちをかけるように、法務局に強制送還すると言い渡されました。多くの方の援助で就籍できたので、その後も日本で生活することができましたが、姉と偶然に出会い、自分のルーツにたどり着くまで16年かかりました。その間に母は私のことを気に病みながらなくなったと聞かされました。
 
 帰国後いつも“中国人”と言われました。中学2年生の娘も「中国人汚い」、「中国に帰れ」と罵られました。情けなくて、何度も自殺を考えました。仕事がなくて生活保護を受けたこともありました。福祉事務所の職員からは“生活保護費は国民の税金です、早く仕事をしなさい”と叱られました。もちろん仕事をしたいと思いました。でも仕事がなかったのです。就ける仕事があれば、掃除、皿洗い、荷物運搬、何でもやりました。職業訓練校で1年間洋裁の勉強をして、資格を得ましたが10箇所以上就職面接を受けても、全部断られてしまいました。日本語を一生懸命勉強して、生命保険の外交員試験を受け、1番の成績をとって外交員の仕事に就いても、やはり言葉の壁で契約件数はなくて収入もありませんでした。祖国日本に帰って来て、仕事に就けないとは思いませんでした。これは私だけではありません。1987年から中国残留孤児の就籍手続きの仕事に就き、1300人あまりの就籍に携わって、改めて孤児の苦難の人生をより深く理解することが出来ました。

 私たち残留孤児は、中国では、侵略者日本の国民として、日本政府に代わって戦争責任を背負わされました。中国の人々の非難の目を意識し、精神的な圧力を感じながら、中国の地で40年も50年も生き抜いてきました。ようやく待ち望んだ祖国日本に帰って来ると、今度は日本語が出来ないため中国人と呼ばれます。一体私たちは何人なのでしょうか。

 高齢になると、さらにもっと厳しい現実に突き当たることになりました。自分の力で生活を立てることは不可能となり、約70%の孤児が生活保護を受けることを余儀なくされました。この経済発展をとげた日本で生活していながら、私たちには自由がなく、生活は監視され、人としての尊厳もなく、人権もない屈辱的な生活を強いられています。耐えかねた私たちは、8年前、老後生活の保障を求めて、街角で10万人の署名を集め2度にわたって国会請願を行いましたが、2度とも採択してもらえませんでした。本当に国は冷たいと思いました。

 2002年12月20日、関東地区629名の孤児原告が東京地方裁判所に「国家賠償訴訟」を提訴しました。最後の望みを司法にかけたのです。全国の孤児がそれに続きました。しかし、2006年12月の神戸地裁の判決以外は敗訴でした。特に、今年1月30日東京地裁の加藤謙一裁判長が言い渡した判決は、“鮮人”、“満人”、“土匪”等差別用語を使った最低、最悪な敗訴判決でした。裁判所の判決は、私たちの期待をことごとく裏切るものでした。

 しかし、裁判を通じて、孤児問題が世論から関心を持たれるようになったことも間違いありません。国会でも注目され、与党プロジェクト(与党PT)も発足しました。そして、安倍前総理は東京地裁の最低、最悪の判決が出た夜、「これまでの中国残留邦人に対する施策は不十分だった」として、厚生労働大臣に新しい支援策を講じるよう指示しました。翌日、孤児代表と面談した前総理は、「皆さまは筆舌に尽くしがたいご苦労をされました。」と暖かい声をかけて下さいました。東京地裁の判決で地獄に落とされた私たちは、翌日、一瞬にして天国へ引き上げられたような思いがしました。

 11月28日無事に新たな支援策を盛り込んだ法律が成立しました。与党PTとの約束通り裁判は終結を迎えます。しかし、制度の運用は今後の政令、省令、規則などに委ねられています。よりきめ細やかな支援策にするために原告団はまた一丸となって取り組み、孤児が「日本に帰ってきて良かった」と思えるようにしていきたいと思います。私たち残留孤児も、謙虚な気持を持って学び、日本社会の一員として尊重されるような国民になり、そして、日中友好の架け橋となって日本に貢献したいと思います。

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中国「残留孤児」訴訟原告団代表
清水 宏夫

 原告の清水宏夫です。今回の裁判に関して意見を述べさせていただきます。

1 (私の経歴と裁判を始める前の心境)
 私の母親は終戦2年前に亡くなりました。その後私の父親は男手一人で幼い子ども3人を育てていましたが,昭和19年に現地召集され,終戦時に親がいなかった幼い私たちは残留孤児となってしまったのです。その時7歳だった私は,多少の日本語を話すことができましたが,生き抜くためにはに中国語を話すしかなく,そのため日本語は1年ぐらいですっかり忘れました。それでも回りの中国の子ども達からは中国語のイントネーションがおかしいとさんざん笑われました。帰国後は日本語のイントネーションがおかしいと指摘されています。このように私は,人生で2度言葉のイントネーションで悲しい思いをしています。
 私たちが帰国した当時は,日本国民がこぞって大歓迎をしてくれましたので,私たちも,帰国直後は日本に帰ってきて良かったと思いました。しかし,その感激もすぐに薄れました。生活保護の受付担当者は,極めて機械的にしか対応してくれず,私たちに対する思いやりは期待できなかったからです。また,生活保護を受けている残留孤児の子どもは高校に進学できないことを知り,私は愕然としました。会社に勤めても正社員になることができず,給与もボーナスも昇給も全部格下げでした。中国で身につけた技術や経験を役立てることもできませんでした。帰国後にこのような生活を続けてきた残留孤児は私だけではありません。このことは,残留孤児としての帰国者約2500名のうちそのほとんどが裁判の原告となっていることから明白です。

2 (裁判を通じて得たこと)
裁判を起こす前に,私たちは,その当時の生活や老後について大変不満に思っていました。しかし,その当時は,私たちに知識がなかったために,しょうがないと思っていました。まして,中国の習慣や文化しか知らなかった私たちは,国を相手に裁判を行うことは夢にも思わなかったのです。
 ところが,裁判を通じて,私たちは,帰国する術を知らない残留孤児が,帰国できなかったのは,国から棄てられたからであることなどの多くの事実を学びました。私たちは,国が私たち残留孤児に対して実施してきた政策が誤りであり,新たな支援策を作ってすぐに実行すべきであると確信してきたのです。

3 (判決と新支援策について)
 しかしながら,東京地裁の判決は,私たちの期待を完全に裏切るものでした。このような判決によって,私たちは,また国に棄てられたと思いました。
 ところが国は,東京地裁の判決直後に,新しい支援策を作ることを決めてくれました。そして,先月,ようやく新しい支援法が成立しました。私たちは,新しい支援法の成立によって,私たちがようやく日本人として認めてもらったという気がしております。
国の新しい支援策は,これまでの残留孤児に対する支援策が極めて不十分であることを前提にして作られたものです。ところが東京地裁の判決は,国の新しい支援策とは正反対の判断でした。国の政策と裁判所の判断がこのように大きく食い違うことは正しいことなのでしょうか。

4 (今後の裁判に期待すること)
 私たちは,裁判を始める前は,国民に対して,私たちの現状を理解し,その原因についての理解を深めてもらう手段がなかったのです。私たちの悲惨な現状とその原因を国民に理解してもらうための最後の手段として裁判を始めたのです。私たちの本心は,裁判所が国の過ちを認め,国に対して損害賠償責任を認めて欲しかったことにあります。
 ただ,このたび裁判を終結させるのは,国の新しい支援策の内容を評価したことと,年々高齢化している私たちが裁判を長びかせることを好まなかったことにあります。
 今回の裁判は本日をもって終了となりますが,今後,私たちは,裁判所に対して,私たちのような国民全体からみれば少数派である社会的弱者の実態を直視し,私たちの言葉に心から耳を傾け,国の政策を先取りするような弱者に暖かい判決を期待しております。
 以上です。

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中国「残留孤児」訴訟弁護団長
鈴木 経夫
                                    記
1 はじめに
 本件訴訟は、全国15か所、孤児約2500名のうちのほぼ9割を占める2200余名が参加している訴訟のなかで、一番はじめに提訴されたものである。これらの訴訟の提起にいたるまでには多くの支援者の援護があり、その後国に対する新たな支援策を求める署名も100万筆を超えた。また、控訴人ら自身も全国原告団を結成し、支え合いながら訴訟を遂行してきた。
 ところで、ここで控訴の対象となっている東京地裁の判決は、孤児自身はもとより、弁護団も、残留孤児と長年関わってきた支援の人たちにとっても、唖然とする内容のものであった。東京地裁のこの判決だけは、訴訟を終了させないで貴高裁の判断を求めたいと、控訴審を担当する弁護団の誰もが心の底から思っている。この判決をこのまま放置することは、訴えの取下げでその効力は消失するとしても、東京地裁の合議体でなされた判決であり、それが高裁で改められていないという事実は消えず、判決としては残らざるを得ない。後に説明がされるが、今回立法化された残留邦人の支援策の策定を献身的に推進された与党プロジェクトチームとの約束があるので、断腸の思いではあるが、本件訴訟は取り下げざるを得ない。我々弁護団としては、「中国残留孤児」の発生、帰国の遅延、帰国後の援護についての国の責任を曖昧にしたままで、この訴訟を終結させることはまことに無念である。

2 控訴人ら自身の経験、その置かれた実情に明らかに反する判示
原判決の問題点については、一応控訴理由書でほぼ指摘してあるので、ここで詳しく繰り返す必要はない。しかし、たとえば孤児のこれまでの経験と全く異なる事実が、しかもその証拠もないのに何か所も認定されている。裁判そのもの対する不信を醸成しかねない。あたかも無辜の被告人にとって、有罪の判決が百万言を費やそうと、それに納得できないのと同様である。この判決のいくつかの部分は控訴人ら自身にとって、まったく不可解である。
(1)たとえば原判決によると「多くの帰国者とその家族が、帰国後にそれぞれ困難はあるものの親族との間にひどい軋轢を生じたり特別に大きな問題を起 こすこともなく、身元引受人の世話を受けることによって円滑に日本での社 会生活に適応し、生活保護を受けながらも精神的に自立した生活を営んでいる。」(原判決170頁)ことになる。この中には原判決の随所に見られる初歩的な誤りがあるが、具体的な名前が挙げられておらず、孤児一般についての判示のようにも読める。この判示に表向き該当するように見える2人の控訴人は、このような実情にはまったくない。その点は原審で十分に立証している。その余の控訴人も、この判示のような生活は営めていない。控訴人ら「中国残留孤児」は、主に言葉の壁からの社会的不適応、脱却の見込みのない貧困、生活保護受給者に対する非人間的扱い、隣人との交際もできず、病気になっても医師に病状の説明ができず、孤立した生活に苦しんできた。孤児たちは、日本の社会に適応できず、精神的に自立した生活が営めず、これまでずっともがいてきたのである。にもかかわらず、このように全く逆の認定がなされている。そうであれば「中国残留孤児」たちは、そもそもこのような訴訟など提起しない。今度の支援策でこの状況がかなりの程度改善されることに期待したい。
(2)もう一つだけ例を挙げたい。「中国残留孤児」については、母国語としての日本語獲得の機会はすでに失われているのだから、日中国交回復後におい て早期帰国実現義務といっても仕方がない、というような趣旨の判示が見られる( 原判決160頁以下)。この部分の判示もなんのための判断か、その論理の運びも理解しがたい。しかし、ここに関連して述べられていることは、およそ孤児の経験に反することも明らかである。母国語習得に関係なく、孤児たちがかねて帰国を強く望み、まして国交回復後はその希望はいっそう強くなった。この点は多数の孤児のボランテイア宛の手紙等も引用して重点的に立証した。帰国したくても、様々な日本側の障害で長く帰国できないままに放置されたその孤児の叫びを法廷に顕出した。祖国へ帰国できないこと自体が、孤児にとって重大な損害である。また、日常生活が送れる程度の日本語、つまり第2言語としての日本語の習得は、十分可能であり、帰国の著しい遅延がそれを妨げたことは明らかであろう。帰国の遅延が孤児たちの損害の発生に関わりがないような判示は到底納得できないのである。
(3)このようにして拾い上げると、判決書全体の至る所に、理解に苦しむ判断、主張の曲解としか思えない指摘、証拠に基づかない事実認定、事実と異なる 認定、なぜそのような判示が必要なのか不明な判断等々きりがない。控訴理 由書の方で一応述べたので、詳細は避ける。

3 原判決の特異性
(1)本件訴訟と関連する判決は、東京で他に1件あるほか、大阪、神戸、徳島など7か所の裁判所でなされている。原判決だけが異質で、早期帰国についても、自立支援についても法的義務は勿論、政治的義務も認めなかった。その理由付け、その論理構造も理解しにくく、特異である。また、この種全国レベルで争われる訴訟であれば、東京地裁の合議体での判決は、その結論に賛成するにしろ、反対するにしろ、各地の裁判所に大きな影響を与えてきたのが通常である。ところが、各裁判所の判決を読む限り、原判決の影響を読み取ることはできない。なお、「中国残留孤児」の訴訟では、全国の弁護団が連絡会を結成し、意見を交換しあっているので、その主張や、提出した証拠は、東京の他の1件をのぞくと、ほとんど全国共通である。判断の前提となる事実認定や、法的な判断が、他の判決とこれほど異なるのも不可解である。
(2)たとえば原判決のあと、控訴理由書の作成日、3月29日に名古屋で言い渡された判決は、早期帰国実現義務も、自立支援義務も、国の法的義務として明確に認めている。さらにその後6月15日に言い渡された高知地裁の判決は、開拓団を「有事の際の国防の一翼を担うもの」と位置づけ、国はその人々に対して、民間人ではあるが軍人同様に、「召還」義務があると、原判決とは正反対とも言うべき判断をしている。
(3)私は、現在出席している弁護団の中では、法曹としては最も経験が長いが、幸いにして、これまで多くの判決を見る機会に恵まれた。記録と対照したものも多いし、さらにはいくつかについてコメントを書く機会も与えられた。多くの先輩や、後輩の判決に接し、その内容には感服させられるものが多かった。特に合議の判決にはその印象が強かった。しかし、原判決は、そのようにして接してきた判決とは異質の内容としかいいようがない。当事者の主張を理解せず、事実認定に謙虚さを欠き、論旨不明瞭で、余事記載の数々、果たして判決としての形をなしているのであろうか。

4 将来の審判に
旧満州国に関しては、中国側にはまだ公開されない数多くの資料が残されているとも聞く。いずれ将来、歴史学者、経済史、もしくは植民地に関心を持つ人々、あるいは社会学者などにより、さらには国際人権規約、子どもの権利条約等の国際規範の見地からなど、これまでとは角度を変えた研究が行われるであろう。その際には原判決や、訴訟資料は、格好の材料であり、現在の裁判官の旧満州問題に対する見識をうかがううえでも、国際レベルに照らした人権感覚と対比するうえでも、不可欠の資料であろう。弁護団としては高裁の判断は得られなかったが、将来の審判にその判断をゆだねたい。
最後に、与党プロジェクトチームをはじめとする国会議員の方々、何くれとなく支援していただいた支援者の方々、さらには訴訟費用の負担などにまで、細かな配慮をして下さった関係者の方々に、感謝の意を表して、加えて苦しいなか、ここまでがんばり抜いた原告団に敬意を表して、私の弁論を終わりたい。

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中国「残留孤児」訴訟弁護団幹事長
安原幸彦
                                    記
1 改めて「残留孤児」の被害とは
 「残留孤児」は、62年前幼い身で満州の地に捨て置かれ、反日感情の強い中国の地でひとりぼっちで生き抜いてきました。その苦難が筆舌に尽くしがたいものであったことは今更言うまでもありません。特に強調したいのは、「残留孤児」は、日本が中国の地で犯した戦争犯罪の責任を一身に背負わされたことです。幼いときから、「常に人の顔色をうかがいながら生きる」、「残留孤児」はこうした生き方を強いられました。
 それは、念願かなって日本に帰国した後も続きました。「中国人、中国人」と仲間はずれにする職場の人たち、「税金で食べていないで働け、働け」と迫るお役人、時には応援してくれるボランティアの顔色もうかがう毎日でした。言葉の壁、生活習慣や身につけた文化の違い、生活保護で足りるとしたお粗末な国の施策などによって、「残留孤児」は、人間の尊厳を奪われ、貧困にあえぐ生活を余儀なくされてきました。
 本訴訟は、こうした現状を打破し、人間の尊厳の回復、老後の生活の保障を求めて闘われました。

2 安倍前総理指示に始まった支援策
 原判決が言い渡された本年1月30日、当時の安倍総理大臣は、これまでの施策が不十分であったことを率直に認め、厚生労働大臣に新たな支援策を講じるよう指示しました。
 1月31日、原告団代表と面談した総理は、「残留孤児」の苦難をねぎらい、新たな支援策を作り上げる強い決意を示しました。
 2月1日、総理は国会答弁で、新たな支援策は、「本当に日本に帰って良かったと思える」、「日本人として尊厳を持てる生活」という観点から検討すると言明しました。
 こうして、「日本に帰って良かった」、「日本人としての尊厳」をキーワードとして、新たな支援策作りが始まりました。

3 新たな支援策ができるまで
 しかし、その後の支援策作りは必ずしも順調とは言えませんでした。厚生労働省は、政策転換に厳しく抵抗し、本年4月下旬に報道された厚生労働省案は、生活保護をもって良しとする従来の政策を出るものではありませんでした。私たちは、この厚生労働省案を拒否し、5月30日からは3日間に及ぶ厚生労働省座り込みを敢行し、広く世論に残留孤児の深刻な人生被害と厚生労働省の冷たい対応を訴えました。それによって巻き起こった大きな世論、与党PTの強力な政治指導、与野党を越えた多くの国会議員の支援などによって、厚生労働省も自らの案を改めざるを得なくなるに至りました。そして、7月9日、与党PTが作成した新たな支援策が正式に決定され、翌10日、厚生労働省・原告団の双方がこれを受諾し、政策転換が実現したのです。
 その後の立法作業は様々な政治状況のために大幅に予定より遅れましたが、11月28日、参議院本会議で、中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律の一部を改正する法律案が可決成立、12月5日交付され、いよいよ中国残留邦人に対する新たな支援策が実施されることになりました。

4 新たな支援策の内容と今後の課題
 新たな支援策では、老齢基礎年金の満額支給、生活保護制度とは別の制度としての生活支援制度、中国残留邦人の特殊な事情等へ配慮した運用がされることになります。こうした点は、生活保護で良しとしてきた従来の支援策を転換し、「残留孤児」が求めてきた老後生活の保障を大きく前進させたものとして、高く評価できます。
 しかし、残された課題も少なくありません。特に、老後生活保障と並ぶもう一つの要求である「人間の尊厳の回復」は、未だ道半ばといわざるを得ません。人間の尊厳を回復するために何よりも重要なのは、「残留孤児」が日本社会の一員として尊重されることです。自信と誇りを持ち、人の顔色をうかがわないで生きていけるためには、中国「残留孤児」発生の歴史を広く国民に伝え、「残留孤児」を支援することへの支持・共感を得ていかなければなりません。こうした取り組みがこれから始まることになります。
 その上では、12月5日、法律の公布の日に行われた福田総理大臣と原告団代表の面談は意義深いものでした。総理は「残留孤児」の労苦をねぎらうだけではなく、政策の不十分さ、それに気づくのが遅れたことに対し、率直に謝罪したのです。政府にはこの原点を今後も忘れてほしくありません。

5 むすび
 原告団は、訴訟が終わっても解散しません。この訴訟を契機として生まれた孤児同士の固い絆は、何物にも代え難い財産だからです。
 原告団は、今後の運用の在り方や残された課題の解決について、政策を担う厚生労働省・各自治体と協議する母体となるでしょう。幸い、この秋からは、厚生労働省と原告団が胸襟を開いて話し合う気運も生まれており、今後とも発展させていきたいと思います。
 私たちは、今後とも、国民各位の理解と支援をいただき、全ての「残留孤児」が心から「本当に日本に帰って良かった」と言える日を迎えたいと思います。私たち弁護団も、そのために全力を尽くす所存です。

新支援法成立!

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                  2007年11月28日

中国「残留」邦人に対する新たな支援立法の成立にあたっての
           声         明

             中国残留孤児国家賠償訴訟原告団全国連絡会
             中国残留孤児国家賠償訴訟弁護団全国連絡会


 本日、参議院本会議で、中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律の一部を改正する法律案が可決成立し、来年4月から、中国残留邦人に対する新たな支援策が実施されることになりました。私たちは、新たな支援策の出発を心から喜び、これまでその実現にご尽力いただいた全ての皆さんに感謝の気持ちを捧げるものです。

 「残留孤児」は、62年前満州の地に捨て置かれ、反日感情の強い中国の地でひとりぼっちで生き抜いてきました。その労苦は、戦後の経済復興の中で生活してきた者には想像もつかないものです。また、戦後は政府の政策によって帰国の道を閉ざされ、国交が回復してからも政府の無策によって、帰国の道が開けるまでには長い時間を要することになりました。さらに念願かなって日本に帰国した後も、言葉の壁、生活習慣や身につけた文化の違い、生活保護で足りるとしたお粗末な国の施策などによって、人間の尊厳を奪われ、貧困にあえぐ生活を余儀なくされてきました。「残留孤児」の被害は、戦前戦後の一貫した国の棄民政策によって引き起こされたものなのです。

 2002年12月から全国各地で起こされた中国「残留孤児」国家賠償請求訴訟は、こうした現状を打破し、人間の尊厳の回復、老後の生活の保障を求めて闘われました。そこに原告として参加した「残留孤児」は、全国の「残留孤児」の9割を越えています。その団結した力こそが、今日の新たな支援策を勝ち取った最大の要因です。私たちは今後も何よりもこの団結を大事にしていきたいと思います。

 昨年12月、神戸地裁で国の責任を断罪する判決が言い渡されました。これを契機に、本年1月30日、安倍総理大臣(当時)は、これまでの施策が不十分であったことを率直に認め、厚生労働大臣に新たな支援策を講じるよう指示しました。そして、新たな支援策は、総理が国会で答弁した「本当に日本に帰って良かったと思える」、「日本人として尊厳を持てる生活」という観点から検討されることになりました。しかし、その後の支援策作りは必ずしも順調ではなく、厚生労働省は、政策転換に厳しく抵抗し、本年4月下旬に報道された厚生労働省案は、生活保護をもって良しとする従来の政策を出るものではありませんでした。私たちは、この厚生労働省案を拒否し、5月30日からは3日間に及ぶ厚生労働省座り込みを敢行し、広く世論に残留孤児の深刻な人生被害と厚生労働省の冷たい対応を訴えました。それによって巻き起こった大きな世論、与党PTの強力な政治指導、与野党を越えた多くの国会議員の支援などによって、厚生労働省も自らの案を改めざるを得なくなるに至りました。そして、7月9日、与党PTが作成した新たな支援策が正式に決定され、翌10日、厚生労働省・原告団の双方がこれを受諾し、政策転換が実現したのです。

 本日成立した法律によって、国民年金老齢基礎年金の満額支給、生活保護制度とは別の制度としての生活支援制度、中国残留邦人の特殊な事情等へ配慮した運用がされることが決まりました。こうした点は、生活保護で良しとしてきた従来の支援策を大きく転換するものとして、高く評価し、又期待したいと思います。しかし、残された課題も少なくありません。「残留孤児」が人間の尊厳を回復するために何よりも重要なのは、「残留孤児」が日本社会の一員として尊重されることです。「残留孤児」が自信と誇りを持って生きていけるためには、中国「残留孤児」発生の歴史を広く国民に伝え、「残留孤児」を支援することへの支持・共感を得ていかなければなりません。また、今後の運用の在り方や残された課題の解決について、政策を担う厚生労働省・各自治体とも胸襟を開いて率直に話し合えるようにならなければなりません。幸い、この秋からは、そうして気運も生まれており、今後とも発展させていきたいと思います。

 改めて、これまで長年にわたって「残留孤児」を支えてきたボランティアの皆さん、与野党の垣根を越えて支援してくださった国会議員の皆さん、献身的に運動を展開してくださった各地支援団体の皆さん、文化人の皆さん、国民の皆さんに心から御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

あの戦争から遠く離れて―私につながる歴史をたどる旅

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あの戦争から遠く離れて
 ―私につながる歴史をたどる旅

城戸 久枝 著
情報センター出版局 版
2007年08月 発行 1,680円(1,600円+税)


内容紹介
日中の国交が断絶していた1970年に、文化大革命さなかの激動の中国から命懸けで帰国を果たした28歳の日本人戦争孤児、それが私の父だった。
―父と、私と、異国の祖母―
戦後史を書き換える、奇跡と感動のドキュメント。

歴史に翻弄された父の半生を、私は知らなければならない。
――21歳の秋、旧満州に飛び込んで、10年がかりの長い旅の中で、娘がまるごと受け止めた運命の物語、そして「反日と情愛の国」の等身大のリアル。

政治的な立場とは関係なく、父親の人生に向き合い、戦争のもたらす運命と、それに抗した人間の姿、語り継がれるべき「歴史」の真実を鮮やかに描き出す、1976年生まれの俊英によるノンフィクション・デビュー作!
すべての日本人の魂を揺さぶる書き下ろし900枚。

レビュー
出版社からのコメント
日中国交回復前の1970年、まだ「中国残留孤児」という言葉すら存在しなかった時代、一人の日本人青年が羽田空港に降り立ちました。当時、文化大革命の嵐が吹き荒れる中国・牡丹江から命がけで帰国した28歳の彼を、新聞等は「満州孤児」と報じました。
厚生省による残留孤児の集団訪日調査が始まる10年以上前に、自力で身元を探し出し独力で帰国を果たした日本人戦争孤児がいたのです。その青年の名は、「城戸幹」。
――それが著者の父親でした。

父親の帰国後、日本人の母親との間に生まれたまったくの日本人でありながら「中国残留孤児二世」でもある著者は、21歳の秋、旧満州の地に飛び込んで、歴史に翻弄された父「城戸幹」(中国名・孫玉福)の人生をたどっていきます。
中国東北地方、吉林省長春の吉林大学に留学したのは1997年。初めて暮らす異国の地で異文化と格闘しながら、父親の足跡をたどり始めました。父親の育った牡丹江で(血のつながらない)親戚・知人たちに出会い、父親の残した人間関係にどっぷりと足を踏み入れていきます。そして帰国後は、留学中にマスターした中国語を武器に「中国残留孤児の国家賠償訴訟」の取材を進め、同時に、父親自身から半生の物語を聞き取る作業も進めていきます。それは、私たちの生きる「現在」へとつながる「もうひとつの戦後史」と向き合う作業でもありました。

本書は、まさに“大地の子”の娘として生まれた著者が、日本と中国で父親をめぐるさまざまな出来事に出会いながら、壮絶な人生を力強く生き抜いてきた父親を徐々に理解していく自分自身を描き、「城戸幹」という人間の数奇で苛烈な半生を描き切った、壮大なノンフィクションです。なかでも、本書で初めて明かされる、父「城戸幹」が自らの意志と努力によって帰国を果たすまでの、戦後中国における圧倒的なドラマ(本書「第一部」)は、小説『大地の子』さながらに読む者の心を打たずにはいません。

新しい支援策策定にあたっての原告団・弁護団声明

新しい支援策策定にあたっての
          原告団・弁護団声明

                 2007年7月10日

             中国「残留孤児」国家賠償訴訟原告団全国連絡会
             中国「残留孤児」国家賠償訴訟弁護団全国連絡会

 本日、私たちは、官邸で安倍総理大臣と面談し、総理から、中国「残留孤児」の62年間の苦しみに対するねぎらいと、新しい支援策を着実に実行するとの約束をいただきました。総理の温かい言葉は、凍っていた「残留孤児」たちの心を融かし、これからの人生に明るい灯をともすものでした。

 思えば、今回策定された新しい支援策は、本年1月30日、最低最悪の東京地裁判決が言い渡されたその日に、安倍総理が、これまでの中国残留邦人に対する施策は不十分だったとして、厚生労働大臣に新しい支援策を講じるよう指示したことに始まります。そして、新しい支援策は、国会で総理が答弁した「本当に日本に帰って良かったと思える」「日本人として尊厳を持てる生活」という観点から検討されることになりました。
 しかし、その後の新しい支援策づくりは決して順調であったとは言えません。厚生労働省は政策転換に厳しく抵抗し、4月下旬に報道された厚生労働省案は、生活保護をもって良しとする従来の施策と何ら変わらないものでした。私たちは、厚生労働省案を拒否し、真の支援策を求めてさらに長く苦しい闘いを継続せざるを得ない局面に立たされました。そうした状況を打破するために、私たちは、悪天候をついて、5月30日から3日間に及ぶ厚生労働省前座り込みを敢行し、広く世論に残留孤児の悲惨な人生被害と厚生労働省の冷たい対応を訴えました。そしてこれが、局面を打開する大きな契機となりました。
 また、与党中国残留邦人支援に関するプロジェクトチームの強力な政治指導、中国残留邦人への支援に関する有識者会議の委員の方々の積極的な議論によって、逆に、厚生労働省は自らの案を抜本的に改めざるを得なくなるところまで追い込まれました。そしてついに、昨日、与党プロジェクトチームが作成した新たな支援策が正式決定され、私たちもこれを受諾し、ここに中国「残留孤児」に対する歴史的な政策転換が実現したのです。

 私たちは、今回策定された新しい支援策が、生活保護で良しとしていた従来の支援策を根本的に転換し、国民年金老齢基礎年金の満額支給に加え、孤児独自の給付金、住宅・医療・介護など生活全般にわたる支援を図るものであること、収入認定制度の形式をとっているものの、中国残留邦人の置かれた特殊な事情に配慮し、多くの認定除外を設けたこと、それによって実質的には全ての孤児を対象とする水準の高い支援策となったことから、その内容を高く評価するものです。
 むろん、今後に残された課題も少なくありません。運用がどのようにされるかも未知数です。私たちは、この支援策をさらに充実させるため、厚生労働省とも胸襟を開いて率直に話し合い、よりよい制度に作り上げていきたいと思います。

 私たちは、2002(平成14)年12月の東京地裁提訴を皮切りに、全国15カ所で原告団を結成し、裁判闘争を闘ってきました。これまで出された判決は、残念ながら、最低最悪の東京地裁判決をはじめ、原告の主張を退けるものが多かったのですが、2006(平成18)年12月の神戸地裁判決で勝訴し、これが私たちの確信と支えとなって闘いが大きく前進しました。
 裁判があったからこそ、今日の政策転換があったのであり、この政策転換こそが裁判の最大の目的でもありました。今般、1審勝訴した兵庫訴訟原告団や裁判に多くの思い入れをもつ原告団も含めて、裁判を終結させることを決断したのは、この最大の目的を達成したからでもあります。

 敗訴判決を乗り越えて、私たちが求めてやまなかった政策転換を勝ち取ることができた要因は、菅原幸助先生をはじめとするボランティアの献身的な活動があったこと、与党PTをはじめとする多くの国会議員の指導と援助があったこと、100万人署名の達成に見られる各地支援団体の献身的活動があったこと、そして2200人余りの全国の「残留孤児」が、生活保護受給者が7割という苦しい生活の中で、一糸乱れず団結してまとまってきたことにあります。特に与党PTには今後も私たちを指導・援助くださるよう心からお願いいたします。また、街頭でビラ配布やデモ行進をし、全国の仲間とともに国会議員や厚生労働省に要請を繰り返した全国の「残留孤児」のこのまとまりは、かけがいのないものであり、私たちはこれを守り、互いに助け合って生きていきます。

 私たちは、歴史的な政策転換を心から歓迎するとともに、広く社会に中国残留孤児が発生した歴史的な事実も伝え、理解を呼びかけたいと思います。そして、私たち残留孤児も、日本社会の一員として、主権者として、胸を張って生活し、日中友好の架け橋なってその役割を果たす決意です。
 改めて、これまで熱い支援を寄せて下さった国民各位に深く感謝します。本当にありがとうございました。           

安倍総理への言葉

安倍総理への言葉

                2007年7月10日

                中国「残留孤児」原告団全国連絡会代表
                         池  田  澄  江

安倍総理大臣の温かいお言葉をいただき,感激しております。このたびは,私たち中国「残留孤児」のために,素晴らしい支援策を作っていただき,本当にありがとうございました。

 私は,今年1月31日,この官邸で,総理から,「これまでの支援策は不十分だった,夏までに新たな支援策を作ります。」と約束していただきました。日本人として尊厳の持てる生活,老後は安心だと思えるような制度を作ってくださると言っていただきました。
昨日,与党PTの先生方から示していただいた「中国残留邦人に対する新たな支援策」は,私たち孤児全員が生活保護から抜け出すことができ,安心して老後の生活を送ることができる内容でした。そして,厚生労働大臣は,与党PTの新しい支援策の実現に向けて努力すると言って下さいました。総理は約束を守ってくださいました。そのことを,心から嬉しく思っています。

 中国「残留孤児」は,戦争が終わったとき,ひとりぼっちで中国に残されました。そして,祖国に帰る日を夢見ながら,戦後,40年も50年も遅れて,やっとの思いで,日本に帰ってきました。ところが,帰国してからも,日本語がわからず,仕事もみつからず,苦労,苦労の連続でした。国は,私たちを助けてはくれませんでした。私たちは,中国では日本人と言われ,日本では中国人と言われて,心は傷だらけになりました。あれほど帰りたかった祖国は,私たちを守ってくれない,冷たい祖国でした。

 けれども今回の支援策は,私たちの凍っていた心を溶かしてくれました。私たちは初めて,国に私たちの62年間の苦労を受け止めていただきました。全国の孤児たちは,今,生まれて初めて,祖国の温かさを感じています。日本に帰ってきて本当によかったと,心から思っています。私たちは,今日のことを,本当の日本人に生まれ変わった日として,一生忘れないでしょう。
私たちは,これからは,老後の人生を精一杯生きて,日中友好の架け橋となり,日本の国に役立つ日本人として,誇りを持って生きていきたいと思います。
 安倍総理大臣,どうかこれからも,私たち中国「残留孤児」を見守り,力をお貸し下さい。よろしくお願いいたします。