「人格と人間性の否定」が冤罪を生む
1月31日、TBSテレビのドラマスペシャル「わたしはやっていない」は、昨年、検事による証拠ねつ造で大問題になった、元厚生労働省の官僚、村木厚子さんの事件を取り上げた。「家族の支え」が大きなテーマになっていただけに、検察の不正の構造などにはあまり切り込んでいなかったが、ドラマの主人公中井章子を演じた田中美佐子さんはじめ、夫・浩一の金田明夫、長女・菜月の市川由衣、次女・実沙の大後寿々花など脇役陣も好演で、迫力あるドラマに仕上がっていた。
ドラマで考えさせられたのは、逮捕され、拘留される場面の描写である。「はい逮捕」と口調が変わって、「電話をさせてください」という彼女に、「こちらがします」と断られ、彼女は「たいほ」と夫にメールを送るのがやっと、という状況に追い込まれる。「ポケットから全部出して」とテーブルに持ち物を全部出させられる。次は拘置所。着替えをさせられ、写真を撮られる場面…。まさに人格や、人間としての誇り、つまり人間性を全て否定される有様が、描写された。
「ひどいじゃないの。何であんなことされなけりゃならないの?」というのが、これを見た身近な女性の感想だった。
「捕まるとまっ裸にされて、肛門検査といって尻の穴まで調べるんだ。インテリほど、あれがこたえる。それで、何でも認めちゃうんだ…」
記者時代、いつか分からないが、そんな話を聞いたことがある。「どうしてやってもいないことを認めてウソの自白をするんだろう…?」と先輩たちと話したときのことである。警察官にも聞いたが、どうもそれは本当らしい。「なるほど…」。私にとって、それはいつの間にか常識になっていたが、よく考えると、実はこれは大問題なのではないだろうか。
そう考えてみると、「普通では耐えられないだろう。ほんとに、彼女はよく頑張ったなあ」と、思ってしまう。冤罪はこのあたりから生まれてくるのだ。
もともと、仮に有罪になったとしても、人格や人間性を無視した扱いは許されるべきではない。犯罪は人間としてのルールを外れたことなのだから、それに対して刑罰が決められている。しかし、だからといって、国家が人間性を無視した扱いをするとすれば、本来、国家が課した刑罰の正当性すら疑われることになるだろう。まして、逮捕されただけで、無罪推定を受けている容疑者の場合、こんな扱いが許されるのだろうか。
国連の人権委員会からは、代用監獄問題や、拘置所内での身体拘束などが問題にされているが、それ以前に、弁護士もないまま、被逮捕者の人格を否定し、人間としての誇りを奪って、取り調べを行う「仕組み」をもっと問題にしなければならないのではないか。
恐らく、政令や省令、あるいはそれ以下の、ほんの「小さな決まり」によって、取り扱いは決まっているのだろうと思う。法律家も、メディアも、もっとそのことを問題にしなければいけないのではないか。
私が現場で聞いてからは、もう10数年は経つ。その後、こうした取り扱いはどう変化したのか。それとも変わってはいないのか。容疑の内容や、警察や検察の管轄、現場によって違うのかどうか。この際、弁護士さんや、実際に逮捕された人たちに聞いてみたい。 (体験などを寄せてください。まじめに問題にしなければ、と思います)
憲法13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と規定する。逮捕した人間に、その誇りを奪い、人格を否定するような扱いをすることが、まさか「公共の福祉」ではないだろう。
× ×
ちょっと考えてみよう。なぜ人間は、やってもいないことを攻められ攻められ、自白してしまうのか?
ストーリーを押しつけて強引に認めさせる。話したことを少し変えるけれど、同じようなことを繰り返し繰り返し話させる。認めれば家に帰れる、刑が軽くなる、認めれば楽になる、と説得する。我慢しきれなくなって、やっていなくても、犯行を認めてしまう。
「自白のメカニズム」については、既にいろいろ論じられている。そしてそれは、「やり手刑事」の「落としのテクニック」と裏腹だ。人情味がある刑事が、じっくりと話し込んで説得する。取調官を信頼させるのが大事だ、という。
しかし、よく考えてみれば、その「落としの技術」の一番の基礎にあるのが、「人格と人間性の否定」ではないだろうか。
被疑者の人格と人間性を徹底的に破壊し、絶望させ、「どうでもいい」とあきらめさせる。その中で、わらにもすがるような気持ちで、偽りの誘導にも乗せられてしまうのではないだろうか。
そう考えてくると、最初の段階での人間性を否定したこの「小さな決まり」=人権侵害は、極めて重要だと思う。
「人権を守る」というのは、そういうことを一つ一つ改めていくことではないだろうか。
× ×
ちょっと「お休み」してしまいました。
できるだけペースを整えて続けたいと思います。
よろしくお願いします。
2011/02/10
やっぱり、アナログ停波は延期を
来年7月に、いまのテレビの「アナログ放送」が停波し、デジタル放送に全面転換することになっている。既に、「停波を延期すべきだ」という声があちこちからあがってきているが、政府も放送界も延期する気はなく、放送では「このアナログ放送は2011年7月に終了し見えなくなります」などのテロップを流すなど、キャンペーンが続いている。
しかし、考えてみると、どうしてこんなに強圧的な姿勢でテレビの買い換えやチューナー購入を呼びかけなければならないのか。私はもし強行するなら、政府や業界が本気になって視聴者にカネを出すしかないのではないか、と思えてならない。
まず、静岡新聞8月7日付夕刊「文化芸術」欄に寄稿した私の小文から紹介しよう。
× ×
◎「テレビを見る権利」とアナログ放送
来年7月24日、日本のテレビ放送は、アナログ放送を停止し、デジタル放送に全面移行することになっている。官民あげて1年前のキャンペーンが行われ、原口一博総務相は、改めて「断固推進」の決意を示した。
だが問題はそれまでにアナログ停波の対応が間に合うかどうかだ。7月17日には、原寿雄元共同通信専務理事、清水英夫青山学院大学名誉教授ら専門家が延期を求めて提言を発表した。
▼間に合わない対応
清水教授らは、@デジタル対応テレビの普及は83・8%というが、この調査では非協力的世帯や単身者世帯などが除かれているなど問題があり実態は60%台A受信機の出荷台数も、報告にはチューナー内蔵パソコンなどが含まれ、家庭のテレビがデジタルに置き替わってはいない―などを指摘。「テレビは生活に必要不可欠な情報を低コストで広く伝える重要なライフライン。それが全家庭に行きわたらないまま打ち切られれば、人々の生命と安全が脅かされる」と指摘した。
実際、共同アンテナで視聴している建物、学校、自治体関連施設など、対応が間に合わないところは数多いほか、一般でも都市の難視聴区域や山間部の共聴アンテナの整備が遅れ、特に東京など南関東のアパート、マンションはデジタル未対応が多く、対応は到底間に合わない、という。
▼テレビは生活必需品
かつて「ぜいたく品」だったテレビも、一家に1台から、部屋に1台、1人1台に近づき、既に「生活必需品」だ。
デジタル化では、生活保護世帯などに支援措置がとられたが、放送法はNHKに「あまねく日本全国において受信できるように」することを義務づけている。これは、「テレビを見る権利」が憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活」の条件であることをも示している。いまや「1戸でもテレビが見られない家庭が出たら政府の責任」ではないだろうか。
そう考えると、もしこのままテレビを見られない家庭が続出すれば、それこそ受信料の不払いが増え、家主や政府への訴訟もありうるだろう。
テレビは国民=視聴者のためのものだ。私たちには「くだらない番組」も含めて、「テレビを見る権利」があると思う。番組内容の改善を要求できるのもその視点からなのだ。
アナログ停波の延期には、韓国も米国も柔軟に対応した。この際「なぜデジタル化か」の疑問は別にしても、この「テレビを見る権利」に基づいて、混乱を避けるためにも決断が求められているのではないだろうか。 (関東学院大教授、浜松市出身)
× ×
改めて考えてみたいのは、世界人権宣言を引くまでもなく、「情報に接する権利」だ。 つまり、いま、しゃにむにデジタル化を進めている政策担当者には、この問題が国民の権利に属する問題だ、と考える視点が希薄なのではないだろうか。
この文章でもちょっと紹介したが、提言は、10項目の理由を挙げて、延期の必要性を強調している。項目だけ上げると、次のようなものだ。
@地上デジタル放送対応テレビの絶対数が足りない。
A80%以上とされる地上デジタル放送の世帯普及率(総務省発表)は、実態と大きくかけ離れている。
B所得が比較的低い層の地上デジタル放送への対応が間に合わない。
C主として低所得者向けの簡易チューナー普及策がうまくいっていない。
D集合住宅、都市難視聴地域、山間部(いわゆる「辺地」)などの共聴受信施設の地上デジタル放送への対応が大幅に遅れている。
Eとりわけ南関東地区(人口が多い東京・千葉・埼玉・神奈川)で地上デジタル放送への対応が大幅に遅れている。
F関東広域圏における地上デジタル放送の必須条件とされるスカイツリー(東京・墨田区の600m級電波塔)は開業が2012年春、フルパワー送信が2012年暮れとされ、2011年7月に間に合わない。
Gケーブルテレビのアナログ再送信は、地上デジタル放送に逆行する施策であって、ムダである。
H2011年7月に地デジ完全移行・アナログ停波を強行するときNHK、民間放送局、総務省にかかるコスト(収入減を含む)よりも、延期したときかかるコストのほうが小さいと見込まれ、放送局や国(総務省)にとってのメリットが大きい。
Iいわゆる電波の「跡地利用」は、延期によって、新規事業の再考時間が生まれる。
(http://www.aa.alpha-net.ne.jp/mamos/digital/digienki.html#teigen 参照)
ごくまともに考えても、この不況下にテレビの買い換えが家計を圧迫するのはどこでも同じだから、「1年前」と煽っても、そう早々と準備することにはならないだろう。
第一、「見えなくなるの? それならそれでいいよ。テレビがなくても携帯のメールもネットもあるし…」という若い視聴者が少なくないことを、政府や放送局はどう考えているのだろうか。
それに、未対応者が対応しようとしても、こんどはテレビの生産が間に合わない、というのだから話にならない。そうなったらどうなるのか。
まず、このデジタル化が間に合わなかった世帯には、テレビが見えないのだからNHKは受信料を返さなければならない。「受信料を払え」という裁判どころか、逆に「受信料を返せ」もしくは「見えるようにしろ」という裁判が可能だろう。
また、NHKが勝手に放送電波を止めるわけだから、その際の契約はどうなるのか、ちょっと考えても、問題は山積だ。
社会的な出来事について、法的な視点でものを考えるということは、どういうことか、とよく考えるのだが、憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活」は、常に変化し、進展している。テレビが見られる、というのは、明らかに、「健康で文化的な最低限度の生活」の条件だ。
世界人権宣言19条は「すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む」と述べ、表現の自由と同時に、情報に接する権利を確認している。ついでに書くと、22条では「すべて人は、自由に社会の文化生活に参加し、芸術を鑑賞し、及び科学の進歩とその恩恵とにあずかる権利を有する」とも書かれている。
このままでいったら、明らかにテレビ離れを進めることにもつながるのは明らかだ。政府と、放送に関わる全ての人々が、こうした観点から、今回の強引なデジタル化を考え直すよう、改めて求めたい。
2010/8/13
栃木県警はなぜ間違ったのか、メディアはどうだったのか?
足利事件の菅家利和さんが釈放され、再審が始まろうという時期になって、どうにも不可解なのは、警察当局が問題のDNA鑑定についての科学的事実を明らかにしようとしないことだ。当時、DNA鑑定が始めて使われ、真実発見に威力を発揮する、と持ち上げたマスコミも、千人に一人ちょっとだったのが、四兆何千億人に一人の確率に高まった、といった抽象的な説明だけだ。
記者根性そのままの全くの勘ぐりだが、当時、DNA鑑定は本当に、正しく行われたのだろうか、という疑問が消えないのだがどうだろうか? まさか警察のねつ造ではない、と思いたいが、今後のDNA鑑定を考えると、菅家さんのケースは、なぜ間違ったかについて、疑いがないまでに検証され、明らかにされなければならないと思う。
つまり、@むしろ菅家さんの残したティッシュか何か知らないが、それを見つけて証拠の被害者の衣服のどこかに付け「偽造」するとか、うっかり両方の体液を混同してしまった可能性はないのか? AそもそもDNA鑑定の資料となるべき菅家さんの体液は、尾行を続けていた捜査班がティッシュを捨てるのを見て採取した、と報じられているが、正確には、いつ何を、どうやって取って、いつ鑑定したのか? これは違法な証拠収集ではなかったのか? BDNAと「自白」の関係だが、菅家さんは、事件後、一年半経って、自宅から、知り合いの結婚式の当日連行されている。このとき、DNA鑑定はどうなっていたのか。警察はこのとき逮捕状を取っていたのか、いなかったのか。DNA鑑定は、自白の前提だったのか、それとも「自白」後の裏付けだったのか?
あの事件が起きたとき、というより正確には菅家さんが逮捕されたとき、私は共同通信の整理部長だった。正確には調べないとわからないが、「初のDNA鑑定で判明」みたいな原稿があったと思う。出稿してきたのは、社会部だっただろう。「おい、本当に大丈夫なのか?」とデスクに声をかけたことを記憶している。
相手が誰だったか、内容がどうだったかの記憶はないが、もう一件、関東近県でDNA鑑定を使った事件があった気がするが、「科学捜査」ともてはやす向きもあっただけに、「あまのじゃく精神」がそう言わせた。
警察も弱かったかと思うが、メディアも「科学」には弱い。「DNAが一致してるんだってさ!」と言われると、それだけでごまかされ、その「証拠」がどうやって取られたか、といった検証は抜けがちになる。恐らく、そのときの報道を調べても、証拠の採取についての詳細は報道されてはいないのではないか。裁判でどういう立証がされたか、それは知らない。一審では弁護士までも、一旦否認に転じた菅家さんを説得して、自白を維持させ、上申書を書かせているというのだから始末に悪い。
最近になって、「わたしはたまたまその公判を傍聴していた。菅家さんは、絞り出すような声で『やってはいないんです…』と言った」という話も聞いた。報道はどうだったのだろうか? 弁護士が認めているんだから…、という安易な黙殺がなかったかどうか?
菅家さんが釈放されて、メディアの責任に気が付き、すぐそれを字にしたのは毎日新聞だった。
毎日6月11日付は「事件報道重い課題 『犯人』前提の表現も」との見出しで、「毎日新聞も『真犯人は菅家容疑者』を前提に報道を続け、疑問をはさむ記事はなかった」「県警取材に基づく記事とは別に、犯人であることを前提にしたような報道があった。逮捕を報じた12月2日朝刊の紙面で、菅家さんの以前の勤務先の幼稚園関係者の話として『事件のことが話題になっていたのに、(菅家さんは)無関心だった』との談話を載せた。また女児が通っていた保育園の話として『これで成仏できるだろう』との一文を入れた」
「(12月)29日朝刊の『取材帳から』と題したコラムでは『いたいけな幼女の命を次々に奪った疑いの菅家被告。あまりにもケロッとしているその素顔を、どう理解すればよいのか』という表現があった」などと指摘、反省している。
この記事ではDNA鑑定についても、「個人を識別する際、別人のDNA型でも一致してしまう確率は、当時、血液型と併用して『1000人に1・2人』だった。現在の『4兆7000億人に1人』と比べると相当低いが、当時は画期的とみられていた。取材班は、当時のDNA鑑定の証拠能力を過信し、容疑者特定の決め手ととらえていた。精度を巡る議論は十分ではなかった」と書く。
しかし、それなら一層、今後、こうした問題を起こさないために、証拠採取の問題は重要になってくる。「データ」は人間を誤信させる。「データが引き起こす誤り」を防ぐための手だてが求められてくるのだと思う。
そんな中で、再審開始に当たって、弁護団は「事件の検証」を求め、鑑定をした科捜研の係官の証人尋問などを求めている。当然のことだし、誤りがあったなら、「なぜか」を率直に明らかにする。当然のことである。
裁判所はそういう要求をも「裁判引き延ばし」として一蹴した。なぜ、隠すのだろう。やっぱり鑑定の過程にも具合が悪いことがあったのだろうか? 一審の弁護士も率直に発言してほしい、刑事も、検察官も、裁判官も発言してほしい。
テレビ朝日のシリーズ「科捜研の女」は、見込み捜査の誤りを見つけ、科学の目で真犯人に向かっていく。科捜研への期待を含めた、そんなイメージを傷つけないためにも、科学者は率先して、証言台に立つべきだ。
それができなかったら、警察はやっぱり、証拠を「ねつ造」しかねないし、データもどこまで信用できるか分からない、という疑惑は晴れない。
疑い深い昔の記者の勘ぐりである。
2009/6/23 足利事件の菅家利和さんが釈放され、再審が始まろうという時期になって、どうにも不可解なのは、警察当局が問題のDNA鑑定についての科学的事実を明らかにしようとしないことだ。当時、DNA鑑定が始めて使われ、真実発見に威力を発揮する、と持ち上げたマスコミも、千人に一人ちょっとだったのが、四兆何千億人に一人の確率に高まった、といった抽象的な説明だけだ。
記者根性そのままの全くの勘ぐりだが、当時、DNA鑑定は本当に、正しく行われたのだろうか、という疑問が消えないのだがどうだろうか? まさか警察のねつ造ではない、と思いたいが、今後のDNA鑑定を考えると、菅家さんのケースは、なぜ間違ったかについて、疑いがないまでに検証され、明らかにされなければならないと思う。
つまり、@むしろ菅家さんの残したティッシュか何か知らないが、それを見つけて証拠の被害者の衣服のどこかに付け「偽造」するとか、うっかり両方の体液を混同してしまった可能性はないのか? AそもそもDNA鑑定の資料となるべき菅家さんの体液は、尾行を続けていた捜査班がティッシュを捨てるのを見て採取した、と報じられているが、正確には、いつ何を、どうやって取って、いつ鑑定したのか? これは違法な証拠収集ではなかったのか? BDNAと「自白」の関係だが、菅家さんは、事件後、一年半経って、自宅から、知り合いの結婚式の当日連行されている。このとき、DNA鑑定はどうなっていたのか。警察はこのとき逮捕状を取っていたのか、いなかったのか。DNA鑑定は、自白の前提だったのか、それとも「自白」後の裏付けだったのか?
あの事件が起きたとき、というより正確には菅家さんが逮捕されたとき、私は共同通信の整理部長だった。正確には調べないとわからないが、「初のDNA鑑定で判明」みたいな原稿があったと思う。出稿してきたのは、社会部だっただろう。「おい、本当に大丈夫なのか?」とデスクに声をかけたことを記憶している。
相手が誰だったか、内容がどうだったかの記憶はないが、もう一件、関東近県でDNA鑑定を使った事件があった気がするが、「科学捜査」ともてはやす向きもあっただけに、「あまのじゃく精神」がそう言わせた。
警察も弱かったかと思うが、メディアも「科学」には弱い。「DNAが一致してるんだってさ!」と言われると、それだけでごまかされ、その「証拠」がどうやって取られたか、といった検証は抜けがちになる。恐らく、そのときの報道を調べても、証拠の採取についての詳細は報道されてはいないのではないか。裁判でどういう立証がされたか、それは知らない。一審では弁護士までも、一旦否認に転じた菅家さんを説得して、自白を維持させ、上申書を書かせているというのだから始末に悪い。
最近になって、「わたしはたまたまその公判を傍聴していた。菅家さんは、絞り出すような声で『やってはいないんです…』と言った」という話も聞いた。報道はどうだったのだろうか? 弁護士が認めているんだから…、という安易な黙殺がなかったかどうか?
菅家さんが釈放されて、メディアの責任に気が付き、すぐそれを字にしたのは毎日新聞だった。
毎日6月11日付は「事件報道重い課題 『犯人』前提の表現も」との見出しで、「毎日新聞も『真犯人は菅家容疑者』を前提に報道を続け、疑問をはさむ記事はなかった」「県警取材に基づく記事とは別に、犯人であることを前提にしたような報道があった。逮捕を報じた12月2日朝刊の紙面で、菅家さんの以前の勤務先の幼稚園関係者の話として『事件のことが話題になっていたのに、(菅家さんは)無関心だった』との談話を載せた。また女児が通っていた保育園の話として『これで成仏できるだろう』との一文を入れた」
「(12月)29日朝刊の『取材帳から』と題したコラムでは『いたいけな幼女の命を次々に奪った疑いの菅家被告。あまりにもケロッとしているその素顔を、どう理解すればよいのか』という表現があった」などと指摘、反省している。
この記事ではDNA鑑定についても、「個人を識別する際、別人のDNA型でも一致してしまう確率は、当時、血液型と併用して『1000人に1・2人』だった。現在の『4兆7000億人に1人』と比べると相当低いが、当時は画期的とみられていた。取材班は、当時のDNA鑑定の証拠能力を過信し、容疑者特定の決め手ととらえていた。精度を巡る議論は十分ではなかった」と書く。
しかし、それなら一層、今後、こうした問題を起こさないために、証拠採取の問題は重要になってくる。「データ」は人間を誤信させる。「データが引き起こす誤り」を防ぐための手だてが求められてくるのだと思う。
そんな中で、再審開始に当たって、弁護団は「事件の検証」を求め、鑑定をした科捜研の係官の証人尋問などを求めている。当然のことだし、誤りがあったなら、「なぜか」を率直に明らかにする。当然のことである。
裁判所はそういう要求をも「裁判引き延ばし」として一蹴した。なぜ、隠すのだろう。やっぱり鑑定の過程にも具合が悪いことがあったのだろうか? 一審の弁護士も率直に発言してほしい、刑事も、検察官も、裁判官も発言してほしい。
テレビ朝日のシリーズ「科捜研の女」は、見込み捜査の誤りを見つけ、科学の目で真犯人に向かっていく。科捜研への期待を含めた、そんなイメージを傷つけないためにも、科学者は率先して、証言台に立つべきだ。
それができなかったら、警察はやっぱり、証拠を「ねつ造」しかねないし、データもどこまで信用できるか分からない、という疑惑は晴れない。
疑い深い昔の記者の勘ぐりである。
足利事件の菅家利和さんが釈放され、再審が始まろうという時期になって、どうにも不可解なのは、警察当局が問題のDNA鑑定についての科学的事実を明らかにしようとしないことだ。当時、DNA鑑定が始めて使われ、真実発見に威力を発揮する、と持ち上げたマスコミも、千人に一人ちょっとだったのが、四兆何千億人に一人の確率に高まった、といった抽象的な説明だけだ。
記者根性そのままの全くの勘ぐりだが、当時、DNA鑑定は本当に、正しく行われたのだろうか、という疑問が消えないのだがどうだろうか? まさか警察のねつ造ではない、と思いたいが、今後のDNA鑑定を考えると、菅家さんのケースは、なぜ間違ったかについて、疑いがないまでに検証され、明らかにされなければならないと思う。
つまり、@むしろ菅家さんの残したティッシュか何か知らないが、それを見つけて証拠の被害者の衣服のどこかに付け「偽造」するとか、うっかり両方の体液を混同してしまった可能性はないのか? AそもそもDNA鑑定の資料となるべき菅家さんの体液は、尾行を続けていた捜査班がティッシュを捨てるのを見て採取した、と報じられているが、正確には、いつ何を、どうやって取って、いつ鑑定したのか? これは違法な証拠収集ではなかったのか? BDNAと「自白」の関係だが、菅家さんは、事件後、一年半経って、自宅から、知り合いの結婚式の当日連行されている。このとき、DNA鑑定はどうなっていたのか。警察はこのとき逮捕状を取っていたのか、いなかったのか。DNA鑑定は、自白の前提だったのか、それとも「自白」後の裏付けだったのか?
あの事件が起きたとき、というより正確には菅家さんが逮捕されたとき、私は共同通信の整理部長だった。正確には調べないとわからないが、「初のDNA鑑定で判明」みたいな原稿があったと思う。出稿してきたのは、社会部だっただろう。「おい、本当に大丈夫なのか?」とデスクに声をかけたことを記憶している。
相手が誰だったか、内容がどうだったかの記憶はないが、もう一件、関東近県でDNA鑑定を使った事件があった気がするが、「科学捜査」ともてはやす向きもあっただけに、「あまのじゃく精神」がそう言わせた。
警察も弱かったかと思うが、メディアも「科学」には弱い。「DNAが一致してるんだってさ!」と言われると、それだけでごまかされ、その「証拠」がどうやって取られたか、といった検証は抜けがちになる。恐らく、そのときの報道を調べても、証拠の採取についての詳細は報道されてはいないのではないか。裁判でどういう立証がされたか、それは知らない。一審では弁護士までも、一旦否認に転じた菅家さんを説得して、自白を維持させ、上申書を書かせているというのだから始末に悪い。
最近になって、「わたしはたまたまその公判を傍聴していた。菅家さんは、絞り出すような声で『やってはいないんです…』と言った」という話も聞いた。報道はどうだったのだろうか? 弁護士が認めているんだから…、という安易な黙殺がなかったかどうか?
菅家さんが釈放されて、メディアの責任に気が付き、すぐそれを字にしたのは毎日新聞だった。
毎日6月11日付は「事件報道重い課題 『犯人』前提の表現も」との見出しで、「毎日新聞も『真犯人は菅家容疑者』を前提に報道を続け、疑問をはさむ記事はなかった」「県警取材に基づく記事とは別に、犯人であることを前提にしたような報道があった。逮捕を報じた12月2日朝刊の紙面で、菅家さんの以前の勤務先の幼稚園関係者の話として『事件のことが話題になっていたのに、(菅家さんは)無関心だった』との談話を載せた。また女児が通っていた保育園の話として『これで成仏できるだろう』との一文を入れた」
「(12月)29日朝刊の『取材帳から』と題したコラムでは『いたいけな幼女の命を次々に奪った疑いの菅家被告。あまりにもケロッとしているその素顔を、どう理解すればよいのか』という表現があった」などと指摘、反省している。
この記事ではDNA鑑定についても、「個人を識別する際、別人のDNA型でも一致してしまう確率は、当時、血液型と併用して『1000人に1・2人』だった。現在の『4兆7000億人に1人』と比べると相当低いが、当時は画期的とみられていた。取材班は、当時のDNA鑑定の証拠能力を過信し、容疑者特定の決め手ととらえていた。精度を巡る議論は十分ではなかった」と書く。
しかし、それなら一層、今後、こうした問題を起こさないために、証拠採取の問題は重要になってくる。「データ」は人間を誤信させる。「データが引き起こす誤り」を防ぐための手だてが求められてくるのだと思う。
そんな中で、再審開始に当たって、弁護団は「事件の検証」を求め、鑑定をした科捜研の係官の証人尋問などを求めている。当然のことだし、誤りがあったなら、「なぜか」を率直に明らかにする。当然のことである。
裁判所はそういう要求をも「裁判引き延ばし」として一蹴した。なぜ、隠すのだろう。やっぱり鑑定の過程にも具合が悪いことがあったのだろうか? 一審の弁護士も率直に発言してほしい、刑事も、検察官も、裁判官も発言してほしい。
テレビ朝日のシリーズ「科捜研の女」は、見込み捜査の誤りを見つけ、科学の目で真犯人に向かっていく。科捜研への期待を含めた、そんなイメージを傷つけないためにも、科学者は率先して、証言台に立つべきだ。
それができなかったら、警察はやっぱり、証拠を「ねつ造」しかねないし、データもどこまで信用できるか分からない、という疑惑は晴れない。
疑い深い昔の記者の勘ぐりである。
2009/6/23
『NPJ マスメディアをどう読むか』と同時掲載
書評■「裁判員制度と知る権利」梓澤和幸ほか編著
裁判員制度とは一体何か? 裁判に市民が参加するというのはどういうことか? 具体的に何がどう変わるのか?
著者らは5月21日から始まる裁判員制度について「知る権利」と「言論表現の自由」の視点から問題提起した。
著者の一人、田島泰彦上智大教授は「表現・メディア規制という広い文脈の中で考えてみる必要がある」と提起する。確かに当初案には「偏見報道」の規制があった。最高裁参事官は具体的に7項目を上げて「犯人視報道」を批判した。その圧力にメディアはそれぞれ自主ルールを決めた。
なぜ、裁判員になることを国民に強制できるのか? 「評議の秘密」は罰則で臨むべきことなのか? 公判前証拠整理とは何か? 短時日の心理で被告の人権や弁護権は大丈夫か? そんな問題は抜き。メディアも推進に走った。
最高検幹部は質問に答え、「刑事司法に社会的背景を解明する役割があるとは思わない」と答えたそうだ。それで刑事裁判の原則は守れるのか?
制度が始まれば、「精密司法」と違い、証拠は「必要」とされたものだけに「整理」され、法廷は「演出」でわかりやすくなるだろう。しかし、これが「落とし穴」だ。
裁判員制度下の裁判報道には、例えば「無罪推定の原則」とか「疑わしきは被告人の利益」といった人権感覚と、「知る権利」や「表現の自由」を常に考える憲法感覚が一層求められるはずである。冤罪を生まないために、法廷を「劇場」にしないために、報道の責任は重くなる。改めてそれを考えさせる本である。
※日本ジャーナリスト会議機関紙『ジャーナリスト』4月25日号から転載
「マネキンの右足の赤黒い切断面がディスプレーに映し出された瞬間、傍聴していた遺族の女性が悲鳴を上げて泣き出し、裁判所職員に抱きかかえられるように退廷した。検察側は、被告が描いた絵も使い、遺体を切り離していった方法や順序、感触などを約3時間半かけて被告に質問。星島被告も動揺した様子で『絶対に死刑だと思います』と突然叫ぶなど、法廷は一時、騒然となった。…」(朝日新聞1月14日付)
東京・江東区のマンションで昨年4月、当時23歳の女性会社員が、同じ階に住む34歳の男性に殺されバラバラにされて捨てられた事件の公判は、1月13日からわずか2週間の間に論告求刑まで進むという新方式の審理が行われ、星島貴徳被告に死刑の求刑が行われた。
裁判で検察側は、裁判員制度を意識して、法定内に大型モニターを設置、証拠品や犯行状況を再現した画像を映し出しながら、冒頭陳述や被告人質問を行い、バラバラにされた被害者の骨などを提示し、「被告は被害者を自らの『性奴隷』にするために襲った。自分を守るために邪魔な『物』として無惨に解体した。まさに鬼畜の所行だ」と被告の残酷さを糾弾したという。
MSN産経ニュースの「法廷ライブ」によると、弁護団は最終弁論で、「法廷では、検察官が視覚に訴える立証活動を行い、成功しているように思えるが、プロフェッショナルの裁判官が、冷静に分析し、理屈に従って判断していただきたい」と述べた。そして「今回の裁判では、反省している被告に、公開の法廷で、遺族やマスコミ、一般傍聴人の前で、すべてを再度供述させることに疑問を覚えていたが、被告はその質問すべてに答え続けた。これは反省の情を物語るものだが、その状況は遺族が求める『公開処刑』とまでは言わないまでも、『市中引き回し』に等しい扱いであったと言っても過言ではない」とも述べたという。
裁判を傍聴したのでもなければ、映像を実際に見た訳ではない私としては、その当否について判断する材料を十分持っているとは言えないが、「メディアと法」を考えてきた私としては、やはり弁護団同様、公判廷への映像の安易な導入には疑問を持たざるを得ない。
映像による説明は、文章によるよりもわかりやすく、臨場感があることは言うまでもない。このことは、映像は人の感情に訴える要素が強い、ということをも意味している。このことを抜きに、「肉片」とか「骨片」とか、「再現映像」を「証拠」として大型画面に映し出し、被告を糾弾する材料とすることが、果たして「近代的な裁判」と呼べるのだろうか、と単純に思うのだ。
▼「一般庶民感覚」と「プロフェショナル」
良く知られていることだが、新聞や放送は、死体や残虐な写真を掲載することについてはかなり慎重だ。その慎重さのために、ときには、戦争の悲惨さが隠されたり、問題の深刻さが伝わらないことが問題にされるほどだ。
もちろん、メディアはその事実を知っており、報じることができる場合も多い。しかしメディアは、それをどう扱うか、の判断に責任を持たなければならない。だから、ひとつ一つ議論をし、掲載の是非も決める。それが「情報のプロ」としての仕事だからだ。
裁判も同じだっただろうと思う。「実体的真実」の発見と、「社会的な公平性」を保ち、罪を犯した本人の情状も見詰めて量刑を決める。それが、プロの法律家の仕事であり、裁判はそのために、開廷前には起訴状を見るだけで、一切予断を持たない裁判官によって裁かれていく、というのがルールだったのだと思う。
従って、そこに「演出」が入る余地はないはずだし、常に「一般庶民感情」とは必ずしも同じではない「法律的な論理」で動いていた。「証拠」は動かないものであり、ひとつ一つ、取り上げるかどうか、その価値がどれほどのものかが検討され、裁判官が冷静に判断する。法廷で写真が撮れないなど、メディアの取材も制約を受けてきた。それは、この「冷静さ」を担保するためでもあったはずである。
しかし、「裁判員制度」が語られ、具体的に動き出してきた結果、そうした刑事裁判の原則が危うくなってきているのではないか。それを論じるのは、ここの主題ではないが、「市民参加」の名の下に、「わかりやすさ」や「早さ」が要求され、結論だけが性急に求められる。その結果が、今回の映像による裁判であり、集中審理だったとすれば、相当に問題は大きいと思われる。
しかも、その「わかりやすさ」や「早さ」を作ることができるのは検察側だけで、弁護側は対応のしようがない。例えば、被告の生い立ちや事情について、「情状の再現映像」を作ることなど、できるはずもないだろう。
この事件について、さすがに多くの新聞報道は、この方式について、疑問を提示している。ネットで「法廷ライブ」を報じた産経新聞も、紙面は「モニターなど工夫 視覚化へ課題も 目を背ける『生々しい映像』」(1月14日付)「”裁判員”意識 検察強い意志」(同27日)と、映像使用の問題点を指摘した。
私はさまざまな問題を抱える「裁判員制度」自体、まず実施を延期して検討をしたらどうか、と既に提言したが、この映像を使った立証が、公判前証拠整理で同意され、実施に移されているだろうと考えると、やはり「刑事裁判の原則」が危うくなっていると感じざるを得ないのだ。
▼大事なのは「事件そのもの」か「処刑」なのか
私たちはこれまで、刑事裁判とは、犯罪に対して「復讐」や「リンチ」しかなかった世界から、「罪を憎んで人を憎まず」とはいかないまでも、単に被害者感情で罰が加えられるようなことがないように、「罪刑法定主義」を定め、「感情」ではなく、「理性」で問題を解決しようと生まれたものだ、と教えられてきた。
刑罰をどう考えるかについては、応報刑主義も教育刑主義も、どちらにも主張がある。しかし、あくまで冷静に、証拠によって、全体的な状況を把握し、真実を発見しようという精神は失われてはいないはずだ。
英国の犯罪報道の歴史をたどった村上直之著「近代ジャーナリズムの誕生」(岩波書店、1995年)によると、英国では、古くからブロードサイド・バラッドと呼ばれる絵入りの読み物が売られていたが、その中で、最もよく読まれたのは「絞首台のバラッド」と呼ばれる犯罪事件を内容としたもので、しかも「事件そのもの」よりも「処刑」を扱ったものだった、という。同書によれば、1827年、村娘が恋人に殺された「赤い納屋の殺人」と呼ばれた事件は、犯人の告白の形で脚色され、人形芝居になったり犯人の似顔絵が売られたりしたらしい。公開処刑が行われており、彼を処刑した状況のブロードサイド・バラッドは、116万6000部を売るほどだった、という。
著者は、こうした歴史を、当時行われていた「公開処刑」による「絞首台上の改悛劇」との関わりで明らかにし、「16〜18世紀の裁判資料を見ても、事件の個別性とその原因、犯罪者の性格特性などについての記述はほとんど皆無であり、まるで関心さえ抱かれていない」「当時の人びとの関心が犯罪の発生よりは裁判に、そして裁判よりは刑の執行にあったことは、これらの事件のブロードサイドの発行部数が明瞭に語っている」などと指摘している。
著者は、これについて、いまでは「なぜそうした犯罪が起きたのか」が問題にされるようになっているとして、「まるで今日の私たちの関心の方向と逆なのである」と書いているが、いま、「劇場型犯罪」が語られ、その裁判までが、まるで劇場のように「演出」され、まさに、「判決という結論が死刑を選択するのかどうか」だけに集約されてしまうとしたら、この時代と一体どこが違うのだろうか。
今回の裁判で弁護人は、被告が子供のころ、誤って熱湯の風呂に落ち、両足にケロイドを伴うやけどを負ったことで悩み、それに気付かなかった両親とは音信を絶っていたことなどを明らかにし、「弁護人はこれまで数々の刑事事件に関与してきたが、星島貴徳被告ほど真摯に反省している犯罪者を見たことはない」と断言した、ともいう。
彼の罪が重く、被害者の悲しみが容易に癒されないことは言うまでもない。しかし、繰り返すが、「感情」で人を裁いても、病理は解決しない。
もともと、死刑については、とりあえず中止すべきだ、という国連決議さえある時代だ。たまたま、裁判員制度の「導入期」にあったから、短時間の裁判が行われ、本人が改悛の情から死刑しかない、というならそれで構わない、ということであれば、裁判は要らなくなるだろう。私が裁判員だったら、やはり死刑を選択することには反対である。
2009/1/29
政府の社会保障国民会議(座長・吉川洋東大大学院教授)は4日、保障の機能強化について最終報告を提出、その中で「安定的な財源確保の道筋」として、必要な公費負担について、わざわざ消費税率換算の数字を公表した。
「2015年度には3.3−3.35%程度、2025年には6.2%程度、基礎年金を税方式に転換すると15年度で6−11%、25年度では9−13%の引き上げが必要」との試算で、麻生首相は、「改革の工程表を」と求めたそうで、いよいよ「消費税増税キャンペーン」が始まった感じだ。
▼根拠なき「消費税」論
まず、はっきりさせておかなければならないのは、社会保障→消費税という論理が、何の疑問もなく提出され、それにメディアも世論も乗ってきてしまっていることだ。
「社会保障が大変だ。そのためには財源確保が重要だ」−そのことには誰も疑問を持たないだろう。
しかし、その財源を消費税で埋めなければならないなどという理屈はどこにもない。ただあるのは、問題が多くなる法人税や所得税に手をつけず、ほかの歳出についても手をつけないままで、あまり一般に見えないまま自動的に徴収することが可能な消費税で増税するのが、政府にとってやりやすい、という単純な理由だろう。しかも、実施のために重要なマスメディアの賛成を取り付け、「外堀」は埋めた、という認識もある。
(http://www.news-pj.net/npj/maruyama/index.html 8月28日付参照)
だが、この論理は短絡であり脆弱だ。
「社会保障の充実」を図るため、どうしたらいいかは、もっとじっくりと、論理に沿って、改めて議論されなければならない。
▼社会保障の意義と国家の目的
もともと戦後の日本は、「ゆりかごから墓場まで」の社会保障の充実を目指してスタートした。日本国憲法前文では、国際社会を「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている」と認識し、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と述べ、その具体化として25条で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と規定した。
そして、この福祉国家の建設は、軍備にカネを使わなくても済む新しい日本にとって、具体的な国家目標だったと言える。
1960年度(昭和35年度)版「厚生白書」は、次のように書いて、日本が「福祉国家建設」を掲げていたことを誇っている。
「欧米諸国は、第二次世界大戦の終了を契機として、急速に福祉国家の建設に乗りだした。わが国においても、福祉国家建設のための努力をかさね、福祉国家建設を政治の最高目標に掲げ、この基本的大方針のもとに、もろもろの施策を進めることを念願としている。いうまでもなく、福祉国家は、国民全体の一般的福祉を増進することを目標とするものであり、すでに、欧米諸国は、すべて福祉国家を樹立することを最高の使命と考え、社会経済の各分野において、いまや容易にゆるがすことのできない強固な基盤を打ち立ててきている」。
ところが、1970年代ごろからだろうか、よく知られているように、「社会福祉の充実が国民を怠惰にした」とする論調が広がり、「英国病」批判の中でサッチャー政権が登場、米国のレーガン政権とあわせ、日本には中曽根康弘政権が「小さな政府」を掲げて登場した。中曽根首相は「日本は不沈空母」などという発言で物議をかもしたが、実は防衛問題以外でも「戦後総決算」を主張し、国鉄、電電の民営化、国立病院の再編などを実施した。メディアでは、国鉄のサービスや、権利に基づく労働組合の運動が問題にされ、「受益者負担」「自己責任」といったキャッチフレーズを無批判に流された。
それから20数年、「福祉国家の破壊」と「新自由主義」の思想攻勢は一環として続き、「橋本6大改革」、「小泉構造改革」へと引き継がれ、メディアも法律家も、経済学者や税の専門家も、問題自体は指摘しても、その本質への批判は弱かった。
そんな中で、労働組合が弱体化され、労働法による規制は次々と緩和され、所得税の累進税率は平準化された。農業や漁業の保護は「行き過ぎたもの」とされ、農漁村は荒れるに任され、食料自給率は40%を割る事態になった。一方で、租税特別措置や法人税による大企業への優遇は相対的に強化され、1989年には消費税が導入され、97年にはこれが5%に強化された。
「福祉国家」による国民生活の充実を目指した「国家目標」は、いつの間にか、国際競争における「日本の国際的地位」になったりした。
▼いま、社会保障に勝る歳出とは何なのか
社会保障にカネがかかるのは当然だ。しかし、増税の前に、検討しなければならないことはいくつもあるはずである。
そして検討しなければならないのは、まず最初に、現在の政府予算の歳出が妥当かどうか、だろう。つまり、社会保障だけではなく、歳出全般について検討しなければならないのではないか、ということだ。
今年度の政府予算で見れば、83兆613億円の歳出の約26.2%を社会保障費が占め、国債費の24.3%がそれに次いでいる。
公共事業費は約8.1%、防衛費は5.8%だが、それだけではなく、全体としてこうした「歳出」の費目をどう節約していくか、を考えるなかで、社会保障費も検討すべきなのであり、いまの支出を前提としての議論は成り立たないことを考えなければならないことは確かだ。
多くを論じるつもりはない。だが、例えば防衛費は、4兆7796億円が計上されている。一度にゼロにするわけにはいかないだろうが、この中で、ミサイル防衛とか、イージス艦とか、米軍への思いやり予算、基地の移転、整備とか、それを削って社会保障に回すことは、本当にできないのか。むしろ、差し迫った危機があるわけでもないこの時代、そうした方面に金を使うのではなく、民生=社会保障に金をつぎ込むべきではないのか。
道路とダム。多くの地域で反対運動があり、要らないのではないかといわれている。それと社会保障と比較してはなぜいけないのか。その金も回して社会保障の充実に使えないのか。
あたっているのかどうかわからない。全額は無理だとしても、どこまでどう可能なのか。それは「価値観」の問題でもある。
私たちは、まず、こうした点から考えられなければならないのは確かだろう。
▼いま、税の「所得再販分機能」をどう考えるのか
もう一方で指摘しなければならないのは、歳入のあり方、つまり税制についても、きちんとした論議が必要ではないか、ということだ。
いうまでもなく、税制には「所得の再配分機能」があるとされている。専門的な論議は私の手に余るが、はっきりしていることは、消費税増税の前に検討しなければならないことはいくつもあるということだ。法人税と所得税の関係があり、さらに、それぞれについての問題があるはずだ。
いくつか既に指摘されているポイントを、内橋克人「悪夢のサイクル」(文藝春秋)から書き出してみよう。
・法人税率は1985年には43.3%だったが、いま30%で、財界はさらに引き下げを要求している。
・所得税の累進は、1974年には最高75%といわれ、19段階あったが、現在は最高37%で4段階。相続税の上限も50%に引き下げられ、富裕層の資産を守る仕組みが広がった。
・課税最低限は単身の場合、114万4000円、ですが、今度の政府税調が打ち出した配偶者・扶養・特定扶養控除すべてを廃止した場合、4人家族では325万円。これは外国と比較すると、米国は357万円、子どもが2人とも17歳未満の場合は446万円、英国は359万円、ドイツが500万円、フランスが402万円だという。しかも、基本的な生計費をどう見るか、を示す基礎控除で見れば、日本は38万円だが、ドイツは、基礎控除は103万円、英国は94万円だという。
こういう中で、「格差」が拡大し、最下層の20%と最上層の20%の所得合計額を比較した場合、1984年は13倍でしかなかったものが、2002年には168倍になったという。
つまり、社会的な格差が拡大し、税における「所得の再配分機能」が改めて考えられなければならない時代なのに、それとは逆に「逆進性」があるとされる消費税増税は本末転倒ではないのか。そうした論理を無視して、「社会保障財源=消費税」はあり得ない議論なのだ。
▼冷静な議論をこそ
私はいま、軽々に、消費税増税は絶対いけない、というつもりはない。しかし、いまの論議はあまりにも短絡的で、「消費税増税ありき」の議論に傾きすぎているように思う。
よくわからないことをいいことにして、メディアを動員して、「社会保障のためなら仕方がない」という増税ムードを演出し、世論を作る。
ここは、もっと冷静に議論を詰めていかなければならない。
2008/11/5
視聴率も高い8月31日(日)のテレビ朝日「サンデープロジェクト」は、シリーズで続けている「言論は大丈夫か」の一環として、「『一部可視化』でいいのか? ―『自白強要』と裁判員制度―」と題して、裁判員制度の問題の中で出されている警察の被疑者取り調べの一部可視化について取り上げた。これを紹介した大谷昭宏氏は「一部可視化は警察の捜査の実態を隠すことにつながり、かえって冤罪を生みかねない」と主張した。
私も全くこの見解に同感だが、同時に、「全面可視化」になったとしても、その映像の証拠能力については、やはり慎重であるべきだと思う。「全面可視化」も要するに、捜査主体がその映像を録画するのであれば、「見えないところ」で何が起きているのかは、その映像からはわからない。どうしても、それを利用しようとするなら、例えば、弁護士の立ち会いがある映像が必要なのではないかと思う。
▼危険なテープ、ビデオ
サンプロの特集では、2003年の鹿児島県で、警察が13人の市民に「踏み絵」までさせて自白を強要し、全く存在しない選挙買収事件をでっち上げた「志布志事件」を例に、事件の被害者の協力で取り調べを再現し、その一部だけがビデオで再現された場合と、全面的に再現された場合と、裁判員役の市民が自白は真実と思うかどうかの実験をした。
その結果は、一部だけの録画ビデオを見て「自白真実」と判断した人が、全部のビデオを見ると、判断が変わる状況が明らかになり、要するに「捜査に都合の良い部分だけを録画すれば非常に危険だ」ということだった、という。
番組では、このほか、かつて一部だけが録音された自白テープを証拠に死刑判決が下された松山事件や、編集された録音テープが自白の証拠とされた布川事件のケースについて、録音が再現され、「真実」を示しているとされた「録音テープ」が、実はウソを隠すために使われていた事実を暴露している。松山事件は「死刑」で、その冤罪をはらすのに、28年余の期間を必要とし、被告はその監視の恐怖に置かれ続けた。布川事件は「無期懲役」で服役後、29年間掛かって再審が決まったが、検察側が最高裁に再審決定の取り消しを求めて特別抗告中だ。
インターネットが出てくれば、インターネットに載っているものは全部正しいと信じ込む人が多いのと同様、聴かされるテープの音や、目の前で見せられた映像は、あたかもその場に自分がいたかのような錯覚を生じさせる「魔物」だ。
しかし、それは「つくられた真実」であり、「真っ赤な偽り」だったのである。
この番組では、松山事件、布川事件のテープが紹介されている。しかし、今後「証拠の目的外使用」が問題にされるようになってくれば、確定前の事件について、冤罪主張のための証拠の報道が難しくなりかねないことも、改めて指摘しておきたい。
▼取り調べ段階からの弁護士の関与を
新聞記事でも同じだが、テレビの映像もラジオの音声も、数限りなくある問題や、ある人の行動の一部を一定の見方、考え方で拾い上げた「断片」に過ぎない。カメラを何台置いたにしても、その「死角」で何が行われているのかはわからないし、「今日の調べは終わりました」と言われた後で、何があるのかは、少なくともビデオではわからない。
警察官が供述証書を読み上げ、「間違いありません」と被疑者が頷いて署名するシーンが映されるとすれば、それはどうみても、検察の主張を補強することにしかならないだろう。「一部可視化」はまさに、有罪のためのものでしかない。
新たに開発されたメディアには、常に落とし穴があり、「真実に近いもの」を伝えることも「真実に見えること」「真実と思われること」も伝えることはできるが、「伝えているのは真実そのものではないこと」を確認しなければならないのであり、「慎重な扱い」が必要なことは、いくら強調されてもされ過ぎることはない。つまり、この番組の場合は録音テープやビデオテープだったが、その意味では、街に氾濫する「防犯カメラ」の映像も、「携帯電話」のいろんな技術も、常に「真実を映し出している」とは限らない。
こうした問題に本気で取り組み、捜査段階での自白の誘導を含めた人権侵害を解消していくために必要なのは、捜査段階からの弁護士の立ち会いだと思う。その立ち会いがない限り、証拠として採用できないようにしていくくらいの運動を弁護士が中心になって進めることが必要なのではないかと思う。弁護士会の「全面可視化」の主張は、「一部可視化」への反対という意味はある。しかし、全面可視化の要求の背景には、当番弁護士制度を含めた「取り調べ段階での立ち会い」が基礎的な要求としてあるからだ、という論理に立つべきではないかと思う。弁護士の数だって、そのためには十分ではないのかもしれない。
「裁判員制度」の中で、「わかりやすい裁判」「迅速な裁判」が求められ、刑事裁判の最も重要な要素である「真実の発見」がなおざりにされてしまわないか?
「裁判員制度」は、これだけ問題が出てきている制度だ。政府も、裁判所も、日弁連も、一度中止して検討し直す余裕がなぜないのか? 不思議でならない。
「法の変質」をどうすべきか
東京ビッグサイトの鉄道模型展の主催者に「職員皆殺しにする」とメールを送った男は「脅迫」(8月8日「読売」)、「コミックマーケット74」に「手榴弾を投げ込む」とインターネット掲示板に書き込んだ男は、「手荷物検査を強化させるなど業務を妨害した疑い」で「威力業務妨害」…。男は「注目されたかった」と供述しているという。
交通事故死した子どもの写真などを自分のホームページに掲載して著作権法違反で有罪になりクビになった元教師が、別の小学校の運動会の子どもの写真を撮ろうと、小学校の敷地に入ったら「建造物侵入」で起訴された。(8月14日「毎日」夕刊)別におかしな角度で写真を撮ったして「軽犯罪法」や「迷惑防止条例違反」に問われた、という報道はない。
もう一つ付け加えておこう。「痴漢逮捕」の事件だ。「それでもボクはやってない」のケースで知られるようになったが、あの手の「被害者」は、報道されただけでも少なくない。混んだ電車の中で「ちょっと来てください」と、女性に言われ、「何ですか」と駅員のところに行った途端、「この人痴漢です」と言われて、何の言い分も聞いてもらえなかった、という話はよく聞かれる。
「強制わいせつ」でなくても「迷惑防止条例」で、「即逮捕」。認めれば、一晩で返すが、そうでなければ拘留だ、といわれ、不本意ながら認めるケースも跡を絶たない。これももともと「ぐれん隊防止条例」が、「痴漢対策」に変質した。
メールによる書き込みなど、決して擁護するつもりはないが、もっとお互いに読んだり書いたりしている仲間の中で、どうにかならないのか? 「威力業務妨害」というのは、もっとおどろおどろしい犯罪で、確かもともと暴力団取り締まりの法律で、それが学生のゲバ闘争に取り締まりに拡大され、とうとうこれが、当たり前の摘発例になってきた。確か、小学生の女の子にも、この「容疑」が書かれていた。
もう一方の建造物侵入もそうだ。彼の場合、「近所」だったかどうかは知らないが、近所の小学校の運動会をカメラをぶら下げて行っただけで「建造物侵入」というのだったら、どう考えてもやりすぎではないか。
自衛隊官舎、といってもただの団地のドアの郵便受けにビラを入れたら、最高裁で有罪になったし、マンションの中だとビラまきはやられる危険がある。何と国立のマンションでは、敷地内ではあっても玄関の外にあるメールボックスに、市会議員が議会報告のビラを入れて「建造物侵入」というのもあった。
確かこれで思い出すのは、オウム事件の摘発のとき、トラックで荷物を運び込んで、それを建造物侵入で摘発し幹部を捕らえたことがあった。そのときも「罪刑法定主義の拡大」ではないか、という議論があったが、こうなってくると、マンションの住人には一切外部から接触できないことになりかねない。
「痴漢逮捕」も同じこと。女性と目撃者役が組んで、示談に持ち込みカネを取ろうとした事件があったそうだが、そんな輩をはびこらせるのも、初動でもっぱら「被害者」の言い分だけを聞き、「容疑者」とされた人の話をきちんと聞かず、ただの「トラブル」に、警察が一方的介入をする結果である。
そこで記者。警察担当=「サツ周り」の記者は、こうした事件を、警察の後方から知らされ、「またそんなことが起きたのか」「警察も細かいことをするなあ」などという感想を持ちながら、短い記事にする。「それで、彼はどう言ってるの?」と聞くのは忘れないが、その「感想」で、記事にするかしないかの判断をすることは差し控える。それはデスクの判断だろうし、「微罪だから書かない」と言うことになれば、警察の権力行使をヤミに葬ってしまう可能性があるからだ。
戦前、会う約束をしていた友人が待ち合わせの場に来ない。「おかしいぞ」といっていたら、一斉検挙だった、という話と同じ時代にしないためには、「サツ周り」は、権力が何をしているかをできるだけきちんと知って知らせる責任を持つ。
第一、いまだって、いきなり警察に逮捕された場合、警察が親族よか友人とかに連絡をするとか、彼自身に連絡させてくれる保障はない。「弁護士を呼んでくれ」ということを自分でいえればいいのだが、「当番弁護士制度」が普及しつつあるいまでも、気が動転した彼または彼女が、冷静に自分の権利を主張する保障はない。
警察取材の実態は、昔に比べて「カベ」が厚くなった、という。昔は、刑事部屋に自由に出入りして「何かあった?」と話が聞けたし、中にはそばで事情を聞かれている「容疑者」らしい人がいて、目配せしながら隣の刑事に「あれ、なあに?」とも聞けた。だが、「広報担当」がはっきりしたり、建物が大きくなったりした結果、現場の記者は「いま、そんなことは、できないよ」という。
記者が知らないところで、どれだけの「権力行使」=逮捕事件が起きているのかの保障はない。しかも、記者が知るところになり、「掲示板への書き込みで逮捕」とか「痴漢で商社課長逮捕」などと書いたとして、「やっぱり変な人だったのね。クビは仕方がないね。嫌だねえ…」と言うことになるのか、「何か引っかけられたな。あいつはそんなことをする奴じゃない。とにかく弁護士さんに聞いてもらおう」となるかは、その「周辺の人たち」の問題になってくる。
「市民的自由」というと話が大きくなるが、そう言わなくても、「刑法の世界」はこれでいいのだろうか?
サイトに妙な書き込みあったら「やめろ」と書けばいいし、おかしなアングルで写真を撮ろうとしていたら「やめろ」と言えばいい。「痴漢です」と電車の中で告発する女性がいたら、「おい止めろ」ということから始まる。「ボクじゃないですよ」か、「あ、当たっちゃった、ごめんね」かは、そのときの状況による。
何でも警察を呼んできて「おい、こら」を求めるばかりが能ではあるまい。ここらで、健康な社会を取り戻す工夫をしないと、また「ものがいえない社会」が広がるのではないか、と気になって仕方がない。
「世論」作りの動きをどう考えるか
鳩山邦夫法務大臣が、連続幼児殺害事件の宮崎勤死刑囚ら3人の死刑を執行し、昨年8月、安倍改造内閣で就任、同9月の福田内閣発足で再任されて以来、13人の死刑を執行したことになった。これに対し、各方面から批判があったが、朝日の夕刊コラム「素粒子」もその中の一つだった。ところが、これに対して法相がかみつき、それに呼応するかのように、1000通以上の批判が朝日に殺到したという。一体これをどう考えるのか?
端的に言って、私はこの問題、死刑制度についてのまともな議論を逸らすための問題のすり替えと、これを利用して司法を厳罰主義的世論を大きくしようとする政治的な動き以外の何物でもないのではないか、と思う。
法相は7月25日の記者会見では、「『死に神』は辞任しますから―」と述べ、福田首相が内閣改造を検討していることに関連し、自身の留任はないとの見通しを示した、という。自らもそう呼ぶのなら、何をかいわんや、だ。
メディアの権力批判、それに怒ってみせる政治家、そこに呼応する民間の動き…。
問題は、書かれたコラムの内容の是非だけではなくなってしまう。
私は、このコラムの表現を「うまい表現だ」という気はない。しかし、本来なら、せいぜい「ちょっとひどいんじゃないか」と言って終わりになる程度の話に、マイクが置かれた台をたたいて声を荒らげるパフォーマンスを見せた法相、これに乗って朝日に抗議した「犯罪被害者の会」の動きには、やっぱり同意できない。問題を整理してみよう。
▼クレームを付けられた夕刊コラム
問題のコラムは、朝日の6月18日付夕刊「素粒子」。次のように書かれていた。
なお、この話、原稿自体が問題になっているものなので、そのまま全文を引用する。
永世名人 羽生新名人。勝利目前、極限までの緊張と集中力からか、駒を持つ手が震え出す凄み。またの名、将棋の神様。
× ×
永世死刑執行人 鳩山法相。「自信と責任」に胸を張り、2カ月間隔でゴーサイン出して新記録達成。またの名、死に神。
× ×
永世官製談合人 品川局長。官僚の、税金による、天下りのためのを繰り返して出世栄達。またの名、国民軽蔑の疫病神。
これで全文。
鳩山法相は、この「死に神」に食いついた。20日の閣議後の記者会見で、怒りをあらわにして抗議した。報道を総合すると、「苦しんだ揚げ句に死刑を執行した。彼らは『死に神』に連れて行かれたのか」「極刑を実施するんだから、心境は穏やかでないが、どんなにつらくても社会正義のためにやむを得ないと思ってきた」「軽率な文章には心から抗議したい」といったものだったらしい。
これについて朝日は、21日付朝刊で「法相、『素粒子』を批判」と短く報じた。そこでは、「20日、電話やメールなどで約1130件の抗議が寄せられた」と報じ、「『素粒子』は世の中の様々な出来事を題材に、短い文章で辛口の批評をするコラムです。鳩山氏や関係者を中傷する意図は全くありません」という「朝日新聞社広報部の話」を付け説明した。
この「抗議」があったからだろう。21日付の「素粒子」は、次のように「弁明」した。
鳩山法相の件で千件超の抗議をいただく。「法相は職務を全うしているだけ」「死に神とはふざけすぎ」との内容でした。
× ×
法相のご苦労や、被害者遺族の思いは十分認識しています。それでも、死刑執行の数の多さをチクリと刺したつもりです。
× ×
風刺コラムはつくづく難しいと思う、法相らを中傷する意図はまったくありません。表現の方法や技量をもっと磨かねば。
これで本来、問題は終わりである。
法相の「怒り」も、毎日7月4日付夕刊によれば、「『批判、中傷は慣れとる』。だから『死に神』と書かれたときの最初の反応は『ふーん、よく言うわ』だった。だが『待てよ、これはいかんわ、絶対いかん』と思い直した」というのだ。
まさに「語るに落つ」の「怒り」だった。
▼「被害者の会」の主張をどうみるか
しかし問題は、25日、「全国犯罪被害者の会」(あすの会)が記者会見し、「犯罪被害者は、死刑囚の死刑執行の一日も早いことを願っている。被害者遺族も『死に神』ということになり、我々に対する侮辱でもある」と抗議したことで、新たな段階を迎えた。朝日の「権力批判」が、「被害者への侮辱」といわれたのだ。
率直に言って、私はこの抗議で、犯罪被害者たちが「犯罪被害者は、死刑囚の死刑執行の一日も早いことを願っている」と公言していることに、いささか衝撃を感ずるのだが、これに対して朝日は、「犯罪被害者の『お気持ちに思いが至らなかった』とし、『ご批判を厳粛に受け止め、教訓として今後の報道に生かしていきます』と答えた」という。(7月2日付)
そして併せて、回答では「朝日新聞は死刑廃止の立場をとっていない」ともした、と述べている。
私も犯罪被害者の人たちが、犯罪者を許せない、と考える気持ちは当然だと思う。しかし、人間社会、そうした感情を、さまざまな葛藤の末に乗り越え、「再び同じような犯罪を犯す人が出ないように」と考え活動している人たちもいるだろう。「被害者の会」はこの回答で満足せず、再質問を出したと言うから、話は終わっていないらしい。
しかし、ここでやっぱり考えてみなければならないのは、「死刑制度」そのものではないだろうか。「素粒子」の「死に神」の表現が適切だったか、そうではないかを議論する前に、いまある日本の死刑制度が、国際的には大きな論議になっている問題であることを改めて考えなければならないし、それをメディアがどの程度正確に伝えているか、が検討されなければならないのではないだろうか。
▼死刑停止は世界の流れ
既に国際的には、1989年に死刑廃止条約が成立、発効しており、アムネスティ・インタナショナルの調べでは、死刑廃止国は137カ国にのぼり、存置国は60カ国に過ぎない、という。死刑の場合、あとで冤罪だったことが明らかになっても、執行されてしまえば取り返しがつかない。さまざまな廃止論はあるが、この意味は他の刑罰と違って、非常に大きいだろう。 (http://homepage2.nifty.com/shihai/)
さらに昨年12月には国連で、死刑の全面停止を求める決議案が、賛成104、反対54、棄権29で採択された。これを記念して、イタリアでは、かつてキリスト教徒数千人が処刑されたローマのコロッセオをライトアップし、決議の成立を祝った、と共同電が伝えている。
ただ、この話、日本ではほとんど問題になれていない。つまり、「死刑問題」については、超党派の議員連盟が活動していることはよく知られているが、国際的視野に立った上で、これをどう考えていけばいいのかについては、伝えられておらず、その中で日本の「世論」が歪んでいるのではないかと思う。
鳩山法相は、そんな世界情勢を知ってか知らずか、昨年9月25日の記者会見で「判決確定から半年以内に執行するという法の規定が事実上、守られていない。法相が絡まなくても、半年以内に執行することが自動的、客観的に進む方法はないだろうか。…(確定の)順番通りにするか、乱数表なのか分からないが、自動的に進んでいけば『次は誰』という話にならない」「『この大臣はバンバン執行した。この大臣はしないタイプ』などに分かれるのはおかしい。できるだけ、粛々と行われる方法はないか考えている」(『毎日新聞』9月25日付夕刊など)と話して問題になっている。「順番通りに」云々の前に、「ベルトコンベアと言ってはいけないが…」という一言が入っていたという。
つまり、「死刑制度」は、いま大きく揺らいでいるのだ。そうしたとき、メディアが法相の姿勢を批判するのは当然だし、あっさり「朝日新聞は死刑廃止の立場をとっていない」と言い切ってしまっていいのだろうか。私はやっぱり疑問を持たざるを得ない。
いま、メディアの批判に、政治家は敏感だ。当然だし、問題だと思ったら発言したらいい。しかし、その「反論」に、メディアが萎縮してしまうのでは、元も子もない。
朝日は、NHKの慰安婦問題を取り上げた番組に、自民党幹部らが「圧力」をかけた問題で、「取材不足」を認める形で、担当した記者を転属させ、政治家との関係を修復した。 今回の「素粒子」の筆者は、ベテランの論説委員だ。「週刊文春」はこの記者の「前歴」を問題にしたが、私はこの筆者を攻撃し、結局は鳩山法相を免罪することに繋がるこの文春の記事についても疑問を持つ。
政治家にも言論人にも、発言にはそれなりの責任がある。しかし、政治家が「国民のために」活動するなら、言論による批判は、甘んじて受ける覚悟が求められる。もともと、ピリッと痛いところを突いて問題を考えさせる「山椒の実」の味が、この欄の表現だ。この程度の発言が出来なくなったら、言論は死滅する。
「権力にはうっかりものが言えない社会」にしてはならない。
× ×
なお、この問題について、朝日と「犯罪被害者の会」は話し合いを続け、朝日は6月30日と7月14日、「鳩山法相を中傷する意図はなかった」などと回答したが、再々質問を受けて、とうとう8月1日、「適切さを欠いたと言わざるを得ない」と回答、これが受け入れられ、話し合いは「決着」した。(8月2日付参照)
しかし私は、犯罪被害者との話し合いの中で、「朝日新聞は死刑廃止の立場をとっていない」と回答した、と述べていることについて、違和感を持つ。
法律に「死刑」があるのだから、現状では「廃止論ではない」と言いたいのかもしれない。しかし、本当にそれでいいのだろうか? いま述べたように、世界が「死刑停止」に向けて動いている中で、いつ、どんな論議の中で、そんな「立場」を決めたのか? 読者に対する説明責任はあるように思うのだがどうだろうか?
「犯罪被害者の会」HPは、http://www.navs.jp/2008_8_4.html
【7月28日に掲載したものを一部加筆修正しました。/8月18日丸山重威】
─「いのち」とメディアと法律家の責任
光市の母子殺人事件の差し戻し審判決は、弁護側の主張を一切切り捨てたまま、2008年4月22日、結論に関しては、いわば「予想通り」の死刑判決だった。「厳罰化の風潮」とか、「永山基準の変更」とか、「弁護団の作戦の失敗」とかいろいろ言われている。しかし、「もしも…」は通用しないことはわかっているのだが、仮に同じ事件であっても、事件の発生が1999年4月より数年前に起きていたなら、このような経過をたどることはなかっただろうと考えると、やっぱり被告の元少年には不運だった、と思えてならない。
彼の生い立ちにしても、一審段階からの裁判の推移にしても、報道でしか知りようがない私たちだが、この結果はどう考えても、いわゆる「犯罪被害者の感情」に傾斜しすぎた法務・司法の動きと、それを助長したメディアが導き出した結果だったように思うからだ。本当に、彼を死刑にすべきなのか? 「更正の余地はない」と決めつけ、死刑にしてしまって、本当にいいのだろうか?
「新聞の報道が容疑者を極悪人だと決めつけて、警察が主張するままに犯人に仕立て上げているのではないか」という疑問が様々な形で出されてきたのは、死刑判決を受けた冤罪事件が次々と明らかになる中で、「ふてぶてしい様子で、朝食をぺろりと平らげ、取り調べに及んだ…」風の記事への反省が迫られてきた結果だった。三浦和義氏に向けられた「週刊文春」の「疑惑の銃弾」の連載は1984年1月、一方、浅野健一氏の「犯罪報道の犯罪」の出版は同年9月。新聞各紙がそれまで呼び捨てだった逮捕者に「容疑者」の呼称を付けるようになったのは、1989年12月だったが、その後も、日弁連が92年から当番弁護士制度を発足させると、同年暮れ、西日本新聞社が「容疑者の言い分報道―福岡の実験」を展開して話題になった。容疑者を犯人と決めつける一方的な報道には、もっと慎重であるべきだ、という流れは、メディアの一種の「合意」だった。
しかし一方で、1995年3月、地下鉄サリン事件を契機に、オウム真理教が摘発され、松本サリン事件(1994年6月)や、坂本堤弁護士一家殺害事件(1989年11月)も、同教団幹部の犯行だったことが明らかになると、事件報道はまた新しい様相を見せることになった。
そこで注目されてきたのが、犯罪被害者だったように思えてならない。日本には犯罪被害者へのケアが全くと言っていいほど出来ていないことが問題になり、99年版の「犯罪白書」は「犯罪被害者と刑事司法」を特集し、「効果的な犯罪被害者施策を講ずる上で役に立つ資料を提供しようと」(法務省の解説)し、1999年秋には、仕事で逆恨みした男に2年前、夫人を殺害された岡村勲弁護士などによる「犯罪被害者の会」が生まれ、河原理子記者による「犯罪被害者−いま人権を考える」が出版された。ここでは「加害者の権利に敏感な割に、被害者は見捨てられていないか」と問題にされた。
「犯罪被害者へのケア。そこにもっと目を注がなければ、被害者は浮かばれない」−それは、メディアにとっても「陥し穴」だったのではなかったか。事件報道への「反省」が、「被害者感情重視」の方向に拍車をかけたといえそうである。
光市の事件はまさにそのさなかに起きている。
この事件に関して、私などがどうしても違和感を持ってしまったのは、妻と娘を殺された被害者の家族が、事件の推移の中で何度もメディアに登場し、「極刑」を訴え続けたことだった。妻を失った岡村弁護士にしても、サリン事件で夫を失った高橋シズエさんにしても、妻と娘を同時に失った本村洋さんにしても、全く同情に余りある。私だって、家族がそんな目に遭うことを想像したら、何も言うすべを持たない。
しかし、一方で私が学んできた知識は、近代の裁判制度は「復讐」ではなく、犯罪を抑止し、社会的ルールを創るなかで生まれてきたものであり、罪と罰はあくまで実体的真実を追求する中で判断されるべきで、感情に揺り動かされる中での誤りがあってはならないことを教えてくれている。だれも人生は一回だけしかないのだし、いったん死刑にしてしまえば取り返しがつかないことに、人々はもっと思いを致すべきではないか、とも考えさせてしまう。
テレビも新聞も、毎回毎回、本村さんが登場し、無念さを語り、「極刑を」と訴えるのをそのまま報道し続け、元少年の犯行がなぜ起きたのか、について、ほとんど何も紹介しなかったことは、明らかにバランスを欠いていたことだと思う。
さらに、事件とは全く関係ないらしいタレント弁護士が、テレビの番組で、被告を弁護する同業の弁護士についての懲戒請求を大衆に向かって呼び掛け、それに影響されたかされないか、7500件もの請求が殺到するなどという事態は、どう見ても「異常」である。
さすがに、「放送倫理・番組向上機構(BPO)」の「放送倫理検証委員会」は、8放送局の20番組、33本、7時間半におよぶ放送を視聴し、ことし4月15日、「光市母子殺害事件の差戻控訴審に関する放送についての意見」を公表、「ほぼすべての番組が、『被告・弁護団』対『被害者遺族』という対立構図を描き、前者の荒唐無稽と異様さに反発し、後者に共感する内容だった」「番組の多くがきわめて『感情的』に制作されていた、という印象をぬぐえない」と指摘した。
この意見書では、調査した番組が「『第1、2審で争わなかった事実問題を、差戻控訴審になって持ち出すのはおかしい』『被害者遺族の無念の思いを踏みにじっている』『弁護団は死刑制度反対のために、この裁判を利用している』等々の反発・批判をさかんに浴びせた」「裏返しとして、ほとんどの番組は、裁判所がどのような訴訟指揮を行い、検察官が法廷で何を主張・立証したか、第1、2審の判決にもかかわらず死刑という量刑を追い求めた理由は何なのかについて、まったくといってよいほど伝えていない。その分、被告・弁護団が荒唐無稽、奇異なことを言い、次々に鑑定人などの証人尋問を行って、あたかも法廷を勝手に動かしているかのようなイメージが極度に強調された」「そのなかにひとつとして、被告人の心理や内面の分析・解明を試みた番組はなかった。このこと自体が異様なことである」などと具体的に問題点をあげ、刑事裁判についての「前提的知識の不足」があったのではないか、などとも言っている。
(http://www.bpo.gr.jp/kensyo/kettei/k004.pdf#search='BPO 光市母子殺害')
もともと、第1審段階で、元少年の異常な精神状態もふくめ、どのような弁護活動と裁判がされていたのか、の問題があることは指摘されてきたことだが、もしも彼の精神状態が責任を問えるような状態でなかったとしたら、この社会の異様な雰囲気の中で、差し戻し審を招き、死刑宣告を受けることになった少年の命をどう考えたらいいのだろうか。
毎日新聞は4月29日付の「記者の目」で、広島支局の大沢瑞季(みずき)記者の「心読めず『明快論理』出せず−死刑判決後、続く自問」という記事を掲載した。
差し戻し控訴審を07年5月の初公判から12回すべて傍聴し、広島拘置所で元少年に面会もしたという大沢記者は、「この間、『自分が裁判員だったらどんな判決を出すだろう』という思いが頭を離れなかった」と書き、接見すると「事件に向き合い始めている」と感じる被告が、精神鑑定人には、死刑になった時は「(死後の世界で)先に(被害者の)弥生さんに会えば夫になる可能性がある」と言っていることなどをあげ、「理解しきれない面も多かった」と率直だ。
そして、2審では被告が精神薬を投与されて、たどたどしくしか答えられなかったが、差し戻し審ではよどみなく話せたことなども指摘、「確かに、(差し戻し審の)新供述は合理的でない部分が多かったように思う。だが、私は判決のようにすべてを『虚偽の弁解』と言い切る自信はない。元少年の本当の姿が見えないため、その言葉にもいくらかの真実があるように思えてしかたないからだ」と書いている。
本当にそうなのだろう。父を失い、母も自殺してどこか精神的におかしくなった少年が、夢うつつのような状態で「どらえもん」に指示され、犯行に及び、拘置されて家族も面会に来なくなり、精神薬を投与されて、接見で舌が回らないことがあったり、裁判でたどたどしくしか答えられなかった少年が、事件のことを今になって思い出すと、こんな状況だった、と話す。そんなこともあり得ることではないのか。
何の罪もなく殺された被害者は本当に気の毒だと思う。しかしやっぱり、犯罪が「社会が生んだもの」だったら、「元少年を死刑にしてそれで済むのか」を改めて問わないことには、報道の責任も法律家の責任も果たせたことにはならないのではないかと思うのだが、どうだろうか?