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2004年10月01日(金)
「秋風のこころよさに」  

時の移ろいは何ともはやい。もう10月である。季節にふさわしい風が吹いている。
啄木の歌集「一握の砂」の一章は「秋風のこころよさに」と標題されている。その冒頭の一首。
 ふるさとの空遠みかも
 高き屋にひとりのぼりて
 愁ひてくだる

また一首。
 愁いつつ
 丘にのぼれば
 名も知らぬ鳥啄めり赤き茨の実

さらに一首。
 秋立つは水にかも似る
 洗はれて
 思ひことごと新らしくなる

青春の歌である。秋になることに焦りはなく、季節から清新な感覚を酌んでいる。今年は清新な、こころよい秋となるだろうか。

今年の秋深きころ、アメリカの大統領戦が行われる。ブッシュが勝てば、世界はますます混迷の度を深めることになろう。が、現状ではブッシュ優勢とか。その情勢下で、両候補によるテレビ放映のディベイトが行われた。

ケリーは、アメリカのイラクへの攻撃について、「大統領は途方もない判断ミスを犯した」と厳しく批判した。その上で、「今の大統領はテロとの戦いに勝てない。離れてしまった同盟国を呼び戻す信頼性のある大統領が必要だ」として、政権交代の必要性を強調した。

この際、どうしてもケリーに勝ってもらわねばならない。「討論ではケリー優勢」という報道を歓迎したい。部分的に録画を見た限りだが、ブッシュには他人の書いた原稿を暗記する以上の能力があるとは思えない。明らかに劣勢だった。予めの準備は、十二分にしたであろうに、能力欠如を露呈した印象。この秋、アメリカは変わりそうな予感。

イギリスの方も変わりそう。労働党支持率は低下傾向にあり、ブレア首相への信頼は大きく落ち込んでいる、という。代わって、イラク戦争に一貫して反対してきた野党第2党の自由民主党が25%と支持を拡大しているそうだ。

知らない新聞だが、インディペンデント・オン・サンデー紙の調査では、英軍のイラク駐留については、来年1月予定のイラク総選挙の後に「撤退すべきだ」が52%と半数を超え、「イラク政府が撤退を望むまで」の43%を上回ったと報じられている。

この秋、世界はイラクを中心に回っている。岩手山が全山紅葉し、さらに冠雪をみるころ、世界は狂気に対するいささかの反省を形にしているに違いない。


2004年10月02日(土)
いま時代はどこに位置しているのか  

日本民主主義文学会という団体が、「民主文学」という雑誌を発行している。
今日は、その雑誌に掲載する座談会企画に出席。テーマは、都立校における「日の丸・君が代」強制問題。牛久保建男さんの司会で、私と、宗教学者の日隈威徳さん、それに作家で都立校教諭の能島龍三さんの対談。能島さんは、戦争体験の継承にこだわった作品を書き続けている方だという。

いま東京都の教育に何が起こっているのか、その時代背景はなにか。「日の丸・君が代」をどう認識すべきか、戦争への国民動員にどう使われたか、そしてどう向き合うべきか。と、話は進んだ。

以下は私の見解。国の施策よりも東京都が突出している。石原の公教育私物化の実態がある。「日の丸・君が代」は権力への服従の姿勢についての踏絵だ。権力が求めているのは物言わぬ従順な教師。そして、それを通じての物言わぬ従順な国民つくりなのだ。

日隈さんは、「石原個人の資質よりは時代状況の反映と見るべき」とし、能島さんは「都の管理教育の推進は石原前から始まっている。「日の丸・君が代」もその一環と見るべき」との見解。

能島さんから現場での苦悩が語られた。現場では、まことしやかに「不起立1回で戒告、2回で減給、そして3回で分限免職」とささやかれているそうだ。その中で、氏の周囲では不起立とは違う闘いの方法が模索されているという。

ここで、転向の話題が出された。一度屈服すると、転向の証しを求められる。どこまでも際限のない服従を強いられる、という問題。しかし、このテーマへの深入りは避けられた。果たして国歌斉唱時の起立を「転向」のアナロジーで語ってよいのか、大いに躊躇せざるをえない。しかし、起立者多数となれば、それだけ不起立者を際だたせることになる。その効果は、小さくない。圧倒的に多数の不起立者が出れば状況は変わる。処分も困難となるに違いない。

起立者は、内心で抵抗するだけではなく、不起立以外の方法で「日の丸・君が代」強制にたたかう姿勢を示さなければならないと思う。その方法として、予防訴訟の提起が発案されたのだ。

能島さんは、「日の丸・君が代」強制の問題が起きて以来、現場では組合加入者がが増えている、組合の会合出席者も増えている、と報告された。この点に期待したい。

日隈さんが、珍しいものを披露された。1944年当時の鹿児島の小学校の作文集。きれいなガリ版印刷で、31名の小学2年生が「自分の将来」について書いたもの。日隈さん自身が「戦車隊で敵をやっつけて、中尉になって先生に報告する」と書いている。日隈さんだけでなく、クラスの全員がみな戦争で活躍することを自分の将来像としているという。実に生々しい。

ウーン、新たな戦前が始まっているのだろうか。あるいは、既に戦中、なのだろうか。抵抗なくして人間らしくは生きられない時代を感じざるをえない。


2004年10月03日(日)
地動説はほんとうに正しいか  

 青空澄んだ真昼どき
 牧場の柵に腰掛けて
 ブドウを食べ食べ考える
 地球が丸いことなどを
 宇宙の果てのことなどを

小学生のころ、子ども雑誌の片隅に載っていた詩(のようなもの)。正確さに保証はない。どこの誰の作かも知らない。読者の投稿詩だったかも知れない。不思議とよく覚えているのは、私も「地球が丸いこと」「宇宙の果てのこと」などを考える少年だったから。

小学校の高学年生を対象とした調査で、「太陽が地球の周りを回っている」とする回答が42%あったことが話題となっている。科学教育の遅れを象徴するできごととして。それはそのとおりであろう。

さはさりながら、私は天動説の肩を持つ者である。少なくも、地動説を覚え込むよりも、自らの体験から天動説を受容することの方がずっと科学的である。まず、我々が住む世界が球体であるという説を軽々に信用してはならない。「地球が丸いこと」を、小学生に納得できるように説明することは、困難な作業である。が、ここまではまだよい。太陽の周りを我が地球が回っているなど、小学生への説明はおよそ不可能に近い。

科学は権威の学説を批判して進歩してきた。「教科書に、そう書いてあるから」「エライ誰かが、こう言っているから」として教え込むことこそ反科学の態度である。「学習指導要領にそう書いてあるから」と言うがごとし。権威に拠らず、自分の体験を積み上げて自然を認識する態度こそが科学である。生活感覚に合致している点では、天動説が正しい。地動説は、驚天動地の妄説ではないか。

精緻極まるプトレマイオスの天動説を批判するには、膨大な天体観測結果の集積が必要であった。この天動説の矛盾を証明する知的作業を抜きにして、小学生に結論だけ教えこんでも、科学する態度を涵養することにはならない。

天動説と地動説、天地創造説と進化論は真理性の検証可能な論争である。真理への接近方法とともに、真理を教えなくてはならない。問題は、愛国心、皇室尊崇、「日の丸・君が代」への敬意、国家への奉仕など、真理性の検証と無縁の事柄についての価値観の刷り込みである。

地動説・進化論ですら、教え込むのでなく納得させなくてはならない。「日の丸・君が代」論争に教育的価値はあろうが、価値判断自体は本来教育の場に持ち込んではならないのだ。

ブドウを食べ食べ考えよう。
 どうして国ができたのか
 国の正体なんなのか
 お国が何をしてきたか
 民主主義とは何なのか
 子どもの未来のことなどを


2004年10月04日(月)
アメリカと組むことが安全か  

小泉首相の私的諮問機関「安全保障と防衛力に関する懇談会」(座長・荒木浩東京電力顧問)が、今後の日本の安全保障政策に関する報告書を首相に提出した。都合のよい政策提言をさせるための「私的諮問機関」である。茶番ではあるが、到底看過できない。

「国際的安全保障環境の改善」が目玉だそうだ。その中身は、テロなどの脅威が日本に及ばないようにするため、日米同盟を再定義しさらに緊密化せよという。日米間で役割分担などを見直す戦略協議の実施を求め、その結果を新たな「日米安保共同宣言」に反映するよう提言している。また、財界の要望をあけすけに、武器輸出3原則を見直し少なくとも米国に対しては規制を緩和せよと言う。恒常的な自衛隊派遣法制定の提言もある。 

政府はこれを受け、11月末か12月初めまでに新たな「防衛計画の大綱」(防衛大綱)を策定。年内に中期防衛力整備計画も決め防衛力を整備する、と報じられている。

テロの脅威からの防衛のために、アメリカとの関係を緊密化しようという発想が理解できない。最大の広域暴力団山口組と組めば安全だろうか。とんでもない、暴力団抗争に巻き込まれる危険が大きくなるだけではないか。アメリカは山口組よりずっと危険だ。アメリカと親密化すればするほど、「テロ」の脅威は増すことになる。

今日、あのポーランドが来年中にはイラクから完全撤退すると表明した。最近の世論調査ではポーランド国民の73%が派兵に反対しているという。アメリカに「新しいヨーロッパ」とおだてられ、義理立てしてのイラク派兵だった。アメリカと親密化したことを後悔しているのだ。スペインしかり。イタリアしかり。

危険なアメリカとは一線を画すべし。それが、ごく自然な安全保障観であろう。


2004年10月05日(火)
議案書のさわり  

毎年日民協総会前に、議案書を起案する。
それなりに、意気込んで時間も使って書くのだが、今年はどうも別の仕事に追われているウチに、起案の締め切りが来てしまった。

通常、情勢認識から説き起こす。時代は、世界は、いまどうなっているのか。その中で、日本を取りまく国際関係は。さらに、国内の基本情勢。経済状況、政治状況、そして民主的な運動、法律家運動はどうなっているか…。今年はそのスタイルから脱皮したい。

やはり、日民協の基本理念から出発しよう。ここから、者を見る発想にしてみよう。憲法・平和・人権・民主主義そして、独立である。

独立は、米国の支配からの独立のこと。憲法体系と安保体制が矛盾するものとの大前提の下に、安保体制を批判して憲法・平和・人権を擁護しようというもの。当協会は60年安保の国民運動の中から生まれた。独立の旗印は、母班として消すことができない。

唯一超大国のアメリカの横暴を目の当たりにして、「独立」の旗印は、今日的な意味を持つスローガンとなっている。憲法改悪も、イラク派兵も、沖縄の基地も、有事立法も、アメリカからの押しつけとして行われている。

憲法が危うい。憲法調査会がもうすぐ5年の期限を迎える。与野党がともに憲法改正を競い合う状況である。国会法改正による改憲発議のための両院の憲法委員会の設置、国民投票法案の上程も、政治日程にのぼっている。実質的に憲法の一部である教育基本法も危うい。

平和も危うい。自衛隊のイラク派兵が実現し、恒久派兵法案の提出も間近。財界が公然と派兵を支持し、武器輸出3原則を攻撃する。

人権はどうだ。教育現場に「日の丸・君が代」が強制される。従わない教員は処分だ、と強権が発動される。穏健なデモに警察の挑発がなされる。ビラ入れビラ撒きが起訴をされる。監視カメラだらけの監視社会・密告社会の気配も見える。

民主主義はどうだ。10年前の小選挙区制の毒が確実に民主主義を侵し始めた。革新政党の支持を切り捨てて、保守二大政党制作りが完成しつつある。

我々が、護るに対すると考えるもの、目指すべきもののすべてが攻撃されている。それだけに、日民協の存在と活動は重要性を増しつつある。


2004年10月06日(水)
武富士対今瞭美  

今瞭美さんという名物弁護士がいる。地方都市・釧路に事務所を構えているが、知名度は全国区。あの武富士と対等にたたかっている。

その今さんが、本日東京地裁709号法廷で証人席に座った。武富士から訴えられた「武富士の闇を暴く」訴訟の被告本人としてである。武富士のあくどさを紹介して世に警鐘を鳴らす目的の出版が、名誉と信用を毀損するものとして、5500万円の請求を受けてのことである。もっとも、この提訴自体が武富士批判の言論封殺の意図をもった違法なもので不法行為を構成する、として今さんは反訴を起こしている。また、武富士のドン・武井保雄の個人責任を追及する訴訟も提起しているので、気分は完全に原告である。今さんの主尋問は1時間、反対尋問が2時間。無類の早口だが、3時間でもしゃべり足りない風だった。

今さんは、年間300件の多重債務相談を受けるという。それを20年間続けているというのだ。「こんな事件はほかの弁護士さんがなかなか受けてくれませんから」と言った。多重債務をつくり出す、高利・過剰融資のサラ金業者に義憤を感じての業務なのだ。とりわけ、サラ金が庶民の家庭生活を破壊していることに怒りを露わにした。

「闇を暴く」の冒頭、武富士からの取り立てに怯える母と子の事例が紹介されている。「子どもは、家庭の中で大切にされなければなりません。ところが、多重債務の家庭では子どもを思いやる余裕などなくなります。業者からの取り立てに怯える親のもとで、子どもは取り返しのつかない心の傷を受けることになってしまう」いつもは口調滑らかな今さんだが、このときばかりは口ごもり、涙声になった。

朝の10時から午後5時半まで、今さんと武富士側3証人の尋問を担当したのは、大挙して駆けつけた仙台の弁護士たち。今さんと並んで被告とされた新里宏二弁護士の仲間である。本日は仙台デーだった。この仙台勢と東京組とを併せて、今・新里側の出席弁護士は24名。武富士側を圧倒していた。

不思議な話だ。相手は一部上場の大企業。社会的には、武富士の力が強いに決まっている。しかし、709号法廷という小宇宙では、力関係は完全に逆転している。「円ショップ」と豪語し、うなるほどの金を持つ武富士である。金に飽かしての弁護士の調達も可能なはず。だが、弁護士たるもの、金だけで動くとは限らない。24名の弁護士はまったくの手弁当なのだ。

意気に感じ、生き方に共感する弁護士集団が健在なのは、素晴らしいことではないか。


2004年10月07日(木)
今日は日民協理事会  

来月に日民協総会を控えての理事会。総会と司法制度研究集会の進行について意見が交わされた。

今年の総会では何よりも改憲問題が検討課題となる。改憲の持つ重み、これを阻止する課題の重要性、改憲各勢力のイデオロギー、そして誰に依拠してどのように運動を起こすのか。法律家はどのような役割を担うのか。協会の任務は何か。

何よりも、多数派にならなければならない。「明文改憲阻止」が運動課題となる。「解釈改憲派も、立法改憲派も敵だ」という立場はとらない。自衛隊の存在を認める立場とも、専守防衛論派とも、統一戦線を組まねばならない。改憲によって事態がとれほど悪化するか、そのことを憂うる人とは一緒に行動をしなければならない。既存の運動体や活動家だけでなく、もっとずっと幅広い人々と手を結ばなければならない。このことが強調され、確認された。

一方で、「幅の広い人々」に配慮のあまり、自分たち本来の理念や立場を曖昧にしたり、これまでの運動体の存在意義を軽んじたりする傾向を警戒すべきという意見も出された。行動を共にすることは考え方について妥協することではない。また、「幅の広い人々」が自然に運動に参加するようにはならない。核となる運動体や活動家が必要なのは、当然のことなのだ。

議案書の骨格についての論議の中で、「国民生活の現状について触れるべし」と、税理士さんから提言があった。大企業本位、金持ち優遇政策の中で、大衆への税負担・税外負担は過重になっている。累進課税の軽減、低所得層への重税化は看過しがたい。これまで、生存権や労働基本権など憲法上のいくつもの権利が国民生活を守ってきた。憲法への攻撃は、国民生活への攻撃でもある、という意見。

理事長自身の起案になる「総会宣言」案を検討した。憲法制定の経過とその歴史的意義を確認し、それが今危機に瀕していることへの警鐘を鳴らして、改憲阻止の運動への参加を多くの人に呼びかけるとともに、当協会もそのために全力を尽くすことを誓う、という格調の高いもの。

そして、この任務にふさわしい充実した組織体制の確立が論議された。事務局次長を拡充し、任務分担を明確にした体制の整備ができそう。
おそらくは、日本の各地で、各分野で同じような議論がなされていることだろう。このような草の根の力が改憲の意図を挫折させたとき、日本国憲法は名実共に日本の民衆が勝ち取った憲法になるのだと思う。


2004年10月08日(金)
司令官敵前逃亡  

本日は、「武富士の闇を暴く」訴訴で、武井保雄の被告本人尋問が予定されていた。彼への尋問によって、ほかならぬ彼こそが本件不当提訴を指令した人物であることを立証の手筈であった。武富士に対する言論封殺の目的で、そして多重債務問題に関わる弁護士への業務妨害目的での提訴であることを追求の予定であった。ところが、彼は戦線を離脱した。彼の代理人弘中惇一郎弁護士は、「今朝当人の意思を確認したところ、出廷はしないとのことだった」という。敵前逃亡である。

裁判長は、「どうして出廷しないのか。正当な理由があるのか」と問い糺す。これに対して、同弁護士は「当人の心情はすぐにでも文書にして出せる。しかし、法律的に正当な理由があるという点についての意見書の作成には、1か月の猶予をいただきたい」という。1か月考えないと出て来ない、その程度の「正当理由」なのだ。

武井の身替わりとしての武富士側申請の証言役が番頭格の近藤光。「この提訴については、私が決裁した」「武井保雄の関与はない」。なにやら、どこかの「組」のヒットマンの話さながら。実は、近藤光自身が武井の盗聴被害第1号なのである。

「本件提訴のために武富士が用意した弁護士費用は500万円だったと思う」というのが、近藤の証言。確かに、訴状での被告に対する弁護士費用請求額は500万円である。しかし、誰もそんな低額だとは考えていない。うんと金を積まなければ、このような恰好の悪い事件を引き受けてくれる弁護士はなかろうというもの。

裁判長は近藤にこう聞いた。「本に書いてあることが事実と違うというだけでは損害賠償請求は認められません。著者がどのように事実を調査したかについて検討しましたか」「裁判を起こすのですから、慎重にしなければならないのが当然だと思いますが、相当性について検討するようアドバイスを受けませんでしたか」。こんなことを言われる側の代理人にはなりたくないものだ。

話は変わる。マリナーズのイチローが国民栄誉賞の授賞打診に対して辞退の返事をした。大江健三郎の文化勲章辞退以来の小気味の良さ。上手な辞退理由のコメントも公表されたが、本音は違うだろう。彼の嗅覚が、落ち目の小泉からの受賞を拒否させたのではないか。小泉延命の小道具に使われることなどまっぴらという感覚なのだろう。舞い上がることのないイチローに凄みを感じる。


2004年10月09日(土)
板橋高校刑事事件送検記事に思う  

以下は、共同通信の配信記事。
「東京都立板橋高校で3月に行われた卒業式で、日の丸・君が代に関する雑誌記事のコピーを配るなどして式を混乱させたとして、警視庁板橋署は7日、威力業務妨害と建造物侵入の疑いで、同校の元教諭の男性(63)を書類送検した。
都教委などによると、元教諭の行為で午前10時からの式の開始が約5分間遅れたとされる。元教諭は「式開始が遅れたのは自分の責任ではない。高校と都教委が事実をねじ曲げた」と主張している。
調べでは、元教諭は3月11日、卒業式の会場の体育館で、日の丸・君が代問題を取り上げた雑誌記事のコピーを保護者に配り、これを制止しようとした職員に抵抗して会場を混乱させたほか、式が始まる前に同校の3年生の教室に無断で侵入した疑い」
記者が、都教委と警察の発表をそのまま記事にしている「垂れ流し記事」の典型。かろうじて一行の被疑者の言い分を載せている。これが、イクスキュースか。

取材をすれば、いくつもの報道すべき事実をつかめたはずだ。
「元教諭」は卒業生が一年生の時の生活指導担当で、卒業式には来賓として招待されていたこと。卒業式では右翼として知られる都議の土屋敬之(民主党)が大声をあげていたこと。君が代斉唱時に圧倒的多数の生徒が着席したこと。君が代ではなく、生徒自身の選定曲では、全生徒が合唱し卒業式は感動的なものとして終了したこと。にもかかわらず、都教委と板橋高校長から、威力業務妨害の被害届が出されたこと。大がかりな実況見分が行われ、被疑者自宅の捜索差し押さえまで行われたこと。その後、被疑者には5回にわたる任意出頭の呼出があったこと。被疑者と弁護団が断固としてこれを拒否したこと。最終的には、弁護団と警察との間の「これ以上の呼出はない」との諒解での黙秘調書作成…。

警察には事件の処分権限はない。捜査を開始した以上警察限りで事件の収束はできないのだから、送検は警察の捜査が終了したというだけの意味しか持たない。問題は、捜査の結果起訴に足りる証拠の収集ができたか否か。報道は、そこにこそ関心を寄せなくてはならない。

書類送検とは身柄の確保ないままの送検。要するに逮捕・勾留はあきらめての送検である。警視庁・板橋署とも逮捕は無理、ないし得策ではないと判断したのだ。逮捕したところで有罪判決のための証拠獲得は困難と考えたのだ。また、元教諭自身・支援者・弁護人団の姿勢、そして世論の動向から、無理な逮捕はリアクションが大きいという情勢判断もあったはず。

報道は、事実に切り込まなければならない。誰のどのような判断で被害届が出されたのか。ほんとうに式は5分間遅れたのか。元教諭の行動と何らかの因果関係があったのか。こんな「小事件」に大げさな捜査が行われた背景に何があるのか。「権力御用達の垂れ流し記事」ではなく、権力批判のジャーナリズムによる記事を期待したい。産経と同列に置かれることを、この上ない恥辱と感じているはずの共同通信であるはずなのだから。

それにしても、「式が始まる前に同校の3年生の教室に無断で侵入した疑い」というのが恐ろしい。元教員が、現役時代に接触した教え子の教室に立ち入ることが「建造物侵入の疑い」というのだ。こんなことを犯罪とされてはたまらない。こんなことで、警察に呼び出されるようなことがあってはならない。権力の怖さにもっと敏感になろう。


2004年10月10日(日)
憲法9条にノーベル平和賞を!    

世に「賞」は幾多もあるが、客観的な選考は難しい。選考経過には、常に一抹のうさんくささがつきまとう。ノーベル賞がその最たるもの。かつて、「佐藤栄作にノーベル平和賞」というニュースに接して、これはギャグではないかと非常に驚いた記憶がある。驚いたことが今は懐かしい。取り立てて違和感を持つほどのことではないのだ。ノーベル賞とは、造船疑獄の主人公・ベトナム戦争基地提供者にふさわしい程度のものなのだろう。キッシンジャー、ダライラマ、ベギン、ラビンなども同類。うさんくさい獲得運動の裏話が、時に話題となる。

とは言え、尊敬すべき受賞者も少なくない。
ルーサー・キング、アムネスティ・インターナショナル、マザー・テレサ、リゴベルタ・メンチュ、国境なき医師団…。そして、今年の受賞者、ケニアの環境活動家ワンガリ・マータイさんなど。

ワンガリ・マータイ。実は初めて耳にした名前。この人は非政府組織「グリーンベルト運動」の主宰者。授賞理由として、持続的発展、民主主義、平和への貢献が挙げられている。植林運動をアフリカ各国に広げ、貧困撲滅のキャンペーンも展開している。国会議員に当選し、昨年は環境副大臣に就任してもいる。

彼女は、「木を植えたことで、我々は平和と希望の種を植えてきた」と言う。植林を通じた持続可能な資源保護が、貧困を救い、紛争防止に大きく貢献することを訴えてきたのだそうだ。

 環境保護→資源の確保→貧困の防止→紛争の防止→平和の維持 という考え方で、環境保護運動が平和につながるとの主張と実践が評価されたようだ。
 環境の悪化→資源の枯渇→貧困の拡大→資源獲得の紛争→平和の破壊 という悪循環を防止しなければならない、との主張でもあろう。

その言やよし。環境保護と平和とは縁が深い。自然環境も、社会環境としての平和
も、ともに人類生存の基盤である。戦争こそが最たる環境破壊の元凶であり、環境の破壊による資源の枯渇が紛争の要因となる。マータイさんの実践は受賞に値することなのだろう。環境と平和の結びつきの認識について、ノーベル賞効果を期待したい。

ところで、ノーベル平和賞獲得を平和運動にしようという取り組みが話題となっている。「戦争放棄をうたう憲法9条に、ノーベル平和賞を」というもの。
印刷出版業の労働組合を中心に、この9月文京区で「『憲法9条にノーベル平和賞を!』の会」が結成された。9条の英訳文をプリントしたTシャツ販売やビラ配布が進められ、今後は海外にも呼びかけていくという。
言い出しっぺは、「全国印刷出版産業労働組合総連合会」(約8000人)の女性組合員。面白い発想ではないか。
平和賞は個人や団体が対象だそうだ。「憲法条文が受賞の主体たり得るか」などと詮索するのは愚の骨頂。既に全国で相当に盛りあがっているという。改憲阻止のために、いろんなことをやってみよう。


2004年10月11日(月)
蒙古来たりて、台風とともに去る。 

モンゴルの切り絵画家・ツルブラムが、3週間の滞在を終えてわが家を去った。この間に9歳の誕生日を迎えた娘・トリトギルビル(愛称フンバー)もいなくなった。これで静けさが戻るが、寂しくもなった。滞在中に大きな地震があり、最大級の台風にも見舞われた。暑さ残る時期に来て台風とともに去った印象。日蒙親善に多少の貢献をした。モンゴルが大いに身近になった。

力量のある画家だと思うのだが、個展の売れ行きは芳しくなかったようだ。ほとんど宣伝ができていない。その術を知らず、プロモーターもいない。芸術家も生きて行くのは厳しい。世に出るまではまだ熟成の期間が必要か。

これから産後の妻が待つサンフランシスコに向かい、ウランバートルの厳しい冬が終わるまで彼の地で暮らすのだという。半年間の生計の手段も、子どもの通学も、現地に行けば何とかなるだろうとのこと。農耕民族には真似のできない芸当。

我々の祖先も危険を冒して大陸に渡っている。西安で遣唐使随員の墓誌が発見されたとのこと。本体171文字が刻まれていたという。
「姓は井、字は真成。国号は日本。天賦の才能をもって、唐に渡り、勉学にいそしんだ。学問を修め、官吏として朝廷に仕えた。礼儀正しさは比類のないほどだった。しかし、開元22年(734年)正月、急病のため36歳で死去した。皇帝は死を悼み、尚衣奉御という官職を贈った。2月4日、サン水(さんすい)のほとりに埋葬した。遺体は異国の土となったが、魂は故郷へ帰る」(読売)などと記されていた。

この名は、日本側の記録にないそうだ。717年の遣唐使船に乗り合わせたとみられるが総勢557人の名簿は高官者以外残されていないという。19歳で故国を離れ、36歳で唐の皇帝に惜しまれる死に至った人物像に想像がふくらむ。

朝日は、二人の古代史専門家に該当人物の推理を語らせている。いずれも、語学力優秀からの推理で、渡来系の人物とする。
「井を日本名の痕跡と考え、「井上」一族きっての秀才で井上真成という名前の若者だったのではないか。その一族は大阪府藤井寺市一帯を本拠とし、忌寸(いみき)という渡来系に多い姓(かばね)を与えられていた。遣唐使など外交官の任務につくものを多く輩出している」。

「渡来系の氏族、「葛井(ふじい)氏」の出身ではないか。葛井寺(藤井寺市藤井寺)の創建にかかわった河内の貴族で、飛鳥から奈良時代にかけて、遣唐使などを多く出した。ふじいのまなり――という名前だったのでは」。

ツルブラムを見ていただけに、1300年前の井真成の異国での苦労がしのばれる。


2004年10月12日(火)
敗訴者負担問題最新情勢  

日民協・司法委員会。運動の中心に位置している坂さんから、大詰めとなった「弁護士報酬の敗訴者負担問題」での最新情勢の報告を聞く。

前国会に提出されて継続審議とされていた「訴訟上の合意による敗訴者負担」法案が、本日開会の161臨時国会で決着をつけられることになる。明日、市民団体は議員会館での集会を開催し、国会議員への働きかけを行う。運動には、超党派の支持が寄せられている。請願署名も45000。市民団体は、基本方針として廃案を目指す。

「訴訟上の合意による敗訴者負担」自身は、これまでの主要な反対理由である「提訴萎縮効果」をもたらすものではない。にもかかわらず、法案に反対する理由は、大きくは2点ある。
その一は、成立した法を橋頭堡として、将来敗訴者負担の要件が緩和され適用領域が拡大される恐れがあるから。「小さく産んで、大きく育てる」推進勢力の思惑の第一歩との見方である。
その二は、「この法案成立をきっかけとして、訴訟外の敗訴者負担合意が蔓延することになる」から。訴訟過程での合意が有効で、訴訟外での合意を無効とする理由はない。だから、約款や契約書式に、「紛争が生じた場合の弁護士報酬は敗訴当事者が負担する」という合意条項が流行することになろう。

第二の理由に関しては異論もある。当該の法案が成立しようと不成立だろうと、訴訟外の合意は蔓延することになるだろう。これを公序良俗に反して無効とは言いがたいのではないか。これまで、企業の側で弁護士報酬の敗訴者負担が提訴抑制に有効だという認識に欠けていたのだが、こんなうまい方法があるのなら約款に入れておけ、と考えるに違いない。寝た子が起こされたのだ。廃案にしたところで、訴訟外の合意は野放しにされてしまう。

それなら廃案要求だけでは足りないことになる。訴訟外の合意、少なくとも労働・消費者・借地借家・下請け等の当事者間の力量格差ある契約については、訴訟外の合意無効としなければならない。日弁連は、その方向での修正を目標としている、という報告。しかし、ここでも「当事者間の力量格差ある契約」の範囲確定に技術的困難を来しているとのこと。

「合意による敗訴者負担」という司法制度改革推進本部の法案作成の段階から、反対運動の担い手に微妙な受け止め方の差異が生じた。訴訟外での合意の弊害を心配しなければならないグループと、その心配のないグループと。前者が、契約型の被害を問題とする消費者・労働・医療・フランチャイズ・建設下請けなどの運動体。後者が、公害訴訟、国賠訴訟、行政訴訟など、不法行為責任追求型運動体ないしは国・自治体を被告とする運動体。

前者が廃案要求を徹底することに躊躇を覚えるのに、後者にはこれがない。この微妙な差異を無視することなく、上手に一致した方針作りをしなければならない。「あらゆる敗訴者負担反対」のスローガンの貫徹は、合意による敗訴者負担を無効とする立法運動とならざるを得ないと思うのだが。


2004年10月13日(水)
校長の法的責任追及を    

午前中は、「法民」の原稿書き。10月号が、「シリーズ改憲阻止」の教育版。教育基本法「改正」問題と、学校現場での「日の丸・君が代」強制を取り上げる。

改憲阻止の運動は、具体的な憲法理念の実現運動と結びつかなければならない。現場で切実にたたかっている広範な人々の力を合わせることが重要なのだ。教育の分野もその一つ。ここでは、改憲先取りの事態がある。そのリードなどの文章を起案する。

正午から弁護士報酬の敗訴者負担問題での議員会館での集会。参加議員が10名。但し、自民・公明の姿はない。
「廃案は難しいが、このままでは通せない。何とか修正を」「ウルトラCの訴訟外合意も無効という修正で決着を」「この法案には何の理念も必要性もない。ひたすら、司法制度改革推進本部のアリバイ作りだけ。こんな法案を通すわけにはいかない」「小泉流言葉のマジックにだまされてはならない。司法へのアクセス促進の掛け声で、実はアクセス阻害がたくまれている」などという発言。まだ、着地点は見えていない印象。

集会では、廃案を目指す方針が語られた。「廃案という成果を勝ち取るために全力をあげよう。その成果から、訴訟外合意を無効とする展望が見えてくる」という説明。市民団体としては、この方針で全力をあげる。法務委員会審理の傍聴や、関係議員に対する旺盛な説得運動をすることを確認した。

この臨時国会には23本の法案がかかっている。うち、法務委員会関係が9本という。法務省6本(そのなかに問題の共謀罪法案がある)、司法制度改革推進本部3本(敗訴者負担、ADR、司法修習生の給与制廃止)である。いずれも対決色が強い。にもかかわらず、衆院には、社・共の法務委員が一人もいない。何という事態。

夜は、「日の丸・君が代」弁護団会議。「生徒への起立指導を徹底せよ」という新たな職務命令対策について検討。10月以後卒業式までの周年行事は23校に及ぶそうだ。おそらく、このすべての学校で校長から全教員に文書による職務命令が発せられる。この校長の職務命令を叩かざるべからず。校長自身の責任を追及して、校長を被告とする行政訴訟、損害賠償請求訴訟を考えようという声が多数。校長の責任追及は重要ではないか。校長を、東京都と教委の圧力の下での被害者としてのみ見るのではなく、加害者性を重視しなければならない。

「天皇の命令・上官の命令だから従わざるを得なかった。自分に責任はない」そんな弁明で、ファシズムを支えた多くの者が免責されてよいはずはない。教委の責任は明らかとして、校長個人の責任も明確にしなければならない。既に出された処分についても、各校長は重要証人として最低2回は呼び出されることになる。しかし、そこでは飽くまで教員対教委の事件の証人に過ぎない。校長自身を被告とする手段を考えよう。そして、その責任追及の原告となる者は、生徒か保護者がふさわしいのではないか。新たな発想で新たな訴訟を考えてみよう。


2004年10月14日(木)
不来方城趾を歩く  

盛岡を古くは不来方(こずかた)と言った。鬼の来ないところという意味。語源にまつわる民話が残されている。南部氏が築いたこの地の城が不来方城。いまは岩手公園となっている、その二の丸址に啄木の歌碑がある。

 不来方のお城の草に寝ころびて
 空に吸はれし
 十五の心

この歌碑の揮毫は金田一京助。建立は1955年、啄木生誕70年を記念してのこと。当時私は12歳。啄木が平均余命を全うしていれば、同じ時代の空気を吸ったことになる。啄木が寝ころんだころも、歌碑ができたころも、ここから遮るものなく岩手山が見えたはず。いまは、ビルの壁が遮る。

今日、盛岡は抜けるような青空。紅葉の岩手山が玲瓏とした気層の下に屹立している。岩手山に限らず、この街の隅々まですべての物の色が鮮やかで美しい。こんな日は、ここに住まう人々がうらやましい。

まとまらない和解交渉のあと、裁判所から駅に向かわずに不来方城趾に足を運んだ。かつては、毎日歩いていたところ。桜山神社から、三の丸、二の丸、そして隅櫓のあった本丸址。新渡戸稲造の碑も、宮沢賢治の歌碑にも目を留める。紅葉には少し早い。赤とんぼが群れて飛んでいる。かつては慣れ親しんだ半纏木(ユリの木)の並木がなつかしい。市の樹とされている枝垂れ桂も、栃の木もまことに見事だ。

中津川にかかる毘沙門橋を渡る。我が子が通った杜陵保育園が昔のまま、杜陵小学校は建て直しをされていた。そして、通学予定だった下の橋中学に。ここは、もと盛岡高等小学校。盛岡中学進学前に京助も啄木も在学したところ。その校門に新しい歌碑が建っていた。

 教室の窓より遁げて
 ただ一人
 かの城跡に寝に行きしかな

啄木の感性を育んだものが、この地の風土だと頷かせる秋の午後であった。


2004年10月15日(金)
ブッシュは世界で孤立している  

興味深い世論調査の結果が報道されている。米大統領選挙に対する意識や米国観を世界10カ国で同時に行い、比較を試みたのだ。各国新聞社の共同企画。

調査対象は、日、仏、英、韓、ロシア、イスラエル、スペイン、カナダ、メキシコ、オーストラリアの各国。日本では10月2、3両日の電話調査で、有効回答は914件。十分な規模だ。

朝日の報道は以下のとおり。
『8カ国で「民主党のケリー上院議員に当選してほしい」との答えが、再選を狙う共和党のブッシュ大統領支持を上回った。ロシアとイスラエルではブッシュ氏の再選を望む人が多い。各国とも米国人への見方は好意的で、対米関係も重視している。調査結果からは、イラク戦争への評価で、ブッシュ再選を望むかどうかが分かれている様子が浮かび上がった』

『イラク戦争については厳しい見方の国が多く、ブッシュ再選を望むかどうかにも影響している。ケリー支持の多かった国々では、7、8割がイラク戦争は「誤りだった」と答えた。それに対し、イスラエルでは68%がイラク戦争は「正しかった」と答え、ロシアでも、「誤り」54%に対し、「正しい」も39%と評価が割れた』

国内に「弾圧対象抵抗勢力」を抱えて、「対テロ神聖同盟」を必要とするイスラエルとロシアだけが、ブッシュ支持。もっとも、ロシアは52%対48%と僅差。それ以外は圧倒的にケリー支持なのだ。あのイギリスでもブッシュ支持はわずか22%。ブレアーが窮地に追い込まれているわけだ。イラク戦争を激しく批判したフランスではケリー支持72%対ブッシュ16%と大差。注目すべきはスペインだ。ブッシュ支持は、わずかに13%とフランスを下回って最低。政府がブッシュに義理立てしたばかりに、悲惨なテロの被害を受けてしまった、その体験の痛恨が数字に表れている。

アメリカ大統領は世界の平和に重大な影響を及ぼす。アメリカの選挙民は、他国の民衆の声によく耳を傾けてもらいたい。ブッシュのような、ならず者を再選すればさらに世界は不幸になり、アメリカは孤立することになる。

大量破壊兵器がなかったことが公式に確認されて、それでなお、対イラク開戦が正しかったというブッシュの開き直りは、「ならず者の論理」以外の何ものでもない。ケリーは、「自分も当時は開戦に賛成したが、それは共和党政府が提供した情報を真実と誤信してのこと。間違った情報を世界に発信した責任をとれ」と言えばよいのだ。
小泉政権は、ならず者の陣営にしきりに声援を送っているが、ケリー当選の暁にはどうするのだろう。そのときは新しい主人に、笑顔で尻尾を振ればよいとでも考えているのだろうか。


2004年10月16日(土)
敗訴者負担問題での首相答弁  

日民協ホームページの「弁護士報酬の敗訴者負担」問題コーナーは、坂勇一郎弁護士の、こまめな更新記事で充実している。最新の状況がもれなく、そして要領よくまとめられている。以下は、その最新版。

10月14日開催の参議院本会議で、千葉景子議員(民主)が敗訴者負担問題について質問し、小泉首相が答弁した。答弁のなかで小泉首相は次のとおり答弁した。
「訴訟に持ち込まれる前の契約書の条項のなかに、敗訴者負担条項が組み込まれることにより、経済的に弱い立場の側にとって裁判利用を思いとどまらせる効果を懸念する向きもあると承知しております。本来の目的が十分に発揮される制度及び運用となるよう、各党各会派間でさらによく議論していただきたいと考えております」

この答弁は、私もテレビで視た。この文章の前に「弁護士報酬の敗訴者負担についてでございますが、この法案は弁護士報酬の費用を回収できるという期待に応えることを通じて、裁判を利用しやすいものとすることを目的とするものであります」との説明があり、その後に坂さん紹介の上記のコメントがなされた。

目を伏せたままで、終始まったくの原稿棒読み。「こんな細かいこと。私が分かっているわけないでしょう」という露骨な雰囲気での朗読。国民の裁判を受ける権利は、こんな人に左右されているのだ。

おや?、と思ったことが2点。
まず、原稿起案者は法案の理念を書き込んだ。「弁護士報酬の費用を回収できるという期待に応えることを通じて、裁判を利用しやすいものとする」というもの。これは、司法制度改革審議会の報告書に記載の趣旨である。しかし、これはウソ。「敗訴者負担条項が組み込まれることにより、経済的に弱い立場の側にとって裁判利用を思いとどまらせる効果を懸念する向きもあると承知しております」というのだから、明らかな矛盾。

司法制度改革審議会報告書では、全面的な弁護士報酬の敗訴者負担制度導入の理念として、その趣旨を盛り込んでいた。われわれは、それが一面の真実でしかなく、主要な側面としては提訴萎縮効果が生ずると指摘し、司法制度改革推進本部は原案とは似ても似つかぬ「合意による敗訴者負担法案」を国会上程した。その結果一面の真実もなくなった。訴訟上の合意を要するとすることによって提訴萎縮効果は緩和された。その反面、喧伝されていた一面の提訴促進効果は、この法案にはカケラもなくなったのだ。棒読み首相は、知るや知らずや。

もう一つ。訴訟外の合意による敗訴者負担条項の効力の取扱いに関しては、柔軟な姿勢を見せたこと。「これなら満足すべき修正があり得るのでは」、と思わせる内容。少なくとも、そのムードが醸成された。棒読み首相に、理解あるやあらざるや。


2004年10月17日(日)
公明党・党大会近し   

公明党の神崎代表が、本日代表続投を正式に表明した。31日の党大会で正式に選出されるという。かつては野党として、自民党を批判していたはずが、99年には自民党との連立を組んだのがこの人。それでも、党員に戸惑いがないというのがこの党らしい。私にとっては不気味である。31日の党大会では、「加憲」という、この党独特の分かりにくい憲法政策についてまとまった見解が出される模様で、注目される。

この党の現在の憲法政策を知りたくて、公明党のホームページを覗いてみた。まず、綱領。内容や言葉の使い方が独特のものであることには驚かない。驚いたのは、憲法への評価も対応も、一言も触れていないこと。憲法という文字が出て来ない!! 現在わが国で活動する政党の綱領に、日本国憲法にはまったく触れていないって、とてつもなくすごいことではないだろうか。

党概要・新宣言・規約・歴史に目を通したが、やっぱり出て来ない。議員の個人日記があって、ここには感想めいたコメントがあり、読売試案に感銘を受けたとか、自衛隊の合憲をはっきりすべきだ、という類の話題が取り上げられてはいる。が、党としての見解は…。

ようやく見つけた。以下のとおり。党大会運動方針(2002.11.2)の一節。
『公明党は、憲法第9条は堅持し、国民主権主義、恒久平和主義、基本的人権の保障の3原則は不変のものと確認した上で、憲法のあり方について議論することを避けない「論憲」の立場をとっています。国会の憲法調査会をはじめとして活発な憲法論議が行われていくなかで、現行憲法の制定時には想定されなかった視点での権利や考え方、システムの必要性が生じている今日、憲法の3原則や9条は変えることなく、憲法の精神を発展・強化させながら、環境権やプライバシー権などを憲法に明記して補強する、あえていえば「加憲」を検討する時期が来ているのではないかと考えます。現在、国会で行われている憲法調査会の議論の行方を見つめながら、党内の意見を集約したいと考えます。』

ところが、次の公明党「ニュース」内の記事(2004.8.29)も。今のところ、これしかみつからない。
『神崎代表は、(中略)2005年から2007年までの3年間で、21世紀の政治のあり方が決まるとした上で、政策面では、憲法改正問題をはじめ、社会保障制度改革、郵政民営化など重要課題が山積している、と述べた。憲法問題では、焦点の第9条問題について、「堅持する」という方針については、それを覆す議論はないが、「今まで通り、一言一句変えないで『堅持する』とするのか」、また、「9条の精神は変えないで、例えば自衛隊について(公明党は合憲としている)、憲法に明記することはどうなのか」などを現在、真剣に議論している、と語った。』

そうか、これまでは「9条堅持」だったが、そのままでよいのか現在真剣に議論しているんだ。

是非とも真剣に議論していただきたい。読売試案だけではなく、少なくも宮沢俊義、佐藤功、芦部信喜、杉原泰雄、樋口陽一、深瀬忠一、山内敏弘、浦田賢治、笹川紀勝、森英樹、水島朝穂各氏らの所説には、真摯に耳を傾けていただきたい。


2004年10月18日(月)
裁判員制度は冤罪をなくすか    

弁護士にも色々ある。その仕事も多様である。なかで、最も困難で、最も価値ある、それゆえに尊敬に値する仕事は、冤罪事件の再審請求であろう。これこそ、弁護士の中の弁護士が行う仕事。私は、学生時代そのような弁護士にあこがれて弁護士を志望したが、道を間違ってか一件も受任したことがない。これからも、受任は無理だろう。ただただ、この種の事件に身を挺する同業者に敬意を表するのみ。

日弁連人権擁護委員会が「再審通信」を出している。その最新号が、送られてきた。不定期刊だが既に89号。日弁連が支援する7つの再審事件についての悪戦苦闘の様子が報告されている。多くは死刑確定事件である。それぞれの事件の担当弁護士が、冤罪を確信しつつも再審開始に至らないもどかしさ、不当さについて、渾身の情熱で文章を綴っている。一つとして、高らかに明るい展望を語るものはない。中には、再審請求中の請求人の無念の病死報告もある。

7事件を記せば、福井事件、袴田事件、布川事件、日野町事件、足利事件、名張事件、そして請求人病死の晴山事件である。
尊敬すべき弁護士の名も記しておこう。大先輩もいるが、いつの間にか、私よりずっと若い人が多くなった。吉村悟、西嶋勝彦、内藤真理子、岡根竜介、泉澤章、稲垣仁史、笹森学。

さて問題は、司法改革で冤罪はなくなるか、である。少なくとも、冤罪をなくする方向の改革であるか。重罪事件は、すべて裁判員が裁くことになる。素人ゆえに事実認定能力が劣るとは思わない。しかし事実認定は、手続き法によって裁判員の前に提示された証拠によって行われる。提出すべき証拠の取捨選択や評価に関しては、十全の弁護活動が保障されなければならない。裁判員制度実施に伴う訴訟の迅速化や、早い段階での争点整理、証拠の制限などが、被告人・弁護人の権利を侵害しないか、懸念せざるを得ない。

11月7日(日)午後1時〜6時に行われる、日民協司法制度研究集会(四谷・プラザF)の主たるテーマの一つである。


2004年10月19日(火)
三題噺、最高裁長官・右翼・ヒラメ 

最高裁長官という官名から、どのような人物像を想定されるだろうか。中立公正・人格篤実…。そういう人もいたかも知れない。しかし、そうでない人の名を挙げることのほうがたやすい。

田中耕太郎という人がいた。広津和郎氏を先頭に松川裁判批判が巻きおこった際に、世論を「世間の雑音」として、これに耳をかすなと第一線裁判官に訓示をしたことで知られる。

石田和外という人がいた。人呼んで、ミスター最高裁。現場裁判官に対する官僚統制をつよめ、宮本康昭さんの再任を拒否し、私の同期7人の任官を拒否。あまつさえ、わが友・阪口徳雄を罷免した男。「裁判官には公正らしさが必要」として青法協攻撃をしたあげく、自分は退官後右翼団体「英霊にこたえる会」の初代会長におさまった。

三好達という人がいる。退官後、この男も右翼団体・日本会議の会長となった。今もその職にあり最高裁のなんたるかを示し続けている。以下が、彼の会長就任挨拶の締めくくりの言葉である。
「…国会には憲法調査会が設置され、また近く教育基本法の改正が国会に提案されようとしています。戦後五十数年の間に、我々が忘れられようとしている我が国の在り方、日本人の姿、日本人としての生き方を、これら国の根幹の改革を通じて取り戻されねばなりません。日本会議の使命はまことに重大であります。
皆様の一層のご支援をお願いして、就任のご挨拶といたします。」
こういう人が、最高裁長官なのだ。

今の長官は、町田顕という。昔、青法協所属の判事補だったが、石田和外長官当時、内容証明郵便での脱退届を送ってきた男。この人が、昨日新任裁判官に異例の訓辞をした。「上ばかり見る『ヒラメ裁判官』はいらない」と。

「上級審の動向や裁判長の顔色ばかりうかがう『ヒラメ裁判官』がいると言われる。私はそんな人はいないと思うが、少なくとも全く歓迎していない」と語りかけた。「みなさんはなぜ裁判官になろうと思ったか。何物にもとらわれず、自分の信念が貫ける仕事だと思ったからではないか」

自らが、ミスター最高裁の顔色を窺って今日を築いたヒラメではなかったのだろうか。いずれにせよ、ほかならぬこの人が若い裁判官に「もうヒラメでいる必要はない」と言ってくれたのだ。めでたいことではないか。


2004年10月20日(水)
法務大臣の先輩たち  

既に泥船となっている小泉内閣。その象徴が南野法務大臣。
19日の衆院予算委員会で、日本歯科医師連盟から旧橋本派への1億円献金隠し事件に関連して答弁が二転三転した。検察当局の捜査の範囲などの質問に対して、「聞いていない」「聞いている」「聞いているとかいないとか言えない」「この案件については言えない」「あらかたのことは聞いている」などとして、審議が何度も中断。最後は「報告を受けているが、詳細についてはここでは言えない」に落ち着いた。民主党は、「大臣としての基本的な資質に著しく欠ける。小泉首相の任命責任は重い」として、小泉首相に罷免を求めた。

法務大臣は、わが国法務行政の最高責任者である。法律に明るく、人権感覚に富んだ立派な人がなるかと思うと、なかなかそうではない。現行憲法に敵意をむき出しにする人も少なくない。罷免要求をされるなど、珍しくもない。

損な役回りを演じた筆頭が犬養健。第五次吉田内閣の法相だったが、造船疑獄で指揮権を発動し、佐藤榮作の逮捕請求不承認を検事総長に指示。翌日自分は辞任した。5・15で倒れた犬養毅の三男である。

私が世の中を知りはじめた当時の法務大臣が賀屋興宣。戦前東条内閣の蔵相で、A級戦犯として起訴され終身刑を言い渡された男。日本遺族会会長もつとめている。法務大臣のあと、選挙に落ちたと記憶している。

忘れられないのが永野茂門。94年5月、就任直後の記者会見で、「太平洋戦争を侵略戦争という定義付けは間違っていると思う。戦争目的そのものは当時としては基本的に許される正当なものだった」また、南京大虐殺について「あれはでっち上げだったと思う」との見解を表明し、すぐにこれを撤回した。日民協中国司法制度調査団が、南京から北京に戻ったところでこのニュースに接した。直ちに現地での抗議声明の発表が、中国戦後補償弁護団結成の糸口となった。運動のきっかけを作ってくれた法務大臣。

それから、中村正三郎。99年に「軍隊を持てないような憲法をつくられて、改正もできないというなかでもがいている」旨公言。憲法尊重・擁護義務を誰よりも強く担うべき法務大臣として失格と世論から指弾を受けた。

南野さん、なんのなんの。「大臣としての基本的な資質に著しく欠ける」先輩ならゴロゴロ。悪質より、無能のほうが、ずっと罪は軽い。

追伸 犬養健を犬養毅の長男と書きましたが、「長男彰廃嫡後嗣子となったが、三男である」とのご指摘を受けました。調べてみたらそのとおりなので、ご指摘に感謝して訂正いたします。但し、どなたにも格別のご迷惑をかけている様子もありませんので、謝罪はいたしません。


2004年10月21日(木)
歪めてはならぬ原則がある  

本日、東京弁護士会・憲法問題委員会。
目新しい報告として、来年の人権擁護大会(鳥取)でのシンポジウムテーマとして、憲法問題を取り上げようという動きがあるという。人権擁護大会は日弁連の最大年中行事。毎年10月に開催される。05年10月と言えば、自民党改正案発表の予定時期と重なる。絶好のタイミングではないか。

問題は、この課題を取り上げる視点である。改憲をめぐる動きや見解についての情報提供のレベルであれば、何の問題もない。しかし、それだけでは弁護士会の鼎の軽重が問われようというもの。弁護士会の意見はどうなのか。主体性はないのか。会のスタンスが問われることになる。

弁護士会は法律に基づいて設立された強制加入団体である。当然に、政治的見解を異にする会員を構成員とする。政治的意見の表明はその任務ではない。しかし、この立場をことさらに強調すると、一切の政治的影響ある行為は不可能ということになる。それでは、弁護士会本来の任務を果たし得ない。

弁護士・弁護士会の任務は、社会正義と人権擁護にある。弁護士会は、人権擁護を使命とする法律専門職の集団としての立場から、憲法に言及する責務がある。政治的意見表明としてではなく、会の人権活動の基礎である憲法について意見を述べなければならない。

日弁連人権擁護委員会と、憲法委員会との連名による趣意書案の文言では、「政治的中立を保ちつつ、唯一『法の支配』の観点から、けっして歪めてはならぬ原理原則があることを指摘しうる団体は、弁護士会をおいて他にない」「…歪めてはならぬところは決して歪めない…という立場で意見表明をすることが求められている。人権擁護大会のシンポジウムは、その恰好の場となるであろう」と言っている。

そのとおり。「憲法改正に反対」という政治的立場とは別に、「人権擁護のために、歪めてはならない大原則を侵してはならない」という法的立場があるのだ。この点を探ること、その観点からの意見表明をすることは、弁護士会の責務であろう。

シンポジウムのタイトル案として、「憲法は、何のために、誰のためにあるのか」「そこまで変えていいんですか!? 私たちは憲法の代理人です」「憲法改正問題を考えるー憲法改正の限界」「戦争(有事)と人権ー憲法9条を考える」などが検討されているという。捨てたものではないぞ、わが日弁連。


2004年10月22日(金)
合意管轄問題論議と「合意による敗訴者負担」  

衆議院議員・山内おさむ氏から、日弁連を通じて要請があり、本日議院会館に同議員を訪ねて、下記の報告をした。

テーマ 合意管轄問題から見た「合意による敗訴者負担」の問題点
弁護士 澤藤統一郎(元・日弁連消費者委員長)

1 問題関心
現在、「合意による弁護士報酬の敗訴者負担法案」が提案されている。この法案では、訴訟上の敗訴者負担合意に関しては、要式性を厳格にしたうえ、この要件に満たない合意を無効と定めている。しかし、訴訟外の私的契約に関しては、何の言及もされていない。
この訴訟外の事前合意が無制限に有効だとすれば、弁護士報酬の敗訴者負担法案は、弁護士報酬の敗訴者負担の萎縮効果の歯止めに関して実効性を欠いた、「尻抜け法案」とならざるを得ない。
そこで、訴訟外の私的契約における「弁護士報酬の敗訴者負担合意」に関し
(1) 有効か無効か
(2) 有効として、無制限に有効か
(3) 立法上の規制が必要ではないか
などの各論点を、訴訟契約として類似の「合意管轄問題」についての議論の大筋から考えてみたい。結論は、合意管轄問題の教訓を酌んで、敗訴者負担の司法アクセス阻害の弊害に対して、司法的努力による救済もさることながら、立法的解決が不可欠だと考える。

2 「敗訴者負担合意」と「管轄合意」の類似性
(1) 弁護士報酬の敗訴者負担合意は提訴萎縮効果を有する。
 萎縮効果は、相対的に弁護士費用を過重な負担と感ずる経済的弱者に顕著である。また、訴訟の勝訴見込みを容易につけがたい情報弱者に顕著である。
形式的平等性にかかわらず、実質的に社会的弱者の提訴を封じ込める機能を持つ。従って、約款や不動文字の契約書式で、強者が弱者に押しつける合意となる。
(2) 管轄合意も、同様に強者が弱者に押しつけたものとして、弱者の側の円満な訴訟活動を妨げる効果を持つ。こちらは、応訴萎縮効果をもたらす。
日弁連消費者委員会の02年における東京簡裁100件調査によれば、85件が本来の管轄地である東京23区外の被告であった。しかも、北海道3件、東北11件、近畿10件、中国6件、九州13件である。その結果、欠席判決59件であった。
(3) 両者とも訴訟契約だが、「管轄合意」の方が合意提案側の利便のための合意の性格が強く、「一方に有利」の色彩が濃いと言えよう。

3 専属的管轄合意の有効性
(1) 法律に要件と効果を定められた制度として、旧民訴法(25条)時代から、「格差ある当事者間の契約においては無効」とする考え方はない。私的自治の範囲の契約として、当然に有効と考えられた。弱者に押しつけた公序良俗違反・無効という判決は見あたらない。
(2) この対比からは、敗訴者負担の私的合意が、公序良俗に反して無効とは言いがたい。消費者契約法適用ある契約に関しても、形式的には「消費者側に一方的に不利益」とは言いがたく同法10条に基づく無効も主張しがたいと思われる。

4 専属的管轄合意条項の不合理性救済の司法的手段
(1) ただし、旧法時代から専属的管轄合意条項の不合理性救済の手段は講じられてきた。まず、その意思解釈において「専属的合意管轄」ではなく「付加的合意管轄」としたり、応訴管轄を妨げず、「著しい遅滞を避けるために必要あるとき」には他の法定管轄裁判所に裁量移送することも妨げないとして、合意管轄の不合理救済の司法的努力はなされてきた。
(2) 敗訴者負担においても、限定的に意思解釈することは考えられないではない。しかし、その幅は大きくはなかろう。

5 「専属管轄合意」に関しての立法措置
(1) それでも、合意管轄の弊害は看過しがたく、新民訴法17条(98年1月1日施行)は、「訴訟の遅滞を避け」(「著しい」は)という理由だけではなく、「当事者間の衡平をはかるため必要があると認めるときは」移送できるとした。これで、合意管轄が無効ととなったとは言えないが、結局、長年の弊害が、立法解決に至ったとされた。しかし、合意管轄原則有効の現在なお、看過しがたい弊害が顕在化していることは、前記の02年日弁連調査のとおりである。
司法的努力→立法措置→さらなる法改正 の過程が必要なことを物語っている。
(2) この経過に鑑み、既に弊害が生じることが明らかな敗訴者負担合意に関して、これを放置することは、立法の怠慢の誹りを免れない。


2004年10月23日(土)
10・23パレード

10月23日。この日が、特別の日となった。都教委の「10・23通達」からちょうど1年目。何ともすさまじい1年だった。周年行事・卒業式・入学式、そして、処分・処分・注意・再発防止研修…。生徒に起立斉唱を指導せよという職務命令まで、強権発動の1年。そして、この乱暴極まる強制への抵抗の1年。

昨年の今日、「10・23通達」の中身はその早朝に知った。産経新聞朝刊のトップ記事としてである。右翼知事・右翼教育長と、右翼新聞とは、密接な関係を持っていることを隠さない。互いに、利用しあっているのだ。

10・23通達は、学校現場に対する権力的抑圧宣言であった。現場の創意や工夫を許さない。地域の特殊性や伝統・校風など一切無視。没個性に徹しろ、上から言われたとおりにやれ、従わなければ処分だ、という脅し。これに屈してしまえば、教育は死ぬ。教育を殺して、学校をロボットの生産工場にしようというのが、ファシスト知事の目論見である。

そんなのごめんだ、という市民と教職員が「学校に自由な風を」というスローガンを掲げてパレードをした。確かに、デモと言うよりはパレード。ハローウィンのカボチャを先頭に、700人の隊列が新宿の繁華街を約1時間歩いた。沿道の人々に呼びかけながら、ビラを撒きながら。この時代に、沿道の人々との意識の落差を埋めて、「みなさん、一緒に歩いてください。1メートルでも、2メートルでも」と呼びかけるには、パレードでなくてはならないのかも知れない。歌をうたい、掛け合いをし、ナレーションでの呼びかけをしながらの1時間。何かあった場合に、と弁護団も参加した。私も、弁護士バッジを付けての参加だったが、幸いにして何ごとも起こらなかった。

センスのよいパレードだった。歌も、ナレーションも、気が利いて説得力があった。切実ではあるが、抑制された訴え。心に響いたはずだ…、心ある人々には。しかし、沿道の人々のビラの受け取りは悪い。その無関心が気になった。

土曜の夜の新宿を歩く群衆の不気味さ。この人たちの無関心が、ファシスト知事の蛮行を間接的に支えている。彼に308万票を与えた人たち、あるいは投票所にも行かなかった人たち…。この人たちを味方にするには、どう工夫をすればよいのだろう。10・23通達は、物言わぬ人々をさらに大量につくり出すことをねらっている。


2004年10月24日(日)
災害救助に迷彩服はダメ  

昨日、10・23パレードの最中に、新宿のアスファルトが波打った。パレード参加者の隊列の重みではない。何でしょう、地震でしょうね、という会話が交わされた程度。小千谷・長岡で惨事となっていることは、帰宅してから知った。

「04年新潟県中越地震」と命名された、この地震の規模はマグニチュード6.8。さほどのものではない。しかし、直下型で震度は大きい。しかも、大規模な余震が繰り返され、大きな被害となった。老人と子どもに犠牲者が多い。気の毒でならない。衣食住が足り、平穏に暮らせることのありがたさを再確認する。

大規模地震と聞いてまず心配は、新幹線事故。そして原発である。新幹線は開業以来初めての脱線事故に遭遇したという。しかし、たいした被害が生じなくてよかった。なお、近くの刈羽原発は、まったく停止しなかったという。おいおい、ほんとに大丈夫なのか。

他人事ではない。いつ、東京に起こってもおかしくない。しかも、マグニチュード6.8などではなく、8クラスのもっと大型のものが。ビルの窓が割れ、エレベーターや地下鉄で惨事が発生するだろう。道路はたちまち交通不能となる。そのとき、どうすればよいのか。教訓を学んでおかなくてはならない。

自衛隊が救助作業に出動している。あの迷彩服を着用したままのテレビ映りには大きな違和感がある。ヘリコプターにもおどろおどろしい迷彩。人殺しを本職とする兵の軍装は、敵の目につかぬよう周囲の風景に溶け込んで紛らわしいものであることが要請される。しかし、被災者救護では、被災者からもパートナーからも救護者の存在が目立たなければならない。被災者救援時も迷彩服ということは、救助に本腰を入れていないことを表している。派手で目立つ服装にしなければならない。例えば、クマンバチの黒と黄の縞模様。例えば白地に紺の水玉模様。そうすれば、幾分かは「愛される自衛隊」となる。人殺し部隊としての本質を捨て、編成も装備も訓練も災害救助隊に徹すれば、なお愛されることになるのだが…。


2004年10月25日(月)
上越新幹線のアナウンス  

上越新幹線で高崎まで。一昨日、この少し先で脱線事故が起こったと思うと、やや緊張を禁じ得ない。本来は新潟まで行くはずの「とき」が越後湯沢行きと表示が変わっている。車内のアナウンスがただごとでない。

「新潟県中越地震で、この列車は越後湯沢止まりとなります。越後湯沢以北は、在来線を含めて、すべての列車が運行を停止しております。信越方面へのご旅行はお控えください。なお、復旧には相当の日時を要するとの情報です」

安全という、普段は何でもないあたりまえのことが、貴重なことなのだと実感する。旅客運行に限らない。道路・建築・住宅・食料・薬品・家電製品・自動車・自転車・遊具…、生活の安全は、消費生活の安全性と同義であって、事業者が提供する製品とサービスに頼るしかない。ここに消費者問題の出発点がある。

資本主義的競争原理は、製品やサービスの安全を高めるだろうか。安全は、一面商品の最大の顧客誘因要素である。しかし、他面コスト競争では不利を招くことになる。企業戦略に任せているだけでは製品の安全性が高まることにならない。消費者運動による安全要求の介在が必要となる。製品の安全度をチェックし、最高度の安全性を求める声を企業の姿勢に反映させること。そして、安全への軽視を鋭く批判すること。

公害の歴史が物語っている。かつては公害防止施策のコスト負担は企業活動にマイナスでしかなかった。被害者を先頭に、社会が公害垂れ流しの企業責任を厳しく追及することによって、結局公害をなくすことが企業の採算上も合理的な行動となる社会環境をつくり出しつつある。製品事故の責任追及も、同様なのだ。

今日の高崎の裁判所行は、内頸動脈内膜剥離術失敗の医療過誤訴訟。医療においても、安全に最大限の配慮をつくし、あるいは患者への説明義務を全うすることが、結局は病院経営上にもプラスになる。そのことが浸透してきた。医療過誤訴訟提起の功績である。


2004年10月26日(火)
「法と民主主義」について  

「法と民主主義」10月号の内容が、ホームページに掲出された。なかなの内容だと思う。「法民」は日民協の機関誌である。しかし、それにとどまらない。法律家運動全体の共同の機関誌を目指している。

民主的な指向をもつ法律家の任意団体はいくつかある。法律家が行っている民主的な運動は多種多様である。「法と民主主義」は、できるだけ幅の広い運動領域をカバーしたいと願っている。「法と民主主義」に目を通すことによって、あんな運動もあるのか、こんな成果もあるのか、という有益な情報提供をしたい。

「法と民主主義」は情報誌であり、理論誌であり、何よりも運動誌でなくてはならない。「法と民主主義」を通じて、運動を知らせ、呼びかけ、喚起できるようにしたい。

今月号は、教育基本法問題・「日の丸・君が代」強制問題を取り上げている。運動の現場から、実践に根差した理論の提供という役割をよく担った内容となっていると思う。ホームページをご覧いただき、目次と小田中聡樹教授の「時評」や、増田れい子さんの「とっておきの一枚」などにお目を通していただきたい。ご注文をいただければありがたい。定期購読いただければ、それこそ幸甚の極み。

自分の興味で一冊の雑誌を作る、なんと贅沢な楽しみではないか。あなたが携わっている運動で、あるいはあなたの関心で特集企画を作ってみてはいががだろうか。寄稿も歓迎、「法と民主主義」編集部への参加も大歓迎。興味のある方は、ご連絡いただきたい。もちろん、編集長以下、完全なボランティアである。


2004年10月27日(水)
高額賠償提訴という業務妨害戦術  

日弁連から、配達証明による速達文書が届いた。私を含め6名の弁護士が申し立てていた弘中惇一郎(東京弁護士会)・加城千波(第二東京弁護士会)両弁護士に対する懲戒申立にかかる決定書である。

問題は、1999年12月24日に遡る。この日、エー・シー・イー・インターナショナル株式会社が原告となった1億1000万円の損害賠償請求訴訟が東京地裁に提起された。被告となったのは、ACEのオプション取引勧誘の被害者としてACEを訴えていた当事者本人とその代理人の弁護士たち。請求の根拠は、被害者や消費者弁護士の提訴がACEの名誉や信用を傷つけたというもの。具体的には、「ACEが顧客の注文を海外市場につないでいるか疑わしい」という被害者側弁護士の訴訟における主張がACEの名誉を毀損するというのである。

ACEの代理人として、この訴状を書き訴訟を担当したのが、弘中・加城の両弁護士である。当時、ACEは海外オプションの被害を頻出し次々と損害賠償請求訴訟を提起されていた。明らかに訴訟の提起に対する牽制であり、威嚇効果をねらった提訴戦術であった。現にこの訴訟では、ACE側はほとんど立証活動を行わず、簡単に敗訴判決を受けて控訴もせず事件は確定した。

私は、被告側の弁護団長。消費者弁護士に対する業務妨害行為にたいして、腹に据えかねるところがあった。訴訟が終わって忙しさに紛れていたが、やはりこのままでは捨て置けない。両弁護士の提訴戦術を弁護士としての非行に当たるものとして、懲戒請求に踏み切った。残念ながら、東弁も二弁も、両弁護士の行為は懲戒相当とまで言えないとしたので、日弁連に異議を申し出た。本日送付されたのは、それに対する決定である。

決定は、「総合的に判断すると、本件名誉毀損訴訟については、意義申出人らが指摘するように相当程度の異例さがあることは否定できない」としつつも、両弁護士の訴訟行為が「明らかに事実的・法律的な根拠を欠くもの…とは認定することはできず」として、異議申し出は棄却となった。が、もちろんあきらめない。

両弁護士は、その後も「武富士の闇を暴く」訴訟において、武富士の代理人として、同種の提訴に及んでいる。ここでも、消費者弁護士3名が被告にされている。悪徳商法や大企業の横暴とたたかう弁護士に対する業務妨害は許せない。この件についても、責任をゆるがせにしてはならないと思う。


2004年10月28日(木)
悪徳商法にご用心  

私は、経済生活では極端な保守主義者である。分かりやすく言えば、ケチなのである。育ちから来る貧乏性で、生涯変わることはない。

本日たまたま西新宿の地下を通りかかって、静岡の物産展に出会った。「見れども買わず。買わざれども見る」のが私流。ところが一点、これは欲しい。買ってもよいのでは、という展示品が目についた。

竹製の虫かごである。全体が実に優美な曲線で組み立てられている。ほどよくくすんだ色合いも素晴らしい。これに、見事な竹製の虫がはいる。松虫、鈴虫、コオロギ、スイッチョ、蛍…。繊細に、精巧に、それぞれの虫の特徴をよく捉えている。問題は値段。高価なような…、さほどでもないような…、さてどうしよう…。

店のおやじが近づいてきて得意げにしゃべる。「どうです。よいものでしょう。もう、これしかありません。現品限りですよ」。危うく、買う気になりそうなその瞬間、よけいな言葉が続いた。「これ、皇后様もお求めになったものですよ」。この一言で、気持ちがはじけた。

「ああそう。それじゃやめた。私、そういう品は気持ち悪くて買う気になれないの」。こうして、私は逡巡から解放された。我ながら、私はケチだ、と再確認しつつ。

ケチな私から見ると、悪徳商法被害というのは不可思議きわまりない。民主主義やら労働者の権利などは、なかなか聴く耳持ってもらえない。それなのに、「必ず儲かりますよ」「今を逃したら再度のチャンスはない」「この商品がローリスク、ハイリターン」「預金なんて目減りするだけ。今の時代、リスクをとらなきゃ」なんていう言葉で、どうして大事な金を差し出すのだろう。

昨日エー・シー・イー・インターナショナルのことを書いた。私もこの会社を被告とする損害賠償請求訴訟数件をおこし和解している。現在、5000万円の和解金を分割で支払ってもらっている案件がある。昨日、ACEの幹部から、電話をもらった。「実は、うちの社員の何人かが別会社に移りまして、外国為替証拠金取引をやっている。うちの顧客だった方をまわって、『ACEの損害を取りもどしてやる』と吹聴して営業活動をしていますので、お気をつけてください」と言う。加害者からのありがたい情報。

本日、まさかと思いつつ、私の依頼者82歳の女性に問い合わせて驚いた。外国為替証拠金取引でやられている。典型的な2次被害。会社名は、インターワールド。「ACEでは迷惑をかけてすまないことをした。お詫びに今度は必ず取りもどしてあげる」に、見事に引っかかっている。「イヤだってさんざん言ったんですけど…。どうしてもって言われて、断り切れなくて…」という嘆きを聞くのは切ない。

私のようなケチと、この老女のような気前の良さと、どこで分かれるのだろう。


2004年10月29日(金)
米長邦雄を糾弾する  

以下は、朝日の報道。
「天皇陛下は28日の園遊会の席上、東京都教育委員を務める棋士の米長邦雄さん(61)から「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と話しかけられた際、「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と述べた。」

共同通信は、以下のとおり。
「東京・元赤坂の赤坂御苑で28日に開催された秋の園遊会で、天皇陛下が招待者との会話の中で、学校現場での日の丸掲揚と君が代斉唱について「強制になるということでないことが望ましいですね」と発言された。
棋士で東京都教育委員会委員の米長邦雄さん(61)が「日本中の学校に国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と述べたことに対し、陛下が答えた。」

問題の第1は、米長が天皇の政治的利用をたくらんだこと。これは、現行憲法下の禁じ手である。天皇制は人畜無害を前提にかろうじて存続が許されているからだ。もともと、天皇は政治的利用の道具であった。そのことが天皇制批判の最大の根拠である。天皇の政治的利用をたくらんだ者の責任は徹底的に糾弾されなければならない。二歩を打った棋士米長はその瞬間に負けなのだ。天皇制存続派にとっても米長の行為は愚かで苦々しいものであろう。

問題の第2は、米長の意図とは違ったものにせよ、天皇が政治的な発言をしたことにある。国旗国歌問題について、天皇がものを言う資格など全くない。自ら望んだ会話ではないにせよ、出過ぎた発言である。天皇には口を慎むよう、厳重注意が必要だ。

問題の第3は、宮内庁の発言である。
羽毛田信吾次長は「国旗や国歌は自発的に掲げ、歌うのが望ましいありようという一般的な常識を述べたもの」と話した(共同通信)という。冗談ではない。少なくとも私は、そのような「一般的な常識」の存在を認めない。毎日に拠れば、羽毛田は、天皇の真意を確認しての会見という。「一般常識として歌うのが望ましい」との認識を天皇が有していたという発言自体が大きな問題だ。羽毛田見解が天皇の発言を「国民が自発的に国旗国歌を掲揚・斉唱するのが望ましい」との内容と釈明したとすれば、天皇の責任をさらに重大化するものである。

天皇は黙っておればよい。誰とも口を利かぬがよい。それが、人畜無害を貫く唯一のあり方なのだ。彼の場合、何を言っても「物言えばくちびる寒し秋の風」なのだから。


2004年10月30日(土)
後藤道夫教授が語る展望    

新聞の社説とは、もったいぶっている割りに大したものではない。産経・読売がずれているのは取り立てて話題にもならないが、朝日も例外ではない。本日の社説は大きくピントがはずれている。

その社説は、「国旗・国歌 園遊会での発言に思う」という標題。
まず、天皇を政治的に利用しようとした米長の言動を「軽率」とする。あまりに腰の引けた言い方だが、これは誰の目にも明らかなこと。その上で、「天皇は、政治的に利用されかねない事態で、結果としてそれを防いだ」とする。ここがおかしい。

朝日の社説子は、「(天皇の)発言の内容は、政府の見解のとおりだった」「陛下が政府見解を述べたことは、結果としてそれ(天皇の政治的利用)を防いだとも言えよう」と述べる。天皇の発言が「国旗・国歌のように鋭い対立をはらんでいる問題」に踏み込んだものとの認識に立ちながら、政府見解に沿った内容であるから問題ない、という文脈である。これが、朝日の論説室の見解だとすればまことに情けない。天皇制に対する警戒心を全く欠くもので、批判精神のカケラも見えない。

天皇とは、もともとが時の権力の方針を権威づける道具立てであった。政府見解を是認する発言をすることが危険性の根幹なのだ。今回は、たまたま極右の見解に同調しなかっただけ。危険な天皇の政治的発言を「政府見解を述べたのだから問題ない」というのは不見識の誹りを免れない。

天皇発言を「政策や政治に踏み込んだものではない」「憲法の趣旨に反することではない」とする宮内庁・官房長官の説明を、「妥当な判断だと思う」のであれば、社説に出すほどのこともなかろう。これで、社論統一なのだろうか。

ところで、本日午後は後藤道夫教授をお招きしての日民協憲法研究会。人も知る新自由主義分析専門家のレクチャー・テーマは、『新自由主義改革と憲法改正ー「社会的責任」と「自己責任」』というもの。その詳細は「法と民主主義」11月号に譲るとして、感想を述べておきたい。

教授は、経済成長の時代の「開発主義国家体制」が終焉を迎え、同時に福祉国家理念も捨て去られて、新自由主義改革が国是となっている。すでに、自助・自己責任が強調され、国家責任が無限に後退している。憲法改正の諸案にそれが反映している、と言う。

雇用の安定が崩壊し、全体としての低所得化、階層分化が進行している。これに対抗すべき労働運動は停滞し、教育における二極分化、社会不安も蔓延しつつある。

後藤教授がエライのは、その矛盾のしわ寄せを受ける階層の抵抗運動に、自らコミットしていること。急激な若年非正規雇用労働者が増大し無権利状態にある。教授は、パート、アルバイトなど不安定雇用の青年たちの労働組合「首都圏青年ユニオン」の活動に関わり、その「支える会」を立ち上げて自ら事務局を担当している。自宅の住所とメールアドレスを明記したビラを配って歩いているのだ。

正規労働者が切り崩されて非正規労働者が増大しているのなら、これまで労働運動の「周辺」でしかなかった非正規労働者を組織し運動の力量をつけていこう。ここから展望が開けるのでは、と言うわけだ。実践者の言葉は重い。


2004年10月31日(日)
米長君、君に教育委員は務まらない  

米長邦雄君、君は教育委員にふさわしくない。潔く辞任したまえ。

君は、棋士として名をなしたそうだ。産経新聞社主催の棋聖戦では不思議と強くて「永世棋聖」を名乗っていると聞く。僕も将棋は好きだがまったくのヘボ。永世棋聖がどのくらいのものだか、君がどのくらい強いのか理解はできない。

しかし、これだけは僕にも分かる。君は盤外のことはよく分からないのだ。そして盤外では、自分の指し手に相手がどう対応するのか、まったく読めない。将棋ができることがエライわけではなく、将棋しかできないことが愚かでもない。問題は、盤外での君が、愚かを通り越してルール違反をしたこと。禁じ手を指したのだ。即負けなのだよ。教育委員が務まるわけがない。

本来、教育委員というのは、重い任務なのだよ。日本の将来の少なくとも一部に責任を持たねばならない。将棋を指すこととは、根本的に異なる。それなりの見識がなければならない。床屋談義のレベルで務まるものではないのだ。不見識を露呈した君は、その任務に堪え得ない。だから、一日も早く辞めたまえ。それが、若者の将来のためでもあり、君自身のためでもある。

君は園遊会で、天皇に次のように話しかけた。
「日本中の学校に国旗を上げて国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます」
このことは、複数のマスコミ報道が一致している。ところが君のホームページを見ると、国旗国歌問題については何の会話もなかった如くだ。この姿勢はフェアではなかろう。君のやり方は姑息だ。ちっともさわやかではない。

君が天皇へ話しかけた言葉に不見識が露呈されている。君の頭の中がよくみえる。君は、子どもたちの無限の可能性を引き出す教育という崇高な営みについて何も考えてはいない。教育について何も分かってはいない。国旗・国歌問題だけが「私の仕事」と信じこんでいるのだ。しかも、天皇からさえ批判された「強制」が君のこれまでの仕事なのだ。

君は棋聖なのだから、自分が一手を指すまえに相手の二手目の応手を読むだろう。それなくしては一手を指せない。きみは、天皇に話しかけるに際して、相手の反応をどう読んだのか。いったい天皇のどんな返答を期待したのだろうか。願わくは「しっかりやってくださいね」という激励、少なくとも「そうですか。ご苦労様」という消極的同意を期待したものと判断せざるを得ない。でなくては、棋士米長にあるまじき無意味な発語。君がどんなに否定してもそのような状況でのそのような意味を持つ発言なのだ。

これは、天皇の政治的利用以外の何ものでもない。君も知ってのとおり、日本には最高規範として日本国憲法というものがある。憲法では天皇の存在は認められているが、厳格に政治的な権能は制約されている。そもそも、天皇の存在自体が憲法の本筋として定められている国民主権原理に矛盾しかねない。政治的にまったく無権限・無色ということでかろうじて憲法に位置を占めているのが、天皇という存在なのだ。だから、天皇の政治的利用は、誰の立場からもタブーなのだ。君は、そのタブーをおかしたのだよ。不見識を通り越して、ルール違反・禁じ手だという所以だ。

天皇が、君の問いかけに対して、こう答えたと報じられている。
「やはり強制になるということでないことが望ましいですね」
君と一心同体の産経だけが、、「望ましい」でなく、「好ましい」としているそうだが、どちらでも大差はない。

これは、天皇としてあるまじき政治的発言ではないか。誰が考えても、学校教育の現場での国旗国歌のあり方が政治的テーマでないはずがない。しかも今、強制の波は現実の課題として押し寄せ、大量処分と訴訟にまで発展している。政治的に大きく割れた意見のその一方の肩をもつ発言を天皇がしたのだ。由々しき事態である。この問題発言を引き出したのは、米長君、君だ。君自身が責任をとらねばならない。

もっとも、君もさぞかし驚いただろう。天皇は、君がやっている「日の丸・君が代」強制の事実を知っていたのだ。しかも、それに批判的な見解をもっていた。都教委が現場の教師に起立・斉唱を強制し、これを拒否した教員を大量処分した事実に関心を持ちよく新聞も読んでいたのだろう。即座に、強制反対を口にしたのは、予てからこの事態を苦々しく見ていたからに違いない。皮肉なことだが、君とその仲間がやっていたことは、天皇のお気に召すことではなかったのだ。

この天皇の発言に対する、君の三手目の指し手が次のとおりだ。
「ああ、もう、もちろんそうです」「ほんとにもう、すばらしいお言葉をいただきましてありがとうございました」
これをどう理解すればよいのだろう。君は多分天皇崇拝主義者なのだろうね。だから、天皇に反論したりはせず、滑稽なほど迎合した発言になってしまったのだろう。それはともかく、君は、「強制でないことが望ましい」に対して、「もちろんそう。すばらしいお言葉ありがとう」と言ったのだよ。天皇の前でのこの言葉を、まさか、撤回ということはあるまいね。今後は「すばらしいお言葉」を無視して、「日の丸・君が代」の強制を続けることなどできはすまい。

実は、君の一手目がルール違反で敗着。指し継いでも、相手の二手目が絶妙手で君の負け。三手目は詰んだあとの無駄な指し手。

もう君には、教育委員の重責は務まらない。やることがあるとすれば、君の言のとおり強制を望ましくないとして、処分を撤回すること。それができないのなら、すぐに辞めたまえ。君の流儀は「さわやか流」というそうではないか。この際さわやかに潔く辞めることが、君の名誉をいささかなりとも救うせめてもの「形作り」なのだから。


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