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◆特集にあたって
二〇一九年四月三〇日、現天皇は退位し、五月一日には新天皇が即位する予定である。被災地を訪問したり、過去の悲惨な戦争への反省をたびたび口にする天皇については、国民のなかにさまざまな評価がある。
ただ、ここで問題とされるべきは、天皇個人の問題ではなく、そもそも「天皇制」という制度自体、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」という憲法の基本原理と相容れるものなのかという問題であるように思われる。
とくに天皇退位や新天皇即位に際しては、憲法の基本原理と天皇制の関係を顕在化させる、さまざまな出来事や社会的事象が生じると思われる。
そこで今回の企画では「天皇制」を取り上げ、「天皇制」と憲法の基本原理の問題を原理的に問い直すことにした。
言うまでもなく、今回の天皇の「代替わり」の特徴は、安倍晋三というこれまでになかった首相の下で、公然と憲法改正が論議される中での動きである点だ。この点を踏まえ、巻頭の森英樹前日民協理事長には、歴史的視点に立っての分析をお願いした。「改元と改憲のビミョーな関係」は私たちの運動も踏まえての論考である。
次に、天皇問題について学界をリードされてきた横田耕一九州大名誉教授には「憲法原則と『象徴天皇制』」の執筆をお願いした。
これらの指摘を踏まえて、今回、焦眉の問題については、そのものずばり、植村勝慶國學院大教授が「退位・新天皇即位と憲法──皇位継承の作法と効用」で、状況を分析している。
庶民の生活に深くかかわる論考もお願いした。「天皇制のシンボル・『日の丸』『君が代』の強制」については、裁判闘争で闘ってきた植竹和弘弁護士、「天皇制とジェンダー」は、志田陽子武蔵野美術大教授、「元号制の欠陥と、その本質」は澤藤統一郎弁護士である。
憲法を考える上で、沖縄を欠くことは出来ない。天皇制問題にしても同じである。高良鉄美琉球大教授の「沖縄と天皇制──憲法史の視点から」は、改めて多くの問題を考えさせてくれる。
裁判官が思考を停止するマジックのように使われるキーワードがあります。
さいたま市の公民館の俳句サークルで、毎月当月の秀句を選び、選ばれた俳句が3年8ケ月にわたって公民館だよりに掲載されてきました。ところが突然掲載を拒まれた事件です。「九条俳句訴訟」と言われています。俳句に九条が詠まれていたからです。
〈梅雨空に
「9条守れ」の
女性デモ〉
さいたま地裁、東京高裁とも、たよりへの俳句不掲載を違法と断じ、慰謝料の支払いを命じました。不掲載が俳句の作者(原告)の教育権・学習権を侵害すると認定し、社会教育施設である公民館での様々な自主的な活動は憲法26条に根拠を持つ学習権として保障された活動であることを認めたものですが、二つの判決ともこの問題が表現の自由の侵害でもあることを正面からは認めていません。これらの判決に見られる『「特定の媒体による表現行為の制限が表現の自由を侵害するというためには、表現者が、当該表現手段の利用権を有することが必要』」とする立論は、最近の裁判例でときどきに見かけます。
新安保法制の違憲性を争う訴訟に参加して、南スーダンで起こっている事実、現地自衛隊からの報告書が隠蔽された事実、日米軍事一体化を示す事実を、準備書面にしてきました。集団的自衛権を容認した新安保法制下という視点で見ると、文字通り毎日のように、日米両軍の作戦行動や共同訓練が行われていることに気づかされ、さらに、それらが、敵基地攻撃能力を持つ自衛隊の訓練として注視されます。また、トランプ大統領によるイラン制裁の再開と、それに対抗するイランのホルムズ海峡での軍事演習など、数年前までと全く様相を違えて、日本政府が、何時トランプ大統領に追随して「原油の流入が止められる死活的危機であり、「重要影響事態」に相当する」と言い出さないとも限らないとも思えるのです。ところが、新安保法制の違憲性を国家賠償訴訟の形で争うとなると、『侵害された原告らの権利は何か、平和的生存権は具体的権利性を持つのか』と言うハードルにぶつかります。
最近さいたま地裁に提訴された公立学校の教員の残業代請求事件があります。かって同種事件を担当した弁護士として関心をよせています。教員の時間外勤務の多さはしばしば社会的問題として提起されますが、この数十年いっこうに改善されません。公立学校の教員には給特法(公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法)の下、調整給が支払われることで、正規の勤務時間を超えて勤務しても時間外勤務手当は支払われないという解釈が行われてきましたが、現在は必ずしもそうではなく、むしろ教員にも労働基準法が原則として適用されるから、時間外手当の請求が認められる場合があることが原理的には確認されつつあります。しかし、実際の判断としては、その認定を逃げるというのが先例となっています。『教員の労働は自主的自発的労働である』とするのが、その論理です。
いずれもが、裁判所が事実に向き合い重要な判断を迫られた場合、その社会的影響の大きさに逡巡し、逃げ道に使われるのです。これさえ使えば良心の呵責に悩むことがないキーワードとして。今裁判の現場ではそれらのマジックワードの克服が求められています。
(ささき しんいち)
©日本民主法律家協会