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◆特集にあたって
1 「学びと政治」をめぐる危機的状況
いま、「学び」(=教育と学問の世界)と政治との関係が、危機的とも表現しうる状況にある。最直近に生じた(発覚した)事案としては、いわゆる「森友学園」、「加計学園」の問題がある。これらは、@戦前回帰型教育の唱揚によって「立憲主義」に、A政治・行政の私物化と行政決定プロセスの歪曲とによって「法治主義」に、B国会と行政部内での真相の究明への政府・与党の消極姿勢、端的にはその妨害によって「民主主義」に背馳するという意味で憲法の根幹に関わる問題であり、それゆえに安倍政権の屋台骨を揺るがしており、かつそれに値する。
また、これらの問題は、思想・良心の自由(憲法一九条)と表現の自由(二一条)との高次な水準における行使とその保障の形態とも言える学問の自由(二三条)と教育を受ける権利(二六条)、それらに基づく「条理」として派生する「教授と教育の自由」によって本来的に規律される(べき)世界としての「学びの世界」にとって深刻な危機的状況をもたらすものである。「森友学園」小学校の設置不認可は、スキャンダル以前の問題でもある。
本特集の企画は、「森友問題」が取りざたされる中、「加計問題」が浮上する以前に立案されたものだが、その各論稿は、今日の「学びの世界」の危機的状況をそれぞれに照らし出すものである。なお、軍学共同問題を扱う連載企画「憲法九条実現のために」の佐藤岩男論文もあわせて参照されたい。
2 複合的危機としての「学びと政治」
政治の世界における危機、とりわけ政変や変革をうながし、それらをともなう危機は、常に(少なくとも通常は)複合的なものである。いささか大仰だが、イギリスやフランスの市民革命、アメリカの独立革命は、いずれも政治・経済・財政の諸要因からなる社会構造全般における危機から生じた「複合革命」であったし、そこまで遡らなくとも、アメリカのトランプ政権の誕生やイギリスのEU離脱もまた、様々な複合的要因の産物である。そのようなものとして「読み解く」べきものである。そして、相次ぐスキャンダルによって苦境に立たされているトランプ政権、今月の下院総選挙における「敗北」(第一党の座を維持したものの過半数割れ)によって窮地に追い込まれたメイ政権の現状の危機も、内政・外交・安全保障など多くの政策要因が関わっている。
今日の日本における「学びと政治」の危機的状況も、まさに複合的である。教育勅語の取り扱いを含む道徳教育の問題(成嶋隆論文参照)は、明治維新以降の日本の歪んだ近代化の「負の遺産」がなお清算されず、いまだに現実的な意味を持っていることを物語っており(本特集の総論的な位置をもつ三輪定宣論文参照)、この問題は、「スポーツと国家」、「スポーツと商業主義」すなわち国のスポーツ政策にも表出している(青沼裕之論文参照)。
他方、戦後日本の「宿?」のような「利益誘導型政治」構造と双子のように形成されてきた政官関係の今日的現れが、文科省から大学への「天下り」問題である(晴山一穂論文参照)。「森友」と「加計」の二つの問題とも、同じ構造を土台にしていると見なければならない。事は「アベ政治」だけの問題ではない。その根源はより深いところにあり、これら二つの問題は、その問題性が極めて露骨に現出したのにすぎない。前述のように問題自体は、憲法原理に照らして深刻なものではあるが。
そして、「戦後日本」に一貫した構造という点では、憲法二六条二項の(義務)教育無償化規定の存在にもかかわらず、根強い「教育費の私費依存」体質がある。それは、新自由主義が台頭する一九九〇年代に加速し強化された。それが今日、「子どもの貧困」、「ブラックバイト」などの言葉に象徴される生徒・学生の窮状を生み出している(三輪論文・岡村稔論文参照)。新自由主義の教育への大波は大学にまで及び、その決定打となった「大学法人」化が、今日の日本の大学全体に深刻な困難をもたらしている(都留文科大学文学部教員有志論文参照)。
このように、明治日本における近代教育の成立期以来の歪み、日本国憲法下の戦後型統治(なお官僚システムと官僚機構は戦前との連続面が濃厚)における政・官・学・財(産業界)の「いびつ」な関係構造などを歴史的基層として、それらを土台としながら展開する新自由主義的文教政策は、「改革」の名の下に権力による支配を強化し、「規制緩和」の掛け声の下で私的利益の露骨な追求をはかることで、本来的には自由・自治・民主主義を育みかつそれらによって育まれるべき「学びの世界」を大きく深く蝕んでいる。今日の危機は、まさに「複合的」なのである。
3 本当の「学び」の再生に向けて
危機を複合的にとらえるのは、「学び」の今日的窮状の詳細な解明からしか、その克服・打開の展望は拓かれないからである。こう書いている企画者は、いわゆる「方法二元論」(認識と実践の峻別論)に対して批判的に向き合う「認識と実践の統一」の視座に立つことを自覚している。根本的な変革が求められるからこそ、対象の深い認識が必要なのである。そのためには、次代を担う「若者」による近現代史や現代社会への洞察の涵養は不可欠である(岩本努論文参照)。
本特集企画が、「本当の学びとは何か」を問う契機となれば幸いである。その手がかりは、七〇年前に制定された日本国憲法の中にある。ゆえにあえて「再生」という言葉を使う。
法科大学院の今年の入学者数はわずか1704人。立教、桐蔭横浜、青山学院が来年の募集停止を発表した。
2001年の司法制度改革審議会報告書は、司法改革を、政治改革、行政改革などの「一連の諸改革の最後のかなめ」と位置づけた。そこに本質が見える。ここでは、司法をになう「人」の面から述べたい。
言うまでもなく、戦後の司法制度は戦前の司法に対する反省を踏まえてできた。弁護士自治も弁護士法1条もそうである。「入り口での法曹一元」とも言われた、統一試験・統一修習として法曹養成過程が制度設計された。司法試験は誰でも受けられる開放的で平等・公平な試験、司法修習は国が責任をもって法曹を養成する制度(給費制で、国家公務員に準じる立場)、最高裁の下にあるとはいえ法曹三者が一緒に(統一して)養成を担う制度だった。
ところが「司法改革」によって司法試験合格者数の激増(弁護士人口の激増)や、法科大学院制度(原則として法科大学院修了を司法試験の受験資格とする)が実施され、戦後の司法制度の理念を変容・変質させる危機的な事態が進行している。大学にとっても深刻ではないか。
弁護士人口は2000年3月末の1万7126人から今年5月1日の3万9011人に激増している。弁護士の階層分化や司法修習生の就職難が進行している。
法曹志望者が激減、多様性を失い、裾野がやせ細っている。
法科大学院は74校中31校が募集停止。入学者数は右肩下がりで今年は1704人(法科大学院受験者数は延べ人数。実際の志望者数は適正試験受験者実数が最大値で、これも減り続け3300人を切った)。今年の入学状況は、ほぼ全て定員割れ。約半数は定員の6割にも満たない。「有名校」も多く含まれる18校が入学者数過去最低を更新。来年募集は4校減り39校となる。
法科大学院の入学者数が右肩下がりだから、当然司法試験の受験者数も減少する。昨年は司法試験受験者数6899人(前年より1117人減)、合格者数1583人。今年の司法試験受験者数は6000人を切り、今後も減少する。司法試験の選抜機能の面でも懸念が生じる。
戦後約65年間続いた受験制限のない司法試験制度が廃止されたため、2011年から受験制限のない予備試験が実施されているが(予備試験合格者は、翌年以降司法試験を受験できる資格を得る)、合格率3%台と狭き門だ。
法科大学院修了を司法試験の受験資格とされたために、法曹志望を断念する者の存在とその意味を考えるべきだ。断念の要因は、経済面だけでなく、法科大学院に通えない居住地(今や募集する法科大学院の所在地は14都道府県のみだ)、仕事をやめて法科大学院に行くことはできない、家庭責任(扶養義務、育児、介護、家族との同居等)、身体条件、学歴など、さまざまな要因がある。
法科大学院に通うことのできる階層・出身・立場の者しか法曹になるのが困難な事態をもたらし、そのような法曹(弁護士、裁判官、検察官)によって担われる司法のあり方に悪影響を及ぼす。多様性の喪失、有為の人材を引きつけられない、母数の少数化(選抜機能喪失)、二極分化で法曹になる前から多額の借金を抱える層、等々、司法を担う「人」の面から懸念材料となる。弁護士人口の激増もあいまって、弁護士自治や弁護士法1条を大切にする姿勢等についても悪影響の懸念がある。
間違いは根本から正すべきだ。法科大学院修了を受験資格とすることをやめる。法学部の充実。司法試験合格者数の削減。司法修習を法曹養成の中核に。
日本には全国に法学部があり、長年に渡って、幅広い分野に一定の法的知識・素養をもった人材を輩出してきた。その法学部の不人気化も著しく、裾野自体がやせ細っている。研究者養成も困難となっている。法科大学院修了を司法試験の受験資格とすることをやめることで、学部の充実等、大学側にとっても選択肢が拡がると思う。
©日本民主法律家協会