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 法と民主主義2017年1月号【515号】(目次と記事)


法と民主主義2017年1月号表紙
特集★2017年 平和と民主主義を問う
◆巻頭言●日本国憲法施行70周年の年初に思う──この国の立憲主義はいま………右崎正博
■特集T●激動する世界──アメリカと韓国から
特集にあたって………澤藤統一郎
◆トランプ大統領誕生と日本の対応………霍見芳浩
◆韓国における朴大統領疑惑と民主化運動のダイナミックス………李京柱

■特集U●南スーダン・PKO自衛隊派遣を考える
特集にあたって………永山茂樹
◆自衛隊PKO活動の変質と憲法上の問題点………清水雅彦
◆国際NGOから見た自衛隊PKO活動………谷山博史
◆動きだす安保法制とどう向き合うか………柳澤協二

  • 特別寄稿●ハンセン病問題と法学界の責任──「特別法廷」問題を中心に………井上英夫
  • 連続企画●憲法9条実現のために〈10〉「攻め」の市民運動を………伊藤千尋
  • 司法をめぐる動き・第4次厚木基地爆音訴訟 最高裁 逆転不当判決………関守麻紀子
  • 司法をめぐる動き・2016年12月の動き………司法制度委員会
  • メディアウオッチ2017●《「本当のこと」とは何か》罷り通る「ウソ」、作られる世論  ジャーナリズムを取り戻そう………丸山重威
  • あなたとランチを〈bQ3〉………ランチメイト・伊藤和子先生×佐藤むつみ
  • 追悼・平和と人権の確立のために闘い続けた生涯──故池田眞規弁護士を偲ぶ………新井 章
  • 時評●最高裁判所は憲法を守る立場に 辺野古の上告審判決に関連して………吉田博徳
  • ひろば●事務局長 新年のご挨拶………米倉洋子

 
特集T激動する世界──アメリカと韓国から

◆特集にあたって
 二〇一七年正月。あらたまの歳の始めだが、目出度さも中くらい。とても明るい希望の新年とは言いがたい。
 まずは国内。今年の五月三日に、日本国憲法は施行七〇周年の記念日を迎える。しかし、衆参両院とも改憲派の議席が三分の二を占めるこのありさま。辺野古や高江の基地建設強行に象徴される政権の凶暴さが際立っている。南スーダンでは明日にも何が起きるか分からない。昨年暮れには、TPP法案、カジノ法案が、まともな審議もなしに成立している。安倍内閣の下、格差と貧困はジリジリと拡大し、立憲主義も民主主義も眠り込まされているが如きである。
 そして、世界がまさしく激動している。
 すでに、ポストトゥルースの時代だという。だれもが漠然と感じている。世界は退歩しつつあるのではないか。人間の知性に信を措くことのできない時代が始まっているのではないか。どこの国の社会も分断されているのではないか。知性や理性を語る人は、今や社会の少数派に転落し、人類愛や民主主義や平等などの理念は輝きを失ってしまったのではないか、と。

 大量の難民問題をきっかけに、世界中のどこにも、人種や民族に対する差別と、排外主義が横行している。テロの脅威よりもさらに恐るべき事態として、文明の質に傷が生じるまでになっているのではないか。これまで公の場では口にできなかった、ならず者同様の言説が権力者から発せられ、それが喝采を浴びることとなっている。

 今年の新年の挨拶は、「昨年は、イギリスが国民投票でEUから脱退し、アメリカ大統領選ではトランプが当選し…」という枕詞で始まる。この枕詞は、民主的な先進国の国民が誤った情報を鵜呑みにして誤った選択をした。あるいは、他国の国民との協調よりは自国の利益を優先した。あるいは、民主主義が行き詰まりその負の側面であるポピュリズムが横行する時代になった、というニュアンスで語られている。
 この枕詞に続いては、「今年は、ヨーロッパ各国の政権選択選挙が続き…」となるが、そこでの希望は語られない。もしかしたら、世界の激動はもっと深刻な事態となるのかも知れない。

 しかし、本当に事態は絶望的なのだろうか。この事態をもたらした政治的混乱の原因はどこにあるのだろうか。どうすれば、格差・貧困・経済摩擦・雇用の縮小の根本原因を解決して、この事態からから脱出できるのだろうか。

 一月一三日に開かれた、日民協の最初の理事会(兼「新春の集い」)で森英樹理事長が、年頭の挨拶の中で次のことに触れた。「あまり話題にならないのですが、今年は一九一七年一一月にロシア社会主義革命が成就して一〇〇周年、そしてその崩壊から二五周年となります。いま、その生成と崩壊の歴史に学ぶべきところはないのでしょうか」「そして、今年はルターが宗教改革を宣言した一五一七年一〇月から五〇〇周年でもあります。カトリックの精神支配から個人を解放し資本主義を準備したという宗教改革からも学ぶところはあるはずです」。
 今の世界の激動と混乱の原因を資本主義そのものの矛盾の表れとしてとらえ直すべきではないか、そしてその矛盾の克服の方途を歴史に学べという示唆である。

 アメリカ大統領選は、大富豪が経済的に困窮するホワイトプアー(白人困窮者層)からの支持を集めて当選するという逆説的トランプ現象の結果を生じた。しかし、民主党の予備選挙では、民主社会主義者を自称する候補者の大健闘、サンダース現象があったことを忘れてはならない。トランプ現象の結果だけからは絶望しか見えてこないが、サンダースを支持した若者たちが、トランプへの抗議を継続していることに希望を見ることができよう。
 激動する世界を、まずは負の部分を正確に認識しなければならない。そして、同時にパンドラの箱に残っている美しい希望を見失ってはならない。今号の特集は、その両者を代表するにふさわしい二本の論稿を掲載する。
 まずはアメリカのトランプ現象である。ニューヨークにあって、現地の状況を詳細に知る寉見芳浩さんの「トランプ大統領誕生と日本の対応」。トランプを「欠陥人間」大統領と表現しているが、なるほどこれだけの事実を集積すればそのとおりではないか。
 そして、トランプ現象をヒットラー現象になぞらえての次の指摘には背筋が寒くなる。「その昔、ナチス独逸を創り上げたアドルフ・ヒットラーは、第一次世界大戦に敗れて過大な賠償金の重圧にあえぐドイツ国民に『すべてがユダヤ人のせいだ』と叫ぶ、これにドイツ国民の大半が「そうだ」と飛びついた」。今、アメリカでよく似た事態がおきているのだ。
 もう一本が、李京柱さんの日民協憲法委員会での講演を原稿化した「韓国における朴大統領疑惑事件と民主主義のダイナミックス」。こちらは、桁外れの大規模デモの繰りかえしで、民意を外れた大統領を弾劾訴追にまで追い込んだ「民衆の力」の発揮である。アメリカでは、民衆が「欠陥人間」を大統領にした。韓国では、民衆が疑惑の大統領を引きずり下ろした。このコントラストは、興味深い。
 李京柱さんは、「民主主義のダイナミックス」を美化していない。その不十分な側面、危うい側面の指摘も忘れない。しかし、この二本の論文をならべて読めば、明らかに韓国の民衆運動は学ぶべき希望に満ちている。とりわけ、韓国に「路上の民主主義」の文化が根付いていることに注目しなければならない。
 両論文とも、最後は日本に言及している。憲法施行七〇周年のこの年。世界や歴史から学び、またその実例を反面教師ともして、明文改憲を許さず解釈による壊憲も許さない民衆の力を作りあげていきたい。


「法と民主主義」編集委員会 澤藤統一郎

 
特集U南スーダン・PKO自衛隊派遣を考える

◆特集にあたって
 PKO協力法改正法(一五年。以下、改正法)は、@国連PKOとならび、国連が統括しない「国際連携平和安全活動」を新設、A自己保存にくわえて任務遂行のための武器使用を容認、B武力行使につながる危険性のたかい業務を追加(治安維持活動、司令部業務、「駆けつけ警護」、他国軍隊との共同宿営地の共同防護など)を柱としている。
 わたしたちは、改正法の実施を違憲とかんがえ、実施しないようにもとめてきた。しかし政府は「南スーダン平和維持業務」実施計画を、改正法に対応したあらたな任務を盛り込んだものにあらため(一六年一一月一五日)。南スーダンPKO(UNMISS)第一一次隊として、陸自第五普通科連隊を中心とした部隊を派遣した。
 南スーダンでは諸勢力が群雄割拠している。現地政府すらPKO受け入れに消極的である。PKO派遣の法的・政治的条件はまったくととのっていない。にもかかわらず、首都ジュバに立ちよって「状況は落ち着いている」と楽観的な感想をのべた防衛大臣には、派遣させる者がもつべき緊張感と責任感が欠けている。
 中国PKO要員に死者がでたジュバの武力衝突後、国連安保理は決議二三〇四で、周辺国を中心に四千名の地域防護軍を設けるときめた(同年八月一二日)。しかしいまも紛争はおさまっていない。死者は数十万人、周辺国に逃れた難民は百万人を超えたという試算がある。
 〈平和憲法の蹂躙〉と〈南スーダンへのPKO派遣〉という、二重に緊迫した情勢下にあって、わたしたちはどうするべきなのか。その課題をあきらかにするため、改憲問題対策法律家六団体連絡会は、立憲フォーラムと共催で「南スーダン・PKO自衛隊派遣を考える院内集会」をひらいた(一〇月二七日)。特集の論説は、清水雅彦・谷山博史・柳澤協二の三氏(以下敬称略)に、当日の報告をまとめていただいた結果である。
 以下、簡単なコメントを付して紹介にかえよう。
 清水論文は、九条の消極的平和主義(戦争のない状態をめざす)と、憲法前文の積極的平和(構造的暴力のない状態をめざす)とを前提にすえた。そのうえで、法制・実態・反対する側の論理と行動を、「変質」という時間の観点から検討した。そして@法制について、PKO法(九二年)自体に問題のあったこと、A実態について、「大国も加わる、派遣先国の受け入れ同意がなくても重武装で強制力を持って活動するタイプのもの」へと変容したこと、B反対する側の論理として、PKO法制定当時の広汎な反対運動を想起すべきこと、などを論じた。
 わたしたちは「とりあえずの安保法制廃止論」と、「そもそも軍事法制廃止論」とを使いわけながら、安保法制廃止運動の担い手をひろげてきた。清水の議論は、この使いわけがどこまで有効なのかを問いかけている。
 もちろん使いわけは、〈九二年後・一五年前の状態〉を積極的に合憲とするための議論(「駆けつけ警護」がなく、自己防衛のための武器使用に限定されていればよい、といったもの)ではない。ある種のPKOの違憲とするための消極的なものだった。だが清水が指摘するように、そもそもの地点に立ち戻り、積極的で軍事主義的な議論との距離をおく意識が大切かもしれない。
 谷山論文は、「安保法制が実際に運用されたら…自衛隊は必ず紛争に巻き込まれ、紛争の当事者になり、交戦状態に陥る」という「実感」を、谷山じしんとJVCの活動の経験をふまえて論じている。
 南スーダンについても、重要な事実が多々紹介された。それは、@ジュバ市内で、大統領派と副大統領派のあいだの戦闘があったこと。そしてそこはかつて自衛隊も活動していた地域であること、A各地で残虐行為が頻発し(「ニワトリのように」子どもたちが殺される)大量の避難民が生じていること、B一度はジュバ非武装化が約束されたが履行されず、約束は完全に破綻したこと、C現地の状況について、南スーダン政府が情報統制をしいており、正確な情報が外部につたわりにくいこと、などだ。
 南スーダンはあきらかに武力紛争地である。にもかかわらず、なぜ、日本政府は武力紛争でないと強弁し、軽装甲機動車と軽機関銃のまま自衛隊を派遣するのか。谷山はその理由について、「武力紛争であるとPKOの派遣五原則が破綻するから」であり、また「紛争当事者でないのだから、(自衛隊が)武器を使っても警察行為だという理屈」が成り立つからであると指摘する。
 安保法制の運用とは、抑止力にたより、自衛隊の海外活動を拡大させることである。それは「どういう国でありたいのかという国家像の選択」を意味するのだが、そのことがかんがえられていない。
 柳澤論文は、こうとらえる。
 柳澤は、安保法制の運用が「今そこにある危険」を現実化させるという。「危険」とは、@戦争のリスク=(米艦防衛)A戦死のリスク=(PKO)にもかかわらず「一番リスクテイクしなければいけないところを放ったままこういう任務をやらせようとしている、つまり、これは、憲法が想定していないことなので、その意味で憲法違反だと思います」と、述べる。
 三報告がえぐりだした問題を、現実の憲法政治の枠組みのなかに反映させていくには、国会内外における主権者と国民代表の十分に連携した活動が必要だ。
 法案を成立させた国会では、二つのリスクについて「ほとんど議論がなされませんでした」(柳澤)。だが問題は、安保法制の制定過程にどとまらないようにおもう。
 一一次隊を派遣する必要性と合理性(改正法によれば、駆けつけ警護の付与による実施計画の変更は、国会の事前承認対象から除かれているけれども)、南スーダンPKO日誌の破棄問題、救急救命体制の不十分さ、安保理における南スーダンへの武器禁輸決議案にたいする日本代表の棄権(一六年一二月二三日)など、国会で解明すべき問題は山積している。
 憲法平和主義を回復させるとき、議会制民主主義の活性化は避けて通れない。いま国家の最高機関には、鼎の軽重がとわれているのだ。

永山茂樹・東海大学



 
時評●最高裁判所は憲法を守る立場に辺野古の上告審判決に関連して

(全司法OB・日民協理事)吉田博徳

 昨年12月20日、最高裁判所第二小法廷(裁判長鬼丸かおる氏)は、沖縄県名護市の辺野古新基地建設問題に関連して、前仲井間知事が行った辺野古埋立承認を、現翁長知事が取消したことを不服として、政府が翁長知事の取消しを撤回するよう求めた上告審において、「翁長知事が埋立承認の取消しを取消さないことは違法」として、政府側の勝訴県側の敗訴を言い渡しました。これによって政府は、中断していた辺野古埋立工事を再開し、沖縄県民との矛盾を一層拡大しています。

 そもそも辺野古の新基地建設は、1995年に世界一危険な航空基地といわれる普天間米軍基地の米兵が、少女暴行事件を起こしたことに憤激した沖縄県民が、8万人の大抗議集会を行ったことから、米軍の方から普天間基地の撤去を言い出したものですが、日米協議のなかで米側から“代替地”の要求が出され、代替地の内容が二転三転して拡大し、今では広大な海面を埋立てして二本の滑走路を作り、海軍強襲揚陸艦を横付けできる岸壁を持ち、弾薬搭載エリアまで持つという、普天間にはない機能まで持つ巨大な新基地となっており、沖縄戦の歴史的経験をもっている沖縄県民にとっては、再び大きな戦争にまきこまれる恐怖を与えるものとなつています。

 最高裁判決は第1に公有水面埋立法第4条の、「国土利用上適正且合理的ナルコト」という条件に照らし、普天間基地より面積が小さくなるとか、すでに使用中のキャンプ・シュワブ米軍基地を利用しているとかの理由を掲げているが、上告人側が述べている普天間より機能的に巨大な性能をもつものであり、基地利用の騒音や被害が一層多くなること、海中のサンゴや希少動物のジュゴンの絶滅の危惧などについては何もふれていない。上告趣旨に対する司法判断をさけ、仲井間知事の判断は「違法性があるとは言えない」との形式的判断だけであり、普天間基地の移転先は辺野古しかないという、政府の見解を理由抜きに丸呑みしたものというべきです。

 第2に最高裁の判決は地方自治法の趣旨に反していることです。地方自治法は1999年の改定により、国と地方自治体との関係は上下・主従の関係ではなく、対等・協力の関係となりました。沖縄県民がこぞって辺野古の新基地に反対していることは、各種の選挙を通じて誰の目にも明らかであり、41自治体の全首長による建白書の提出によっても示されています。最高裁の判決は故意にこの事実を無視していますから、司法判断といえるものではないと思います。

 第3に憲法の平和原則に反していることです。憲法前文には「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることのないように決意し」とか、9条には「戦争の放棄」や「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」などと明記しています。かって砂川事件の伊達判決では、「米軍の駐留そのものが憲法違反」とする判決もだされました。軍事基地の拡大そのものが憲法に反するというべきです。

 全国土の0.6%しかない沖縄に、在日米軍の74%が駐留していること自体、沖縄県民に過重な負担を強いているのに、さらに普天間以上の米軍基地を、国民の負担によって新設することが、沖縄県民ばかりでなく北東アジアの諸国民にたいしても、新しい軍事的脅威を与えることは明らかです。

 最高裁判所が憲法の番人であることは今さら言うまでもありません。三権分立とは主権者たる国民の立場に立って、政府の行為を監視することであり、政府の政策を丸呑みすることではありません。最高裁判所は国際紛争を解決するのは、武力の脅威や行使ではなく、外交手段などの平和的手段によって解決するという、憲法や国連憲章の立場をもう一度考えてもらいたいものだと思います。
 私は、全国の裁判所と裁判官が憲法を読み直して、司法の原点や任務についての自覚を高めるよう希望したいと思います。



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