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 法と民主主義2012年7月号【470号】(目次と記事)


法と民主主義2012年7月号表紙
特集★韓国憲法事情からみえるもの
特集にあたって………澤藤統一郎
◆韓国憲法裁判所の沿革と現状──二つの「最高裁判所」の競合問題と相乗的発展………岡田正則
◆「人権の最後の砦」としての韓国憲法裁判所………蘇 恩 瑩
◆李京桂(仁荷大学教授)に聞く 敢えて韓国憲法裁判所の「限界」と「権力性」に言及する………李京桂
◆市民との交流が結実した「BSE10万人憲法訴訟」の記録………イ・ヒェジョン
◆韓国の法曹養成事情………鈴木秀幸
◆韓国の憲法裁判所を見学して──司法の国際交流をふやそう………吉田博徳
◆韓国憲法裁判所訪問記「国民の自由と幸福のために」………佐藤むつみ
◆韓国司法制度調査を終えて──「民弁」との交流とこれから………南 典男
■資料■「民主社会のための弁護士会」の委員会紹介

  • 特別企画■法科大学院問題とは何か─その背景と法曹養成の理念を探求する
  • 報告●法科大学院問題とはいかなる問題か………戒能通厚
  • 報告●法科大学院をめぐる現状と打開の方向性………森山文昭
  • 連載・裁判員裁判実施後の問題点●13■「3年後検証」を検証する 承前(中)………五十嵐二葉
  • とっておきの100枚●彼岸への伝言………佐藤むつみ
  • 連続掲載●国連・平和への権利――日本からの提言G人権理事会で作業部会の設置が決まる………笹本 潤
  • 書評●佐藤昭夫著『国家的不当労働行為論U──国鉄民営化による団結破壊との闘い』(悠々社)………萩尾健太
  • インフォメーション●第51回定時総会宣言/特別決議
  • 委員会活動●司法制度委員会/憲法委員会………米倉洋子/小沢隆一
  • 時評●“魔の金曜日”──2012年5月25日………中島 晃
  • kaze●金曜日の夕方に吹き寄せる風………高見澤昭治

 
韓国憲法事情からみえるもの

特集にあたって
 まことにさわやかなカルチャーショックであった。韓国憲法裁判所を見学しての率直な印象である。さわやかさは、同裁判所への共感と敬意の心情であり、ショックは日本の裁判所とのあまりの隔たりによるものである。
 かつて、私たちはドイツの裁判官のあり方を知って、わが国の裁判官との相違に、大きな衝撃を受けた。その思いは、映画「日独裁判官物語」に余すところなく表現されている。そしてまた、お隣り韓国の憲法裁判所である。ここでも、司法のあり方に関しての彼我の落差にあらためて考え込まざるを得ない。
 大韓民国憲法と日本国憲法との人権保障規定にはほとんど差異はなく、両国憲法に共通する基本的な理念は、人類が到達した普遍的な叡智の賜物といってよい。ところが、憲法の理念を顕現する役割を担う裁判所のあり方が、みごとな対照をなしている。
 日本国憲法の理念に照らして、我が国の現実はけっして憲法適合的ではない。憲法理念が納得し得ない法律や条例、あるいは命令や規則や処分は枚挙にいとまがない。公権力だけでなく社会的強者の横暴も目にあまる。この憲法理念と社会の現実との不整合を糺すのが司法本来の役割のはず。日本国憲法八一条は、その旨を明記している。
 ところが、わが国の最高裁は、自らの使命である違憲審査権を行使することに極めて消極的である。とりわけ、人権救済についての司法消極主義は際立っており、最高裁発足以来六五年の間の違憲立法審査権行使件数は十指に満たない。件数だけでなく、その内容も憲法の期待に鑑みれば限りなく貧弱といわざるを得ない。
 政治的多数派が支配する国会と行政府は、往々にして自らが形成する現行の秩序を維持する立場から、その秩序攪乱者として少数派の人権を侵害する。そのとき、裁判所は侵害された少数派の人権を果敢に救済しなければならない。しかし、最高裁を頂点とする裁判所がその役割を果たしていないことにもどかしさを禁じ得ない。憲法が想定する裁判所と現実の裁判所の落差が大きく、憲法の理念を実現すべきその使命に忠実な裁判所となってないのだ。むしろ、不作為によって、人権侵害についての消極的加担者となってはいないだろうか。
 この事態は、けっして三権分立の宿命的な現実や限界ではない。これまでアメリカ合衆国やドイツを比較の対象として念頭においていたが、隣国である韓国の憲法裁判事情も、わが国とまったく異なったものである。一九八八年二月施行の現行憲法に基づいて、同年九月に発足した韓国憲法裁判所は、発足以来の二〇余年間に、六〇〇件をこえる違憲・憲法不合致の判断を積み重ねているという。この彼我の差異は、どこから来るものだろうか。
 今春、日民協の韓国司法制度調査団は、韓国の憲法裁判事情に照らして、日本の最高裁判所の在り方を再考してみたい。そのような問題意識で韓国の憲法裁判所を見学し、「民主社会のための弁護士会」(民弁)を訪問して交流の機会をもった。本特集は、その問題意識の提示である。

 憲法裁判所の見学では、見学者に対する応接の親密さと説明の熱意に驚いた。まずは憲法裁判所のプロモーションビデオを見せられたが、みごとな日本語版であった。英語、中国語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ロシア語版まであるという。そのタイトルが「社会を変える素晴らしい瞬間のために」というもの。憲法裁判所が国民一人ひとりの幸福に直接つながる活動をしているのだという自負が伝わってくる。
 見学者の手許には、案内のリーフレットだけでなく、韓国憲法と憲法裁判所法の全文の小冊子が配布され、最高裁調査官にあたる憲法研究官と、学者として憲法裁判所を支えている憲法研究員のお二人から二時間にわたる懇切な解説を受けた。そのうちのお一人である研究員の蘇恩瑩(ソ ウニョン)さん(東北大学大学院留学の経験者)からは、完璧な日本語による解説と通訳をしていただいた。その幸運がわれわれの憲法裁判所への理解を深めた。
 その後、法廷の見学を希望したところ、快く応じていただいた。青瓦台を望む屋上ガーデンもご案内いただき、その気取らない応対にいたく感心した。わが国最高裁の権威主義的な対応との懸隔を嘆かずにはおられない。

 韓国憲法裁判所の主要なユーザーとしての立場にある民弁との交流も意義あるものであった。交流の席には会長ご自身が出席され、事前の文書質問に対して各担当者が準備された回答をいただいた。一三の委員会が活発に活動しておられるという民弁の実力を垣間見た思いであった。
 また、彼の地で日本語の堪能な李京柱教授(仁荷大学法科大学院教授・一橋大学大学院法学研究科で、杉原泰雄・山内敏弘・浦田一郎の各氏に師事)の明晰なレクチャーを受ける機会に恵まれた。同氏からは、「敢えて問題面を指摘したい」として、「韓国憲法裁判所は人権救済の面でなお十分でない面がある」「またある面では、権限が大きすぎる権力機構としての問題点を指摘せざるを得ない」との貴重な解説を受けた。

 ところで、本来あるべき裁判所の姿は、横暴な多数派が議会と行政を占拠している時代にこそ、その人権救済機関としての本領を発揮しなければならない。政治権力や世論に迎合せず、社会的には評判の悪い判決を書くのが、裁判所の本来的な使命であろう。しかし現実には、権力に抵抗した判決も、世論に不評な判決も、裁判所にはなかなか書けない。民主化以前の韓国の大法院(最高裁判所)は、超長期保守政権によって任命された日本の最高裁裁判官と同様、事実上違憲立法審査権を放棄したに等しかったという。
 ところがいま、日本の裁判所は旧態依然であるのに、韓国の憲法裁判所は極めて活発に違憲判断を下している。この差はどこから出てくるのだろうか。
 確かに、違憲判断は民主化以前の過去の遺制の清算作用という側面もあるものと思われる。軍事政権時代の強権的立法や行政慣行の一つ一つを憲法裁判所が是正してきたことはそのとおりである。しかしそれだけではない。韓国憲法裁判所の創設と運用とは、韓国の民主化の大いなる結実と言えよう。
 私たちの関心はその先にある。政治や社会の民主化の過程で人権を重視する政権が誕生すれば、司法も人権重視の姿勢を持つことは当然であろう。しかし、裁判所本来の使命は非民主的な政権の時代にこそ、人権擁護の本領を発揮しなければならない。政権民主化の程度如何にかかわらず、人権を擁護する司法をどう作っていくことができるのか。そのような「公権力から独立した自立した判断のできる司法」を作るにはどうしたらよいのだろうか。
 「所詮司法は社会の民主化の反映に過ぎない」「政権の体質が変わらねば司法だってかわらない」と言っているだけでは、百年河清を待つに等しい。どうしたら、政権や社会の在り方如何にかかわらない人権擁護の府としての裁判所を作ることができるだろうか。そのヒントをつかみたい。それが、本特集のコンセプトである。

 本号冒頭の岡田正則教授の論稿は、韓国憲法裁判所の成り立ちや仕組み、そしてどのように運用され機能しているかの全体像の解説である。大法院と憲法裁判所の競合関係がプラスの相乗効果をもたらしていると分析されている。
 また、韓国憲法裁判所の研究員である蘇さんから、日本語による貴重な論稿をいただいた。実務のあり方や精選された「人権に関わる重要判決」の紹介をぜひご参照いただきたい。
 民弁のイ・ヒェジョン弁護士には、交流の席で話題となった「BSE十万人訴訟」の経緯をハングルでご寄稿いただいた。政策形成訴訟に携る者にとって有益この上ない論稿である。
 李京柱教授解説の聴き取りは、調査団でまとめたもの。韓国憲法裁判所の礼賛に終始しない冷静なスタンスは貴重な教示である。
 この特集から、わが国の最高裁を診ていただきたい。また、どうすれば最高裁を変えることができるか、処方もお考えいただきたい。

(文責・澤藤統一郎 韓国司法制度調査団団長)


 
時評●“魔の金曜日”──2012年5月25日

(弁護士)中島 晃

 1 二〇一二年五月二五日(金)は、被告人・被害者側弁護団にとって、“魔の金曜日”となった。
 まず、この日午前、名古屋高裁(下山保男裁判長)は、名張毒ぶどう酒事件で、再審開始を認めない決定をし、二〇〇五年の再審開始決定を取り消した。
 またこの日午後に入って、横浜地裁(江口とし子裁判長)は、アスベストによる健康被害を受けた建設作業員と遺族が、国と建材メーカーに賠償を求めた、建設アスベスト訴訟で、請求を棄却する原告全面敗訴判決を下した。
 さらに、大阪高裁(渡邊安一裁判長)は、抗がん剤イレッサの副作用により死亡するなどの被害をうけた遺族や患者らが、国と輸入販売元に賠償を求めた薬害イレッサ訴訟で、輸入販売元に賠償を命じた一審・大阪地裁判決を取り消し、原告逆転敗訴の判決を言い渡した。
 同じ日に、被告人や被害者にとって、このように連続して三つも、きびしい判決が出されたのは偶然なのか。それとも、なにか共通する背景があるのだろうか。それは、薬害イレッサ訴訟を担当している筆者にとっても重大な関心事である。

 2 アスベスト訴訟やイレッサ訴訟では、今回の判決が出される以前に、いくつかの前兆があった。まず昨年八月、大阪高裁で、大阪泉南アスベスト国賠訴訟で原告の請求を認めた一審・大阪地裁判決が逆転され、原告の請求を全て棄却する判決が出された。その後昨年一一月、東京高裁で、薬害イレッサ訴訟で国と輸入販売元の両者に賠償を命じた一審・東京地裁判決が逆転され、請求を全て棄却する原告敗訴判決が出された。
 こうした状況に追い打ちをかけるようにして登場したのが、昨年一二月から今年一月にかけて、判例タイムスに連載された、「国を当事者とする訴訟における法律問題」をテーマとする特集である。
 この特集で注目されることは、判例タイムス一三五九号(一二年一月一五日)には、「最近の訴訟の現状と関連する問題点」として、わざわざ大阪泉南アスベスト訴訟と抗がん剤イレッサ訴訟が取り上げられ、さきほど述べた大阪高裁と東京高裁の二つの判決について、その判断は評価できる、あるいは相当であると述べて、積極的に肯定していることである。
 しかも、この特集の「終わりに」では、公害や薬害などの被害が生じた場合に、国に法的責任を認めるべきだとする風潮に疑問を投げかける原田尚彦教授の見解を引用したうえで、「国の後見的役割を重視して被害者救済の視点に力点を置くと、事前規制型社会への回帰と大きな政府を求める方向につながりやすい。それが現時点における国民意識や財政事情から妥当なのか否かといった大きな問題が背景にあることにも留意する必要がある。」と述べて、被害者救済を重視して国の責任を認めようとする傾向にブレーキをかけようとする意図が、非常にあからさまな形で示されている。

 3 このように見てくると、この特集は、「3・11」以後の司法の行方に関して、被害者救済・弱者保護から、体制維持・国家秩序を重視する方向に裁判を誘導しようという意図のもとに組まれたといっても決して過言ではない。しかも、この特集の目的と概要を書いた中山孝雄法務省大臣官房審議官や執筆を担当した鈴木和孝氏などは、かつて東京地裁などに在籍していた裁判官たちであり、現在は法務省に出向しているが、やがて裁判所に戻ってくると思われる。
 彼らが裁判所に戻り、さきに述べた見解が裁判所全体に広がるとすると、日本の裁判所が、被害者救済に背を向けて、弱者を切り捨て、秩序維持の機関になってしまうのではないかと危惧するのは、必ずしも杞憂ではないと考える。さきの二つの高裁判決は、裁判所内部で、こうした動きを先取りするものではないだろうか。
 そうすると、今年五月二五日の“魔の金曜日”は、このことについて、我々に大きな警鐘を鳴らしているといわなければなるまい。


 
〈シリーズ〉とっておきの100枚

彼岸への伝言

訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

 楽しい連載でした。ずっと前から年齢を超えて親しい人のように思わせてくれた方々に感謝です。ちょっと失礼な物言いもありますが、一つ一つが私からのラブレターです。同時にへなちょこな自分を反省するひとときでもありました。人に歴史ありというのはほんとうです。そして人は逝くというのも当然のことです。だからこそ逢えるときに、話したいときに万難を排して逢おうと思いました。
 「寂しいけど孤独ではない」新藤兼人 監督の言葉通りに亡き人とも心と心を通じさせて生きていきたいものです。法と民主主義を守るために役に立ったかはわかりませんが、協会の周りにこんなにすてきな人がいることに幸せを感じます。連載でなければこんなに書けませんでした。怠け者でも継続は力です。
 「とっておきの一枚」連載終了にあたって。
弁護士 佐藤むつみ


1 森川金寿先生 2001.8 No.36
 そちらでの「ヴ・ナロード」はいかがですか。
 イタリア語もやってらっしゃいますか。もしかしたらまた新しい言葉を始められていたりして。バートラント・ラッセルや同郷の幸徳秋水とも会われているのでしょうか。机の上は資料でいっぱいでしょうか。ギネスに載せようと思ったスーパー高齢弁護団、横浜事件弁護団の団長として、文人さんと裁判所に入る金寿先生を新聞で拝見しました。何しろ、2・26事件の時には大学生で東大図書館で勉強していた金寿先生ですから歴史が歩いているようでした。無産政党弁護士歴七〇年、そちらに渡った先生。
 そちらから見ると3・11はどう見えますか。

2 松井康浩先生 2001.12 No.364
 きっと松井先生は「こげなええ景色」のなかでぼーっと海でも見てるんじゃないかしら。先生の故郷瀬戸内海の小島佐木島は「瀬戸は日暮れて夕波小波」なんだから。いや、むずかしい顔をして本を読んでるかも知れない。「3・11後の島国日本を心配で心配で海など見ていられません」。先生が心配していた「司法改革」という名の「司法改悪」もドンドンと進み、3・11後だというのに悪法の波状攻撃にあっています。「法民を500号までは死守する」と私が、言っているのを聞いたら、松井先生から大目玉を食いそうです。「君は勉強が足りません。先ず口を慎みなさい。酒など飲んでいないで、毅然として戦いなさい」と。

3 斉藤一好先生 2001.2/3 No.366
 一好先生、海軍体操やっていますか。やっているにちがいありません。背筋を伸ばして端然と歩く姿は先生そのものですから。不戦の兵士としてそちらに行かれて、「海ゆかばみずく屍、山ゆかば草むす屍」の方々に頭をたれて謝っているんでしょうね。きっとゆるしてもらえているんです。こちらは津波や原発の大災害で屍を重ねています。取り返しのつかない破壊を止めることができません。いよいよの選択に来ているのに民意は政治に届きません。「私は自らの意思において、職業軍人としてこの不正義の戦争に参戦した者です。戦争の中核に連なった者として戦争責任を免れる者ではありません」。原発を止められない私たちは先生と同じです。

4 石塚 昇先生 2002.12 No.374
 石塚先生ほんとにびっくりしました。先生の息子さんがわざわざ事務所を訪ねてきて下さったのです。先生の遺言で日民協にカンパをお届けいただいたのです。インタビューにうかがったときには脳梗塞のリハビリに励んでおられました。無理をしてインタビューに応じていただきました。「白い飯が一日三度も、腹一パイ食えるぞ」と言われて一四才で航空隊に入った先生の戦争体験。「常に私の心をよぎるのは、若くたくましい少年のまま、再び祖国の土を踏めなかった戦友達のおもかげだった」。戦友たちとあえましたか。みんな若いままで先生を見てびっくりしたかも知れません。みんなで白い飯を三度たらふく食べて下さい。

5 上田誠吉先生 2003.1 No.375
 今でも行ってますよ「赤坂名月庵田中屋」。
 あの時は西田美樹弁護士の強引なすすめで酔鯨を飲まされました。先生は秘蔵の孫が家に来るからと私たちを見捨てて早々にお帰りになってしまいました。その後蕎麦好きの先生が立ち上げた東京合同「そ連」はどうなったんでしょうか。名前を聞いたときから「崩壊」すると思っていました。先生の業績より蕎麦のことばかり思い出すのは我が不徳のいたすところでしょう。「興味津々だな」と言われたこの時代はたいへんなことになっています。この日本の「崩壊」も来るんじゃないかと心配です。誠吉先生、私たちは何に依拠し、何を武器として戦って行けばいいのでしょう。

6 長谷川正安先生 2003.2/3 No.376
 正安先生と林敦子さんと名古屋で一番安くて美味しい鮨屋「寿し長」で鮨をつまみ、地下鉄池下駅ビルのキーコーヒーのスタンドで一杯二〇〇円のコーヒーをご馳走になったのはもう九年も前になるんですね。インタビューも楽しかったけれどその後のご隠居との昼さがりも楽しかった。いつもの昼さがりは散歩のかえりに駅ビルのブックオフでぶらり。岩波新書を見つけ「渡辺洋三のを一〇〇円で買ってやる」と言っていた。「けんかマサ」から「仏のマサ」になったと自嘲していた正安先生の優雅な一日は、けんか相手の多いそちらではもうダメになったのでしょうか。愛妻静枝さんを連れて彼岸ドライブに爆走する正安先生が目に浮かびます。

7 中田直人先生 2003.4 No.377
 直ちゃんは病室で教え子たちに囲まれてうれしそう。先生の様子からしばらく養生すればと思われました。インタビューの時も「癌なんだけど何ともないな」とうそぶいていましたから。茨城大学と関東学院大学での都合一二年間の大学教員時代が人生で一番楽しかったと言っていた先生。「メモ魔」で「ワタリ事務局屋」の弁護士生活より研究し学び、そして教える教員生活はきっと先生の天職だったんです。教え子たちは「人をみることができる法律家」としてそれぞれの道を進んでいます。残念ながら先生が「最悪の選択」と言われた司法試験の改革は法科大学院と合わせて法律実務家の質を変えようとしています。それに抗する力も微力ながらがんばっていますからね。

8 松田解子先生 2004.5 No.388
 林敦子さんと先生を訪ねたのは八年前。「鉄砲玉のように事件の現場にぶっ飛んでいく筋金入りの赤い女流作家はきれいに年を重ね抱きしめたくなるような百歳になった」。現役で百歳を超えた野上八重子を悠々と追い越してこちらでの人生を終えられた。「あらそう。そんな年かね」と言いそうである。秋田の山奥の鉱山を馬ゾリに乗って出たとき解子さんは二〇歳だった。一九二五年である。捨てた本名はハナ。母スエは「ンでは、な、ハナぼ、成る者に成る気で行げな。お母はこのヤマでずっとお前とお兄ちゃんを待っているから」。解子さんはみんなの「お母」になって逝きました。そちらでも「此岸ときこ口伝」でも書いていらっしゃるんでしょう。

9 新藤兼人監督 2005.1 No.395
 「これから撮りたい作品が二本あります。愛妻記とヒロシマの原爆の映画です」と言っておられたのが二〇〇五年一月。その時九二歳だった。その後新藤さんは二本の映画を撮った。「饅頭屋は毎日どうしたらもっと美味しい饅頭が作れるかと考える」、映画を饅頭にたとえる新藤さんは巨匠なのに自分では饅頭屋のつもりなのだ。いつも映画のことを考えている。愛妻記は撮らなかったんですね。撮ってみたい女優は大竹しのぶと宮沢りえと言っておられました。なるほど大竹しのぶは最後の作品「一枚のハガキ」で主演でした。すると愛妻記では宮沢りえが音羽信子さんを演じるのでしたか。見たかったな。音羽さんが逝っても「寂しいけど孤独ではない」。「逢いたいと思えばいつでも逢える。対話ができないから心と心で話せるのだ」。そうなりたい。

10 竹澤哲夫先生 2005.4 No.397
 インタビューをするまで先生が一九四五年八月六日午前七時過ぎに広島駅を列車で通りかかったなんて知らなかった。列車からホームに降りて水を飲んで列車に戻った。列車は広島駅を発車し、「しばらくしてピカッと光った閃光と真っ白い雲が窓の外に見えた」。
 「原子爆弾などと気づくはずもなかった」。間一髪で直接被爆をまぬがれたのである。一九歳の時である。久留米の士官学校から故郷の富山に帰る途中だった。平事件から横浜事件まで刑事弁護六〇年をたたかい抜いた。「静かに強く鋼の粘り」の六〇年でした。刑事手続きは相変わらず冤罪を生み続け、刑罰は重くなっています。刑事手続きの本質的な欠陥は何一つ改善されていません。先生の六〇年を思えばなんのそのです。

11 後藤昌次郎先生 2005.6 No.399
 先生が草笛を吹いていた四谷税務署裏の公園は春になると桜が満開です。佇むと先生の草笛が聞こえるような気がします。私はずっと四谷の住人ですからそこを通るたびに草笛を吹く先生に逢うのです。野人の風貌の先生は一度逢えば一生忘れなくらいのオーラを発します。日々の暮らしと仕事に追われてちまちまと生きている者にとって、野面を渡ってくる草笛の音は救いです。ふと、人はどこからここに来て、どこに行くのだろうと思うのです。逝ってしまった先生は風になってそこにいるような気がしてしまうのです。もしかしたらここにいたときから先生は風に乗って渡っていたのかも知れないのです。「さあ、君はどこに行くのかね」先生に言われているようです。

12 吉川経夫先生 2005.10 No.402
 先生の自宅は我が家の隣町調布市入間である。
 自宅から車で数分のところなのだが入り組んでいてわかりにくい。迷った私を約束の時間前から家の前に出て待っていてくれた。そして先生の行きつけの医院は四谷にある。いつも私が四谷駅から事務所に来るときに前を通って近所の猫などをかまっているところである。事務所まで三分のその医院に通院するときにはうちの事務所を訪ねますって約束したのに、一度もいらっしゃらないまま逝ってしまわれた。美味しいお茶をしましょうって約束したのに。きっと遠慮したんだ。体調も悪かったにちがいない。「今でも法哲学を勉強してみたかった」と言う才媛の敏子夫人は一人読書にふける日々でしょうか。

13 田 英夫さん 2007.10 No.422
 田さんは東大の一年の時に徴兵され、終戦の時は海軍少尉で震洋特攻隊員だった。一九四五年八月宮崎の赤水で敵の上陸用船艇が現れるの待ち受けていた。軸先に三〇〇キロの爆薬を積み敵艦に体当たりをする。自爆である。ところが八月一五日突然の敗戦となった。偶然生き残った。田さんは小学校から高校まで学習院である。5・15の時は小3、2・26の時は小6、身近な人や身近な場所で事件が起きていた。両親はリベラリストなのになぜか英夫少年は「軍国少年」になった。平和を唱え続けた田さんは日本を「戦争をする国」にしてはならないと強く言う。そして「ほんとうに怖いことは、最初、人気者の顔をして来る」のだと。橋下は確かに人気者である。

14 土屋公献先生 2008.12 No.434
 公献先生のまなざしはいつもきりりと強い。
 姿勢もいいのでただ者ではない雰囲気がびしっと伝わってくる。ライフワークは「戦争の後始末。「弱きを助け、強きを挫く」がモットーである。人になんと言われようとも火中の栗を拾い続けた。柔道二段の少尉候補生二一歳の公献青年は父島で米軍捕虜の斬首を命じられる。処刑の前日剣道四段の少尉が「土屋がやるくらいなら俺がやる」とその役を。終戦後MPが動き、その彼は東京で大学に復学していたが故郷に帰り庭先で自決する。
「俺は勇気ががないから彼のように自決できなかった」「中国大陸に行っていたら…」。「曲がったことをしない人なの」という奥様。『余生をばどう生きようと勝手なりならば平和に命捧げん』ほんとにそうでした。

15 北野弘久先生 2010.6 No.449
 北野先生はとっておきの一枚はどうしてもこの写真だと言ってゆずらない。北野先生だったらもっと面白い写真がたくさんあるのにと私は思った。北野先生は言い出したら聞かない。この写真の撮影は三男のカメラマンの北野謙さんである。すてきな写真であるが、みんなよく知っている北野先生そのものである。インタビューは血液内科病棟のラウンジで行われた。「僕の担当医が余命三ヶ月くらいと言ったのよ」。点滴を引きずりながらせかせかと歩いてこられた先生は元気である。有能な個人秘書の奥様八江さんに「しっかりしているのよ。僕の葬式の段取り式次第まで準備しているんだから」と毒づいていた。「僕が言っておきますから」の名文句が聞かれなくなって、ほんとに寂しい。

16 工藤勇治先生 2010.8/9 No.451
 工藤先生は青森のリンゴのような人である。
 いつもにこにこして明るく、気取ってないでしょう。「リンゴの故郷は 北国の果て うらうらと山肌に 抱かれて夢を見た」。美空ひばりが歌った。「津軽の故郷」という題名である。有名な「リンゴ追分」と一緒に「りんご園の少女」という映画の挿入歌である。工藤先生の持ち歌は「大阪しぐれ」だそうだが私はこの歌を是非持ち歌にしてもらいたいと思った。先生の声はテナーであるからこの歌にぴったり。素朴で平明に見えるが歌うと結構むずかしい。一緒に歌わないうちに逝ってしまって。そちらで練習していて下さいよ。ピアノもやっていらしたから弾き語りなんてどうでしょう。フランス語もやっていらっしゃったので弾き語り第二弾は「さくらんぼの実る頃」でしょう。


©日本民主法律家協会