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 法と民主主義2012年5月号【468号】(目次と記事)


法と民主主義2012年5月号表紙
特集★平和と民主主義をめぐる現況と展望
特集にあたって………編集委員会・小沢隆一
■第1部・平和
◆憲法と安保の相克の歴史と現況──「2つの法体系」論の原点と現点──………松井芳郎
◆沖縄の基地問題と平和的生存権………井端正幸
◆野田民主党政権による武器輸出三原則「緩和」………井上 協
◆今日の東アジア情勢とその方向性………浅井基文

■第2部・民主主義
◆選挙制度改革をめぐる動き………五十嵐 仁
◆憲法審査会の動向………井口秀作
◆「秘密保全法」──新たな国家機密法の危険性………吉田健一
◆秘密保全法案の内容と問題点………清水雅彦
◆危険な「メディア除外」の罠──秘密保全法とメディア………丸山重威


 
平和と民主主義をめぐる現況と展望

特集にあたって
 日本国憲法施行六五年(五月三日)、サンフランシスコ講和条約と(旧)日米安保条約発効六〇年(四月二八日)、沖縄復帰四〇年(五月一五日)という歴史を刻んだこの春、国政は、本誌四月号で取り上げた「社会保障と税の一体改革」や消費税増税をめぐる対抗を軸に展開している観があるが、憲法の平和主義と議会制民主主義に関わる重要な問題、論点もまた、見逃すわけにはいかない。本特集は、その重要度においていずれ劣らぬ平和主義と民主主義をめぐる現在の政治状況と今後の展望について論じた論稿(アーティクル)を九つ集めた。ちなみに、憲法第九条の英語読みもarticle9である。
 四月三〇日の野田首相とオバマ米大統領との日米首脳会談では共同声明を発表して、日米同盟が、アジア太平洋地域の平和と経済的繁栄に不可欠であることを再確認し、二〇一〇年防衛計画の大綱のもとでの日本の動的防衛力の構築、米国のアジア太平洋重視の戦略などの実行と、米軍再編計画の見直しを確認した。この「見直し米軍再編計画」は、日本の総面積のわずか〇・六%に米軍専用基地の七四%が集中する沖縄の現状、とりわけ「世界一危険な基地」と呼ばれる普天間基地を固定化しかねないものである。また民主党政権は、一昨年一二月の防衛計画の大綱で、「基盤的防衛力」に替わる「動的防衛力」の観念を打ち出し、昨年一二月には、「武器輸出三原則」を緩和して、日本の軍事的プレゼンスの拡大・強化をもくろんでいる。
 第一部は、こうした平和主義をめぐる現況を扱った四本の論考からなる。冒頭の松井論文は、憲法と安保の相克をダイナミックにとらえた「二つの法体系論」の今日的意義を確認しつつ、国際情勢の変化の中でのその限界を直視しながら、改めて安保体制に抗する憲法的価値の復権の意義を説く。井端論文は、沖縄の基地問題の歴史と現状を、平和的生存権の視角からするどく抉る。井上論文は、武器輸出三原則成立の経緯から説きおこし民主党政権によるその「緩和」の背景、底流を解明する。第一部を締めくくる浅井論文は、戦後世界の平和をめぐる情勢を一〇年刻みで、簡略ながらも浩瀚に概観した上で、東アジアの現状と展望について、私たちが共有すべき視座を提示してくれている。
 民主主義を扱う第二部には、国政と国会における動きを中心として五本の論考を寄せていただいた。橋下大阪市長や河村名古屋市長らが繰り出す地方政治からの「自治体ポピュリズム」ともいえる動きは、改憲提案も含んでゆゆしい憲法問題を惹起しているが、これらについては、次号六月号で特集を組むのでそちらをご覧いただきたい。
 現在、国会では、選挙制度改革が焦眉の課題となっている。昨年一〇月に「衆議院選挙制度に関する各党協議会」が設置され、そのなかでは、いわゆる「一票の格差」の是正、比例定数の削減問題、選挙制度の抜本改革についての議論がおこなわれている。参議院でも選挙区の定数格差の是正などをめぐり抜本改革も含めて議論がなされている。第二部冒頭の五十嵐論文は、こうした選挙制度改革論議を概観しながら、小選挙区制の問題点を指摘するとともに、比例代表を生かした新しい制度への前進を説く。
 昨年一〇月に始動した衆参の「憲法審査会」では、「3・11」を口実にした非常事態規定導入論などの改憲論のほか、二〇〇七年の憲法改正手続法の附則などに規定された「宿題」に関する論議が始まっている。井口論文は、こうした憲法審査会の状況とその法的意味について整理するとともに、今後の見通しを探るものである。
 第二部の最後の三本は、現在、国会への上程が狙われているいわゆる「秘密保全法案」を多角的に取り上げる吉田、清水、丸山各氏の論考である。この「法案」は、憲法の平和・民主主義・人権の各原理のそれそれに重大に抵触する問題性を孕んでいる。この三本の論考は、いずれも本年四月五日に開催した日民協憲法委員会でのご報告を元にお書きいただいたものである。
 ずいぶんと盛りだくさんな特集企画となったが、ぜひ通読いただき、六五年目の日本国憲法をめぐる情勢の厳しさと私たちの課題の大きさ、そしてその展望を実感してもらえれば、幸甚である。

「法と民主主義」編集委員会 小沢隆一


 
時評●原発と国民主権

(弁護士)馬奈木昭雄

 今から二二年前(平成二年)の事である。高松の自然食品会社のちろりん村は原発バイバイCMを瀬戸内海放送で放映していた。映像は、地球とその上に咲く花や動物や人間をデザインした可愛らしい図柄であり、「私たちにできること」「地球が元気になるように」「原発バイバイ」の文字が入っていた。
 ところが、突然、瀬戸内海放送は、このCМの放映を打ち切ったのである。瀬戸内海放送の打ち切りの理由は、「民放連の放送基準では、係争中の問題に関する一方的主張又は通信・通知のたぐいは取り扱わないとなっている。原発バイバイCМは、この民法連の放送基準に反すると判断したから、契約を解除する」との事である。
 この様な、瀬戸内海放送の一方的な原発バイバイのCМの打ち切りに対し、ちろりん村は、とても納得できなかった。
 テレビでは毎日のように、「明日を支えるエネルギー原子力発電」「電気の四〇パーセントは原子力です。原子力発電は安全を第一に取り組んでいます」等、原発で働いている人達の笑顔の映像を流し、原発の安全性、必要性を宣伝しているのである。
 なぜ電力会社のこの様なCМが許されて、ちろりん村の図柄の中に、ささやかな「原発バイバイ」という文字が入っているだけのCМが許されないのか。
 ちろりん村は、瀬戸内海放送が、電力会社の原発推進のCМは毎日の様に放映しながら、「原発バイバイ」のCМの放映契約を一方的に解除したのは、憲法一四条(法の下の平等)、憲法二一条(表現の自由)に反し、公序良俗(民法九〇条)に反するものであり、放映契約の解除こそ、放送法に反し、無効であるとして、原発バイバイCМの再開を求めて提訴した。提訴した事がマスコミで報道されると、朝日新聞のかたえくぼには、「原発バイバイ放送基準に抵触。漢字で「原発倍々」なら問題なかった。瀬戸内海放送」という投稿が掲載された。また評論家の天野祐吉さんは、CМ天気図というコラム欄で、「原発は明日を支えるエネルギー」のCМが許されるなら、原発バイバイの文字を「原発は明日をおびやかすエネルギー」と書き換えたらいいではないかと評した。
 ちろりん村は、これらの記事や、全国で流されている電力会社の原発推進のCМ等を証拠として提出し、高松地裁、高松高裁、最高裁判所と争ったが、残念ながらことごとく敗訴し、ちろりん村の原発バイバイCМの再開はかなえられなかった。
 裁判所は、「原発バイバイ」のCМは、原子力発電所の必要性を断定的に否定した表現であり、民放連の放送基準に反する。一方、電力会社の「原子力発電は安全第一に取り組んでいます」のCМは、四国電力が、原発の安全性保持を企業の最重要課題として取り組んでいるとの企業姿勢を端的に表現したものにすぎない。「明日を支えるエネルギー原子力発電」とのコマーシャルは原子力発電所の必要性を断定的に肯定した表現ではなく、四国の電力の四〇%が原子力発電によりまかなわれている既成の事実を踏まえた将来の展望をいささか修辞的に表現したものと受け取れるから、いずれも民放連の放送基準に反しない」と判断した。
 地裁、高裁、最高裁は当時の国策である原発推進のCМを擁護し、国策に反する「原発バイバイ」のCМを排除したのである。
 本件に携わった弁護士として感じた事は、裁判所は憲法の番人、法の番人ではなく、国策の番人であるとの思いであった。福島原発の大事故があっても、未だに原発の廃絶は国策になっているとは思えない。福島原発の大事故こそ、原発の危険性の明白な証拠である。裁判所には、これからの公正な裁判を期待するものである。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

山椒は小粒でピリリと辛い

弁護士鷲野忠雄先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

母せんの7回忌。瑞穂村の実家近くの料理屋で。運よく成人した7人の兄弟が全員集合した。前列左の長兄と姉はすでに亡くなった。鷲野先生は弁護士登録をして4年目。背広にバッチが。炬燵が二つ。

 鷲野先生は一九三六年生まれ、今年七六才になる。一〇才は若く見える。
 市ヶ谷の鷲野事務所は古いビルの七階にある。外堀通りから少し入ったところである。堀側の窓を勝手に開けてみると残念。外堀通り沿いに高いビルが建ち並び、隙間からわずかに濠の土手、桜の緑が見える。「昔はよく見えたんです」古くからいる事務員さんが説明してくれる。先生の所有区画である。昔居た向かいのビルが建て替えになるので今のところへ交換で移って来てから二〇年になる。一緒に事務所をやっていた白川博清弁護士が一〇年前に事務所を移したので鷲野先生は一人で事務所を占拠している。二人分の机が鷲野先生の資料で一杯である。応接スペースの脇にある本棚に新しい実務書がずらり。ほんとに「現役弁護士」なんだ。
 インタビューを申し込んで二日後、約束の時間に事務所にうかがう。すでに応接机の上には資料が置かれている。「ちょっと待って」と鷲野先生は事務スペースに行ったきりである。しばらくして「二〇一二・五・九メモ」と題されたA4メモ三枚を持って「準備しておきましたから」と私に示す。総括的な思いから経歴、弁護士としての行動経過とテーマ、趣味の世界、ファミリー、健康、信条と実に詳細である。「先生ってパソコンやれるんですか」。「ブラインドタッチはできないけどエクセルもワードもできます」。「えっでも先生、いつも『ワシノメモリー』は自分で打ってこないし、日民協とのやりとりはFAXばかりじゃない」非難すると「メールは未だ習っていない」。
 先生のライフワーク、三〇年間司法の動きをまとめ続けた青法協時代からの「激動の記録」それに続く「ワシノメモリー」は「僕の汚いメモを事務員さんが打ってくれるんだ。事務員さんもたいへんだ」。その「ワシノメモリー」は今年三月末で終了した。最初は新聞七紙、その後五紙を斜め読みし、毎週土日をかけてまとめ続けた。最初はスクラップ、その後メモとなった。膨大な資料と毎週の作業に妻は「ノイローゼになりそうだ」といつも嘆いていた。この四月でやっと開放された。この作業は自宅でテレビを見ながらやっていた。メモの趣味欄「テレビはしっかり観ているし、ラジオは仕事中も手放さない」とある。「記録なくして運動も事件処理も出来ない」が先生のモットーである。「一般の事件もそうだから依頼者はたいへんなんだ」。
 先生は六四年に弁護士になって以来「熱狂的な広島カープファン」。カープが勝った時だけスポーツ紙を購入する。もちろんどんなことがあってもテレビ中継は欠かさない。「リーグ優勝の行方がほぼ確定する時期になっても、勝率の上で絶望となるまでは、奇跡の優勝にいちるいの望みを託し続けるのが私の習性になっている」。後二年で弁護士稼業もカープファン歴も五〇年になる。
 先生の故郷は北信濃長野県飯山市、旧下高井郡瑞穂村、豪雪地帯である。農家の生まれ、子どもは一〇人いた。「このうち運よく成人できたのは女一、男六の計七人である」先生は七男、下に弟が一人いる。「貧農の子沢山のなか、子育てにおわれた父元吉、母せんの苦労は並大抵ではなかったと思う」先生が編した兄北原丑太郎の歌集に寄せた先生の言葉である。忠雄君は利発でかけっこの早い少年だった。戦争の時代だったが農家で食べるものはあった。四五年の終戦の時忠雄君は小学校三年生。兄たちが戦争に行ったり、たくさんの遺骨が小学校の校庭に並んだり、村の上空をB29が飛んだり、戦争の時代ではあったが、村の元気な少年の日常は普通に過ぎていた。終戦後地元の中学に進み、五一年四月飯山北高に進学する。飯山北高に進学したのは学年で一割に満たない。忠雄君は勉強も出来たのである。高校まで片道一時間、毎日徒歩で通学した。自転車は家に一台しかない。家で使わないときだけ通学に使うことができた。冬は豪雪で通学は出来ず、ひと冬分のコメ、味噌、マキをリヤカーに積んで持参し、友人たちと下宿生活をした。五四年、東京大学を受験するが失敗、一年自宅で浪人、再度挑戦するがまた失敗する。
 「これはもう東京に出るしかない」。五五年四月忠雄君は上京する。一九才になっていた。川崎の新聞販売店を皮切りに就活を試みるがうまくいかず、引揚者の親戚を頼って清瀬に。同年代の息子を抱える看護婦さんだった。清瀬は引揚者と結核療養所の町だった。忠雄君、中古の自転車を購入してキャンディー売りのアルバイトを始める。八月、自転車持ち込みで清瀬の朝日新聞販売店に就職。ここが忠雄君の運命の場所だった。配達、集金、拡張仕事はたくさんあった。そして運命の人がいた。結核から回復して社会復帰した事務員の女性。忠雄君より四才半年上の美人だった。翌五六年忠雄君は進学の費用もないのに早稲田大学法学部に合格してしまう。清瀬に住んでいたロシア人が作るピロシキを早大生協に届ける仕事をしていた。それが縁だった。入学する気はなかったのに、販売店の店長と兄が喜んでくれ、入学時納付の学費を出してくれることになった。働きながら大学に通った。朝は四時起き、清瀬の駅までリヤカーで新聞を取りに行く。大学の授業は午後二時まで。夕刊の配達のために三時には清瀬に帰っていなければならない。遊ぶ暇はない。勉強することが唯一の楽しみだった。勤勉で粘り強い資質はいよいよ鍛えられた。忠雄君は四年の時司法試験に挑戦してみるが不合格。世は就職難、めでたく東京労金に内定する。が忠雄君は、大学院に進学して勉強を続け司法試験も再挑戦したかった。一九六〇年四月、その女性と結婚し、大学院労働法野村平爾門下に進学する。妻の収入と忠雄君のアルバイトで食いつないだ。翌六一年一〇月に司法試験に合格し、修士を終えてから六二年四月研修所へ入所する。一六期である。六四年四月に東京中央法律事務所で弁護士の仕事を始めることになる。
 鷲野先生の活躍は、様々な弁護団活動、青法協・日民協・司独の事務局長、選挙運動、小選挙区反対運動、日弁連、中央選管委員、などご存じの通りである。「一〇〇才に限りなく接近したいと自分に言い聞かせている」。愛妻は白髪になって「伯爵夫人」とひやかされている。体調を崩して「要介護の症状」、先生は「万分の一の恩返し」と云って家事をこなす。買い物から食事作りとまったく苦にならない。「どんなことでも勉強ですから、楽しくやっています」。「依頼者が居る限り仕事を辞めないつもりです」。いつもご機嫌で明るい。年を取るのも悪くない。

鷲野忠雄(わしの ただお)
1936年長野県生まれ。62年早稲田大学大学院終了(労働法)。六四年弁護士登録(16期)。青年法律家協会事務局長、日本民主法律家協会事務局長、「司独連絡会」事務局長、中央選挙管理会委員などを歴任。著書『公選法に強くなる』(労働旬報社)、『日本の政治はどうかわる』(共著、同)など。


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