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 法と民主主義2012年1月号【465号】(目次と記事)


法と民主主義2012年01月号表紙
特集★教育をめぐる危機と展望
特集にあたって………編集委員会・小沢隆一
◆公教育の憲法論──「教育権の独立」の問題を中心に………杉原泰雄
◆教育をめぐる現在と国民の教育権………佐貫 浩
◆「日の丸・君が代」訴訟の現状とこれからの課題………澤藤統一郎
◆2011年中学教科書採択をめぐる動向………俵 義文
◆育鵬社版公民教科書の問題性………小笠原彩子
◆法教育推進の方向性………渡邊 弘
◆大阪府教育基本条例の問題と大阪W選挙後の動向………丹羽 徹
■教育・教科書をめぐる現場からのレポート
◆10・23通達を巡る八年間の闘い──処分撤回を求めて………近藤 徹
◆教育内容に踏み込む東京の新たな管理統制の動き………河合美喜夫
◆東京都立七生養護学校裁判の到達点と課題………窪田之喜
◆「つくる会」教科書NO! 杉並の運動11年………小関啓子



 
特集★教育をめぐる危機と展望

特集にあたって
 二〇一一年は、「日の丸・君が代」の強制をめぐる訴訟での相次ぐ最高裁判決、二〇一二年度から使用する中学校教科書の採択、大阪府における教育基本条例の制定の動きなど、教育をめぐるさまざまな問題が生起した年であった。二〇一二年の年頭に当たり、一月一六日にも最高裁判決が下された今、教育における自由と民主主義を守る運動の到達点を踏まえ、これらの問題を総合的に検討するのが、本企画の趣旨である。
 日本国憲法のもとでの教育をめぐる主な対抗軸は、長らく、教育の国家統制をもくろむ政権党と文部省(現文科省)に対して、教職員組合やこれと連帯する市民が「国民の教育権」を掲げてとりくむ運動によって形作られてきた。その中で「国民の教育権」論は、子どもの学習権、その保障である「私事」としての「親義務としての教育」の共同化・組織化、教育専門職としての教師の教育の自由などのコンセプトを含んで展開されてきた。
 現在の教育をめぐる危機は、政権党や文科省が前面に立つ動きではなく、地方自治体や市民社会のレベルを震源地とする政治的動きによって作り出され、またその動きが、競争主義的な状況の下での親・住民の教育要求に沿うかのような形で提起されるなかで生じている。それは、中央・地方の政治権力、経済社会・地域社会にまたがる市民社会、それらとの関係における教育という営み、これらの「関係構造」の深い把握を求めている。
 冒頭の杉原・佐貫両氏の論文では、今日の時点に立って「公教育の憲法論」、「国民の教育権」を根本からとらえる理論構築の重要性が強調されている。それに続く他の論考は、この間教育の世界で生起してきた諸問題、それらをめぐる裁判や市民運動の動向などについての貴重なリポートである。

「法と民主主義」編集委員会 小沢隆一


 
時評●二つの国民的経験から何を学ぶか

(一橋大学誉教授)渡辺 治

 二〇一一年に、私たちは二つの国民的といってよい経験を持った。一つは、〇九年から始まっている民主党政権という国民的経験、もう一つが、三月一一日の大震災、原発事故の経験である。
 まず民主党政権。いささか色あせた感があるが、戦後六七年の歴史で、単独野党が国民の多数の支持を得て政権交代した経験は実は初めてのことだ。
 この経験は、私たちに二つの教訓を与えた。一つは、運動が政治を変えられれば、福祉や国民生活を前進させる政策は実現するという確信である。自公政権が存続していたら、高校授業料無償化一つ実現していたであろうか。生活保護の母子加算復活も、農家戸別所得補償も…。また、米軍基地の国外退去は政府の決意次第で可能なことも国民は知った。自民党政権が長年否定し続けた「密約」も公開された。
 しかし、民主党政権はもう一つの教訓ももたらした。民主党マニフェストのような、選挙目当てのトッピングの政策では、構造改革政治に終止符をうち、格差と貧困、日米軍事同盟を代えることなど覚束ないということである。それには、安定した雇用と社会保障を二つの柱とする新たな福祉国家型の体系的対案が不可欠であると言うことだ。
 3・11という国民的経験は、耐え難い犠牲をともなって、私たちにこれまた三つの教訓を与えた。
 第一の教訓は、大震災の被害の深刻化、復旧の遅れにも原発事故の発生にも、それまで自民党政権が推進してきた大企業本位の政治、さらにそれを右から再編した構造改革政治が大きな原因となっているということである。被災地東北は震災によって、それまでの幸せな生活が突如奪われたわけではない。震災のはるか前から、構造改革により公共事業が打ち切られて雇用は失われ、地方自治体財政の赤字で公務員のリストラ、医療・福祉・介護施設の統・廃合が進んでいた。釜石で市民病院が統廃合され、「医療崩壊」が騒がれたのは、二〇〇七年のことであった。そこに津波が襲ったのである。原発事故も同様だ。地場産業も農業も崩壊し財政赤字に悩む「僻地」に、電源三法交付金、固定資産税などのカネ、原発がもたらす雇用をえさに、地域の安全など一顧だにせず導入を強要した産物であった。
 第二の教訓は、民主党政権による構造改革型復旧・復興政策が、復旧・復興の異様な遅れと困難を倍化しているということである。東日本大震災の復旧・復興は、阪神淡路型の大型公共事業投資優先の復旧・復興の害悪と構造改革型復興の害悪が合流して現れた。財界の圧力で、国は徹底して財政出動を渋り、赤字に悩む地方自治体に丸投げしたから、瓦礫処理、仮説建設は遅れに遅れた。おまけに乏しいカネは、大型ゼネコンに丸投げされた。地域のイニシアティブは、上からの構造改革型復興構想につぶされている。
 したがって、第三は、3・11からの真の復旧・復興には、構造改革政治に終止符をうち福祉国家型の地域づくりが不可欠だという教訓である。被災地の復旧には、被災前に戻すだけではなくさらに、構造改革により破壊された医療・福祉・介護・公務公共サービスを拡充しなければならないし、地場産業、農業による福祉型地域経済の建設が必要だ。原発からの脱却にも、原発に代わる自然エネルギーの開発だけでなく、エネルギー多消費型産業構造の変革、原発に依存しない地域の建設が不可欠となる。
 二つの国民的経験が提起したのは、新自由主義・構造改革型政治の脱却のための対案の提示とそれを実現する政治の緊急性であった。しかし、この課題はひとり日本のみでなく、大統領選挙を抱えるアメリカ、EUの諸国を含めた世界の国々が、実現しなければならない、二〇一二年の世界共通課題でもある。
 新自由主義・構造改革政治打破は、まだどこの国でも成功していない。それに、真っ先に風穴をあけることが、これだけの経験をした私たちに課せられた責務である。私はそう思う。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

たたかってこそ明日が

弁護士菊池 紘先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1972年。1964年8月。原水禁世界大会に参加後、立命館の今はなき広小路キャンパスにあった「わだつみの像」の前で。

 菊池紘先生は一九四二年ハルピンで生まれた。世界を天皇のもとにひとつの家とする「八紘一宇」の「紘」である。「加藤紘一、中村紘子と聞くと、ああ同じ世代だな、とすぐに分かるのです」。後に結婚する二才年下の同郷の妻は征子である。共に戦争の時代に産まれた。
 父も母も岩手出身の教師だった。若い夫婦は希望の地、満州国にわたった。長男は内地生まれ、次男と紘君と妹が満州生まれである。一九四五年八月一五日に終戦。一家は引揚者となる。三才の紘君は一〇才の長兄に背負われ、生まれたばかりの妹を母が抱え、満州を後にする。紘君はマラリアに罹り、妹は栄養失調で亡くなってしまう。「僕は当時のことはなにも覚えていない。父も母も話さないので」。
 一九四六年佐世保にたどりついた一家は盛岡に戻る。父も母も教師に復職し、四才の紘君は祖母が面倒をみてくれていた。母が日直の時には一緒に学校に行っていた。地元の小学校に入学、四年の時に岩手大学教育学部付属小学校に編入し中学まで通学。付属は人数も少なく手厚い教育を受けた。そしてバンカラで有名な盛岡一高に進む。二学年下に坂井興一弁護士と妻征子がいた。小田中聰樹先生は長兄と同学年で秀才で有名だった。岩手県下の秀才が集まる盛岡一高で紘君は一年間はよく勉強したが二年になると勉強に興味を失い失速。スキーに夢中の次兄と違い当時は書斎派だった。六〇年安保は高校時代で、紘君は「世界」なども読む硬派の高校生だった。
 長兄は教育大へ進学し心理学の研究者をめざし、次兄は遠く京都大学に進学しスキー部へ。紘君は近場の東北大学法学部へ進学する。「何となく法学部だとつぶしがきく」。東北大学の法学部は一五〇名の小所帯。自治会再建運動を横目で見ながら大学生活が始まった。友人たちに乞われて、「原潜寄港阻止」などよく看板を書いていた。少しずつ自分の生きる道が見え始めたころ、紘君はある大会で被爆者の話を聞くことになる。
第一〇回原水禁世界大会である。一九六四年八月三日の午後八時、京都府立大グラウンド、「立つことさえできぬ体を、母に抱かれて」被爆者渡辺千惠子さんは「私たちが訴えなければ、原水爆の恐ろしさを誰が訴えるでしょう」。三万五〇〇〇人の人々に静にしみわたった。紘君はその時「できることなら額に汗して働く者の立場に立つ弁護士として努力したい」と決意する。菊池先生の原点はこの日にある。
 一九六五年、紘君は盛岡に帰って受験勉強に専念する。その年に合格し二〇期となるのである。「自己正当化の詭弁の『教養』ほど唾棄すべきのはない」一九六八年四月二〇期会「きずな」六号。それから四五年、菊池先生はちっとも変わっていない。
 一九六八年四月、菊池君は青柳盛雄法律事務所に入所する。一九六九年には青柳盛雄弁護士が衆議院議員に当選し政治活動に。一九七〇年に城北法律事務所となる。菊池先生は「四〇年余りこの事務所で、働く人々の権利と自由を守る裁判に加わってきた」。石川島播磨の解雇・差別争議でも苦闘の全面勝利した。そして二〇一〇年六月には国鉄分割民営化の解雇事件一〇四七人の闘いで「二三年の苦闘を経て、勝利解決した」ことがうれしいという。「ここ数年は、金属や郵政で働く人々の雇用と権利を守るたたかいや、派遣村など格差と貧困の問題に取り組んでいる」。ライフワークだった労働者の言論を守るたたかいは堀越事件、世田谷事件とが最高裁にかかっている。当事者と共に闘い続けているのである。そして二〇〇九年秋から自由法曹団の団長に就任し、九〇周年の記念行事を賑々しく祝い、二年の任期を終えた。
 今、城北法律事務所は池袋駅西口近くのビルの五・六階にある。弁護士二一名事務局一五名の大事務所になった。懐が深く、幅も広い。多様な人材を育て、事務所の創立理念である地域の労働運動・住民運動を支えながら活動分野の拡大も図ってきた。一番上の小林幹治弁護士と菊池先生が事務所の屋台骨である。半分が五〇期以降の登録弁護士で、それぞれがよしとする分野で生き生きと活動している。
 インタビューにうかがったのは土曜日の午後。何人もの弁護士と事務局が和気あいあいと仕事をしている。亡くなった嶋田隆英弁護士とそっくりな息子の嶋田彰浩弁護士もいる。「ほんとによく似てるよね」お母さんのような事務局の人がしみじみという。事務局も弁護士も家族のように遠慮がない。菊池先生も「うちのおとーさんさー」と言われている感じである。弁護士の執務スペースは机と本棚が置けるブースになっている。「ちょっと失礼、見せてね」とぐるりと一周させてもらう。「ぎょえっ」と驚く惨状の方、弁護士も書類の山の一角になっている。頭も机もすっきりとしている方。おやぬいぐるみが一杯。それぞれの弁護士の氏名と照らし合わせて「家政婦が見た」の気分だった。菊池先生のところはちゃんとしています。おや私の一期下の小薗江先生がピーナツを食べています。彼が上から三番目の弁護士になってしまいました。お互いに年をとりましたね。わが同期の佐々木芳男弁護士はこんな狭いスペースでどうやっていたんだろう。「佐々木君は事務所に入った途端に『打倒菊池』って言ってね」。言ってみたかっただけなのです。菊池先生がいたから佐々木君はがんばれたのです。どこかから「むっちゃん、なに今日は」と声が聞こえそうである。
 菊池先生の妻征子さんは定年まで都立高校の国語の教師をしていた。二人の娘を育て、忙しい菊池先生を抱え、都高教の女性部長まで務めた。そして、もちろん不起立、「日の君」の原告でもある。「僕はえらくないんですが妻はえらい人なんです」。保育園の前に家を買ったという菊池夫婦。「僕なんか朝、子どもを保育園に送るだけだった。ダメですね」。夫婦の共通の趣味は登山とスキーである。征子さんはお茶大の登山部、菊池先生は国労の人たちとスキーにのめり込んだ。二級までとってカービングになったので一級は止めたんだそうです。ゴルフはやらない。今年も野沢で滑ってきたという。
 今年七〇才になるというのに気持ちは五〇才である。白髪にはなったが贅肉もなく元気そのもの。
 3・11、福島原発事故を経て「この国の社会と政治のありようを根本から問われている」のだという。まだまだ出番ですよ、先生。

菊池 紘(きくち ひろし)
1942年生まれ。東北大学法学部卒業。1968年弁護士登録(20期)。石川島播磨重工の解雇・差別争議、全動労採用差別事件、明治乳業差別争議事件、メーデー事件、選挙弾圧事件などに取り組む。
著書「小選挙区制 憲法はそれを許さない」(1991年、学習の友社)、「私たちには、こんな権利がある」(共著、1996年、新日本出版社)等。


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