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 法と民主主義2011年11月号【463号】(目次と記事)


法と民主主義2011年11月号表紙
◆日民協50年を祝い、明日を語る集い◆
記念講演・現代史の中の日本民主法律家協会
◆第42回司法制度研究集会◆
「司法改革」10年──司法は国民のために役割を果たしているか?
企画にあたって………「法と民主主義」編集委員会
◆記念講演●現代史の中の日本民主法律家協会──獲得した成果を確信しこれからの課題を探る──………渡辺 治

  ■司研集会第一部■裁判の現場から見た司法の現状
◆原発裁判●司法はなぜ原発事故を防ぐことができなかったのか………海渡雄一
◆日の丸・君が代関連訴訟●問われる思想・良心の自由と教育行政に対する司法判断………加藤文也
◆中国人戦後補償裁判●日本の司法の限界が露わに………山田勝彦
◆東電OL殺人事件●刑事司法の歪みが生んだ冤罪事件………佃 克彦
◆泉南アスベスト国賠訴訟●アスベスト被害者を見殺しにする大阪高裁判決………奥田愼吾
  ■司研集会第二部■司法はどのように変革されるべきか
◆法科大学院問題と裁判員制度の問題を中心に………戒能通厚
◆司法の現状と変革の方向w今、何が問題か………守屋克彦
◆わが国司法官僚制の現状と改革への道すじ………宮本康昭

  ■会場からの質疑・応答・意見/報告者のまとめ………飯島滋明/守屋克彦/秋山賢三/中村元弥/鈴木秀幸/宮本康昭/戒能通厚/奥田愼吾/竹内浩史/小沢隆一


 
★●日民協50年を祝い、明日を語る集い●
記念講演・現代史の中の日本民主法律家協会
     ──獲得した成果を確信しこれからの課題を探る
●第42回司法制度研究集会
「司法改革」10年
──司法は国民のために役割を果たしているか?

企画にあたって
 二〇一一年九月三〇日から一〇月一日にかけて、日本民主法律家協会は、創立五〇周年の記念行事を開催した。第一日目は、「日民協五〇年を祝い、明日を語る集い」と称して、協会の来し方を振り返るとともに、世代を繋いで明日の展望を語る集いとして準備された。各界からのご列席もいただき、当協会の理事長である渡辺治一橋大学名誉教授の「現代史の中の日本民主法律家協会」と題する記念講演を中心に、華やかな雰囲気のなかで、五〇年を語るにふさわしい集いとなった。また、第二日目には、第四二回司法制度研究集会を開催した。
 今号は、この二日間にわたる記念行事での講演・問題提起・討論を中心に特集を組んでいる。

 司法制度改革審議会が、「二一世紀の日本を支える司法制度」という副題を付して意見書を公表したのが二〇〇一年六月一二日。以来一〇年、検証に十分な時を経た。
 同意見書は、冒頭の「基本理念と方向」において、そのイデオロギー的な立脚点を次のように語っている。
 「我が国が取り組んできた政治改革、行政改革、地方分権推進、規制緩和等の経済構造改革等の諸改革は、何を企図したものであろうか。それらは、過度の事前規制・調整型社会から事後監視・救済型社会への転換を図り、地方分権を推進する中で、肥大化した行政システムを改め、政治部門(国会、内閣)の統治能力の質(戦略性、総合性、機動性)の向上を目指そうとするものであろう」「今般の司法制度改革は…まさに『この国のかたち』の再構築に関わる一連の諸改革の『最後のかなめ』と位置付けられるべきものである」
 とは言え、複雑で多岐にわたる司法制度改革の全てが、このような上からの新自由主義的イデオロギーに貫かれているわけではない。また、司法制度改革は、国家や財界の側からだけの要請ではなく、民衆の側からの課題でもあり要求でもあった。種々の立場の理念と運動が複雑に絡みあっての意見書であり、制度の改革とその後一〇年の制度運用であった。
 日民協創立五〇周年にあたる今年の司法制度研究集会のメインテーマは、自ずと一〇年を経た現時点における司法改革の功罪を検証することとなった。その検証の視点は、司法が本来果たすべき役割を果たしているか、というものである。いうまでもなく、司法本来の使命は、忠実に憲法の理念を具現することにある。実力せめぎ合う社会において権利の侵害を受け、憲法を拠り所にその救済を司法に求める必要は社会的な弱者にこそある。その弱者たる国民のために、司法はよくその職責を果たしているだろうか。権力や富をもつ者のためではなく、それと対峙する側の国民にとっての権利救済機関としての役割を果たしているかの検証が必要である。
 三度にわたるプレシンポは、最近一〇年の最高裁憲法判例の分析、司法官僚制の実態の把握、そして法曹養成制度の検証(第三回プレシンポの報告・本誌五八頁以降に掲載)、を内容とするものであった。その暫定的な結論は、大要次のようなものとなった。
 司法改革一〇年を経た今も、司法は国民のための本来の役割を果たし得ていない。その最大の原因は、官僚司法制度が温存されているところにある。自らの人権侵害回復のために闘うという経験を持たない官僚裁判官たちが、最高裁事務総局の人事政策によって統制されている。どうしてもその意向に沿って、国家政策や治安強化を優先させ、憲法の理念をないがしろにし、社会的弱者や少数者の人権を軽視する判決を下す事態を招いている。したがって、抜本的な今後の改革の方向は司法官僚制の打破にあり、そのために有効な手段として法曹一元を目指すべきである。
 そのような問題意識から司研集会の進行は次のとおりとなった。
 第一部「裁判の現場から見た司法の現状」では、原発裁判、日の丸・君が代訴訟、中国人戦後補償裁判、東電OL殺人事件、泉南アスベスト国賠訴訟の各担当者からの報告を得た。憲法の諸理念実現という弱者としての国民の側の切実な要請に司法が応えているかという視点から検証すると、現状は国民の求めた司法改革とはいまだ大きな隔たりがあると結論せざるを得ない。
 第二部は、「司法はどのように変革されるべきか」と題するパネルディスカッション。パネラーは、戒能通厚・守屋克彦・宮本康昭の三氏。司法の現状については、それぞれの関心分野に焦点をあてて、いずれも厳しく批判する内容となった。そして、その病理の原因として司法官僚制の存在が指摘され、有力な改革の方向性として法曹一元が語られた。司法改革によっても官僚司法制度の根本的な改革には手がつけられておらず、その改革なくして国民のための司法を実現することはできないことが明らかになったといえよう。むしろ、法科大学院と修習期間の短縮をセットとした法曹養成制度が、早期から「エリート」裁判官志望者を選別するなど、官僚司法を強化する一面があるとの指摘もなされた。
 日本国憲法の理念に適う、国民のために役立つ司法とするためには、官僚司法制度を根本から改め、最高裁事務総局の権限を大幅に縮小することが必要である。併せて、裁判官の独立と市民的自由を実質的に保障させると共に、全ての裁判官を実務経験のある法曹から採用する法曹一元制の実現をめざすことが重要である。
 「国民のための司法」を実現する真の司法改革に向けて、その方向を見い出し得た集会となった。

「法と民主主義」編集委員会


 
時評●教育への公権力の介入を許してはならない─東京・大阪の事態を憂うる

(弁護士)澤藤統一郎

 物心ついたころは戦後民主主義の時代。社会の片隅で育った少年も、時代の空気を吸っていた。誰からともなく教えられたミンシュシュギという言葉がまぶしかった。ものごとは一人のボスが決めるのではなく、みんなで決めなければならない。みんなが平等な一票を持って臨む多数決にこそ正義がある。
 整理された言葉こそもたなかったが、少年は、民主主義を明るい未来を切りひらく希望の灯と考えた。戦争も、差別も、思想統制も、言論弾圧も、そして貧困も、民主主義の不足がもたらした災禍にちがいない。多数の意思で多数の利益を実現することが不正義であるはずはなく、世論に基づく政治が不合理を解決できないはずはない。民主主義さえあれば、この国の未来は明るい。
 しかし、少年は長じて、けっして明るくはなっていない「未来」で考え込んでいる。民主主義って何なのだ。民主主義によってもっと大切なものが切り捨てられてはいないか。
 二〇〇三年四月、石原慎太郎は三〇八万票を得て都知事に再選を果たした。民主的な手続によってである。この大量得票が石原教育行政暴走のきっかけとなった。その直後からの準備期間を経て悪名高い「10・23通達」の発出にいたった。以来、東京都内の公立学校では、学校行事での日の丸・君が代への起立斉唱を強制する職務命令と違反者への仮借ない懲戒処分の濫発が続いている。いささかなりとも憲法的良識を持つ者の眼からは異常の事態というほかはない。
 大阪の事態はさらに深刻である。本年六月の府議会では、「君が代起立・日の丸掲揚強制条例」が成立した。維新の会という多数派による乱暴このうえない「民主的手続」によってである。さらに、維新の会は「教育基本条例」を提案した。その賛否が大阪府知事、大阪市長ダブル選挙の主要な争点の一つとなっている。
 この条例案は、教育行政が教育に介入してはならないとする理念を否定するだけでなく、教育委員会の独立性をも否定している。戦後教育改革の成果としての現行教育法体系の大原則を破壊しようとするものにほかならない。
 けっしてリベラルとは言い難い府教委も、さすがに腹に据えかねて教育委員連名の「見解」を発表し、「この条例案が可決されれば総辞職する」としている。その一節は以下のとおり、正論である。
 「この条例案により、教育委員会は…まさに知事の補助機関となる。それは現行法制下の教育委員会が壊滅することであり、教育は政治そのものの一部となりかねない。そして条例制定後は、選挙ごとに教育方針が変わる。学校関係者は知事の意向や選挙の動向を絶えず気にしなければならず、政治の流れに過敏となり、校長に近い外部団体の影響が強まったりする状況が生じうる」「政治の介入を厳格に戒めようとする教育基本法や諸法規の精神に反するものである」

 提案者である橋下徹の立場は、選挙民の意思こそ万能の正義であるというもの。これが、この上なく危険なのだ。
 敢えて言わねばならない。民主主義は手段的価値に過ぎない。個人の尊厳こそ根源的な憲法価値であって、民主主義はその根源的価値の顕現に寄与すべき手段と位置づけられる。民主主義は、公権力の創設と行使に関わる原則なのだから、人間の尊厳そのものにかかわる人格形成という営みに関しては作動し得ない。教育に公権力が介入してはならない。そもそも多数決原理の及ぶ分野ではないのだ。

 それにしても、司法がしっかりと憲法原則を遵守しておれば、このようなポピュリストが跳梁する余地はあり得ないのだが……。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

断固職人として生きる

弁護士渡辺 脩先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1962年3月。青梅事件上告趣意書完成の記念に。しかしこんな記念写真は撮るものだろうか。左は師植木先生、若い。脩先生も若々しい青年である。

 渡辺先生の四谷暮らしは一〇年になる。一九九五年に麻原裁判の国選弁護人になるとき赤坂にある東京合同法律事務所を退所し、池袋に六年、そして四谷に移ってきた。今は東京法律事務所もある伊藤ビルの七階、四谷法律事務所の住人である。事務所を訪ねると、事務所のドアは開けっ放しのまま、一歩入ると事務所全体が見渡せる。ガンガン差し込む西日を正面から受けながら、左手に領収書のような資料を持ち、最新のノートパソコンにかがみ込むようにして仕事をしている脩先生が居た。一九三三年生、七八才になる。ばらばらになった縦ブラインドの間から、西日は容赦なく照りつける。ブラインドの下端は机の前に積み上げられた資料の山にたれかかっている。「先生この西日何とかした方がいいんじゃないですか。カーテンしましょうよ」。「山本真一君が係だから」それじゃーダメだ。脩先生の隣は池田眞規先生。脩先生の五才年上八三才である。もうひとつの机は空いている。「誰か若い人いない。ここの事務所は自由で何の拘束もないから」。ところで山本真一先生は一体どこにいるんですか。事務局の机と思っていた真ん中の島になっている二つの机の一つが彼の机である。えっ、だって一人左向きで資料も置かれていないし。
 パーテションで囲われた応接スペースのドアも開けっ放し。とにかくそこでインビューが始まった。「僕のことを聞きたいんだろうけどちょっといっておきたいことが」。「僕は弁護士会が空前の危機だと思っている」。資料片手に、専門弁護士登録制度、裁判員制度の見直し、新時代の刑事司法制度特別部会の問題点を延々と語る。「多くの弁護士はこのことを認識していない」。もうそろそろ仕事を整理してなんて気持ちは脩先生にはさらさらない。「僕は闘争心が支えの職人弁護士だからそれがある限り仕事を続ける」。弁護士五〇年。誰にでも、どこででも、論陣を張る。「歯に衣着せぬ言い方」が身上である。
 脩先生は北海道の岩見沢で生まれ、父は検察庁に勤めていた。憲兵隊に入った父とともに一家は満州に行く。脩君は新京で小学校時代を過ごす。「おとなしい少年だった」。六年で終戦。父はシベリア送りをのがれ家族のもとへ。一家五人全員欠けることなく帰国できた。一番下の弟はまだ生まれたばかりだった。「父がいなければ無事に帰国できなかった」。脩君は、札幌大通り小学校六年に再入学し、新制中学第一回生に。その後、副検事になった父の転勤で室蘭へ、室蘭清水が丘高校に入学、生徒会長をやったりしていた。大学は一橋大学社会学部である。新聞部に入部する。が、記者もサラリーマンかと思い、独立した仕事、弁護士をめざすことにした。法学部に編入。その頃には津田に行っていた福岡出身の妻育子さんと付き合っていて、「司法試験なんて受かるのかしら」と心配されていた。そこはぬかりない脩君は卒業の年に合格し、一九六一年四月入所の一三期となる。一九五九年に結婚し、修習は札幌だった。一三期の就職手配師は冨森啓児さん、「東京合同に行け」と言われた。
 ここで脩先生のその後の運命が決まってしまう。同期入所は、高橋清一、谷村正太郎。当時東京合同は松川事件と白鳥事件で動きがとれず新人弁護士は直ぐに現場に放り込まれた。脩先生は「批判や悪口には無類の抵抗力をほこっていた私も、おだてにはからっきし意気地がない」。以降、先輩弁護士の口車に乗り続けることになる。
 まずは「列車妨害」青梅事件、被告人一〇人。一審有罪、一九六一年五月に、控訴棄却。「すぐ上告審の弁護団に放り込まれた」。一カ月前に弁護士になった若造でも、弁護団の一員になれば全員対等になる。脩先生はもちろん物怖じなどしない。「厚顔の鼻少年」振りを発揮した。そして鍛えられた。「どんなひどい裁判もありうるものだということをこの事件で実感いたしまして、それから後は大概のことには驚かなくなりました」。六六年に破棄差戻し、六八年に差戻二審無罪となった。次は「一家六人皆殺し」仁保事件、一審死刑。一九六八年上告審の段階で参加。七〇年に上告破棄差戻し、七二年差戻二審無罪。そして「警察署襲撃」辰野事件、被告人一二人。控訴審から参加、七二年に控訴審で無罪。
 弁護士になって一〇年、脩先生は大事件はもちろん多くの一般民事刑事事件も担当する。岡林辰雄、大塚一男、上田誠吉、植木敬夫、中田直人のそばで、「第一級の刑事弁護人」の職人魂を学び身に付けたのである。
 脩先生の弁護士会活動は一九六六年、東京弁護士会の刑法改正問題対策委員会に始まる。途中休んだことがあるが四〇年を超える活動歴である。刑法改正問題、弁護人抜き裁判問題、国家秘密法問題等々。政治的な立場や信条を事にする職能集団で民主的にしかもぶれることなく一致して国の政策に抗していくことは並大抵のことではない。「私は異なった立場と信条を相互に認め合いつつ、相互に一致できる共通項を求めたいと言う事だけを考えていたのです」。
 一九九五年一〇月、脩先生は東京合同入所三四年、六二才。最後の大仕事が待っていた。一〇月二七日午前一一時半ころ東弁の担当副会長から電話が入った。「麻原国選を引き受けてもらいたい」「それにしても、女房と相談ぐらいさせてくれ」「もっともだ」「時間はどれくらいあるのか」「五分以内」。脩先生は直ぐに妻に電話した。「じゃ、私が嫌だと言えば、断れるの」「そうもいかんだろう」「それでは何のために聞くの」「それはそうだが、あなたに聞かないわけにもいかんだろう」「しょうがないわね」。実は脩先生、作戦参謀兼切り込み隊長として闘った弁護人抜き裁判特例法反対運動の中で「これからはどんな事件でも弁護士会に言われれば国選は引き受けなければならないな」と思っていた。二五年前である。「断ったら弁護士を辞めなければならない」。
 最終弁論の二〇〇三年一〇月まで八年、一二人(後に一一人)の弁護団の面々と共に「『普通の弁護活動をやり抜く』ということしか考えていなかった。『無駄なく、手抜きもなし』が私たちのモットーで、その点では頑固な職人集団だった」「これまで関わった弁護団中で個性の強さと力量そしてまとまりで一番です」「 暴れ馬の職人集団」「私にとって、麻原弁護団は実に気持ちのよい集団であり、この人たちと仕事をするのが楽しかったから、八年間やってこられたと思う」。最終弁論終了時に脩先生は古稀を迎えていた。「平等原則に一人の例外も作ってはいけない。どんな人にも公正な刑事裁判を受ける権利がある」。

渡辺 脩(わたなべ おさむ)
1933年生まれ。一橋大学社会学部卒業。61年弁護士登録(13期)。青梅事件・辰野事件・仁保事件の無罪判決をはじめ、長年数多くの刑事事件の弁護活動に従事。日弁連では「刑法『改正』阻止実行委員会」事務局長・副委員長、「弁護人抜き裁判」特例法案阻止対策本部事務局次長、国家秘密等情報問題対策委員会委員長、などを歴任。著書「刑事弁護雑記帳」、「麻原裁判の法廷から」など。


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