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 法と民主主義2011年5月号【458号】(目次と記事)


法と民主主義2011年5月号表紙
特集★子どもの権利保障のいま──子どもの生きる力を育む一歩へ
特集にあたって………編集委員会・佐々木光明
◆恩恵的福祉観への後退は許されない──貧困社会の子ども観の再構築のために………平湯真人
◆CRC総括所見から見えてくる日本の子どもの実情と子ども政策の課題………津田玄児
◆「子どもの権利基本法」(仮称)の必要性と課題………荒牧重人
◆国際子どもの権利運動・支援から──子どもの参加の権利の実現………甲斐田万智子
◆子どもたちの性をめぐる裁判二題………中川重徳
◆子どもの成長のゆらぎと性──福祉施設で暮らす子どもの実情から考える………石澤方英
◆虐待を受けた高齢児童の権利保障──その自立と親権………磯谷文明
◆『悲しき再犯』をなくすために──「セカンドチャンス!」の活動から………才門辰史
◆保育・学校事故はなぜ繰り返されるのか………武田さち子
◆外国人の子どもの権利保障──両親の収容による子どもとの分離並びに教育権の侵害………児玉晃一

    特別企画●司法制度研究集会・第二回プレシンポジウムより
    基調報告・最高裁は変わったか?──判例分析から………浦部法穂
    事件報告・言論弾圧事件で問われる最高裁の役割………加藤健次
    事件報告・「日の丸・君が代」訴訟の現場から………澤藤統一郎
    事件報告・「選挙弾圧」事件の現場から………鈴木 猛



 
★子どもの権利保障のいま──子どもの生きる力を育む一歩へ

特集にあたって
 震災は、子どもにとっていっそう過酷である。被災地三県の就学中の子どもの死者約四〇〇人、行方不明者も未だに一二〇人以上、両親ともに亡くした子どもは一〇〇人を超え、どちらかを亡くした子どもは数倍になろう。非難のため県外の学校で学ぶことを余儀なくされている子どもは約九五〇〇人にのぼるという。未就学の子どもを含めて考えるとき、息をのむ。子どもたちを支える親や教育関係者等々の大人も同じく被災者である。

 いま、われわれは子どもに何を伝えなければならないのだろうか。子どもが奪われた大きなものの一つは生きる力であろう。それは子どもの権利の核心の一つだ。ゆっくりでもそれを恢復していくために、大人社会は子どもの権利保障のあり方と向き合うことが不可欠だろう。

 子どもの権利について語られ、その保障がさけばれて久しい。国連子どもの権利条約(一九八九年)を日本が批准(一九九四年)して一七年、じきに二〇年を向かえようとしている。この間、日本政府は国連子どもの権利委員会で、三度にわたって(一九九七、二〇〇八、二〇一〇年)子どもに関する法制度や施策について報告し審査を受けてきた。それは単なる実情報告とそれへの承認ではない、いわば日本における子どもの権利保障の進展とそのあり方、かつそれに向けた総合的な政策に関する検証でもある。その意味で、委員会から審査後に日本に向けられた三度の勧告は、子どもの権利保障に向けた日本の子ども施策の方向を見定める議論の契機でもある。しかし、昨年の勧告でも示されたように、子どもの権利保障をめぐる議論と施策は、子どもの実情を十分にふまえたものとはいえず、子どもの権利保障の包括的な基本法の必要性が説かれている。

 また一方で、「貧困」、「格差」、「無縁社会」という言葉が日本社会の実相を示しつつ、「子どもの貧困」についても大きく注目された。子どもの貧困は、子どもの成長過程での総体的機能不全でもあり、それは子どもの人間としての尊厳と社会の一員としての意識の促進と深く関わる問題である。

 子どもの権利保障とは、子どもひとり一人の「生きる力」を守り、はぐくむことでもある。そのためにも、子どもの抱えた課題と実情を見つめ、いま、子どもの権利保障にむけて何が求められるのかを多様な観点から探ることが求められている。なお、その取り組みは始まってもいる。子どもの権利保障、支援に関わるNGOや制度論及び司法問題に関わる実務家、NGO、研究者等々子ども問題に関わる担い手が、いま問題をどのように捉え、展望をどこに見いだそうとしているのか、またその取り組みを探る。現在(いま)を追いつつ、次の手だての構想と支援を育むときだ。
 本企画は震災前にたてられたものだが、考えるべき課題は共通していると思われる。
 東日本大震災で被災された方々に、心よりお見舞い申し上げるとともに、親を失った多数の子どもたちの心の傷に寄りそい、子どもたちの瞳が輝くことを願って本特集を送りたい。

編集委員会 神戸学院大学 佐々木光明


 
時評●3・11の惨禍と人為災害の恐怖

(弁護士)鷲野忠雄

 日民協のホームページに掲載されている「ワシノメモリー」も五月一四日現在でA4版一二二頁に及ぶ。毎日の被害状況とマスコミの反響をメモ風に記録し、忘却という人間の習性に逆らい続けている。
     *****
 三月一一日午後二時四六分、宮城、岩手、福島の三県を中心とする東日本を襲ったM9.0の巨大地震。リアルタイムでテレビ放映された「人間の日常」を奪いつくした大津波、死者二万五千人(行方不明含め)、建物損壊一八万戸、最大五〇万人に上る避難者、船舶・漁港の「壊滅」的被災、農地被害二万五千ha…(中略)…経済的被害は九〇兆円の国家予算の規模に匹敵するであろうし、多くの被災者が受けた精神的苦痛は図りしれない。しかも、この地震と津波により東京電力福島第一原発が破壊され、冷却用電源が喪失して「制御不能」「炉心溶融」「高濃度汚染水」の垂れ流し、国際評価尺度レベル7のチェルノブイリ並み、あるいは、それ以上の事故とされている。(中略)放射能被害は、収束のめどが立たず、福島第一原発を震源地として、風や海流によって日本列島の大半に及ぶ危険性さえある。地震大国の我が国に五四基もの原発が作られ、全発電量の三分の一を原発電力が占め、「クリーンエネルギー」として、これを五〇%まで増やし、インド、ベトナム等に原発輸出を打ち出していたのが現政権であった。いま、私たちは、制御技術や危機管理を欠いた原発事故という未曽有の人災に怯え、そのツケを払わせられつつある。
     *****
 「ワシノメモリー」を作りながら、痛感した疑問と問題を思いつくままに列挙してみたい。
 @この惨禍と被災者の苦悩を共有し、これをもたらした自然の猛威への対策、日本列島を覆いつくす人為災害=原発事故への対応・そして、救援・復旧・復興のためにあらゆる知恵と人的・物的条件の確保のために、総力を傾注すべきことは言うまでもない。
 A国民に塗炭の苦悩をもたらし、ひいては国を破滅させかねない原発政策を長年、推進してきた自民党政権とこれを反省もなく承継してきた現政権、政・官・業・学の「鉄の四角形」の犯罪性、マスコミによる情報操作の異常さ、世界最大級の事故でありながら、情報を隠し、小出しにする詐術的手法、など納得できないことばかりである。原発政策の根本的な転換抜きに、また、この四角形の解体なしに、今回の原発事故への根本的な対策はあり得ない。首相が国会でお詫びし、東電役員が謝罪の被災地回りをし、原発の許認可にお墨付きをを与えた専門学者らが国会で「反省」を表明することで済むことではない。
 Bすでに、福島第一原発の1、2、3号機とも燃料棒が溶け、原子炉の「炉心溶融」が確認され、「六〜九カ月で原子炉を安定した状態に」という工程表の出鱈目さも明らかになった。事故発生後二五年たつチェルノブイリの半径三〇キロ圏内には今なお人が住めず、最終収束までに更に一〇〇年を要するとさえ言われている。国民の中に湧き上がり始めた反原発の動きに対し、東電と政府は、停電、電力料金値上げ、不況・失業の加速、社会保障の圧縮などの対策やキャンペーンをもって対抗している。
 C原発推進に殆どのケースで免罪符を与え続けてきたのは、司法である。この責任も軽視できない。
 Dわが国が、今、歴史的な「非常事態」にあることは事実である。この機に乗じて、国政、地方政治、外交、軍事など全面にわたって強権政治の創出を狙って、非常事態法の制定、さらには、九条を中心とする憲法改正の動きも表面化しつつある。
 大震災と原発大事故を巡る私たち国民の監視・批判・政治転換への絶え間ない努力が今ほど強く求められている時はない。原子炉の「炉心溶融」→「臨界爆発」への真摯な対応は当然であるが、民主主義をメルトダウンさせてはならない。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

飛鳥山に行かないで

弁護士鳥生忠佑先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1983年4月。北区長選立候補の時。社会党、社民連、共産党の推薦だった。左が都知事美濃部亮吉、左は社会党委員長飛鳥田一雄、場所は都知事室である。鳥生先生は50才。一度限りということで鳥生先生は自分が役に立てばと立候補した。

 東京北法律事務所は北区王子本町にある。飛鳥山の麓、王子神社の門前町である。江戸時代から桜と紅葉の名所で時代小説にはよく登場する所だ。王子神社の門前から一本隣、本郷通りに面した角地にメリヤス問屋「鳥生商店」があった。タオルで有名な愛媛県今治の出身の父清吉が開業し、手広く商売をやっていた。母トミの実家も山形の繊維業、東京に手伝いに来ていて清吉と結婚した。子どもは六人、鳥生先生は上から四番目である。一九三二年八月一一日、鳥生先生はそこで生まれた。満州事変と五・一五事件が起きた年である。今年七九才になる。

 生まれたその場所で法律事務所を開き五〇年、「鳥生商店」は「東京北法律事務所」になり、木造二階建ての靴を脱いで上がるあの事務所は二〇〇七年に「北法ビル」となった。三階に七〇人収容のホール、四階と五階が事務所である。父清吉は鳥生先生が二才の時に亡くなっているのに先生にはなんだか「鳥生商店」の旦那がよく似合う。「鳥生商店」で厳しく育てられた番頭手代は、みんな独立してそれぞれ実に個性的な弁護士業を営んでいる。亡くなった雁谷勝雄一七期、中村仁二二期。小野寺利孝一九期、高山俊吉二二期、梓澤和幸二三期、斉藤義房二六期、中本源太郎二八期、清水洋二九期、山本裕夫三一期、下林秀人三二期。本郷、四ッ谷、神田須田町、駒込、板橋、上野、巣鴨、後楽園、本店王子を要にしている様だ。この面々をみると「鳥生商店」の商いのやり方が脈々と息づいている。三つ子の魂百まである。「先生はどうやってこんな人たちを育てたんですか」「私はその人それぞれの個性と人格をよーく見るのです。そしてよい所を殺さないで生かす」反面教師と言っていた人もいた。「いろいろ聞いていますけど」と私が突っ込むと「ふふふふ。そのようなことをみんな言っているようだな」なぜかうれしそうな鳥生先生なのである。

 鳥生先生は右目の視力が全くなく、左足も不自由である。足が不自由なことは直ぐに気づくが目のことは一見分からない。顔全体に迫力があるのでどうも見えてるような気がするのである。実は忠佑君、三才で結核性の左関節炎と右眼角膜炎に罹患したのである。母トミの願いはとにかく生きのびてくれることであった。月二回の東大病院への通院はもちろん、加持祈祷まで病気によいと言われることは何でも試した。忠佑君は風呂場で絞ったまむしの生き血まで飲まされた。母の思いが叶って忠佑君はギブスをつけ小学校に入学。特別な机と椅子を教室に持ち込んで授業を受けた。四年の時やっとギブスがとれた。「昔はギブスで固定したの。これがたいへんでね」。

 一九四四年の四月忠佑君は母の故郷山形に疎開する。大事にされたが忠佑君にとっては心地良いものではなかった。翌一九四五年の二月、忠佑君一二才は王子へ帰って来てしまった。東京大空襲が来る。三月一〇日一〇万人が亡くなり、翌月四月一三日の夜にもB26の大編隊が王子の造兵敞から飛鳥山にかけて大量の焼夷弾をばらまいた。「今夜は、飛鳥山の防空壕に入ろうよ、忠佑」母トミと兄弟姉妹四人は飛鳥山に向かった。ところが石神井川にかかる音無橋にさしかかったときトミは突然「飛鳥山に行かないで、今夜は危ないから音無橋の下の壕のほうがいいと思うよ」と言った。飛鳥山の横穴式の防空壕はその夜、焼夷弾で多くが焼き払われた。一家は母トミの一言で生き残った。

 王子は一面焼け野原、すべてなくなっていた。住むところもなく一家は埼玉に疎開する。終戦の詔勅は田端駅ホームで聞いた。忠佑君はそこから中学に進学しそのまま高校に進んだ。王子に帰ったのは一九五七年である。長兄は早稲田大学を卒業してメリヤス問屋に勤務した後、「鳥生商店」を再開した。忠佑君は学習院大学政治経済学部に進学する。一学年下には皇太子がいた。学習院と鳥生先生はどうも結びつかない。「どうして学習院だったんですか」。「平和主義者の院長安部能成にひかれたこと。それに学習院は飛鳥山公園から都電一本で通えて楽でしたから」

 忠佑君が司法試験の勉強を始めたきっかけは学習院の法学研究会で「育ちの良さそうな同年配の青年」に出会ったことである。これが小田成光先生である。この二人の取り合わせも不思議である。小田先生が学習院初の司法試験合格者、二番目が鳥生先生なんだって。一〇期で研修所入所、卒業は手術で一年遅れて一一期となった。二度にわたる股関節の大手術が成功して研修所を出るときは鳥生先生は知力も体力も充実していた。

 一九五九年に弁護士登録し、一年間蒔田・松井法律事務所で修行。一九六〇年、生まれた所王子本町で開業する。長兄は原宿に移転して婦人服の仕事を始めていた。空き家になった木造二階建ての家の二階が事務所になった。鳥生先生はそこから動かず、そこをよりどころとして庶民のために共に闘う弁護士になるつもりだった。

 二〇〇九年六月、ノンフィクション作家の今崎暁巳さんが「北の砦 ルポルタージュ鳥生忠佑と北法律事務所」という本を日本評論社から出版した。鳥生先生の弁護士生活五〇年に合わせて出された。今崎さんは昨年亡くなってしまい、この本が遺作となった。同世代で北区の住民、鳥生先生とさまざまな運動を共にすることもあった。もちろん筆力もある。早稲田大学野村平爾の労働法ゼミの一員でもあった。こんな人に「いつか同時代のこの男についてルポルタージュを書いてみたい、そう思ってきた」なんて言われて鳥生忠佑は幸せ者である。「私たち北区民は鳥生の事務所を日常、『東京北法律事務所』とは呼ばない。親しみを込めて『北法律』と呼んでいる」。私たちもそうです。この本で活写されている様様な事件活動と闘いは、すぐ側で自分も参加しているような気持ちになる。鳥生先生や登場する弁護士のかっこいいこと。日頃の自分の弁護士活動とは次元の違う話である。ダメ弁佐藤としては反省しきりである。こんなことやれた北法律と鳥生先生を見直しました。「地域に根ざし、市民の権利を守る」五〇年はどう考えても鳥生忠佑という強烈な個性がなければ到達し得なかったと思う。

 「隠居しないのですか」と聞くと「ふっふ。まだしばらくは」仕事が趣味なんだって。「面白いですね。弁護士は」今事務所の番頭は青木譲三八期。席も鳥生先生の隣である。「先生が跡継ぎだって」と私が言うと、青木さんは何食わぬ顔で「はあ」と言っていた。五五期の坂田洋介、六一期の金井知明、六三期の長谷川弥生と続く。鳥生先生の可愛い孫の世代である。みんなよかったね。先輩はたいへんだったんだからね。

鳥生忠佑(とりう ちゅうすけ)
1932年東京生まれ。56年学習院大学政治経済学部卒業。59年弁護士登録(11期)。宮掘川管理責任追及事件、新幹線高架設置反対訴訟、公団住宅建替え事件、オリンピック病院開設阻止事件などに携わる。東京弁護士会副会長、日弁連司法問題対策委員会委員長などを歴任。「北・九条の会」代表委員。


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