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 法と民主主義2010年8・9月号【451号】(目次と記事)


法と民主主義2010年8・9月号表紙
特集★軍事同盟のない世界へ──今こそ、日米安保体制を問う
特集にあたって………編集委員会・小沢隆一
 ■日民協第49回定時総会記念講演より
◆60年安保から50年──原点と現点………森 英樹
 ■シンポジゥム・「軍事同盟のない世界へ──改定50年の安保条約を問う」基調報告より
◆軍事同盟のないアジアと日本………水島朝穂
◆グローバル経済の中の日米安保………増田正人
 ■シンポジゥム・「軍事同盟のない世界へ──改定50年の安保条約を問う」分科会報告
◆第1分科会・アジアの視点から見た日米安保………笹本 潤
◆第2分科会・米軍再編の動向と平和構築の展望………亀山統一
◆第3分科会・私たちの生活を脅かす安保の危険──裁判から見える日米安保………小林善亮
◆第4分科会・アジアの平和構築と歴史認識………松井安俊
◆第5分科会・いまメディアに平和憲法を!──日米安保50年とジャーナリズム………吉原 功

  • 投稿●アメリカの戦争で、日本が報復を受ける危険──密約、今も続く「占領」………毛利正道
  • 投稿●教育公務員の権利制約は当然か──制約の論拠としての米国判例について………土屋英雄
  • 連載●刑事法の脱構築(16)「公正な裁判」の挽歌──迎賓館・横田事件裁判………宮本弘典
  • 検証●誤認・誤判の連鎖が生み出した冤罪事件 北陵クリニック事件(仙台・筋弛緩剤点滴混入事件)を語る………阿部泰雄/守 祐子/T
  • とっておきの一枚●弁護士 工藤勇治先生………佐藤むつみ
  • 日民協文芸●(28)………柳沢尚武/有村紀美/チェックメイト/木村一美
  • トピックス●レッドパージの反人権性を指弾、日弁連の調査に感謝!………加藤栄一
  • 新連載●裁判員裁判実施後の問題点 No.3 被害者参加による裁判員裁判と弁護権との相克──花見川事件を素材として………立松 彰
  • 時評●議員定数の削減問題………山内敏弘
  • KAZE●焼津の味、夏合宿の「味」に大満足………田村 淳

 
★軍事同盟のない世界へ──今こそ、日米安保体制を問う

特集にあたって
 極東最大の米空軍基地、嘉手納飛行場を抱える嘉手納町の宮城篤実町長は、雑誌『世界』の今年の二月号に寄せて次のように語っている。「安保条約に手をつけずにアメリカに基地撤去、国外移設といっても無理です。私は、新しい政権には、日米安保を再考する、勇気ある決断を期待したい」(宮城篤実「嘉手納基地の固定化は許されない」世界二〇一〇年二月号)。
 沖縄戦では戦火を避けるために名護に逃げ、戦後、嘉手納に帰ってきたら自分の故郷はフェンスに囲われた米軍基地とされていたという経験をもち、好むと好まざるとにかかわらず基地と関わってきた町長のこの切実なる想いを、いま政治はどのように受け止めているのか。
 沖縄・普天間基地の撤去・移設をめぐる問題が、昨年の鳩山政権成立以来、政治の一大争点となってきた。「国外、最低でも県外(移設)」との方針を表明してきた鳩山首相は、その方針を貫けぬまま、キャンプ・シュワブ辺野古崎地区および隣接する水域に移設するとの日米共同声明(五月二八日)を出した後に退陣を表明した。その後、菅政権の発足を経て、八月三一日には、政府により、辺野古周辺に造る代替施設の配置や工法をめぐる日米専門家協議の報告書が公表されたものの、沖縄側は辺野古移設に強く反対しており、政府は、移設計画の決定を一一月の沖縄県知事選後に先送りする模様である。
 日米安保条約が改定され発効してから、今年の六月二三日で丸五〇年を迎えた。この五〇年の間に、日米安保体制は、数次の日米共同宣言や一九七八年と一九九七年の日米防衛協力の指針(ガイドライン)の締結などを経て、改定当初の枠組みをはるかに超えた軍事同盟としての実質を持つようになり、米軍の全世界的展開を支えるもっとも重要な軍事同盟としての意義を持ちつつある。旧安保条約の時代を含めて約六〇年という世界にもまれな長きにわたるこの軍事同盟は、普天間基地その他の米軍基地による被害、米兵による犯罪、思いやり予算、米軍再編、自衛隊の海外出動、核兵器の持ち込みをめぐる密約など、平和、人権、民主主義の観点から黙視することのできない現在のさまざまな問題、人々の苦しみの根源となっており、また、東アジアにおける対立の克服と平和の実現、ひいては世界の平和構築の妨げとなっている。こうした日米安保体制の問題性を、総合的かつ批判的に検討し、その克服の方途をさぐることが緊急に求められている。
 この特集は、こうした日米安保体制の問題性を取り上げて日民協がこの間取り組んだ二つの企画から構成されている。
一つは、七月一〇日に開催された日民協の第四九回定時総会での森英樹龍谷大学教授による記念講演「六〇年安保から五〇年──原点と現点」の記録である。日民協が一九六〇年の安保改定反対運動の中から結成されたことから説き起こし、日米安保がいつしか「日米同盟」と呼ばれるようになった経緯と意味、民主党政権成立後もなお続く「日米同盟」による縛りについて、縦横に語っていただいたこの講演は、安保と憲法の相剋の歴史とともに歩んできた日民協にとって意義深いものとなった。また、定時総会当日、講演に先立って上映された六〇年安保闘争の記録映画「一九六〇年 安保への怒り」も、当時の状況を直接知る人、知らない人の双方にとって、運動の息吹がひしひしと伝わってくるものであった。
もう一つは、六月二六日に明治大学で開催された「シンポジウム「軍事同盟のない世界へ──改定五〇年の安保を問う」である。このシンポジウムは、民主主義科学者協会法律部会の呼びかけにより、日本民主法律家協会、日本国際法律家協会、自由法曹団、青年法律家協会弁護士学者合同部会、日本反核法律家協会、日本科学者会議、平和と民主主義のための研究団体連絡会議(平民研連)に集う研究団体、日本ジャーナリスト会議の共同で、開催したものである。当日は、三〇〇人を超える参加者を得て、午前の全体シンポジウム、午後の分科会シンポジウムにより、充実した報告と活発な討論が行われた。
午前の全体シンポジウムでは、@戦後史の中の安保体制──日米中のトライアングル 中村政則氏(一橋大学名誉教授・日本近現代史)、Aグローバル経済の中の日米安保 増田正人氏(法政大学教授・世界経済論)、B軍事同盟のないアジアと日本 水島朝穂氏(早稲田大学教授・憲法学)の三人のパネリストに、日米安保の問題性をそれぞれ歴史・経済・法の視点から縦横に語っていただいた。本誌の水島論文、増田論文は、シンポジウムの報告をもとに新たに原稿化していただいた。残念ながら、中村政則氏からは、ご多忙により、原稿をいただけなかったが、是非とも同氏の『戦後史』(岩波新書・二〇〇五年)をお読みいただき、「戦争とグローバルな視点を重視する貫戦史という方法」を用いて、「アジアとの関係や戦争の記憶の問題を重視しながら」みごとに描き出された激動の戦後六〇年と、そのなかで、日本国憲法体制と日米安保体制の矛盾・相剋が太い基軸とされていることを読み取っていただきたい。
午後の分科会シンポジウムでは、@アジアの視点から見た日米安保(日本国際法律家協会が企画担当、以下同じ)、A米軍再編の動向と平和構築の展望(日本科学者会議平和問題研究委員会)、B私たちの生活を脅かす安保の危険──裁判から見える日米安保(自由法曹団)、Cアジアの平和構築と歴史認識(歴史学研究会)、Dいまメディアに平和憲法を! 日米安保五〇年とジャーナリズム(日本ジャーナリスト会議=JCJ)により、さらに問題を多面的・多角的に検討した。これらの分科会シンポジウムについては、その抄録を企画担当者や報告者にお書きいただいた。
 このシンポジウムを通じて解明され、議論された問題を、今後とも探求し続け、軍事同盟のない平和なアジアや世界を希求する世論の輪を大きく広げるべく、法律家、研究者、ジャーナリストの団体の協力を旺盛に進めていくことが重要である。現在、このシンポジウムを共催した諸団体では、シンポジウムの成果を元にして、日米安保体制の問題性とその克服を広く世に問う出版物(『いま日米安保を問う』・仮題)の刊行の相談が進められている。刊行のあかつきには、是非ともご一読願いたい。

(編集委員会・小沢隆一)


 
時評●議員定数の削減問題

(一橋大学名誉教授)山内敏弘

 菅首相は、さる七月三〇日、臨時国会召集に際しての記者会見で、国会議員の定数削減について年内には与野党合意を目指す考えを明らかにした。民主党は、昨年の衆議院選挙におけるマニフエストで「衆議院の比例定数を八〇削減する」とうたい、今年の参議院選挙におけるマニフエストでは「参議院の定数を四〇程度削減する。衆議院は比例定数を八〇削減する」とうたったので、それを実現したいというのである。民主党は、この国会議員の定数削減の趣旨を国会議員が自ら身を切り、政治のムダをなくしてお金のかからない政治を実現するためとしているが、しかし、このような説明は、議員定数削減の理由としてはなんら正当性をもつものではないし、定数削減の本当の狙いを隠蔽するものと思われる。
 国会議員の一人当たりの歳費は、現在二一三六万円であり、文書事務費や交通通信費などを含めると年間合計は約四一一六万円になるという。民主党案にそって一二〇名削減したとすると約四九億円が経費削減されることになる。たしかに、それだけの経費は決して少ない額ではないが、しかし、まず疑問に思うのは、四九億円の経費削減をするには、国会議員一人当たりの上記のような多額の歳費などを削減することでも十分可能であるにもかかわらず、どうして歳費などは据え置いて議員定数の削減をしなければならないのかである。日本の国会議員の定数は諸外国に比較しても人口比でかなり少ない部類に属している。しかも、菅内閣は「国会内閣制」を掲げ、国会重視をその政策の重要な柱としているはずである。議員定数の削減はそのような国会重視の政策とも矛盾するものと思われる。
 また、一九九四年の「政治改革」によってはじまった政党交付金は、現在、国民一人当たり二五〇円を支出する計算として年間約三二〇億円にも達している。これだけの政党交付金は、政党の選挙における得票率や議席数などに応じて各政党に配分されるので、大政党には多額の交付金が支給され、小政党にはわずかの交付金しか支給されないことになる(共産党は交付金を受けることを拒否している)。このような政党交付金については、その不平等性のみならず、政党の自由をも侵害することになりかねないとして、憲法学界では違憲論も少なくないのである。かりに全面廃止はすぐには無理だとしても、三二〇億円のうちの四九億円を削減することは、なんら困難なことではないはずである。議員定数の削減については、民主党のみならず、自民党やみんなの党なども賛成しているが、しかし、これらの政党も政党助成金の削減を主張していないのは、不思議という他はない。
 このようなことを考えると、結局、議員定数の削減の本当の狙いは、経費の削減にあるというよりは、むしろ比例代表の定数を削減して少数政党をつぶして「二大政党制」を実現し、消費税率の大幅アップや国会での改憲発議を容易にすることにあるように思われる。民主党のマニフエストでは参議院議員の約四〇の定数削減は比例定数について行うとは明記していないが、しかし、衆議院の場合と同様に比例定数の削減にウエイトが置かれるのは避けがたいであろう。このような定数削減が実現した場合には、社民党や共産党などの少数政党は壊滅的な打撃を受けることになるであろう。そのような事態は、日本の健全な民主政治の発展と平和憲法にとって百害あって一利なしである。
 欧州諸国では現在比例代表制が一般的となっている。小選挙区制の本家のイギリスでも、承知のように小選挙区制の見直しが現実の問題となってきている。多様な民意をできるだけ正確に国会に反映させることが民主政治の基本であり、その基本を「二大政党制」の実現を名目としてゆがめるようなことは憲法の趣旨にも合致しないと思われる。議員定数に関して言えば、その削減ではなく、議員定数の不均衡(一票の格差)を是正することこそが、国会が取り組むべき焦眉の課題であると思われる。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

りんごの故郷は北国の果て

弁護士工藤勇治先生 
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1969年旧弁護士会館にて。出稼ぎ憲法裁判「川村国賠事件」(※)の提訴後の弁護団会議。真ん中に川村セノさん。向かって左が工藤勇治、その隣が坂井興一、百瀬和男。

 工藤勇治先生の事務所は新宿南口から五分、甲州街道に面したビルの九階にある。九階の事務所の一番奥窓際に工藤先生の机がある。窓から夏の暑い日差しが差し込んでいる。通路を挟んで隣が同期の友佐伯仁先生の席だった。一九六一年共に入所した尾崎事務所からずっと一緒に弁護士をやってきた。佐伯先生が年上だが「二卵性双生児」と言われた。やんちゃな明るい弟分が工藤先生である。工藤先生はいつもにこにこしている。少しかん高い声と小柄な体でなんだか楽しそうなのである。新宿事務所の安部井上弁護士(40期)によると「何事にも真剣に取り組む明るい笑顔の人」なんだって。
 佐伯先生と一九六七年創立した新宿事務所はいまでは弁護士九名、事務局五名の大所帯になった。七七才喜寿の工藤先生は「手帳を持たずに事務所に来る」。「事務所のみんなに助けられて、僕は古くからの顧問先の仕事があるくらい」。いいな、私もそうなりたい。弁護士になって四九年倦まず弛まずぶれずに明るく元気に仕事を続けてきた工藤先生へのご褒美である。
 工藤勇治先生の故郷は青森県南津軽郡田舎舘村大根子、美空ひばりが歌うあの曲が聞こえてくる。いまでも弘前市に合併せず村のまま。リンゴと米を作る自作農家、四人の姉と妹が一人、たった一人の男の子だった。「一九三三年、ナチスが政権を掌握し、日本が国際連盟を脱退して戦争に突き進んでいく歴史的な年に生まれました。」一才の時にポリオに罹患する。勇治君をおぶって母は毎日六キロ先の病院に通ったという。母の思いが通じ、勇治君は足に麻痺が残ったが元気になった。当時田舎舘村は豊かな農村で、部落ごとに小学校を持っていた。勇治君の部落は大根子小学校、一年から六年まで一クラス。部落は六〇戸、子どもたちはどこの家にも出入り自由だった。勇治君は足が不自由なことをなど意識せずのびのびと育った。食べ物に不自由することもなく野原を駆け回った。軍国主義の色濃い時代にいじめられたこともない。一九四五年小学校六年の時に終戦。工藤家の一族は弘前の東奥義塾中学に進学するのが決まりだった。私立のミッションスクールだった。駅まで一五分歩き汽車で二つ目が弘前駅、そこから学校まで二〇分歩く。通学が勇治君の体を丈夫にした。卒業時は新制中学になりそのまま東奥義塾高校に進学する。勇治君は新聞作りと生徒会活動に邁進する。大学は東北大学に進学。大学を出たら会社員になろうと思っていたので、つぶしが利く法学部を選んだ。「僕はあんまり物を深く考えない。すぐ人の影響を受けるんだな」。入学は一九五二年。時代はまだ騒然としていた。勇治君はその年の秋から仙台高裁のうす暗い記録閲覧室で、松川事件一・二審記録の手書き謄写ボランティアを始めた。憧れの同級の女性に誘われたからである。「私の謄写が、弁護団の方々に読まれ、輝かしい闘いのお役に立てたものといまでも思っている」。
 真面目な大学生だった勇治君のノートは級友の間で引っ張りだこだった。刑法は木村亀二、民法は中川善之助の講義だった。ところが三年の夏、結核になってしまう。「自宅に帰ってストマイとかパスで治した」。復学し一九五八年に卒業する。結核で遅れているし世の中も不景気だし勇治君は司法試験を受けることにする。五八年の秋に司法試験に合格、一三期の修習生になる。同期は「冨森啓児、谷村正太郎等々そうそうたる面々」。宮本康昭さんも同期である。六〇年安保の時期、研修所は安倍恕所長の下で「牧歌的時代」だった。工藤先生も青年法律家協会に所属した。実務修習は千葉。そこで松川福島地裁判決左陪席の田中正一裁判官とあう。指導教官だった。さわやかな笑顔の好青年工藤修習生は「酒の席で意を決して松川事件の話を持ち出した」「すると、きっと真顔になり、『あれは有罪に間違いない!』と睨みつけられた。最高裁差戻判決後である。
 当時弁護士の数は少なく工藤先生は故郷青森へと期待されていた。「東京で技術を磨いてから行きたいと断り、尾崎事務所に一九六一年入所しました」。佐伯仁先生が先に入所が決まっていた。「その後青森に行ってくれた渡部義弘さんには申し訳ない気持ちです。どんなにご苦労されたか」。当然のように東京弁護士会の期成会に入会する。先生の弁護士会活動はここから始まった。
 東京に地縁も血縁もない工藤先生は事件を誠実に丁寧に解決していくことで依頼者を増やしていった。「弁護士として社会的役割を果たすには経済的にも自立していなければならない」。工藤先生は志を同じくする若手弁護士に自立のための支援を惜しまないできた。
 弁護士会の活動は工藤先生にぴったりだった。一九七五年には東弁副会長を務め、東弁新聞を創刊する。同期の宮本再任拒否問題に関わり、当然その後司法問題委員会、刑法委員会等々会務をになってきた。一九九二年には東京弁護士会常任委員会議長を務める。一九九四年期成会初の会長候補になり惜敗する。大健闘だった。開票直後の慰労会で工藤先生はさわやかな笑顔だったという。立会演説会で「私の弁護士会活動のいわば原点が、沖縄問題調査と再任拒否反対運動にあった」。選挙後「東京弁護士会にあたらしい風をと、皆様が私のようなものを一つの訴えの手段として使っていただいたことは、私の人生の中の最大の宝と申し上げても過言でありません。」それから一六年、工藤先生は法曹人口論や裁判員制度の対応についてて期成会に厳しい提言をする。「弁護士と弁護士会に負託された基本的人権と社会正義の実現、この視点から検証し、検討すべきである」。
 「今は、趣味の人、時々弁護士」の工藤先生。その趣味はとにかく広い。英会話から始まった語学レッスンはフランス語に変わって三〇年を超える。合わせてフランスのレジスタンス運動の研究も続けている。テーマを持ってフランスとフランス語圏に旅行する。「コルシカがお勧め」だって。ワインも詳しいらしい。音楽はモーツアルト。オペラも人形浄瑠璃もよく見ておられる。ピアノの練習もなさっていて二〇年になるんだって。カラオケの持ち歌は都はるみ「大阪しぐれ」。「何事にも真剣な」工藤先生らしい。「シュテファン寺院でオケ付きコバケン指揮でモーツアルトのレクイエムを歌った」と私が自慢したらうらやましそうにしている。「先生のお声は間違いなくテナーです。歌だったらプロと舞台に立てますよ」

工藤勇治(くどう ゆうじ)
1933年青森県生れ。56年東北大学法学部卒。
61年弁護士登録(13期)。東京弁護士会副会長、同常議員議会議長、日弁連司法問題対策委員会委員長などを歴任。
著書「かしこい遺産相続」(日本実業出版社)、「だれでもできる会社設立と組織変更」(税務経理協会)等。


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