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■特集にあたって
当協会が主催する第四一回司法制度研究集会は、一一月一四日東京・麹町の弘済会館で開催された。テーマは、「刑事裁判はどう変わるのか──検証・裁判員裁判」。本特集はその紹介である。
基調報告が、「裁判員制度に対する期待と不安」から説き起こされているとおり、裁判員制度の制度設計以来これまで未知の裁判員制度への「期待」と「不安」が語られてきた。その期待と不安は、いよいよ現実のものとなって検証の対象とされる段階に至った。歩き始めた裁判員制度について、「期待」と「不安」とは、過剰なものであったのか、それとも予想のとおりであったのか。その実態の検証が本司研集会の主旨である。
集会では、冒頭協会理事長久保田穣の開会挨拶において集会の主旨説明がなされたあと、渕野貴生立命館大学(大学院法務研究科)教授の基調報告が行われた。「刑事裁判の原則と『市民参加』」と標題し、改めて刑事裁判の原則を確認する立場から、裁判員裁判を評価する視点を提供する基調報告にふさわしい内容であった。
続いて、「現場からの報告」として、裁判員裁判を弁護人として、現実に体験した二人の弁護士から詳細な報告がなされた。そして、国民救援会埼玉県本部、青年法律家協会から、裁判の傍聴の感想や裁判員裁判への関わりについても意見が述べられた。
次いで、五十嵐二葉弁護士から「『本格的に争う事件第1号』全審判を傍聴して」と題し、刑事裁判がどのように変容してるか、具体的なデータとともに報告がなされた。また、ジャーナリストと、研究者からは、報道のあり方への問題提起があった。いずれの報告も、充実したもので、時宜を得た貴重な内容には耳を傾けるものがあった。
会場からの質疑や意見の問題意識は、現実の裁判員制度がこれまで積み上げてきた刑事訴訟の原則を遵守し得ているか、司法への市民参加の理念実現の方向が見えているか、という点にあった。とりわけ、市民参加がもたらす時間的制約を口実にした弁護権の侵害はないか、公判前整理手続が不当に弁護側の証拠提出権限を抑制していないか、情緒的なプレゼン技法の優劣が量刑を決定してはいないか、裁判官の裁判員への説示は適切か、などであった。
そして、報告に見える矛盾点は、制度そのものの欠陥によるものか、それとも運用の改善を求めるものなのか、が共通の関心事となった。集会参加者の立場は、市民参加の理念を貴重なものとしてその実現のために運用改善を重ねるべきとするものから、制度の欠陥は大きく廃絶すべきとするものまで多様であった。
既に制度は動き始めた。この制度を通じての日々の人権擁護が必要とされている。より良き裁判員制度の運用を求める実践を通じてこそ、その運用の限界の有無を見極めることができるのではないだろうか。
本特集では、集会での報告の全部と会場からの発言の一部をご紹介する。どのような立場に立とうとも、いかに裁判員制度は動き始めたか、その全体像を把握するための貴重な資料として参考にしていただきたい。
二〇〇九年、本格的政権交代が総選挙によって実現した。時評九月号の金城睦氏は、「『革命的』といっていいほど巨大で画期的である」と評し、起こりつつある事態の「本質的意義を敏感に感じ取る感性の豊かさ」の必要を指摘しておられる。同感である。「事業仕分け」を公開して行ったことの評価もあり、新政権は概ね支持されているようであるが、惨憺たるわが国の現実(新自由主義による「社会の崩壊」、円高とデフレの進行、「貧困の増大と格差社会の深刻化」など)が、主権者のうねりのような投票行動を生んだことを忘れてはなるまい。現実の生活に苦しむ主権者の、まっとうな政治を希求する声に政権がどう応えるのか。選挙によっても満たされない政治的な飢餓感が社会の各層に溢れており、政府の対応いかんでは、それを乗り越え、さらなる変革に突き進む可能性も秘めていることを政府は肝に銘じるべきだろう。
変革は始まったばかりであり、戦後のわが国が抱えてきた諸問題と官僚主導の政治構造(政官財の癒着構造でもある)の変革なしには、主権者の期待に応えることはできないし、それらの実現には、主権者が民主主義の担い手として持続的に行動することも期待されている。この点、自殺者が三万人を越えたまま推移し、衝撃的な刑事事件が続発し、「切れる子供が増えている」など病んだ社会状況が心配である。
法律家は、こうした時代とどうかかわるべきだろうか。「基本的人権の擁護」と「社会正義の実現」という弁護士法第一条が社会の要請に合致する時代になったことを確認しておきたい。前政権のもとでの根深い閉塞感は、社会正義と基本的人権が蔑ろにされる政治から生まれていた。社会正義と基本的人権が尊重される社会を作ることが新しい時代の旗となるはずであり、法律家は、そのために働くべきだろう。
この点、最高裁を変えなければならない。最高裁判所は、社会正義や基本的人権に関わる裁判で消極的な判断をし、社会に大きな影響を与えてきた。全逓中郵判決(一九六六年)を変更して国家公務員の争議権の全面一律禁止を合憲とした全農林警職法判決(一九七三年)、現業国家公務員の選挙活動(ポスー張りと掲示)についての国家公務員法違反の刑事事件において、一、二審の無罪判決を破棄して有罪とした猿払事件上告審判決(一九七四年)は今でもしばしば引用されている。司法反動の中で打ち出された最高裁判決が今も判例を支配している。
この間の、「君が代」ピアノ伴奏拒否判決、立川反戦ビラ配布判決、戸別ビラ配布判決等において最高裁は、良心の自由や表現の自由を無視する判決を言い渡している。今年一一月、和歌山で開催された日弁連人権大会でも、表現の自由が分科会テーマとなった。
思うに、最高裁のこうした判例の背景には、人権の普遍性の上に日本文化論(社会文化的諸条件の違いの強調)を置く発想がある(津地鎮祭、猿払、寺西判事補分限事件など)。その根本には、市民を潜在的暴徒とみなす旧時代的な国民観(東京都公安条例一九六〇年判決)や、さらに言えば、一九五〇年以来延々と繰り返されている戸別訪問を刑事罰をもって一律禁止する公選法合憲判決に色濃い愚民思想がある。
最高裁判例の流れに抗して違憲判断を打ち出した多くの良心的な裁判官を想起しつつ、最高裁判例を変えるようなさまざまな試みを、始めるべきだろう。まず、弁護士出身の最高裁判事に適材を得ることができるような推薦システムに改革すべきである。この点、東京三会と大阪の「株」といわれる問題に日弁連とこれらの弁護士会が大胆に取り組むことが求められよう。広く地方単位会やブロックからの推薦者にも目を配り、適材を最高裁に送り込むような改革が必要である。
「法律家の能動的な諸活動」(後藤道夫教授)が求められている。 (まなべ としあき)
宮里という姓で宮里先生に沖縄の血が流れていることはすぐにわかった。宮古島が故郷である。宮古島は沖縄本島からさらに南西に三〇〇キロ、東京から八丈島の距離にある。実は生まれは大阪市内(その後堺に移る)。一九三九年七月生まれである。一九四七年一家は父の故郷の宮古島に「引揚」げた。邦雄少年は七歳小学校二年生だった。
父良和は大阪で宮古上布など特産品を販売していた。良和の実家は宮古で唯一の百貨店。父は喘息だったためか軍事徴用に行ったが、徴兵はならずに済んでいた。終戦後の大阪は食糧にも事欠き一家五人で食べていけるような状態でなかった。家財をすべて処分して持てるものだけ持ち一家は出発した。「宮古に行けば食べられる」。
父と母千代、上に二人の兄、そして三男の邦雄少年。大移動が始まる。占領下の日本、まずは佐世保の収容所にはいった。日本全国からたくさんの引揚者が集まっていた。邦雄君は大旅行にうきうきしていた。各地から来た子ども達と遊んでいる収容所生活だった。沖縄行きの船をそこで二ヶ月待った。やっと船に乗り佐世保から那覇まで、途中奄美大島の名瀬に寄港する二日の船旅。那覇に着くと那覇出身の母千代の親戚が迎えてくれた。そこで母は始めて沖縄戦で両親が死んだことを知る。桟橋で号泣していた母の姿が今でも目に浮かぶという。
那覇でまた泡瀬の米軍キャンプに収容され、そこで一ヶ月以上今度は宮古行きの船を待った。宮古に着いたの一〇月。宮古は戦火を免れていた。邦雄君は小学校二年の二学期の途中から、平良市立平良第一小学校に通うことになる。二年の二学期は通知表のない空白の時間だった
邦雄少年は野球に夢中で、のびのびと育った。父は「新しもの好き」で駐留していたアメリカ兵のためのギフト&スーベニアショップをやったり、島で初めての楽器店もやった。店番は子どもの仕事、で邦雄君はGIイングリッシュのスラングを覚えたという。レコードもあり、戦後の流行歌東京ソングを店番をして「試聴」しまくっていた。「東京への憧れを掻き立てられていた」邦雄少年は、平良中学から宮古高校に進む。
一九五七年邦雄君はその憧れの東京に上京することになる。琉球列島米国民政府長官発行のパスポートを手に二人の兄に続いて国費留学生になったのである。文部省が所轄する国費留学生は県内で二〇名ぐらいが試験で選ばれ、各地の国立大学に「配置」された。半数は医学部へ。兄二人も医学部だった。邦雄君は「医学を志したこともあったが、基地反対運動など社会や政治に対する関心がわき、大学では社会科学を勉強しよう」などと思っていた。東大の法学部に「配置」された。月一万円の奨学金を貰い、学費はタダ。兄たちと同じ下宿での生活はみんなにうらやまれた。大卒の初任給と同じくらいの給費額だった。なんと掲載の写真のように旅行にまで連れて行ってくれた。大学四年間で宮古に帰省したのはたったの二回。宮古は遠かった。鹿児島まで行き船に乗り那覇で乗り換えてやっと着くのである。
宮里君は真面目な大学生だった。二年の時菊坂セツルメント活動に参加する。「さらに故郷沖縄の米軍支配下における人権抑圧に対する憤り、労働問題などへの関心などがあった」。六〇年安保の時代である。一九六〇年六月一五日、宮里君も国会に行っていた。「七時に家庭教師の仕事があり途中で家に帰った。仕事が終り銭湯で樺美智子さんのニュースを見た」。
宮里君は一九六二年に司法試験に合格する。社会保障法を学んでみようと大学院への入学に少し心が揺らいだが、結局実務家に心ひかれ研修所に行くことにする。一七期。実務修習は京都である。修習が終わる頃には「労弁」になろうと決めていた。喰えないと言う人もいたが「多くの『労弁』の先輩達が皆生き生きと明るく楽しげに『喰っている』」。
宮里君は四谷の黒田事務所(現在東京法律事務所)に入る。木造二階建ての一階は定食屋、二階が事務所だった。事務所には二〇名の弁護士がいたが、大きな共用の机があり、弁護士は外から帰ると一角に陣取り仕事を始める。自分の机など無い。合宿状態である。そうそうたる先輩がいた。一九六五年四月、宮里君は二五歳。逮捕された労働者の接見、「争議現場を飛び回ったあの緊張した青春の日々が懐かしく鮮やかに思い出される」。ここが宮里先生の「労弁」の原点である。
昭和三〇年代の中小企業の激しい争議、四〇年代から五〇年代にかけての官公労スト権奪還闘争、国鉄マル生運動の不当労働行為昭和六〇年代の国鉄分割民営化問題などその時代時代の労働事件に宮里先生は関わってきた。「労弁」冥利に尽きるという。その後も労働法制の改悪に抗して活動してきた。沖縄出身の弁護士として復帰運動や米軍基地の問題にもかかわった。一九七二年から現在の東京共同事務所に加わり多くの弁護士と仕事をしながら、若手を育てて来た。二〇〇六年から東京大学法科大学院で客員教授もしている。もともと研究者の指向もあり、文献を読み講義の準備をすることは苦痛ではない。法曹倫理も担当することになり「弁護士になって四〇年にして始めて、弁護士法を勉強し、法曹倫理について真剣に考えさせられる羽目になった」。
「独立して仕事をしよう思ったことは一度もない」宮里先生は言い切る。「これからもみんなと一緒に力を合わせて仕事をしたい」。「僕は調整型の人間なんです。みんなでいることはまったく苦でない。一人でやれることは限られているでしょう」「人間にはみんなすぐれたところがある。性善説です」。「人のすぐれたところを発見するのは得意なんです」。なるほど。「『一致できるところでやる』のが僕のイデオロギーなんです」先生は笑って言う。笑うとえくぼが出て可愛いのである。宮里先生の暖かくて広い人間関係は沖縄の海のようである。
今年七〇歳、古稀を迎えた。「老弁時代」の入り口だが「体力には衰えを感じているものの、智力と気力は健在である」
宮里先生は藤沢周平が大好きである。
「日残りて昏るるに未だ遠し」藤沢周平三屋清左ヱ門残日録。これが今の心境なんだって。清左ヱ門は今で言えば会社の元総務部長、五〇代で隠居になった。弁護士として重ねてきた年月の重みと見識が清左ヱ門と重なる。
現役の宮里先生は多忙である。インタビュー中も仕事の電話が入り、終わるとすぐに次の予定が入っていた。
宮里邦雄(みやざと くにお)
1939年大阪生れ。63年東京大学法学部卒業。65年弁護士登録(17期)、東京弁護士会所属。2001年〜03年早稲田大学法学部大学院非常勤講師、06年〜東京大学法科大学院客員教授。02年より日本労働弁護団会長。著書「問題解決労働法12不当労働行為と救済──労使関係のルール」(旬報社)等。
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