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 法と民主主義2009年5月号【438号】(目次と記事)


法と民主主義2009年5月号表紙
特集T★「平和的生存権」その深化を問う
特集Tにあたって……編集委員会
◆座談会・「平和的生存権」その到達点とこれから
 ……出席者●内藤 功/小沢隆一/原田敬三/大久保賢一/澤藤統一郎(司会)
■歴史への証言──『長沼事件 平賀書簡─35年目の証言』を読む……新井 章
■生存権と太くつながっている……毛利正道
特集U★自衛隊のソマリア派兵を問う
◆特集Uにあたって……清水雅彦
◆今なぜ自衛隊のソマリア派兵か……内藤光博
◆自衛隊の海賊対処における武器使用と武力行使……浦田一郎
◆放棄された文民統制……半田 滋
◆ソマリアの人々に希望の未来を──国際法の意義と可能性……藤本俊明
◆海上保安庁の「軍隊化」──「海」で進む「軍事と治安の融合化」……清水雅彦
■講演・田母神論文・ソマリア派兵からわかる自衛隊の危険な変貌……山田 朗

 
★「平和的生存権」その深化を問う

特集Tにあたって


 日本国憲法の平和主義は、第二章・第九条の問題として論じられてきた。
 この条文の文言が直接に示すものは、主権者の宣言としての戦争の放棄であり、主権者から国家に対する命令としての戦力の不保持である。また、憲法第三章・国民の権利および義務の三一か条に平和の文字はない。
 このような憲法の条文の構造から、平和を人権の側面からとらえる考え方の成熟には、一定の時間が必要であった。
 しかし、憲法の前文には、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とある。この前文を根拠として、平和のうちに生存する権利を実定的な権利と把握するとき、憲法九条も、また第三章の国民の諸権利も、さらに豊かな内実をもつものとして再構成できるのではないか。
 このような国民が平和に暮らすことを基本的人権と把握する、「平和的生存権」の発想は、戦後の平和運動や法廷闘争の実践の中から生まれ、学説がこれを支え育ててきた。
 そして、判例も「平和は政策目標としての理念に過ぎない」というレベルから、次第に法的権利性、裁判規範性を認めつつある。イラク自衛隊派兵違憲訴訟の名古屋高裁判決(〇八年四月一八日)および岡山地裁判決(〇九年二月二四日)は、現状での到達点を示すものと言えよう。
 来し方を振り返って到達点を確認し、ここを立脚点としてさらにどう発展しうるか、そのような問題意識から本特集を組んだ。
 まずは、「『平和的生存権』その到達点とこれから」とする座談会である。「その生成発展と到達点」を語る第一部と、「その活用の課題」の第二部からなる。
 第一部では、具体的な訴訟実践と学説史において「平和的生存権」がどう生まれ、どのように活用されてきたか。裁判官を説得するために、どのような工夫をし、どのように判決に反映させてきたか、を検証する。
 第二部では、この到達点に立脚して、これからの具体的な活用の工夫やその展望について議論する。
 座談会の出席者は、研究者として東京慈恵会医科大学の小沢隆一教授、平和的生存権と実践的に携わってこられた内藤功弁護士、東京大空襲訴訟弁護団の原田敬三弁護士と反核運動に関わってきた大久保賢一弁護士。思想としての平和的生存権、平和運動における平和的生存権、裁判規範としての平和的生存権を語っていただき、重層的で内容豊かな報告と議論を展開していただいた。
 続いては、長沼ナイキ基地訴訟事件弁護団の主要メンバーのお一人であった新井章弁護士の論稿。平和的生存権のさきがけとなった歴史的判決を下した福島重雄元札幌地裁判事が、三五年間の沈黙を破って『長沼事件 平賀書簡 三五年目の証言─自衛隊違憲判決と司法の危機』(日本評論社)を上梓された。新井弁護士には、この書物に目を通していただいて、原告弁護団の側からの長沼事件を語っていただいた。
 次いで、イラク自衛隊派兵違憲訴訟の原告でもあり、『平和的生存権と生存権が繋がる日─イラク派兵違憲判決から』(合同出版)を出版された毛利正道弁護士の論稿を掲載した。理念としての「平和的生存権」、権利としての「平和的生存権」を実践体験として縦横に語っておられる。
 平和憲法をあらためてとらえ直し、あらゆる分野でこれを使いこなすための一助となることを願っている。

(「法と民主主義」編集委員会)


 
時評●司法改革は なお続く

(弁護士)河田英正


 一〇〇年に一度といわれた今回の司法改革では、二〇〇四年一二月に終了した第一六一回臨時国会までに成立した司法改革関連法は二四本にのぼり、裁判員裁判という市民の司法参加制度が生まれるなど、司法における歴史的大改革であったことは間違いない。そして、現在の状況を「司法改革は実施の段階を迎えている」とあたかも司法改革は完成し、司法改革関連法によって成立した制度を司法の現場で忠実に実施していくことが最大の使命で、既に「司法改革」は終わったかのごとき印象を与えている。
 一九九〇年五月に日弁連は「国民主権の下でのあるべき司法、国民に身近な開かれた司法を目ざして、わが国の司法を抜本的に改革するときである」との司法改革宣言をだしている。そして、一九九九年七月に内閣のもとに司法改革を具体的に進めるために司法制度改革審議会が設置された。ちょうどそのころ、日民協の人たちが中心となって映画「日独裁判官物語」を制作して公開した。ドイツと日本は同じ敗戦国であり、八五年頃から司法改革に向けての動きがあったことの共通性があったが、ドイツでは開かれた裁判所へと大きく変貌していったにも関わらず、日本にはおいては官僚司法による統制が強く進んでいったその現実を、比較対照的に鋭く描いたものであった。ドイツでは、裁判官は自由に政党加盟ができていたり、原発反対などの社会的発言も許容されていて、地域でのボランティア活動にも参加し、普通の市民的自由が裁判官に保障されている。そして、何よりも衝撃的な比較は、戦後のドイツにおける違憲判決は五〇〇件以上もあったにも関わらず、日本においては映画が制作された時点でわずか一〇件であったことである。
 〇八年四月一七日、名古屋高裁は、イラク派兵反対訴訟に判決をだした。その理由中においてイラクでの行為が「戦闘地域」での国際的な武力闘争であること、空自がイラクで行っている行為が米軍と「一体化」した武力行使であり、「イラク特措法」を合憲とした場合であっても、空自の空輸活動はイラク特措法違反、憲法九条一項に違反する活動を含んでいるとしてイラクでの空自の活動を違憲であると判示した。この判決は、砂川判決、長沼判決、恵庭判決に続く画期的な判決として評価される。しかし、今回の司法改革によって、たとえ理由中であれ違憲判決がなされる制度的な環境が実現しただろうか。裁判官の任用、再任等について官僚統制にメスをいれる画期的な改革がなされたが、そのチェック機能はいまだ十分に発揮されるまでに至っていない。七八年宮本康昭著「危機にたつ司法」に指摘されたことはまだ払拭され尽くした訳ではない。
 この五月二一日から裁判員制度がいよいよ始まる。司法に市民参加をと陪審制度を求めてきた運動が、今回の司法改革のなかで裁判員制度として実現した。官僚司法を維持しようとする勢力とのあいだで激しいやりとりのなかでやっと実現した制度である。閉塞していた刑事裁判制度に大きな変革の力を与えるものであると思う。しかし、未だ完全な制度とは思えない。裁判員制度の採用によって、捜査の可視化の論議が一挙に前進した。これが完全に実現されることが緊急な課題である。参加する裁判員の守秘義務にも問題が残っている。「疑わしきは被告人の利益に」の原則が貫かれることが不可欠である。こうした課題を抱えての出発である。願い続けてきた市民の司法参加は実現したが、まだ完全な制度を獲得したわけではない。この制度の始まりは、さらなる改革をめざす新たな出発点と捉えるべきである。
 私たちは、臨司意見書を批判し、憲法を護り平和を実現するという旗印の下、司法改革運動に取り組んできた。今の司法改革の結果の不備なところを批判するだけでなく、いまだ完結していない司法改革運動にこれからも大きな力を注いでいかなければならない。司法改革はなお絶えず取り組み続けなければならない「いま」の重要な課題である。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

戦争を知らない君たちへ

弁護士:高橋清一先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1969年7月。盛岡地裁前にて。公職選挙法事件、工藤テイ氏(岩手町町議)の最終弁論を終わって。

 高橋清一弁護士は長身でスリム、その風貌は知的、青年弁護士だった頃のままである。先生は自らの刑事弁護の集大成として日本評論社から「無罪弁論集TUV」を既刊。小田中聰樹は「この弁論は、現場の教師達の魂、その思いを体現した気迫と、法律家らしい理性と、そして戦後民主主義の価値・ 理念を身につけたインテリゲンチャとしての知的誠実さとが生み出した感銘深いものである」と評する。私なんか分厚い三冊を見ただけで圧倒されるが先生は「Wをまとめている」最中なんだって。
 事務所は新宿区左門町の四谷弁護士ビルにある。東京中央法律事務所から独立したのが一九七八年、四五才。弁護士になって一八年目、激動の弁護士時代を経て「一国一城の主」になった。それから三〇年、七五才になった今、事務所は先生一人。別の事務所で仕事をする二男と民事事件の多くを共同受任する。「方針を議論したり書面を直したり」しているらしい。息子さんは論客で厳しい父を尊敬しているにちがいない。「弁護士の仕事は、専門を重視すると同時に、オールランドプレーヤーでなければならないと思っている。困っている人、悩んでいる人の思いを解決するために、民事・刑事を問わず、あらゆる可能な手法を行使する必要があるからである」。一九六一年に弁護士になった時から先生は普通の事件を大事にしてきたという。
 先生は一九三三年群馬県高崎生まれである。実家は雑貨卸業をやっていた。一九四〇年、清一君が小学一年の時に病気で父親を亡くす。四才年上の兄と母寿子、清一君の三人が残された。「父の亡骸の枕元で母が床に伏して泣いた。私はそれまで、大人が泣くのを見たことがなかった」。その母寿子が懸命に働き戦争の時代から二人の息子を育てあげた。「私は、弁護士になってから、前半は、飛行機に乗らなかった。事故によって、後に残される妻子のことを、我が身の幼少時と対比して思ったからである」。先生は父の役割を十分に果たし、長男は脳神経外科医、二男は弁護士に。
 父が亡くなった翌年、一九四一年一二月八日太平洋戦争が勃発。その日、小学二年の清一君は朝六時過ぎ、ラジオの臨時ニュースでそれを知る。「アナウンサーの声は大変緊張しており、私は子ども心に、いよいよ日本は『鬼畜米英』を相手に『聖戦を挑んだ』と興奮した」。徴兵のため先生は不足し高齢の男性教師と女性教師ばかりになり「一クラスが七二名になったこともあった」。小学校の高学年になると皇国史観の教育がますます徹底してゆく。清一君も「神国不滅」を信じ、「神風特攻隊の若者たちに、私は尊敬と羨望をいだいた」。「沖縄、硫黄島と戦局が日本本土に接近するにつれ、私は、神風はきっと吹く、もう吹くころだ、おそらく、アメリカ軍をおびき寄せて置いて一番そばまで来たときに、ちょうど蒙古軍を博多の沖でひっくり返したように、神風は必ず吹くと信じて疑わなかった。朝、新聞を見て、まだ神風は吹かないのかと、心の底から期待していた」。一九四五年八月一四日の深夜から一五日の未明にかけて高崎市にB29の焼夷弾が降り注いだ。「私の家は、道路ひとつをへだてて、焼失をまぬがれた」。神風は吹かず、一五日の正午に天皇の重大放送で敗戦が知らされた。清一君は小学六年生だった。
 清一君は旧制中学を受験する頃は「父を家族から奪った病を治したい」と医者志望だった。高崎中学に入学後は社会に関心を持つようになる。新制高校一年の時は哲学研究会に参加、二年の時は歴史研究会を立ち上げる。「再び戦争を繰り返してはならない」。清一君の原点である。東大文一へ入学。志望は経済学部。兄の就職と東京の叔父宅への寄留で何とか進学ができた。メーデー事件など時代は騒然としていた。「自分で自由に生きたい」との思いから弁護士を志望、法学部に進学。司法試験合格をめざして授業はさておき勉強した。一九五五年、四年の時に合格。卒業後労働法の大学院に行くが結核を疑われ、数ヶ月間自宅で療養し、結局大学院は中退した。
 一九六一年に晴れて弁護士となる。一三期である。渡辺脩、谷村正太郎と東京合同に入所。怒濤の日々が始まる。政暴法反対闘争では統一弁護団の事務局長、学テ反対闘争では岩手の事件を担当することになる。ある日電話で上野駅から岩手に向かうように言われ、愛媛から岩手に向かう尾山宏先生と合流。尾山先生は持っていたボストンバックを駅で奥さんに渡し、着替えの入ったバックを受け取ってそのまま一日一本しかない上野発一三時三〇分「特急はつかり」に乗った。岩手は遠い。月に三週は岩手。ついに一九六三年に岩手に移り住んだ。岩手弁護士会に移籍し、秋田、青森まで「みちのくを駆めぐった」。岩手県だけでもほぼ四国四県の広さである。交通機関は不十分。高橋先生はあまりに忙しく書面は新婚の妻が口述速記とタイプで作っていた。ひろさんは先生のために結婚後速記もタイプも習いに行ったという。長男も生まれ、高橋家は家内工業で弁護士高橋清一の仕事を支えた。
 一九六六年東京に戻った高橋先生は東京中央法律事務所に入所。日教組顧問弁護士として北海道から沖縄まで出張の日々だった。この頃月の内二〇日は出張していたという。飛行機を使わずに移動していたのかしら。家永訴訟にも参加。家永先生は高橋先生と同じ大泉学園に住んでいた。帰宅を共にすることもあった。胃弱な家永先生にヨガの逆立ちを勧めた。尾山先生から「家永先生は無形文化財なのだからあまり無理なことは教えないでくれ」と釘を刺された。もちろん一般市民事件もこなしていた。強靱な精神と肉体を日々試され鍛えられる弁護士生活だった。
 国選事件、扶助協会、ILO国際会議、医事紛争など先生の活動は広い。一九七八年に独立後は、民暴問題を中心にした弁護士会活動、扶助協会の理事、裁判所の様々な委員、サービサー会社の取締役も引き受けている。どの仕事も勉強して深く真摯に取り組む。茨城大学で教えていたこともある。「法律学は実学。実務家と研究者はもっと近いものでなければならない」。具体的な経験と事件をふまえよく準備された授業は好評だった。
 「最近の日本の反動化の動きは、まことに憂いに耐えない」「小選挙区制と労働運動の後退・低迷とマスメディアの姿勢」「メディアには権力に対する監視の腰がすわってない。日本の民主主義の弱さだ」。戦争を知らない子供たちのひ弱さである。つくづくそう思う。

高橋清一(たかはし せいいち)
1933年群馬県生れ。1961年弁護士登録(13期)、東京弁護士会所属。学力テスト反対闘争、勤務評定反対闘争などに関与。著書「戦後日本教育判例大系(全6巻)」共著(旬報社)「無罪弁論集第1巻 教師の良心と民主教育」「同第2巻 秋田から沖縄まで成熟した労使関係をめざして」「同第3巻 労使関係と人権―みちのくを駆けた青春」(日本評論社)。


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