法と民主主義2004年7月号【390号】(目次と記事)


法と民主主義7月号表紙
★特集★シリーズ・改憲阻止 「ピーストゥモロウ」平和に生きる権利
特集にあたって……編集委員会
◆国連と日本国憲法9条……新倉 修
◆理解と共感広がる非戦、非武装の思想─グローバリズムと憲法第9条……丸山重威
◆沖縄・日本と9条……中富公一
◆核兵器廃絶と9条……大久保賢一
◆憲法9条破壊の時代に法を守るということ─あらゆる法を活用した平和運動……前田 朗
◆「覚悟」を求められる時代……佐藤直子
◆広がる無防備地域条例制定運動……澤野義一
■インタビュー・伊藤千尋氏に聞く「活憲」は楽しく─世界から見える9条……聞き手・佐藤むつみ

 
シリーズ・改憲阻止 「ピーストゥモロウ」平和に生きる権利

特集にあたって
 二〇〇四年八月一三日、アテネで夏季オリンピックが開かれる。古典古代ギリシアではオリンポスの祭典の時は、戦争があっても、停戦して競技に打ち込んだと伝えられる。オリンピックは、その意味で、平和の祭典だ。にもかかわらず、アフガニスタン、イラク、パレスチナ、その他では、戦火が絶えない。日本では、アフガニスタン戦争での後方支援に続き、イラク戦争では、人道復興支援を理由として、自衛隊が派遣され、国連安保理事会の決議を根拠に、さらに踏み込んで、多国籍軍の中に入り、人道復興支援を自衛隊が行うと言われている。
 他方、地球市民の立場から、さまざまな市民組織(市民社会)が「もうひとつの世界」「もう一つの解決」「もう一つの平和」を求めて、活発な活動を展開している。
 一九九九年にハーグで開かれた世界市民平和会議では、「各国の議会は、日本国憲法九条にならって、自国の政府が戦争しないように決議すべきだ」という平和アピールをあげた。本年四月には、インドのムンバイに集まった二〇万人が「公正な世界秩序」を求め、「貧困、疫病、戦乱」ではなく、「もう一つの世界」を求める声を力強くあげた。核兵器の拡散に反対し、核実験の廃止を求め、核兵器の全廃を展望する運動を息長く続けられている。一九九六年には、市民運動に押されて、世界法廷(国際司法裁判所)は、核兵器の使用・使用の威嚇が一般的に国際法に反することを明らかにした。
 平和な世界を構想し、実現するために、われわれは何をすべきだろうか。たとえば、積極的に平和を実現するために、市民として何が可能か。経済が政治や軍事に深く結びついていることをもっと掘り下げる必要はないか。とりわけ、日本では、在日米軍基地が集中する沖縄の「痛み」をどう受け止めるべきだろうか。ジュゴンという希少動物の生存にわれわれはどのような責任を負うべきか。また、大阪市では、ジュネーブ条約に着想を得て、「無防備都市」条例をつくろうとしている。平和をこのような形で表現しようとする着想は、鋭い。もちろん、「外国」が攻めてきても自分だけ助かろうという魂胆があるわけではない。むしろ、戦争をさせないための模範を示そうという気概がある。ここには、自分の住む自治体を平和の拠点に変身させて、広く提携を求めるという発想に通じるものがある。
 そう考えると、コスタリカのカレン・フィゲレスさんが毎月一日だけ「白いリボン」を身につけて外出しなさいと話したことを思い出す。リボンに気づいた人が尋ねたら、その時は足を止めて、「白いリボンは軍隊を廃止しよう、世界の平和を実現しようという気持ちを表しています」と語りかけることができる。
 なお、佐藤直子さんには、報道機関に身を置く立場から、本誌前号の特集をフォローアップする記事を書いていただいた。われわれ自身を知ることからすべてが始まる。

〈参考文献〉
 高遠菜穂子『愛してるって、どう言うの?』文芸社 ○佐藤真紀・伊藤和子編『イラク「人質」事件と自己責任論――私たちはこう動いた・こう考える』大月書店
(特集企画責任者・ 新倉 修/青山学院大学)


 
時評●低年齢の少年による非行への厳罰化の声に対して

弁護士 小笠原彩子

 二〇〇三年七月、長崎市で一二歳の少年による幼稚園児が誘拐された事件を初めとして、今年に入ってからも相次いで、加害者少年が一四歳未満のため刑事罰を問えない重大事件が、発生している。

 「こんなことをしたらえらいことになると自覚させるため、犯罪を犯した子どもの親は全部引きずり出すべきだ。(罪を犯した少年の)親は市中引き回しの上、打ち首にすればいいんだよ」長崎市事件を聞いた、政府の青少年育成推進本部副本部長である鴻池防災担当国務大臣の発言である。社会的リンチを許容するようなこの発言に対して、直ちに厳しい批判が出された。しかし、少年と親に対して厳罰を求める考え方が、根強く支持されていることも見逃すことはできない。

 既に二〇〇一年、厳罰化の要請をうけて少年法は「改正」・施行されている。しかし一罰百戒の効果があったという報告に、私は接したことがない。処罰対象年齢を引き下げるという論理は、更に未発達で成長段階にある子どもに、行為に対する自己責任を追求することになる、という矛盾をはらんでいる。また子どもの権利条約の、子どもの最善の利益を擁護する国の責務にも反する。このことを押さえた上で、今、子どもたちが置かれている状況を見てみたい。

 ●学校は、授業数の確保と「学力」向上を目的にした詰め込み主義が復活している。学習指導要領による年間の標準授業時間を超えて、授業を行っている小学校は九割近くに上る。小学一年生でも入学式の二日後から給食が始まっている。七月の終わりと九月初めの短縮授業は、すっかり姿を消し、あちこちの公立小・中学校では二学期制が検討されている。漢検・英検・数検・歴検・地理検など、目に見える成果の追求が先行し、運動会や文化祭、生徒会活動などは貧弱なものになっている。集団で達成する体験やリアルな感動は体得されず、他人の辛さや痛みがわかる豊かな心を持った子どもを育てる教育は、今や雲散霧消しつつある。子どもたちがストレスを抱えさせられることは、容易に想像できる。

 ●東京都に典型的にみられる高等学校長による(数値)目標の設定と、到達度の自己点検と都教委による評価。それにもとづく都教委の学校財政等の分配。教師自身による目標設定と、到達度の自己点検と校長による評価。そして査定・給与格差・みせしめ的人事異動。教育委員会・校長・教頭・主幹・教師という上下組織の形成と競争システムの導入により、各々が目標到達のためにストレスを溜め込まざるを得ない状態にある。

 ●子どもたちは家庭で、「孤食」を強いられたり、「個食」(食卓を囲むのではなく、同一時間帯に家人が別々の部屋で好みのメニューで食べる)だったり、あるいは朝食(夕食)抜き、おやつ食等、驚く程貧困な食生活の中で育てられている。食卓を囲んだ一家団らんの中で、一日のストレスを癒すという風景は、減りつつある(「壊れる食卓」『文藝春秋』二〇〇三年一〇月号)。

 ●一三年連続、最多件数を更新し続けている児童虐待は、〇三年度相談件数二万六五七三件、九〇年度の二四倍となっている。一方、少年院在院中の少年の七割以上が、何らかの加害行為を受けた経験があり、その内身体的暴力が最も高い割合を占めている(「児童虐待に関する研究(第一報告)」『法務総合研究所』〇一年)。この事実は、加害者として目の前にいる非行少年が、成育歴の中では暴力の被害少年で、おとなの救助の手が及ぶことなく育てられてきた可能性があることを示唆している。

 ●出会い系サイト絡みで摘発された児童買春事件は年間四〇〇件にものぼっているが、これは氷山の一角であり、その暗数はかなりの数である。

 子どもたちは否応なく、このような状況の中で生きていくことを強いられている。マスコミ報道されるような少年事件が起こる度に、声高に、非行の低年齢化・重大化・厳罰化が指摘される。しかし現代が、それだけ子どもたちが生きにくい社会であることの一つの証左として考えるべきであろう。そしてどのような社会を子どもと共につくっていくのかが、問われていることも、また再確認すべきであろう。



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