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本日六月六日午前、有事法制関連三法案は参議院本会議で可決された。「どこかの国から武力侵攻を受けることなど考えられない」と政府すら認めるこの国で、対米追随を本質とする海外侵攻型の有事三法案が強行された瞬間である。
その有事法制が急浮上したのは昨年春、世界もこの国も「報復戦争ヒステリー」から覚めやらぬときだった。それから一年、国会内外の反対で三法案は二度にわたって衆議院を通過できず、与党のなかからも「出し直し」の声が聞こえていた。
その三法案が、この春なぜあっけなく成立への道を走ったか。「『修正』で構造が変わったから」などという説明が成り立たないことは、多言を要すまい。戦争法制に「基本的人権の尊重」だの、「国会のコントロール」だのをつけ加えたところで、本質・構造が変わるはずはないからである。
急変の端緒は三月末に与党三党がしかけた「四月中旬衆議院突破」攻勢。筆者の属する自由法曹団は、事態急変から成立まで、九波にわたる国会要請を反復し、議員や秘書と面談を重ねてきた。
四月初め、民主党議員や秘書は「政府法案はダメだ。がんばる」と息巻いており、自民党の委員は「なにか上のほうでやっている」と半信半疑の体。それが「『修正案』をまとめないと単独採決に踏み込まれて党が割れる」となり、「『修正案』は賛成できないが『修正合意』ができないと分裂する」とどんどんトーンが落ちていったのが四月中下旬。そして、『修正合意』のあった五月一三日の要請では、無気力と逃避が蔓延し、「顔を上げようとしない秘書」「視線をそらそうとする議員」が続出した。この民主党議員の反応は、成立に至るまで変わっていない。
民主党は単独強行採決の恫喝におびえて「党の事情」を戦争と平和の問題に優先させた。民主党の側にも、攻勢をしかけた与党の側にも、世界の平和やこの国の将来を正面から論じようという気概も意欲もなかったのである。
事態急変の背景に、イラクの戦局や北朝鮮脅威論などの「風」やネオ・コン主導のブッシュ戦略に乗り遅れまいとする打算があったことも事実だろう。だが、その「風」や打算は政策論の俎上に載せられることはなく、三法案は「政治ゲーム」で成立に至った。その「政治ゲーム」でしか強行できなかったのが、いまこのときの有事法制ということになる。
有事法制をめぐって、どんな攻防が展開されたか。それぞれの分野、津々浦々の地域で展開された運動は、とても語りつくせるものではない。弁護士の分野でも、一千名の弁護士パレードや「ライブとトークのつどい」を実行した日弁連は最後まで反対の姿勢を崩さず、自由法曹団の要請行動はピースボートの若者や公害被害者との共同行動にまでなった。「草の根」から立ち上がって世界と結んだ壮大な非戦平和の運動のなかにあったのが、この一年の有事法制闘争であった。
ドピルバン・フランス外相のスピーチが国連・安保理で満場の拍手を受けた二月一四日、一千万人のピースウェーブが世界を覆っていた。米英などが修正決議案を提出した三月八日、若者たちが思い思いのプラカードをつくっていた日比谷公園のワールド・ピース・ナウに筆者はいた。イラク空爆が開始された三月二〇日、地元・足立区北千住で若者たちがピーストークを続け、日弁連のシンポジウムで姜尚中氏と洒井啓子氏が戦争を告発し、アメリカ大使館前で市民が抗議を続けるなかに、筆者はいた。
このそれぞれの「とき」に行動したひとびとと、あの無気力と逃避に支配された「永田町」と、どちらに明日を築く力があるか。どちらの明日を築かねばならないか。すべてはこれからにかかっている。
有事法制三法案強行劇は、その壮大な攻防のせいぜい「はじまりのおわり」、しかも「まことに愚かしいおわり」にすぎないのである。
(二〇〇三年 六月六日脱稿)
©日本民主法律家協会