法と民主主義2002年11月号(目次と記事)

法と民主主義11月号表紙
★特集★「街の法律家」・司法書士の役割
■特集にあたって……編集委員会
■司法書士制度の近未来……江藤价泰
■誰が「街の法律家」になれるのか?……里村美喜夫
■司法書士法改正と司法書士自治への道程……高山俊吉
■東京の司法書士 クレサラ事情……林 順子
■司法書士への限りなき期待……木村達也
■成年後見に対する司法書士の取り組みと問題点……安藤信明
■司法書士訴訟の現状と課題……大冨直輝
■中小業者の経済的再生に理解を…難波 巧
■簡易裁判所充実の方向性……坊農正章
■簡易裁判所から変わる日本の司法制度…大冨直輝

 
時評●戦争への固執は小心者の仕業

弁護士 斉藤一好

 9・11事件に続いて、米英軍のアフガニスタンの空爆開始から一年余を経過した。
 この戦争行為は、罪もない多数の犠牲者を出しながら、テロ根絶には何らの役に立たなかったことが実証された。
 にもかかわらず、アメリカのブッシュ大統領は、その後、イラン・イラク・北朝鮮を「悪の枢軸」としたうえ、イラクに対しては、イラクが大量破壊兵器の開発を止めず、テロ組織を保護・支援しているとして先制攻撃をも辞さないと呼号している。
 もっとも、中国、ロシア、フランス等各国政府、国連事務総長をはじめ、世界の世論にはこれに反対する声が高まっており、ブッシュの先制攻撃論は若干トーンダウンしている。然しながら、彼はこの旗をおろそうとはしていない。
 日本の小泉首相も、ブッシュに対し、これを止めろとの申し入れをしようとしないだけでなく、これに加担しようとしている。
 ブッシュがこのように、何が何でも武力にうったえようとするのは、その強さの表現であろうか。
 このことについて私が思い起こすのは、今から六〇年余前の、私の戦争体験である。
 私は、一九四一年一二月八日、日本海軍がパールハーバーを奇襲攻撃して、太平洋戦争を開始した折りは、連合艦隊旗艦長門乗組であったが、この開戦を知り、大きな衝撃を受けた。
 それというのも、その直前、近衛内閣が辞職して、一〇月一八日東条英機陸軍大将が首相に任命されたが、その折、長門艦長矢野英雄大佐は、私達にいわく、東条のような小心者に戦争ができるわけがない。と述べており、私はそれを信じていたからである。
 然し、その予想は外れ、東条が米英に対する戦争に踏み出し、ここに太平洋戦争の火蓋が切られたのである。
 すなわち、今から考えれば、東条が小心者なるが故に、かの無謀な戦争を開始したのだと考えるのである。
 そして、これをうらづけるものとして、孫引きではあるが、丸山眞男氏が、「超国家主義の論証と心理」という論文に引用している、東条の八一議会における答弁「東条というものは一個の草もうの臣である。あなた方とひとつも変わらない。ただ私は総理という職を与えられてゐる。ここが違ふ。これは陛下の御光を受けてはじめて光る。」をあげたい。
 すなわち、小心者たる東条が、絶対主義天皇制の威光をバックにふるまっている姿が浮き彫りになっていると思われる。
 ひるがえって、私は、ブッシュも東条と似た小心者であると推定する。
 然からば、小心者のブッシュは、いかなる勢力を背景に、武力を行使しようとしているのであろうか。
 私は彼の背景にあるものは、軍需産業、石油資本等の軍産複合体であると考える。
 もし、そうとするならば、ブッシュのイラクに対する先制攻撃の企図を阻止し、人類にとって最悪の戦争を防ぐには、アメリカを含む全世界の反対の世論を盛り上げるとともに、彼の背景にある軍産複合体の野望を暴露する必要があろう。
 更に、私たち日本国民にとって重視しなければならないのは、日本の小泉内閣のブッシュ政権への追随と、その戦争への加担である。
 私は日本政府の米追随の背景には、在日米軍の存在のあることを無視できないものと考える。
 現在日米安保体制下、沖縄を含む日本全土には、一六万の米軍が駐留しており、しかも、陸海空の自衛隊は、ハードの面で、世界第三位の装備をもつといわれながら、その実体は、日本を守るためでなく、「米衛隊」といわれる(信太正道氏「最後の特攻隊員」より)。
 そして、ソフトの面で、米軍の戦争に自衛隊はもとより、日本国民、自治体を総動員するための、有事法制が俎上にのぼっている。これは断固粉砕しなければならない。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

時代はまわる 喜び悲しみくり返し 吉田博徳

元全司法中央執行委員長:吉田博徳氏
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

 吉田博徳さんは今でもたくさんの肩書きを持つ市民運動の重鎮で、八一才、すこぶるお元気である。一九五四年三一才で全司法の中央執行委員に選任され単身福岡から東京に出てきてからかれこれ五〇年、半世紀の間休むことなく社会運動を続けてきた。労働組合運動、司法制度研究運動、日朝友好運動の三本の柱に原水爆禁止運動も加わり、惜敗したが小平市の革新市長候補だったこともある。朝鮮語を七一才から始め今でも毎朝NHK放送を聞くという。めぐる戦前・戦後の時代とともに喜びと悲しみを共有してきた。吉田さんの八〇才を記念して作られた本「生命・平和・愛を」には一九九四年から吉田さんの原水協通信のコラム「原点」八一編が載っている。そこには代表理事赤松宏一氏が言うように「人類史における軸足の確かなコラムニストとしての存在」がある。ライトブルーのぼかしのはいった表紙は吉田さんの今にぴったりの簡素で透明感あふれる装丁である。
 吉田さんは大分県の生まれだが五歳の時に父母とともに一家をあげて朝鮮に渡る。農業をしていた父は朝鮮で洋品雑貨店を始める。金堤尋常小学校から難関を突破京城師範学校に入学、優秀な皇国少年であった。朝鮮で押し進められていた皇民化教育の模範となって朝鮮の教育を支える教師になることが吉田青年が目指した仕事であった。一九四一年四月吉田青年は長安国民学校に奉職する。その年の一二月「名誉」の徴兵を受け四二年五月関東軍ハイラル737部隊に転属機関銃隊の兵隊となる。予備士官学校を経て原隊に復帰するが四四年中隊長の強い薦めで特別志願の試験を受け合格、特攻隊を教育する大分陸軍少年飛行兵学校に赴任する。運命の分かれ道はこの時だった。原隊は一九四四年秋以降フィリピンに転戦全滅する。
 敗戦は大分で迎える。二三才。残念無念、悔しさでみんなで手榴弾で自決する道も考えたが、「少年達の無事帰郷を見届けるべき」との一人の意見に救われる。ここでも死を免れる。吉田中尉は九月には故郷の大分県安心院町に帰り無事朝鮮から引き揚げてきた家族とともに農業を始める。青年団で自主演芸会公演活動をやったり総選挙の演説会で活躍したり吉田青年は大活躍。戦後吉田青年は社会科学の文献も目にし皇国臣民教育の過ちに気づく。「国にだまされていた」と。
 四九年吉田さんは福岡に出て検察庁の雇に採用されすぐに裁判所の職員の試験を受け書記官補となる。裁判所は人手不足で戦前の名残もあり、新制度への移行期であった。吉田さんはすぐに全司法労働組合に加入し業務とともに組合活動にも力を注ぐことになる。面倒見がいい性格と強い正義感、戦前の反省と戦後民主主義の高まり、吉田さんをつき動かしたものは大きかった。
 五四年に中央執行委員、五六年書記長、三三才の吉田さんは労働運動に邁進する。そんな矢先、五八年最高裁は全司法に懲戒免職一三名停職六名の大弾圧をかける。裁判書事件である。職場闘争の一つで裁判書を軽く扱い裁判官自ら精査しないで裁判書を作る悪弊を絶つ戦いであった。もちろん吉田さんも懲戒免職となる。裁判所が自らの違法行為を理由に大量に活動家を処分し、その正否を自ら裁判するという前代未聞の事件となる。解決まで一八年、それぞれの人生を賭けた闘争である。従前の賃金を昇級まで含めて組合で保証しながらの争議。七六年二月すべての復職希望者は一八年余にわたる昇級と昇格を保障され、再採用という形で職場に復帰する。吉田さんだけは除かれた。「処分がなされたすべての職場に行き、戦いの意味をみんなが理解するまで話し込んだ」。秋田で停職処分になった安田輝男さんは三五年後に作られた元原告団の手記集で「処分直後、当時の執行委員長佐藤喜三郎さんが、わざわざ家に見えられ、母に『あなたの息子さんを処分に追い込んだことは、本当に申し訳ない』と、お詫びの言葉を言われたことは、いかに私たち組合員を自分の弟、妹のように気にかけ心配してくれていたかがよく分かります」「旭川の熊と言われた頑健な体の佐藤委員長も、過労と心労のためこの世を去った」と記している。最高裁は弾圧によって全司法の団結を逆に強め、闘う労働組合を育てたこととなる。六四年全司法労働組合の委員長に選任された四三才の吉田さんは、佐藤委員長の後を引継ぎ、八〇年に辞任するまで一七年間、自らの懲戒事件と司法制度研究運動に死力を尽くすのである。
 長期の委員長はともすれば組織の硬直化を招き後進の成長を阻害する。「吉田天皇ですね」と嫌みを言う私に吉田さんは「そうですね。なり手がいなくて」とたじろがない。「ご多忙のなかで原稿を送ってくれた皆さんに心からお礼を申し上げます。それぞれに特徴があり、涙のにじむ想いでまとめました」吉田さんらしい元原告団手記集の編集後記である。
 一人職場に戻れなかった吉田さんは八四年六二才で簡裁の調停委員となる。九三年に定年で辞任するまで裁判所で庶民の相談相手になる。裁判所らしい実務に関わった貴重な一〇年、吉田さんはどんな調停委員だったのだろうか。裁判所はどんな姿に見えたのだろうか。
 「私はうれしいことがあった時、みんなが総立ちになって、カチャーシやアリランを勝手気ままに歌い踊る姿が、たまらなく好きである」、すべての武器を楽器にと吉田さんは言う。墓場の戦友は「俺のような思いをしないでくれよ」と吉田さんにささやくだろうという。吉田さんは誰よりも長生きをして二一世紀がどんな時代になるのか確かと見届けるつもりである。
 人を信じる楽天性と権力や政治の本質を見る厳しさが吉田さんのたゆまざる力の源なのである。

吉田博徳
1921年 大分県で出生 
1949年 福岡地方裁判所書記官補に採用
1954年〜80年 全司法労働組合本部の重鎮として活躍
現在、日朝協会代表理事、日本平和委員会全国理事等を歴任


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