法と民主主義2002年10月号(目次と記事)

法と民主主義10月号表紙
★特集★●胎動─難民法改正へ
■特集にあたって……編集委員会
■瀋陽総領事館事件・再考─若干の国際法的考察……阿部浩己
■難民についての裁判例の動き─2001年から2002年にかけて……難波 満
■収容問題についての総括……児玉晃一
■難民法改正論議の内容と今後……渡辺彰悟
■難民条約31条の意義(広島地裁および広島高裁の判決を素材として)
 ─庇護を求めた不法入国者に刑罰は科せられるか……下中奈美

 
時評●改革後は「バクチ場」列島

弁護士 石戸谷 豊

 改革が語られたからといって、それが現実になるとは限らない。例えば日本版ビッグバンの場合、二〇〇一年に東京市場はニューヨーク・ロンドン並みの国際市場として再生、金融業は競争力を取り戻し、個人資産は有利に運用されるはずであった。で、実際は……ご承知のとおりである。語られた内容は幻想に終わり、現実には修羅場である。
 しかし、こうした貴重な失敗の経験があるにもかかわらず、市場原理を機軸とした改革路線は、金融分野だけでなく経済構造そのもの、さらに法制度全般へと展開されている。例えば消費者保護基本法の改正の議論が進められているが、これも市場機能を活かした改革の一環である。ビッグバンは金融分野の話であったが、これで消費者分野全体への展開となる。そこでは、消費者は保護されるべき弱者ではなく、権利の主体であるという。しかし、では活かすべき市場機能とは何なのかが問題になる。市場における公正かつ自由な競争という思想をベースにすると、まがりなりにも米国のように、アンフェアな行為(市場阻害行為)に対しては、強力な制裁(刑事上・行政上)が発動されるほか、それによる不当な利益や利得は許されないから、クラスアクション・制裁的損害賠償・デイスカバリーといった諸制度の整備が必要になる。しかし、日本的市場とは、そういうものではないようだ。最も整備されている市場であるはずの証券市場について、財務大臣が「バクチ場やなあ」とマスコミにコメントしたことは記憶に新しい。市民感覚からすると、「バクチ場」とは、不正行為が当然のように行われ、とても素人が近づくところではない。このような市場観の下では、「バクチ場」と呼ばれるにふさわしい市場しか育たない。すると、市場機能を活かすという実体は、日本列島の総賭博場化、まさに弱肉強食の場ということになる。これでは、健全な市民はますます市場を敬遠し、必要最低限の関わりしか持とうとしなくなる。かくして、構造改革を進めれば景気がよくなるはずが、逆に修羅場が繰り広げられることになる。
 司法改革も、当然ながらこの改革路線と無縁ではない。市場機能を活かすという改革は、強いものをより強くという方向だ。しかし、強いか弱いかと、正しいか正しくないかとは、本来まったく別の問題である。そこで、司法の分野に、いわゆる弱肉強食の論理を持ち込むことは、本来は自殺行為のはずだ。ところが、これを堂々と制度化しようという論理がある。まずはご承知の、弁護士費用の敗訴者負担制度である。今ですら裁判は、利用しにくい。現代的な、あるいは複雑な分野ほど見通しは立ちにくく、敬遠される。敗訴者負担制度は、このリスクを何倍にもする、いわばデリバテイブにおけるレバレッジを利かせるような機能となる。大企業などの強者はそのリスクに十分耐えられるが、市民などの弱者にとっては大変使いにくい。利用しやすい司法という改革の理念が語られるが、現実は逆になる。
 しかし、さらに恐るべきは、仲裁である。仲裁検討会で検討している新仲裁法は、国際商事紛争だけでなく、国内の民事・商事を含めたあらゆる分野で仲裁を促進しようというものだ。仲裁合意とは、裁判を受ける権利の放棄を意味する。したがって、業者が契約書・約款に仲裁条項を入れておくと、消費者あるいは労働者は裁判を受けることができなくなる。このままでは、さまざまな業界が次々と都合のいい仲裁機関を作って、業界寄りの仲裁を進める危険性が強い。このようなことから、仲裁検討会の中間とりまとめに対しては、国際商事紛争に限定して立法すべきという意見(パブリックコメント)が、全体の九割近くとなった。最近まであまり知られていなかった問題なのに、多数の良識あるパブリックコメントが出されたことは、市民のこの改革への危機意識の高まりがある。改革の幻想は色あせ、修羅場の不気味な姿が見えてきたからだ。今はまさに歴史的転換期にあり、ここが踏ん張りどころというほかはない。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

在野にありて 熟年新人税理士30年 伊藤 清

税理士:伊藤 清先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

 伊藤清先生の自宅兼事務所は千葉市都賀にある。東京から総武線快速で四五分。駅前には高架のモノレールが運行している。立ち食いそば屋のおばさんは「ここいらの人は電車の方が安いしあんまり使わないよ」見慣れたチェーン店名が目に付く駅前。モノレールの下の道を歩きながら大きなパチンコ店の角を曲がる。ファミリーマートとセブンイレブン,メガネのパリミキの所から右折少し下りの道、住宅地にはいる。歩道もない道だが車ががんがん通る。目印は「スナックなぎさ」なぎさは女性募集中である。お客さん来るのかな。やっと伊藤会計事務所の近くに来た。典型的な郊外の住宅地、庭の手入れに精を出す人や買い物帰りの中年女性。ありました、大きな看板が。インターホーンで「遅くなりました」というと奥様が出てくる。「こちらじゃないんです」先生はにこにこして庭に建てられた伊藤会計事務所の入り口アルミサッシを開けてくれる。先生の勉強部屋に縁側から案内されたようで懐かしい。テーブルには新聞がうずたかく積まれノート型のパソコンが置かれている。周りの書棚に本、奥に執務スペースがあるらしい。戸を開けて風を入れると夏も終わりなのに庭から蚊が飛んで来て私を狙う。
 伊藤先生はこの地で自宅の庭を事務所にして五二才の時税理士を開業した。遅い出発。現在八三才。今でも現役、一〇才は若く見える。税理士になってから先生は税理士会の硬派論客、多くの審査請求や税務訴訟も手掛けてきた。一九一九年生まれの先生は戦前の天皇制国家の中で育ちその恐ろしさを骨身に染みて生き続けてきた。
 生まれは朝鮮現在の韓国テグ、植民者二世である。商家で育った清少年は北一輝に心酔する早熟な右翼少年だった。一七才の時購読していた雑誌の青年将校の座談会の記事で清少年は2・26事件を予見していたくらいである。しかし軍国少年ではなく文学に強く惹かれ夭折した梶井基次郎の愛読者であった。梶井と同じ三高にと思った。が家業に役立つようにと高松高等商業学校に進学。高松ならのんびりとした生活が出来る。一九三七年入学、日本は軍事国家の道を突き進んでいた。清青年は入学すると川上肇の貧乏物語に出会い学外の人とのつき合いも始まる。元々政治的な問題に敏感な清青年はその正義感から「資本主義の矛盾を解決するには社会主義が正しい」と考えるようになる。そして一九四〇年三月二〇才の清青年の下宿に特高が踏み込む。治安維持法違反である。警察の拘置所に未決で一年半年入れられることになる。自分たちの数あわせの検挙。厳しい取り調べはあったが検挙が目的であるから何か出てくるわけではない。拘置所で清青年は二一才を迎え、兵役のために保釈となる。高商は放校。
 「もう大物はおりませんし、目立つような活動は何処にも見あたりません。そこで、警戒心の乏しい私のような小物を狙ったのです。特高は私どもの内心を釣り上げれば、それで勝負はつくのです。私達に、内心で、社会主義・共産主義社会に対するシンパシィを持っていることを吐かせればもうそれで十分なのです。こうした考えの持主が飯を食うことも、排泄することも治安維持法に違反するのです」「私は治安維持法違反という前歴で特別視されること嫌いなのです。普通のまじめな若者ですら投獄された時代だったのです」そして清青年はその国家が他民族を侵略し、殺戮していく現場に皇軍兵士として徴兵されるのである。
 執行猶予判決を受けた後清青年は広島の部隊に入営。一兵卒として「貴様ら一銭五厘だ、代わりは幾らでもあるんだ」と毎日殴られる軍隊生活が始まる。しばらくして中国侵略の前線へと派兵された部隊は湖北省で戦闘行為にはいる。弾はひゅうひゅうと飛んでくる。壕の中で隣にいた古参兵にあたりその男は壕の外に放り出される。死を前に「お母さん。お母さん。手がない。足がない」と叫ぶ。「天皇陛下万才」ではありません。そんな中で清一等兵は自分で銃を撃つことはしないと決めていた。一九四五年敗戦色が濃くなると本土決戦のために多くの兵が帰国となった。そして移動途中で終戦となりシベリア抑留となる。清分隊長は湖北省にとどまりそこで終戦。生涯で一番うれしい日だった。武装解除となり軍人勅諭を燃やした時胸がすうーっとした。清青年は二六才になっていた。
 翌年に帰還。清青年はすぐに広島に行く。そこには親友とその妹がいるはずであった。しかし病気で除隊となっていた親友は原爆で亡くなっていた。その妹の好子さんは清青年の許嫁心の妻だった。広島を離れてから四年、二人のたくさんの手紙は今も大事に保管されている。好子さんは原爆が投下されたとき親戚の手伝いで新潟にいて死を免れた。清青年と好子さんは結婚する。結婚五六年「本当に優しい良い夫です」奥さんは躊躇することなく言い切る。
 清先生は広島で戦後の組合運動に打ち込んだり、高松で農労救援会のオルグになったり社会運動に邁進する。政治的な路線問題もあり一九五六年上京、乞われて電気通信機器メーカーを立ち上げることになる。戦後の高度経済成長のなか会社は順調に伸び工場も増え従業員も千名になる。伊藤先生は経理・総務担当として会社を支える。先生にはオルグの資質だけでなく数字も分かる経営者の資質もあったのである。会社で革新都政を支えようなどと言っていた不思議な経営者であるが。税務も一人で担当、特定寄付の損金算入をめぐって不服審査請求までやり、なんと勝訴。税理士要らずの清先生。とはいえ税務調査で口惜しい思いをしたり下職や出入りの業者の不満を聞くこともあった。五〇才の時にそんなことなら独学で税理士の資格を取ろうと考える。会社の仕事をしながらの取得である。いざ税理士なり「納税者のために税務署と闘うのが税理士の仕事」と思い込んでいた先生は日常の「記帳代行業務」に驚く。開業後社労士と中小企業診断士の資格も取り経営相談もやりながら、経験と凛とした姿勢の温厚な先生はすぐに多くの人の信頼を集めるようになる。
 いま日米軍事同盟による新たな戦争の危険が近づいています。戦争は、戦場での人間の殺し合いだけでなく、戦争を批判する国民の良心の自由すら奪うものです。有事体制に反対するのはもちろん、税理士としてその体制を支える税制を作ってはいけません。
 先生は庭先の事務所から生きている限り世の中に警告を鳴らし続けるのである。

伊藤 清
1919年 現在の韓国において植民者二世として出生
1940年 文化運動が治安維持法違反として検挙起訴
1942年 現役兵として中国湖北省の前線部隊に編入
1946年 敗戦により復員
1971年 税理士登録


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