2005年10月

メディアも政治家もおかしいぞ 

正午から参議院議員会館で記者会見。朝日新聞に対する「ETV番組改変問題の報道総括に関する質問」についての申し入れの件。朝日には、14の市民団体が名を連ねての質問書の提出となった。私は、「報道・表現の危機を考える弁護士の会」からの参加。

もともとは、NHK問題であった。戦時性暴力を扱ったETVの番組については、まず右翼が蠢動した。慰安婦問題は皇軍の恥部である。大東亜戦争肯定論の立場からは、触れてはならないタブーである。しかも、「ヒロヒト有罪」の判決が民族派右翼にとって許し難いと映ったのだ。その動きを承けて、自民党筋の右派連中が、なかんずく安倍・中川らが同じレベルで騒ぎ出す。彼らも教科書から慰安婦問題を駆逐する歴史修正主義に血道をあげていたのだ。その結果の番組改変である。

NHKが自民党筋の圧力に弱いことが明らかとなった。制度も問題、ジャーナリズムの反骨を持ち合わせていないNHK幹部の性根も問題。これは何とかしなければ、NHKは再び大本営発表の伝声管になりさがる。私たちはそう危機感を募らせた。

朝日は、権力に対する監視機能をよく果たした。この段階では一も二もなく朝日に声援を送らねばならなかった。ところが、すこし風向きがおかしい。9月30日の朝日トップの記者会見と10月1日付の記事は、「取材の甘さを反省」という見出しで、朝日の側からこの問題に手打ちをしているように見える。

ことは重大。国民の知る権利にかかわる大問題であって、朝日一社の問題ではない。日本のジャーナリズムの今後を占う事態でもある。市民の立場において、こんな幕引きは許せない。

そう考えた市民団体が、5項目の質問書提出という形で、朝日に問題を提起した。
10月1日の朝日「反省総括」のあと、安倍・中川らは居丈高に、朝日に謝罪を求めている。いったいこれに屈するのか、毅然とした姿勢を貫くのか。
朝日自身の詳細な報道においても、安倍・中川の両名がNHKに圧力をかけたこと、NHKが権力に屈したことは明瞭ではないか…。

権力に切り込む朝日を応援し、うやむやに妥協しようという朝日を批判する趣旨である。回答は、11月18日期限で約束されている。

記者会見の席上、私の隣に座っていた醍醐聡さんが鋭く発言した。
「問題は朝日だけではない。他のメディアはどうしたのか。まるで対岸の火事を見るごとく傍観していることが解せない。朝日の取材が不十分だなどと批判するなら、どうして自らの取材でこの問題に切り込まないのか。この問題には、どのような取材競争がはばかられる事情があるのか。中には、明らかに朝日の足をひっぱつているメディアもある。ファシズム期のメディアを見ているようだ」

NHK問題から、朝日問題へ、そしてメディア全体の姿勢が問われる問題となりつつある。
そして本日、安倍晋三は内閣改造で官房長官に。こんな人物が政府の要職に? そして、次期総理だと? 常に国民はそのレベル相応の政治しか持てないのだと? 冗談ではない。徹底して、安倍・中川の責任追及をしなければならない。

自民党憲法改正草案ーその2

世界の憲法は歴史的に変遷してきた。概ね進歩の方向にである。
憲法の「進歩」とは、歴史の進歩と同様に、
個人の尊厳の軽視→重視
全体→個人の利益重視
圧迫→自由
専制→民主
戦争→平和
形式的自由→実質的自由
形式的平等→弱者への権利付与と保護
国家の強権→国家への規制→国家による福祉
国家だけではなく社会的強者への規制
というもの。要は、人民すべての尊厳を確保し、福利の享受を実質的に保障する方向が進歩である。自民党憲法改正草案は、この歴史の進歩に逆行するものと言わざるを得ない。

近代立憲主義として定立された憲法の本旨は、必要悪としての危険な国家権力を統制するところにある。せめて、そのくらいのレベルには、あって欲しいものと思う。しかし、草案は日本国民に「帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって、自ら支え守る責務を共有し」(前文)と、お説教を垂れる。余計なお世話である。国や社会への愛情を押しつける憲法は、近代立憲主義のレベルにも到達していない。

国際社会は、戦争の惨禍を繰り返しつつも、戦争を違法化する努力を積みかさねてきた。その歴史的な大きな成果の一つが、大戦間の不戦条約である。憲法9条1項は、このレベルであると理解されている。その後、第2次世界大戦の終了の間際、未曾有の戦禍の上に、戦争の違法化を徹底させた国際連合憲章が成立する。さらに、広島・長崎の核兵器の悲惨な被害を受けた日本が、究極の平和主義に則した憲法を制定した。これが9条2項である。

改正草案は、戦争の放棄を放棄した。戦争を政策遂行の選択肢とする国への大転換の宣言である。平和への叡智を積み上げてきた人類史への挑戦にほかならない。

個人の権利は、内容が豊富にならねばならない。制約が軽減されなければならない。ところが、自民党は個人の権利伸長を望まない。公共の福祉による人権の制限という評判の悪い規定を、改正するのではなく、「公益・公の秩序」に置き換えた。「権利自由の嫌いな人に、自由糖をば飲ませたい」と、自由民権運動で揶揄されたレベルを出ていない。

憲法における最高の価値は、どの個人にも備わっている基本的人権である。至高の価値である人権を、いかなる他の価値をもってしても制約することはできない。但し、人権と人権が相容れずに衝突する局面では、その調整原理が必要となる。これが、「公共の福祉」の実態。憲法学の通説はそのように説いている。
通説の理解に沿って人権尊重の趣旨で条文するのではなくまったく逆行して、「公益や秩序」によって人権を制約できるという発想が不気味で、恐ろしい。

草案は憲法20条に手を付けた。政教分離を緩和して、国の宗教的活動禁止は、「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えるもの」であって、特定宗教への助長や干渉となるものに限定した。靖国公式参拝を合憲とするねらいをもつものである。ここには、戦争への反省の欠如と、内心の自由や信仰への無理解、そして偏狭なナショナリズムが透けて見える。

草案のアメの役割をになう目玉が環境権である。しかし、このアメ甘くはない。
生存権と比較するとよく分かる。25条1項は、国民の権利として規定し、2項でこれに対応する国の福祉向上の義務を定める。ところが、25条の2として新設の条項は、「環境権」と標題されず、「国の環境保全の責務」とする。25条1項に相当する権利の規定はない。

国民の権利として明定されている生存権においてなお、プログラム規定とされて具体的権利性を否定されているのが現状。環境権においては、権利条項すらないのだから、すべては国の思し召し次第とならざるを得ない。到底、裁判で使えるような実定的権利性はない。

しゃぶったら甘くないアメで、改憲草案をまぶそうなど、自民党もお人が悪い。悪徳商法ばりではないか。むしろ、国の政治的方針として環境擁護をなすべき責務があるのだから、国民もこれに協力しなければならない、という文脈で使われることになりかねない。

アメ変じてムチである。国民を無知と嘗めてのことか。

自民党「新憲法草案」について

本日(10月28日)、自民党は憲法改正草案を発表した。これが、11月22日の結党50周年の党大会で正式に採択の予定だ。

日民協は、本日付で声明を発した。「日本国憲法の平和・人権福祉の原理を根底から覆そうとする時代錯誤の自民党『新憲法草案』に大きな反撃の声を上げよう」と標題するもので、この草案を「葬り去る」決意を述べるものである。このコラムは、飽くまで個人的な感想である。

「憲法改正案」ではなく、「新憲法草案」というネーミングが、自民党の真意をよく語っている。現行憲法の改正手続きに則った改正ではなく、「自主憲法制定」がこの党の結党以来の悲願であった。日本の政権与党は、自国の憲法に非親和性を持ち続けてきた、その意味では「反体制」政党であり続けた。「新憲法」制定は、内容においても手続きにおいても、必ずしも現行憲法との連続性を要求されない。現行憲法の理念から飛躍した本音を有していればこその、「新憲法」である。

しかし、「やりたいこと」と「やれること」とは異なる。彼らなりに、「現実」の壁の高さを認識しての妥協の成案とはなっている。とはいえ、彼らのやりたいことの10分の1でも現実になったら、日本国憲法はとてつもなく大きな変容を遂げる。この「草案」も、そのような危険なトゲをもっている。

自民党が作成する憲法改正案は、本音を丸出しに改正幅を大きくすればするほど成立は困難になる。本音を殺して改正幅を小さくマイルドにすれば、改正手続き成功の現実味が増してくる。今回の改正案は、改正実現への現実性を獲得しつつ、彼らの本音の相当な部分を織り込んだと言えるだろう。

大きく論点は3点だと思う。9条改憲と、96条改憲、そして人権規定の改正である。9条改憲案は相当に踏み込んだものとなった。96条の改憲手続きは、国会発議の要件を大きく緩和して、硬性憲法を軟化するもの。長期的になし崩し改憲をするねらいである。そして、人権規定は、憲法改正に世論を誘導するためのアメの側面と、国民に責務を負わせるムチの側面とが混在している。

さて、注目されたのは前文である。「新憲法一次案」(8月1日)にも「二次案」(10月12日)にも、前文はなかった。10月8日の読売にリークされた案文は、復古調の国家主義・民族主義丸出し。いかにも自民党の本音をさらけ出した体のものだった。ところが、本日発表された草案の前文はまったく違うものとなっていた。なんとも形容しがたい代物‥。

これは、前文の成案として発表したものなのか、それとも前文案レジメなのか。内容は以下のとおり。
@ 自主憲法制定の宣言
A 象徴天皇制の維持
B 国民主権と民主主義、自由主義と基本的人権の尊重及び平和主義と国際協調主義という基本原則は継承する
C 日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有する。
D 自由かつ公正で活力ある社会の発展と国民福祉の充実を図り、教育の振興と文化の創造及び地方自治の発展を重視する。
E 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に願い、他国とともにその実現のため、協力し合う。国際社会において、価値観の多様性を認めつつ、圧制や人権侵害を根絶させるため、不断の努力を行う。
F 日本国民は、自然との共生を信条に、自国のみならずかけがえのない地球の環境を守るため、力を尽くす。

あらためて思う。日本国憲法前文の格調の高さを。ご都合主義の取って付けた作文からは、格調は生まれない。おそらく、その文章を必然とした時代が格調を生み出すのだろう。自民党憲法草案には望むべくもない。

「新憲法草案」は、日本国憲法への部分改正の体裁を取っている。天皇の元首化は見送られた。それへの見返りとして、前文にことごとしく天皇讃歌を書き込むとの推測もあったが外れた。これは、彼らなりの現実の見極めである。

草案は、第2章の標題を「戦争の放棄」から「安全保障」に変えている。現行憲法9条1項をそのまま残し、9条2項を全部削除する。そして、新たに以下の9条の2を設ける。

「わが国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮者とする自衛軍を保持する」(1項)
「自衛軍は、第1項の規定による任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる」(3項)

この条文だと、日本の軍は、専守防衛を遙かに超えて、海外での武力の行使を可能とする。およそ、その歯止めはなく、どのような場合でも軍の派遣と武力の行使が選択肢に加わることになる。「自衛のため」との名目の戦争から、「国際社会の平和と安全を確保するために」「緊急事態における公の秩序を維持するため」「国民の生命若しくは自由を守るために」戦争ができる。

国連決議のない多国籍軍への参加も可能であり、武力の行使も可能となる。周辺事態において、アメリカと連携した戦闘行動ももちろん可能。集団的自衛権の行使である。危険きわまりない。

草案のポイントは、9条改正と並んで96条改憲である。
改正手続き、とりわけ国会の発議の要件を「3分の2」から「過半数」にしようとしている。これが実現すれば、政府与党は好きな時期に好きなテーマで改正発議ができることになる。

9条と96条の改正、これは財界の提言ではないか。財界は、目先ではなく長いスパンで自分の思うような憲法を手に入れようとしている。すぐにすべてのテーマに決着をつけずとも、まずは硬い憲法を軟らかくしておけば、自分の意に沿った内容に改変できる、そう思っているのだ。

財界が望む方向、それは新自由主義的な小さな政府を実現する憲法。経済活動を最大限自由とし、貧富の格差を容認する社会。そして、彼らの富や在外資産を防衛する「軍事大国化」に適合する憲法である。

この草案はやはり危険きわまりない。「葬り去って」しまいたいと痛切に思う。

「武富士の闇」訴訟・控訴審完勝  

「武富士の闇を暴く」事件弁護団を代表して、記者の皆様にご報告いたします。

本日午後1時10分、東京高裁民事22部は、「武富士の闇を暴く」訴訟の控訴審判決を言い渡しました。主文は控訴棄却。一審に引き続いて、われわれの全面勝訴です。

判決内容は、意外に木で鼻を括ったものではなく、控訴審裁判所(石川善則裁判長)の事実認定や法的評価が示された中身のある判断です。一審の「藤山判決」以上と評価できそうです。

武富士から、「闇を暴く」の執筆者らに対する損害賠償請求は、「記事のほとんどが真実」「それ以外もすべてが、真実と信じるについて相当性あり」として、名誉毀損も信用毀損も成立しないとして請求は認められない。この点原判決と変わりませんが、第三者請求の悪質性や厳しいノル
マ、社内での罵声怒声の酷さなどを詳細に認定しています。

本案の訴訟提起自体が不法行為を構成するとして反訴の請求を認容したことも原判決と変わりません。しかし、ここもかなり突っ込んで、批判の言論封じの提訴と推認せざるを得ないとしています。

武井保雄の個人責任は、原審では武井が尋問の呼出を受けながら正当な理由なく出廷を拒否したため、民事訴訟法208条を適用して、原告の主張を真実と認めるとしたものでした。今日の判決は、この点について詳細に刑事記録などを引用し、民訴208条の適用なくても責任を認めることができる、としています。

この事件は、ダーテイーな大企業が批判者の言論を封殺する目的でした、出版妨害であり、弁護士業務妨害の訴訟です。5500万円という高額請求で、出版社や消費者弁護士の萎縮効果を狙った訴訟提起なのです。だから、請求棄却で勝訴するだけでは足りない。反訴を提起して、かような提訴をすれば、痛い目に遭うという反撃が必要だったのです。

記事が真実か否かは、書かれた武富士が一番よく分かるだろう。それなのに、ろくな調査も検討もせずに、いいかげんな提訴をしたことについて、裁判所の苦々しさが伝わってくるような判決文です。また、名前を挙げて、代理人の責任にも言及しています。この弁護士は、ほかでも同じことをやっている常習者。この訴訟では、われわれの完勝と言ってよいのと思います。

社会的な強者は、金に飽かして批判を封じる力をもっている。知識や技術を高く売りつけようという連中がいるからだ。しかし、金では動かない人たちもいる。当事者席のアチラとコチラは、同じバッジを付けていても、人種が違う。金で動くか、心意気で動くか。心意気派がいつも勝つとは限らない。しかし、今日は、大いに胸を張ることができた記者会見だった。

元気を出したまえ 

おや、ひさしぶり。サワフジ君。少し時間があるか。コーヒーでも飲みながら話をしよう。

元気がないのか。展望が出て来ない? これまで、こんなことはいくらもあったさ。ごまかしの選挙結果がそんなに長続きするわけはない。

小泉が靖国参拝をしたって? 予想されていたこと。政権が矛盾を深めるだけのことではないか。アジアの中で、徹底して孤立するところからでなくては、日本の反省が始まらない。早晩、また劇的な変化が起こることは目に見えておる。

オレの確信の支えになっていることが二つある。ひとつは、99年ハーグの世界市民平和会議でのツツ大主教の言葉だ。何も難しいことを言ったわけではない。「20世紀は残酷な戦争の世紀であったが、同時に人類の平和に向けての偉大な叡智を見せた世紀でもあった」から始まる。そして、「戦争が人間の手で起こされるものである以上、人間の手でなくすことができないはずはない」と言うんだ。「人類は、何千年も続いた奴隷制度に終止符を打った。アパルトヘイトも止めさせた。そして、平和のための仕組みとして国際連合を設立した。その人類が、戦争をなくする展望を持てないはずはない」。あの人がそう言うからでもあるが、大喝采だった。

それから、この間のコラップ4(第4回アジア太平洋法律家会議)でのアジア諸国の法律家の発言だ。みんな、素晴らしい。自分たちの力で民主主義を勝ち取ったという確信に満ちている。そして、バランス感覚がよい。異なる意見に謙虚に耳を傾ける姿勢がある。韓国やベトナムに特に感じるが、アジアは実に進んでいる。このままでは日本はますますアジアから遅れ、孤立する。アジアから孤立して日本の未来はない。

一見、小泉は選挙に勝った勢いで何でもできるようでもあるが、実は日本の民衆からも、アジアの民衆からも孤立しつつある。その民衆が戦争を止めさせる力をもっている。アジアの民衆は、その力を自覚しつつある。日本の民衆もいずれそうなる。

コーヒーだけじゃもの足りないな。スパゲティを一緒に喰おう。元気を出せよ。

横山洋吉尋問

この男が横山洋吉(前・都教育長)か。「10・23通達」を発し、都下の全校長に「日の丸・君が代」強制の職務命令を出させた男。300人余の教員を懲戒処分し、本件原告10名の首を切った男。石原慎太郎(知事)の意を受けて、公教育に国家主義的イデオロギーと管理主義教育体制を持ち込んだ男。

君が代解雇訴訟で、この男が地裁103号法廷の証言席に座った。庁内最大の法廷も、今日は傍聴席の抽選倍率が3倍となった。原告側の反対尋問時間の持ち時間は2時間。私も30分余担当した。

主尋問への証言は無内容、粗雑なものであった。こんな粗雑なだけの証言をする人間に、教育行政を預け、教員の首を預けていることへの恐ろしさを禁じ得なかった。とんでもない人物に権力を握らせる恐怖である。

しかし、反対尋問では、意外に証人は挑戦的ではなかった。そして、証言の切れ味もなかった。ただただ粗雑に、首切り役人の役割を買って出たその姿を露わにした。憲法の理念に理解なく、なすべき検討を怠り、慎重さを欠いて、ひたすら蛮勇をふるった姿。

彼が語ることは、極めて単純。
『学習指導要領が法的拘束力を持っている。それに従って適正に国旗国歌の指導が必要だ。ところが、都立校では適正な指導がなされておらず、積年の課題として正常化が必要だつた。だから、「10・23通達」が必要だった。「10・23通達」に基づいて、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」との職務命令を発したのは校長の裁量だが、職務命令が出た以上は、その違反を理由とする懲戒処分は当然』これだけである。

この道筋以外のことは彼の頭に入らない。検討もしていない。この彼の「論理」の道筋を辿った反対尋問がなされた。学習指導要領の性格について、旭川学テ訴訟最高裁大法廷判決の理解について。「大綱的基準」の意味について。創意工夫の余地が残っているかについて。学習指導要領と「10・23通達」の乖離について。教員への強制の根拠について。児童生徒の内心への介入について。強制と指導の差異について。内心の自由説明を禁止した根拠について。処分の量定の根拠について。比例原則違反について‥。

およそ、憲法上の検討などはしていないことが明らかとなった。彼は、「憲法19条の思想良心の自由は、純粋に内心の思想だけを保護するもの」という。では、「内心の思想良心が外部に表出されれば、21条の問題となる。21条についてはどのような検討をしたのか」と聞いたところ、「21条とは何でしょうか。私は法律家ではないから分からない」と言った。これには、本当に驚いた。21条は、9条と並ぶ憲法の看板ではないか。憲法のエッセンスである。本件でも、不起立を、象徴的表現行為との主張もしている。

突然に尋問が空しくなった。もっともまじめな教育者たちが、その真摯さゆえに、こんな程度の人物にクビを切られたのだ。およそ何の配慮も検討もなく。

朝日新聞社への申し入れ

「報道・表現の危機を考える弁護士の会」が作成した申入書を持参して、朝日新聞社に要請に出かけた。

今年1月12日付の朝日の「戦時性暴力番組」改変記事で、われわれは「NHK問題」を知った。NHKが自民党筋の圧力に弱いこと、安倍・中川といった強面の政治家がNHKににらみをきかせていることを知った。これはたいへんな事態だと思った。日本のメディアのあり方に危機的を抱かざるを得ない。

ところが、10月1日の朝日の紙面でまたまた驚いた。今度は、「朝日問題」だ。あの貴重な記事について、「理不尽な攻撃から断固守る」というのではなく、取材についての詰めの甘さを反省してしまった。完璧な取材を要求したのでは、協力者以外からの取材はできない。調査報道は不可能だ。これでは権力に切り込めない。

石原慎太郎が308万票を取り、自民党が296議席を獲得するこの時代。憲法の改悪が進み、右翼が跳梁するこの時代に、朝日が権力に屈したらどうなる。第一線記者の意気を阻喪させかねない、このたびの朝日の態度は看過し得ない。

さらに、他のマスコミ各社の態度も解せない。朝日攻撃の尻馬に乗ることは、自らの首を絞めることにつながるとは思わないのだろうか。

そんな思いで午前中に朝日に赴き、午後は記者会見に臨んで、「緊急声明」を発表した。あらためて問題の重要性を噛みしめている。

なお、会の「申し入れ」と「緊急声明」は、当サイトの「ひろば」欄に掲載する。

東京地裁627号法廷で 

渡邉修孝さんの代理人として、裁判所と被告国に申し上げる。

被告・国は、反訴をもって、原告渡邉にバグダッドからアンマンまでの航空券購入費と、アンマンから成田までの航空券日付変更費用の立替金計2万3576円の支払いを求めている。しかし、原告はその支払いの根拠とされる委任契約は成立していないものと考えているし、そもそもその支払い請求が、「自己責任論」バッシングに悪乗りした、不公平な取扱いと主張している。

被告・国は、不公平な取扱いをしたものでないという根拠として、今回乙18号証を提出した。2004年6月29日付の「犯罪や危難等に遭遇した日本国民に対する保護や援助にかかる費用の求償に関する答弁書」と題する内閣総理大臣の国会質問答弁書である。

これによると、消防・警察・自衛隊の国民保護の活動に関して「これらは、いずれも本来的に各機関が行政としての責任を果たすべき業務として行っているものであり、保護や援助を受けた国民に対してその活動に要した費用を請求することは想定されておらず、これまで当該費用を請求した事例は承知していない」と言っている。

また、「海外における我が国の国民の生命及び身体の保護等の事務の遂行に当たって、政府が要する経費については、これをその者に請求することは想定されておらず、政府が負担することとしている」とも原則を述べている。

まことにもっともで、常識的な理解と一致した政府見解である。本件渡邉の場合も、「本来的に在外大使館が行政としての責任を果たすべき業務として、被告が危難からの「救出」「保護」という公法上の責務を遂行したものであって、保護や援助を受けた原告に対してその活動に要した費用を請求することは想定されていない」のである。

国が、乙18を持ち出した趣旨は、「我が国の国民が海外で、危険に遭遇した場合、緊急事態において国民の輸送にチャーター機を利用する場合は、原則として正規のエコノミークラス料金分の負担を当該国民に求めており、平成11年以後、政府チャーター機を利用した例は3件あるが、いずれの場合にも後日支払を受けている」という個所の援用である。

このような事実は、まったく国民に知られていない。「我が国の国民が海外で、危険に遭遇し、緊急事態において国民の輸送にチャーター機を利用する場合」が、大きな話題とならないはずはないが、一般人にはどの事例であるか見当もつかない。本件に先例として引用するにふさわしい事例であるのか否かもまったく分からない。

いかなる事例について、どのような顛末であったかを明示せずに、自己の主張の挙証に有利な事例として引用することはまことにアンフェアである。事例の特定と経過の詳細を明示されたい。

なお、乙18は、政府チャーター機を利用した3例について、「いずれの場合においても、あらかじめ負担について了解を得て、後日支払をお願いした」と言っている。費用負担について明示の合意があったとすれば、格別に問題はない。いうまでもなく、本件渡邉の事例はチャーター機を調達したものではなく、事前の費用負担の合意も欠く。被告の主張との関連性について明らかではない。

かねてから、原告は国に対して、釈明を求めてきた。
これまでの在外邦人を危難から救出した典型例について、帰国費用の負担をどのように処理をしてきたのか。また、今回の乙18号証が引用している事例ではどうだったのか。これだけ、不公平取扱いの疑惑が濃厚だと主張しているのに、どうして疑惑を晴らそうとしないのか。すべての資料は国の手にあり、提出に差し支えの事情も考えられないではないか。釈明に応じることこそ、行政の透明性を確保し、説明責任を全うする所以ではないか。このような事態で、飽くまで釈明に応じられないのでは、不公正に取扱いあったことを事実上認めるに等しいと言わなければならない。

是非とも、公益の代表者にふさわしい態度をもって、次回までには誠実に釈明に応じられたい。

朝日は権力に屈するな 

本日、報道・表現の危機を考える弁護士の会(略称LLFP)の緊急会合。朝日の10月1日付「詰めの甘さ反省」記事に危機感を募らせてのこと。貴重な情報交換が行われ、様々な意見が出た。

共通の認識は、本来はNHKの権力迎合体質が問題だったはずが、朝日の取材問題にすり替えられて来ていること。わざとかうかつか、この動きに乗っている朝日自身の態度も批判に値する。同調する他のマスメディアにも警鐘を鳴らさねばならない。

朝日が委嘱した報道検証委員会の「見解」の内容と、朝日の対応には乖離がある。分けて考えねばならない。「見解」の結論は、1月12日の朝日の記事の評価に重点がある。記事の真実性は、細部にわたっての完璧を求められるものではない。それでは記事が書けなくなる。とりわけ、権力を批判する内容の記事は紙面から消えてしまう。重要な部分において、真実であればよい。その点、当該の朝日の記事に何の問題もない。

ジャーナリズムの第一義的任務は、権力に対する監視である。権力を持つ者に対して友好的な取材などできるはずもない。いかにして切り込み、いかにして尻尾をつかむか。ギリギリのきわどい努力の中から、貴重な事実が浮かび上がり、記事が生まれる。各紙の論調のように「十分な取材」を過度に要求することは、第一線に立つ記者を萎縮させることになる。権力を持つ者の思う壺ではないか。

「安倍・中川がNHKに事前の圧力をかけ、その結果番組が改変された」という朝日の本件報道の主たる事実の真実性に揺るぎはない。この報道の意義と、NHKの体質をこそ論ずべきが、いったいどうした。日本のジャーナリズム。

緊急に声明を出すこととなり骨格はできた。まず、朝日への批判を。そして、「詰めの甘さ反省」に同調する全マスコミにも批判をしようと言うことになっている。

寛容についての学習会  

明治大学の土屋恵一郎教授をお招きしての予防訴訟弁護団学習会。氏は、法哲学者として、明治大学法学部で教鞭を執っておられる。

予防訴訟の準備書面(5)で、氏の『正義論/自由論−寛容の時代へ』(岩波現代文庫、2002年)から下記の引用をしている。

「多様な価値観が共存していることが、社会の豊かさと対話を可能にする、とリベラリズムは考える。社会が硬直して、特定の宗教や、宗教的イデオロギーそのものを排除しようとする動きが生まれるとき、その社会は、宗教だけではなく、他の異質なものを社会から排除することに、なんらの疑問をもたなくなる。

同質な社会を求めることは、いうまでもなく、リベラリズムが求めるものではない。それは、ファシズムの到来を意味している。ファシズムは、つねに、社会全体の利益のために、社会の異質なものをあぶりだして、それを追放しようとする」

「私たちは、この社会が、宗教、思想、信条の多様性によって成り立つことを求めるのだ」「国家とは、この自由の条件を保証する存在であって、それ自体がなんらかの宗教、思想をかかげるものではない」「複数の思想、価値の存続を認めることは、自分の思想、価値の存続に意味を認めることと同じである。他者の自由は自分の自由とつながっている。‥そこには、正統も異端もありえない。そもそも、正統という観念が自由な社会には存在しないからである。‥どちらもが、相手の存続そのものを認めないとしたならば、その絶対的な対立のなかで、社会は崩壊する。イギリスにおけるアイルランド問題、ボスニアの民族戦争が、その典型である」

寛容とは、自分あるいは自分たちとは異質な思想を受け入れ共存する精神である。本日の氏の報告も、価値の多元性・多様性を認め合うこと、自分と異なる他者の差異性を否定的に評価しないことが寛容であると説かれた。社会的同調圧力や権力的統制がその対立物である。

さて、問題はここから始まる。何をもって、寛容の重要性を基礎づけるか。なにゆえに、寛容でなくてはならぬと論証するのか。寛容とは、権利性を認めることと対になる概念ではないのか。だとすれば、権利を主張することと、寛容を説くこととの差異はどこにあるのか。

端的に言えば、「日の丸・君が代強制拒否は憲法上の基本的権利である」と主張することと、「権力の側は、日の丸・君が代問題について寛容でなくてはならない」と説くこととの間に差異があるのか。いや、寛容論からのアプローチに、権利論からのアプローチを凌駕する積極的な意味があるのか、である。

個人の尊厳が、ものを考える出発点である。一人ひとりが、個性を持ったかけがえのない存在である。当然にそれぞれの思想良心の自由を持つ。その個性の尊重を、全体の利益から演繹することはできない。国家・社会にとっても、寛容は有用であり有益なのだ、と言うことは無意味な説示である。

そして、公理としての個人の尊厳を、基本権として構成する以上に、社会や権力の側に寛容を説くことの実益や優位性は、私には容易に見出しがたい。

寛容論。その位置づけは、私にとって、まだ定まらない。

11・18憲法集会 

郵政選挙に大勝した自民党は、当初11月15日に予定されていた立党50周年党大会を22日に延期した。天皇の長女の結婚式とのバッティングを避けるためというのがその理由。この党大会で、「自民党・新憲法草案」を正式に発表することになる。報道によれば、草案の内容はその以前10月28日にマスコミに明らかにするという。

既に8月1日条文化した形で「新憲法一次案」が公表されている。これに付けられる前文も、7月7日の「要綱」で骨格は明らかにされている。ほぼ予想は付くものの、あるいは296議席の傲りが、より本音を出すことになるのかも知れない。

しかも、民主党前原体制も、改憲そのものに反対する構えはない。改憲阻止のためには、国民運動の盛り上がりをつくり出すほかはない事態だ。

各地・各界に「9条の会」設立が盛んだ。既にその数、3000に及ぶという。しかし、法律家全体を糾合する改憲阻止の会はない。日弁連は憲法の理念尊重を宣言してはいるが、全員加盟組織の限界あって、「改憲反対」と言うことは困難である。

そこで、法律家の過半数が改憲阻止の意思表示をする運動をつくりたい。日民協や、自由法曹団・青年法律家協会会員だけではなく、もっと幅を拡げた運動を。憲法の解釈について違う意見の人とも一緒になって、明文改憲阻止の一点で連帯する大きな運動を。

そのような問題意識を持つ者が、これまで会合を重ねてきた。で、まずは、自民党改憲草案を批判の討論集会を企画した。

集会の名称は、「自民党の新憲法草案を考える‥弁護士の集い」。日時は、11月18日(金)午後6時から。弁護士会館内で。基調講演は、山内敏弘教授。そして、改憲案の問題点について意見交換し、改憲情勢をどう見るか、法律家としてこれから何をすべきかを話し合う集会としたい。

ここを起点に、大きな風よ、起これ。

NHK番組改変問題でさらに本質究明を 

NHKの番組改変問題報道での、朝日の「見解」発表に驚いた。

政治家の圧力によるNHK番組改変が問題なのだ。安倍晋三ら政治家の圧力の有無が検証の対象であり、日本のメディアの健全性や、NHKという巨大メディアの仕組みこそが糺すべき問題の本質であった。

それが、いつの間にか、朝日の取材姿勢問題にすり替えられてしまっている。4人の委員会の見解を承けても、朝日にはもっと別の選択肢があったはずと思う。朝日腰砕けの感を否めない。危機感を覚える。

朝日の報道は真っ当な問題提起をした。朝日がこれで幕引きとしても、問題提起を受けて報道の自由を求める声を上げた市民が、その声を納めることはあり得ない。むしろ、朝日を乗り越えて、問題の本質を訴える声を上げなくてはならない。

歯がゆいのは、朝日が取材テープの公開をしないこと。テープの社外流出で、不必要に卑屈になっていること。実務法律家の感覚では、開き直って全部テープを公開すればよい。私たちの関心は、安倍や中川の生の声から、どこまでの圧力の存在を推認することができるかだ。今さら、テープは出せないとする理由が理解できない。記事の当不当もテープを聴いた読者の判断に任せればよいではないか。

私は、他人に視聴料の不払いを勧めたことはない。NHK内部で誠実に番組作りをしている職員の存在を評価しているから。しかし、NHKトップは反省が足りないと思う。それでいて、不払いに法的措置とは本末転倒。法的措置には、対抗措置を考えなければならない。

「朝日問題」でない。飽くまで、「NHK問題」なのだ。